妙一尼御前御消息

〔C0・建治元年五月・妙一尼〕/妙一尼御前(日蓮)/夫れ天に月なく日なくば、草木いかでか生ずべき。人に父母あり、一人もかけば子息等そだちがたし。其の上過去の聖霊は、或は病子あり、或は女子あり。とどめをく母もかいがいしからず。たれ(誰)にいゐあつけてか冥途にをもむき給ひけん。/大覚世尊、御涅槃の時なげいてのたまわく「我涅槃すべし、但心にかかる事は阿闍世王のみ」。迦葉童子菩薩、仏に申さく「仏は平等の慈悲なり。一切衆生のためにいのち(命)を惜しみ給ふべし。いかにかきわけて、阿闍世王一人とをほせあるやらん」と問ひまいらせしかば、其の御返事に云く「譬へば一人にして七子有り、是の七子の中に一子病に遇へり、父母の心平等ならざるに非ず、然れども病子に於ては心則ち偏に多きが如し」等云云。天台、摩訶止観に此の経文を釈して云く「譬如七子、父母非不平等、然於病者、心則偏重」等云云とこそ仏は答へさせ給ひしか。文の心は、人にはあまたの子あれども、父母の心は病する子にありとなり。仏の御ためには一切衆生は皆子なり。其の中罪ふかくして世間の父母をころし、仏経のかたきとなる者は病子のごとし。しかるに阿闍世王は摩竭提国の主なり。我が大檀那たりし頻婆舎羅王をころし、我がてき(敵)となりしかば、天もすてて日月に変いで、地も頂かじとふるひ、万民みな仏法にそむき、他国より摩竭国をせむ。此等は偏に悪人提婆達多を師とせるゆへなり。結句は今日より悪瘡身に出でて、三月の七日無間地獄に堕つべし。これがかなしければ、我涅槃せんこと心にかかるというなり。我阿闍世王をすくひなば、一切の罪人阿闍世王のごとしとなげかせ給ひき。/しかるに聖霊は或は病子あり、或は女子あり。われすてて冥途にゆきなば、かれたる朽木のやうなるとしより(老)尼が一人とどまりて、此の子どもをいかに心ぐるしかるらんとなげかれぬらんとをぼゆ。/かの心のかたがたには、又日蓮が事、心にかからせ給ひけん。仏語むなしからざれば、法華経ひろまらせ給ふべし。それについては、此の御房はいかなる事もありて、いみじくならせ給ふべしとをぼしつらんに、いうかいなくながし失せしかば、いかにやいかにや法華経・十羅刹はとこそをもはれけんに、いままでだにもながらえ給ひたりしかば、日蓮がゆりて候ひし時、いかに悦ばせ給はん。又いゐし事むなしからずして、大蒙古国もよせて、国土もあやをしげになりて候へば、いかに悦び給はん。これは凡夫の心なり。/法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかへれる事を。いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を。経文には「若有聞法者無一不成仏」ととかれて候。故聖霊法華経に命をすててをはしき。わづかの身命をささえしところを、法華経のゆへにめされしは、命をすつるにあらずや。彼の雪山童子の半偈のために身をすて、薬王菩薩の臂をやき給ひしは、彼れは聖人なり、火に水を入るるがごとし。此れは凡夫なり、紙を火に入るるがごとし。/此れをもって案ずるに、聖霊は此の功徳あり。大月輪の中か、大日輪の中か、天鏡をもって妻子の身を浮かべて、十二時に御らんあるらん。設ひ妻子は凡夫なれば此れをみずきかず。譬へば耳しゐ(聾)たる者の雷の声をきかず、目つぶれたる者の日輪を見ざるがごとし。御疑ひあるべからず。定めて御まぼりとならせ給ふらん。其の上さこそ御わたりあるらめ。/力あらばとひまいらせんとをもうところに、衣を一つ給はるでう、存外の次第なり。法華経はいみじき御経にてをはすれば、もし今生にいきある身ともなり候ひなば、尼ごぜん(御前)の生きてもをわしませ。もしは草のかげ(蔭)にても御らんあれ。をさなききんだち(公達)等をば、かへりみたてまつるべし。さど(佐渡)の国と申し、これと申し、下人一人つけられて候は、いつの世にかわすれ候べき。此の恩はかへりてつかへたてまつり候べし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。恐々謹言。/五月日日蓮(花押)/妙一尼御前