断簡等3

四条金吾宛御経送状〔C3・建治二年四月・四条金吾〕御経、方便品・寿量品の長行にて候。此の法華経は八万法蔵の肝心、十二部経の眼目也。一字の功徳は日月の光に超え、一句の威徳は梵帝に勝れたり。漢高三尺の剣も一字の智剣に及ばず。張良が一巻の書も一句の文に超えず等云云。

 

 

 

大音声御書〔C2・弘安二年〕/〈九〉日蓮国王とせめあいたてまつるゆへに、大音声をもんてよばわるやう、いかにいかに梵王・帝釈・日月四天王は法華経の座に釈迦・多宝・十方の仏の御いただきをなでて、今於仏前自説誓言とせめ給ひしかば、各々頭をうなだれ手をあざへ如世尊勅当具奉行とこそ誓ひしに、いま法華経の行者あだむ人々にはをちあい給はぬぞ、設ひ日蓮こそいやしくとも、弘通の正法は法華経の題目なり、各々日蓮をいやしみ給か(以下欠)

 

 

 

四条金吾殿御書〔C6・建治三年頃・四条金吾〕/〈二〉あまりにをぼつかなく候。/隋のくわうてひ(皇帝)と申す王は唐土の王、天台大師《欠損》し菩薩の大戒をうけ、王臣大臣已下一人もなくかうべをかたぶけ、六十六州御ときれう(斎料)によせられ、《欠損》の僧を或はいさめ、或は《欠損》すかしやわらげて、《欠損》の御弟子とな《欠損》に大師につかハんと、せいし《欠損》をたてさせ給ひしか、大師《欠損》滅の後、乱をこりて唐ハ《欠損》申す王にうたれさせ給《欠損》、なげきをしはからせ給へ。/〈三〉《欠損》をハ今にいたるまで《欠損》経を信じたる王もほろびけりと真言師等は申すなり。/余としごろかんがへみる《欠損》隋のくわうてひ(皇帝)の《欠損》つかへし事いうがごとし。さとをるならバ我み(身)も安穏に世もみだるべからず。されども隋の王、大師の後に達磨宗にうつり、最後には道士と申す仙の法をしんじて、法華経・天台大師をすてしゆへにほろびぬとかんがへて候なり。れいせば日本さが(嵯峨)のくわうてい(皇帝)ははじめは法相宗、中は天台宗、後に真言宗にうつり弘法を師として、御りんずう(臨終)なにどもなきに/〈四〉しづみ□□きわたらせ給はず。かかるいみじきずひ(隋)のくわうてひ(皇帝)すら、ひるがへる心ありけり。生々世々に天台の法をすてじとちかわせ給ひて候が、大師御入滅の後に忽に先後相違して仙の法にうつらせ給ひて仏法をいませ給ひしなり。人の心は水のごとし。器の方円に随ひ、人の心はびん(便)によりてうつる事、花のつゆ(露)、あめかぜ(雨風)に随ひていろ(色)をかうるがごとし。かく候ときにかさねがさね人々をいさ(諌)めまいらせ候なり。たうじ(当時)もまことにてや候らん。或人のとんせい(遁世)して、一日だにもなくてひるがへる心あらわれて、/〈五〉上下万人にわらわれ候か。あまりにつよく御信用のあるがかへりてをぼつかなく候。たれ人かふかくなるべきとはをも(思)わねども、皆人をもう心をとぐる事は万が一にて候か。魚子長じがたし、菴花このみ(菓)なりがたしとは仏の金言也。心の師とはなるとも心を師とする事なかれとは又経文なり。/この世は近くみだれぬとみへ候なり。しばらくこらへさせ給わずして、後くい(悔)かかせ給ふな。前にも申せしとをぼへ候。よる(夜)あり(歩)くこと、人によりあう(寄合)事、/〈六〉しばらくとどめさせ給へ。かみ(上)へまいらせ給はん事も、御つか(使)ひなからんにはをぼろげならではよる(夜)なんどはまいらせ給ひしべからず。/つねはわびしきよめぐり(夜巡)とのばら(殿原)とむつばせ給へ。まぼりとなり候べし。それもつねに我いへ(家)へよばせ給へ。はま(浜)へわたらせ給ふな。あるひはいづみがやつ(泉谷)。又人をいやしむ事下人までもあるべからず。一定うちぬかれさせ給ふな。又いろ(色)にいだしてみへさせ給ふな。一定あしくふるまわせ給わばくやしき事いできたるべし。

 

 

 

断簡三九二〔C1・建治・弘安の頃〕/なり。今大日経の心実相と法華経の諸法実相は、名は同じけれども体

 

 

 

曾谷入道殿許御書草案断片〔C2・文永一二年春・曾谷入道・大田乗明〕/仁王経に云く「千里の内に七難起こらず」等云云。法華経に云く「百由旬に諸の衰患なからしむ」等。/又法華経第八に云く「所願虚しからず、亦現世に於て其の福報を得ん」。又云く「当於今世得現」

 

 

 

断簡〔C3・不明〕/しかとこそ信じがたく解しがたく破れたる石のあえるか。いれる種の生ひたるか。石女

 

 

 

上野殿御返事〔C3・不明・南条時光〕/はんし二まい、いもね三本給はり了んぬ。恐々謹言。新春五日日蓮御判。上野殿御返事

 

 

 

前後ナシの抄〔C3・不明〕/等云、無量義経に云く「四十余年〇」等云云。又云く「過無量」等。法華経第五に云く「世尊、如来太子為りし時、乃至是れより已来始めて四十余年を過ぎたり」等云云。第六巻に云く「一切世間の天人、乃至我れ実に成仏してより已来」等云云。天台釈して云く、妙楽大師の云く等云云、伝教大師の云く等云云。日蓮の意に云く、此の如き等の経文は是非を論ぜず、法華経を離れて一向に四十余年の経に付きては成仏往生等の有り難き歟。之れに付きて学者異義不同なり。華厳宗法相宗三論宗真言宗に料簡之れ有り。天台一宗に於て、跨節得道は爾前に証無し、当分の得道之れ有り等云云。日蓮の意に云く、当分の得道有るを見て経文之れ多しと雖も、詮を以て之れを論ぜば一向法華経を離れて全て得道之れ無し等云云。弥陀名号、四十余年の経々に付きて安心の上、名号を唱ふれば一向に得道之れ有るべからず。

 

 

 

六重法事〔C3・不明〕/六重法―善生経〈依在家衆〉殺・盗・邪淫・妄語・不?酒・不謗四衆過罪戒。八重法―善戒経〈出家菩薩〉殺・盗・邪・妄〈初四〉自讃毀他・慳貪・瞋恚・謗三宝

 

 

 

諸僧頸懸于由井浜の抄〔C3・不明〕/(首欠)の諸僧の頸を由井浜に懸く云云。此の事実なり。甚だ実なり。去ぬる正嘉年中に所造の立正安国論是れなり。彼の論を見るべし。当世日本国の禅、念仏者等の如くんば、過去の六仏既に頸を切る、現在の釈尊豈之れを誡めざらんや。涅槃経の第一に云く「舌を切る」。第十に云く「施を止む」。第三、第十二、十六に云く「之れを切るべし」。彼の状に云く「建長寺乃至浄光明寺等を壊し払う」等云云。此の事妄語なり。但し子細に申すこと之れ有り。像法決疑経に云く「復、衆生有りて他の旧寺塔廟形像及以経典破落毀壊するを見て肯えて修治せず、乃至我が為に寧ろ更に自ら新者を造立す」。又云く「一切衆生新者を造立すること、故を修する其の福甚多なるには如かず」。又云く「我れ滅度し已に千年後悪法漸く興り、千一百年後諸の悪比丘・比丘尼閻浮提遍満す、乃至是れより已後一切の道俗競いて塔寺を造り世間に遍満し、塔廟形像処々皆有り。或は山林曠野に在り、或は道辺に在り、或は巷路臭穢悪処に在りて頽落毀壊し人治理すること無し」。又云く「但能く故を修し新を仮造せず」。又云く「自ら我れは是れ法師、我れは是れ律師、我れ是れ禅師と称せん、此の三種の学人、乃至地獄に入ること猶箭を射るが如し」等云云。太原白居易楽府に云く「両朱閣刺仏寺?多也」。野馬台に云く「鐘鼓国中に喧し、青丘と赤土と茫茫として遂に空と為らん」等云云。夫れ以みれば欽明より已来七百余年、寺院は此の五十余年の間、禅宗念仏宗興行の間、日本六十六国二島国々郡々郷々村々宅々皆念仏堂・禅堂なり。繁新捨旧。像法決疑経に仏誡めて云く「但能く故を修し新を仮造せず」云云。此れに違へば仏語に云く「地獄に入ること猶箭を射るが如し」等云云。白居易外典の聖人なり。「刺云仏寺?多也」云云。宝志和尚、日本国当世を勘へて云く「鐘鼓喧国」等云云。寺々の鐘声、乃至宅々の仏事、踊躍房等の事なり。是一。/法界論の第二に云く「今」等云云。此の文を以て之れを勘ふるに、日本六十六国二島に人数四十九億九万四千八百二十八人なり。四姓は異なりと雖も同一の父なり。全く阿弥陀・薬師等の子に非ず。経文之れ無し。唯我一人釈尊を閣きて、与人阿弥陀仏を用ゐる。豈、不孝の仁に非ずや、違勅の者に非ずや、逆路の者に非ずや。既に人毎に五・七・八・二十の逆を備ふ。今生には三宝并びに守護の善神を捨て、其身に三災七難を招集し、後生には必ず無間大城に堕つと見え申し候なり。是二。彼等の諸僧等は、月氏国には大族王・訖利多王・設賞位迦王に過ぎ、漢土日本国には武王・物部・守屋を越へる大悪人なり。寺仏を焼き払い此に冥して旧寺を滅失す。仏法を用ゐるに似て仏法を滅失す。仏記して云く、守護経に云く「九猴六蟲三類の大謗法とは是れなり」。彼の状に云く「近日、旱魃事に依りて諸寺に於て祈雨せらるの時日蓮弟子を良観上人の所に両三度遣はす」云云。此の一段申状自ら恥辱を顕はす歟。日蓮使いを遣はし、即時に雨を下し其の後に此の状を奉るべき歟。夫れ祈雨の事、経々に云ふ、之れを略す。天台智者大師〈一向法華〉一日の内に雨を下す、甘雨。伝教大師〈一向法華〉三日の内に雨を下す、純雨。千観内供、須臾に甘雨を下す、是れ一向法華経の行者なり。善無畏は七日の内に雨を下す。伽大風並びに起大風。金剛智は七日の内に雨を下す。亦大風麁。不空三蔵は三日の内に雨を下す。悪麁雨〈亦大風連々〉。俊敏は七日に雨を下す〈但し京中に限りて雷雨なり〉。弘法大師は二七日の間、不一向無雨。第三七日に至りて雨〈但し天子の雨なり〉。彼の末弟等、此雨為取之弘法大師満云云。経文の如くんば今の諸僧等は一雨も下さざるの上、大風連々、恥ずべし恥ずべし。

 

 

 

後五百歳事〔C3・不明〕/五五百歳事。文句一に云く「非但当時〇分也」。記に云く「非但下〇故云五百」。涅槃経第四に云く「我涅槃の後、無量百歳に四道の聖人も悉く復涅槃せん。正法滅して後、像法の中に於て当に比丘有るべし。○甚深秘密の教を壊して各自ら意に随ひて反りて経律を説く。而も是の言を作さく。如来皆聴」。涅槃経・法華経の流通は此の文を以て、法華経の後五百歳は無量世の後五々百と意得べし。但し記一は他人の言なり。「有人云」の下の釈なり。

 

 

 

佐渡房ハの抄〔C3・不明・渡房日向〕/さと房はいそぎいそぎまいるべし。大事の法門伝へんとをもう。

 

 

 

大力事〔C3・不明・渡房日向〕/大力事。興起行経に云く「我耆闍崛山に於いて経行するとき。提婆達多高崖於(よ)り。石の長け三丈闊(ひろ)さ丈六なるを挙げ。以て我が頭べに擲(な)ぐ。耆闍崛山に神あり。羅と名づく。手を以て石を接するに。小片迸(ち)り堕ちて仏の母指を傷(やぶ)て。仏の血を出せり」云云。史記に曰く「烏獲者秦人也荷高五丈之巌善走也」。史記に云く「項羽猛力也。能挙九斛釡而無□處也」。