断簡等3

四条金吾宛御経送状〔C3・建治二年四月・四条金吾〕御経、方便品・寿量品の長行にて候。此の法華経は八万法蔵の肝心、十二部経の眼目也。一字の功徳は日月の光に超え、一句の威徳は梵帝に勝れたり。漢高三尺の剣も一字の智剣に及ばず。張良が一巻の書も一句の文に超えず等云云。

 

 

 

大音声御書〔C2・弘安二年〕/〈九〉日蓮国王とせめあいたてまつるゆへに、大音声をもんてよばわるやう、いかにいかに梵王・帝釈・日月四天王は法華経の座に釈迦・多宝・十方の仏の御いただきをなでて、今於仏前自説誓言とせめ給ひしかば、各々頭をうなだれ手をあざへ如世尊勅当具奉行とこそ誓ひしに、いま法華経の行者あだむ人々にはをちあい給はぬぞ、設ひ日蓮こそいやしくとも、弘通の正法は法華経の題目なり、各々日蓮をいやしみ給か(以下欠)

 

 

 

四条金吾殿御書〔C6・建治三年頃・四条金吾〕/〈二〉あまりにをぼつかなく候。/隋のくわうてひ(皇帝)と申す王は唐土の王、天台大師《欠損》し菩薩の大戒をうけ、王臣大臣已下一人もなくかうべをかたぶけ、六十六州御ときれう(斎料)によせられ、《欠損》の僧を或はいさめ、或は《欠損》すかしやわらげて、《欠損》の御弟子とな《欠損》に大師につかハんと、せいし《欠損》をたてさせ給ひしか、大師《欠損》滅の後、乱をこりて唐ハ《欠損》申す王にうたれさせ給《欠損》、なげきをしはからせ給へ。/〈三〉《欠損》をハ今にいたるまで《欠損》経を信じたる王もほろびけりと真言師等は申すなり。/余としごろかんがへみる《欠損》隋のくわうてひ(皇帝)の《欠損》つかへし事いうがごとし。さとをるならバ我み(身)も安穏に世もみだるべからず。されども隋の王、大師の後に達磨宗にうつり、最後には道士と申す仙の法をしんじて、法華経・天台大師をすてしゆへにほろびぬとかんがへて候なり。れいせば日本さが(嵯峨)のくわうてい(皇帝)ははじめは法相宗、中は天台宗、後に真言宗にうつり弘法を師として、御りんずう(臨終)なにどもなきに/〈四〉しづみ□□きわたらせ給はず。かかるいみじきずひ(隋)のくわうてひ(皇帝)すら、ひるがへる心ありけり。生々世々に天台の法をすてじとちかわせ給ひて候が、大師御入滅の後に忽に先後相違して仙の法にうつらせ給ひて仏法をいませ給ひしなり。人の心は水のごとし。器の方円に随ひ、人の心はびん(便)によりてうつる事、花のつゆ(露)、あめかぜ(雨風)に随ひていろ(色)をかうるがごとし。かく候ときにかさねがさね人々をいさ(諌)めまいらせ候なり。たうじ(当時)もまことにてや候らん。或人のとんせい(遁世)して、一日だにもなくてひるがへる心あらわれて、/〈五〉上下万人にわらわれ候か。あまりにつよく御信用のあるがかへりてをぼつかなく候。たれ人かふかくなるべきとはをも(思)わねども、皆人をもう心をとぐる事は万が一にて候か。魚子長じがたし、菴花このみ(菓)なりがたしとは仏の金言也。心の師とはなるとも心を師とする事なかれとは又経文なり。/この世は近くみだれぬとみへ候なり。しばらくこらへさせ給わずして、後くい(悔)かかせ給ふな。前にも申せしとをぼへ候。よる(夜)あり(歩)くこと、人によりあう(寄合)事、/〈六〉しばらくとどめさせ給へ。かみ(上)へまいらせ給はん事も、御つか(使)ひなからんにはをぼろげならではよる(夜)なんどはまいらせ給ひしべからず。/つねはわびしきよめぐり(夜巡)とのばら(殿原)とむつばせ給へ。まぼりとなり候べし。それもつねに我いへ(家)へよばせ給へ。はま(浜)へわたらせ給ふな。あるひはいづみがやつ(泉谷)。又人をいやしむ事下人までもあるべからず。一定うちぬかれさせ給ふな。又いろ(色)にいだしてみへさせ給ふな。一定あしくふるまわせ給わばくやしき事いできたるべし。

 

 

 

断簡三九二〔C1・建治・弘安の頃〕/なり。今大日経の心実相と法華経の諸法実相は、名は同じけれども体

 

 

 

曾谷入道殿許御書草案断片〔C2・文永一二年春・曾谷入道・大田乗明〕/仁王経に云く「千里の内に七難起こらず」等云云。法華経に云く「百由旬に諸の衰患なからしむ」等。/又法華経第八に云く「所願虚しからず、亦現世に於て其の福報を得ん」。又云く「当於今世得現」

 

 

 

断簡〔C3・不明〕/しかとこそ信じがたく解しがたく破れたる石のあえるか。いれる種の生ひたるか。石女

 

 

 

上野殿御返事〔C3・不明・南条時光〕/はんし二まい、いもね三本給はり了んぬ。恐々謹言。新春五日日蓮御判。上野殿御返事

 

 

 

前後ナシの抄〔C3・不明〕/等云、無量義経に云く「四十余年〇」等云云。又云く「過無量」等。法華経第五に云く「世尊、如来太子為りし時、乃至是れより已来始めて四十余年を過ぎたり」等云云。第六巻に云く「一切世間の天人、乃至我れ実に成仏してより已来」等云云。天台釈して云く、妙楽大師の云く等云云、伝教大師の云く等云云。日蓮の意に云く、此の如き等の経文は是非を論ぜず、法華経を離れて一向に四十余年の経に付きては成仏往生等の有り難き歟。之れに付きて学者異義不同なり。華厳宗法相宗三論宗真言宗に料簡之れ有り。天台一宗に於て、跨節得道は爾前に証無し、当分の得道之れ有り等云云。日蓮の意に云く、当分の得道有るを見て経文之れ多しと雖も、詮を以て之れを論ぜば一向法華経を離れて全て得道之れ無し等云云。弥陀名号、四十余年の経々に付きて安心の上、名号を唱ふれば一向に得道之れ有るべからず。

 

 

 

六重法事〔C3・不明〕/六重法―善生経〈依在家衆〉殺・盗・邪淫・妄語・不?酒・不謗四衆過罪戒。八重法―善戒経〈出家菩薩〉殺・盗・邪・妄〈初四〉自讃毀他・慳貪・瞋恚・謗三宝

 

 

 

諸僧頸懸于由井浜の抄〔C3・不明〕/(首欠)の諸僧の頸を由井浜に懸く云云。此の事実なり。甚だ実なり。去ぬる正嘉年中に所造の立正安国論是れなり。彼の論を見るべし。当世日本国の禅、念仏者等の如くんば、過去の六仏既に頸を切る、現在の釈尊豈之れを誡めざらんや。涅槃経の第一に云く「舌を切る」。第十に云く「施を止む」。第三、第十二、十六に云く「之れを切るべし」。彼の状に云く「建長寺乃至浄光明寺等を壊し払う」等云云。此の事妄語なり。但し子細に申すこと之れ有り。像法決疑経に云く「復、衆生有りて他の旧寺塔廟形像及以経典破落毀壊するを見て肯えて修治せず、乃至我が為に寧ろ更に自ら新者を造立す」。又云く「一切衆生新者を造立すること、故を修する其の福甚多なるには如かず」。又云く「我れ滅度し已に千年後悪法漸く興り、千一百年後諸の悪比丘・比丘尼閻浮提遍満す、乃至是れより已後一切の道俗競いて塔寺を造り世間に遍満し、塔廟形像処々皆有り。或は山林曠野に在り、或は道辺に在り、或は巷路臭穢悪処に在りて頽落毀壊し人治理すること無し」。又云く「但能く故を修し新を仮造せず」。又云く「自ら我れは是れ法師、我れは是れ律師、我れ是れ禅師と称せん、此の三種の学人、乃至地獄に入ること猶箭を射るが如し」等云云。太原白居易楽府に云く「両朱閣刺仏寺?多也」。野馬台に云く「鐘鼓国中に喧し、青丘と赤土と茫茫として遂に空と為らん」等云云。夫れ以みれば欽明より已来七百余年、寺院は此の五十余年の間、禅宗念仏宗興行の間、日本六十六国二島国々郡々郷々村々宅々皆念仏堂・禅堂なり。繁新捨旧。像法決疑経に仏誡めて云く「但能く故を修し新を仮造せず」云云。此れに違へば仏語に云く「地獄に入ること猶箭を射るが如し」等云云。白居易外典の聖人なり。「刺云仏寺?多也」云云。宝志和尚、日本国当世を勘へて云く「鐘鼓喧国」等云云。寺々の鐘声、乃至宅々の仏事、踊躍房等の事なり。是一。/法界論の第二に云く「今」等云云。此の文を以て之れを勘ふるに、日本六十六国二島に人数四十九億九万四千八百二十八人なり。四姓は異なりと雖も同一の父なり。全く阿弥陀・薬師等の子に非ず。経文之れ無し。唯我一人釈尊を閣きて、与人阿弥陀仏を用ゐる。豈、不孝の仁に非ずや、違勅の者に非ずや、逆路の者に非ずや。既に人毎に五・七・八・二十の逆を備ふ。今生には三宝并びに守護の善神を捨て、其身に三災七難を招集し、後生には必ず無間大城に堕つと見え申し候なり。是二。彼等の諸僧等は、月氏国には大族王・訖利多王・設賞位迦王に過ぎ、漢土日本国には武王・物部・守屋を越へる大悪人なり。寺仏を焼き払い此に冥して旧寺を滅失す。仏法を用ゐるに似て仏法を滅失す。仏記して云く、守護経に云く「九猴六蟲三類の大謗法とは是れなり」。彼の状に云く「近日、旱魃事に依りて諸寺に於て祈雨せらるの時日蓮弟子を良観上人の所に両三度遣はす」云云。此の一段申状自ら恥辱を顕はす歟。日蓮使いを遣はし、即時に雨を下し其の後に此の状を奉るべき歟。夫れ祈雨の事、経々に云ふ、之れを略す。天台智者大師〈一向法華〉一日の内に雨を下す、甘雨。伝教大師〈一向法華〉三日の内に雨を下す、純雨。千観内供、須臾に甘雨を下す、是れ一向法華経の行者なり。善無畏は七日の内に雨を下す。伽大風並びに起大風。金剛智は七日の内に雨を下す。亦大風麁。不空三蔵は三日の内に雨を下す。悪麁雨〈亦大風連々〉。俊敏は七日に雨を下す〈但し京中に限りて雷雨なり〉。弘法大師は二七日の間、不一向無雨。第三七日に至りて雨〈但し天子の雨なり〉。彼の末弟等、此雨為取之弘法大師満云云。経文の如くんば今の諸僧等は一雨も下さざるの上、大風連々、恥ずべし恥ずべし。

 

 

 

後五百歳事〔C3・不明〕/五五百歳事。文句一に云く「非但当時〇分也」。記に云く「非但下〇故云五百」。涅槃経第四に云く「我涅槃の後、無量百歳に四道の聖人も悉く復涅槃せん。正法滅して後、像法の中に於て当に比丘有るべし。○甚深秘密の教を壊して各自ら意に随ひて反りて経律を説く。而も是の言を作さく。如来皆聴」。涅槃経・法華経の流通は此の文を以て、法華経の後五百歳は無量世の後五々百と意得べし。但し記一は他人の言なり。「有人云」の下の釈なり。

 

 

 

佐渡房ハの抄〔C3・不明・渡房日向〕/さと房はいそぎいそぎまいるべし。大事の法門伝へんとをもう。

 

 

 

大力事〔C3・不明・渡房日向〕/大力事。興起行経に云く「我耆闍崛山に於いて経行するとき。提婆達多高崖於(よ)り。石の長け三丈闊(ひろ)さ丈六なるを挙げ。以て我が頭べに擲(な)ぐ。耆闍崛山に神あり。羅と名づく。手を以て石を接するに。小片迸(ち)り堕ちて仏の母指を傷(やぶ)て。仏の血を出せり」云云。史記に曰く「烏獲者秦人也荷高五丈之巌善走也」。史記に云く「項羽猛力也。能挙九斛釡而無□處也」。

断簡等2

御衣布御返事〔C0・文永八年〕/御衣布給はり候ひ了んぬ。この御ぬのは一物の御ぬのにて候。又十二いろは、たぶやかに候。御心ざしの御事はいまにはじめぬ事に候へども、ときにあたりてこれほどの御心ざしはありぬともをぼへ候はず候。かへすがへす御ふみにはつくしがたう候。恐々謹言。/乃時日蓮(花押)/御返事

 

 

 

覚性御房御返事〔C0・建治三年五月五日・覚性房〕/せひすひとつつ・ちまき二十。かしこまりて給はり候ひ了んぬ。よろこび入るよし申させ給へ。恐々謹言。/五月五日日蓮(花押)/覚性御房

 

 

 

越後公御房御返事〔C0・弘安二年一月八日・越後公御房〕/大餅五枚・薯蕷〈一本太也〉・鵄一俵。去今年の饉・章厲・刀兵と申し、宛も小の三災の代の如し。山中に送り給ぶ事志の至りか。恐々謹言。/正月八日日蓮(花押)/越後公御房御返事

 

 

 

伯耆殿並諸人御中御書〔C1・弘安二年九月二六日・日興・外諸人〕/〈三〉刃傷し、百姓ををいいだしたる現証か、重科のがれがたければ、百姓□□□□□て/〈五〉雉のごとし。日秀日弁させる僧にはあらねども浄行一分なり。其の上、日々夜々に法華経を転読し、時々刻々に天台六十巻を(以下欠)/〈七〉とかくべし。阿弥陀経等の例時をよまずと申すは、此れ又心へられず。阿弥陀経等は星のごとし。法華経は月のごとし、日のごとし。勝れたる経をよみ候を、劣れる経の者がせいし(制止)こそ心えられ候はねとかけ/恒例のつとめと申すはなにの恒例ぞ。仏の恒例は法華経なり。仏は但楽受持等とて、真の法華経の行者、阿弥陀経等の小経をばよむべからずとこそとかせ給ひて候へとつめ、かきにかけ(二十一枚花押)/〈十九〉此の事はすでに梵天・帝釈・日月等に申し入れて候ぞ。あへてたがえさせ給ふべからず。各々天の御はからいとをぼすべし。恐々謹言。/(弘安二年)九月二十六日日蓮(花押)/伯耆殿並びに諸人御中

 

 

 

四教略名目〔C0・正嘉二年〕/三界とは一には欲界、二には色界、三には無色界。/第一の欲界に六。/一には地獄〈熱地獄一百三十六、寒地獄八〉。二には餓鬼〈閻魔宮に有り〉。三には畜生。亦傍生と云ふ〈水・陸・空に有り〉。四には修羅〈海畔・海底に有り〉。五には人〈四州に有り〉。六には天、六あり。一に四王天〈須弥の半腹にあり〉。二には利天〈須弥山の頂にあり〉。三に夜摩天〈須弥山の頂を四万踰繕那去りて虚空に住す〉。四に兜率天夜摩天より上に有り。但し内院は不退。外院は退位〉。五に楽変化天兜率天より上に有り〉。六には他化自在天楽変化天より上に住す〉。第六天の魔王の住処なり。/已上欲界散地なり。散善所生の処。/第二の色界に四禅有り。/一に初禅。三あり〈一に梵衆。二には梵輔。三には大梵天〉。/二に二禅。三あり〈一に少光。二に無量。三に極光天〉。/三に三禅。三あり〈一に小浄。二に無量浄。三に遍浄天〉。四に四禅、八あり。一に無雲。二に福生。三に広果〈已上十二天は凡夫の住処。此の広果天に二つの道有り〉。四には無熱。五に無煩。六に善現。七に善見。八に色究竟。〈已上五天は第三果の聖人の住処〉。/已上。色界十七天。〈十六・十七・十八の異説有り〉。/第三の無色界に四有り。/一に空無辺処。二には識無辺処。三には無所有所。四には非想非々想処。名目には色界・無色界をば四禅八定と呼ぶ。/已上三界。凡夫・外道は欲界第四の天の兜率の内院と色界の第四禅の内の後の五天には生ぜず。聖人の住処なる故に。/地獄の引業私に云く宝蓮香比丘尼は菩薩戒を破し淫欲を行じて無間獄に堕つ。瑠璃王は釈子を殺して無間に生ず。善星比丘は一切の法を空と説いて、生身に阿鼻地獄に入る。/餓鬼の引業偸盗引業なり。/畜生淫引業なり。/修羅五常を行ず。人五戒。/四王天引業常住を知らずして妻子を帯し而も邪淫を行はず。身を澄まし明を生ずれば四王天に生ず。/利天引業己れが妻に於て淫欲薄にして浄居所に居して不得全を味わって利天に生ず。/夜摩天欲に逢へば且く交わり去りて念はず。動くこと少なく静かなること多き夜摩天に生ず。空居天。/兜率天一切の時に静かにして来たることに違せず。劫壊の三災も及ばず。/楽変化天欲心無けれども人に随ひて欲を行ふ者の所生。/他化自在天世間の心無くとも世に同じて事を行ひ此の天に生まる。/是の如き六天は形出動と雖も心尚(なお)交はる。此れにより名づけて欲天と為す。/一に梵衆定を修して欲を行はざれば梵衆と成る。/初禅二に梵輔定を修して淫欲を行はず。律儀を愛楽して此の天に生まる。三に大梵天定を修して身心妙円にして威儀欠けず。清浄禁戒明悟なる者の生所。/已上の三天は真禅には非ず。/二禅・三禅〈略〉。第四禅の八天の後の五天は後に注すべし。/此の十七天は、独行にして交はること無けれども、未だ形を尽くさざれば色界と名づく。/無色界/空無辺処身を空して空に入るを名と為す。/識無辺処身を空し空をも又空す。識も空も微細にして識有れば識無辺所と云ふ。/無所有所空と色と亡じ識心都て滅すれば十方寂然として往所無し。此れを無所有処と云ふ。/非想非々想所存するが如くにして存ぜず。尽が若くして尽に非ず。是の如き一類を名づけて非想非々想と為す。/三界九地//┌散地┌─此れより定地/一には欲界五趣地〈地獄・餓・畜・人・六欲天〉。二には離生喜楽地〈初禅〉。三には定生喜楽地〈二禅〉。四には離喜妙楽地〈三禅〉。五に捨念清浄地〈第四禅〉。六に空無辺処地。七に識無辺処地。八に無所有処地。九に非想非々想地。已上三界九地。見惑に十。/一には身見〈亦我見と云ふ。亦有身見と云ふ〉。外道の義に云く「衆生の身内に我有り。母指或は麻子或は日輪等」云云。/二には辺見〈断常〉。三には邪見〈因果撥無〉。四には見取見〈劣謂勝見〉。五には戒禁取見。二あり〈一には非因計因。二には非道計道〉。六には貪。七には瞋。八に痴。九に慢。十に疑。此れに八十八使あり。/四諦/┌─一に苦諦──生死の果〈五陰・十二入・十八界〉/四諦─┼─二に集諦──生死の因。煩悩〈見・修〉業〈六道の因〉/├─三に滅諦──出世の果。涅槃/└─四に道諦──出世の因/┌苦は三苦の合に由る/└─────┐┌─苦苦・壊苦・行苦/欲界┌─一に苦諦〈十〉──見惑の十共に此の下に有り。/四諦─┼─二に集諦〈七〉──見惑七あり。身・辺・戒の三無し。余の七は有り。├─三に滅諦〈七〉──集の下の七の如し。/└─四に道諦〈八〉──見惑八あり。身・辺の二無し。余の八は有り。/已上欲界の見惑三十二あり。/色界┌─壊苦・行苦/┌─一に苦諦──見惑九。瞋無し。余の九は有り。/四諦─┤二に集諦見惑六。瞋無し。余の六は有り。/│三に滅諦集の如し。/└─四に道諦見惑七あり。瞋の一を除く。余の七は有り。/已上二十八。/┌─無色界┌─行苦/四諦一に苦諦〈九〉。二に集諦〈六〉。三に滅諦〈六〉。四に道諦〈七〉。/已上見惑二十八。/欲界の見惑三十二。色界二十八。無色界二十八。已上八十八使。/此の見惑をば、六道の凡夫・七賢の賢人皆具足す。此の見惑を凡夫は具する故に、至りて極悪をば造り、四悪趣には入るなり。見道の初果の聖人は、此の見惑を一時に石を破るが如く断ずる故に、欲界の人・天・色・無色界へは生ずれども、四悪趣には生ぜず。此の初果の聖人は、修惑身に全く有る故に妻子を帯すと雖も、見惑無き故に他の妻を犯せず、物の命を殺さず。此の見惑は無漏智に有らざれば断ぜず。されば仏、世に出で給はざりし時の外道は見惑をば伏すれども断ぜず。仏出世して無漏智を以て断ず。/修惑に四。又は十。又は八十一。一に貪。二に瞋。三に痴。四には慢。已上四。/┌─散地┌─四地┌─四禅/欲界に四。貪・瞋・痴・慢。色界に三。貪・痴・慢。無色界に三。貪・痴・慢已上十。/└─四禅└─四地/欲界五趣地に〈九品。上三の貪。中三の貪。下三の貪〉。/┌─離生喜楽地〈九品。上三の貪。中三の貪。下三の貪〉├─定生喜楽地〈九品。上三の貪。中三の貪。下三の貪〉/├─離喜妙楽地〈九品。上三の貪。中三の貪。下三の貪〉/└─捨念清浄地〈九品。上三の貪。中三の貪。下三の貪〉/已上色界に、四九三十六。/空無辺処地〈九品。上三の貪。中三の貪。下三の貪〉/識無辺処地九品の貪/無所有処地九品の貪/非想非々想九品の貪/已上貪に八十一。痴・慢にも八十一なり。/此の貪・瞋・痴・慢は、見惑の貪・瞋・痴・慢の外の惑なり。差別習ふべし。/此の見・修の二惑は、小乗十二年の間のおきてなり。一切の大乗の初門に此の法門必ず談ずべし。/有漏智〈亦六行智と云ふ〉。下地は麁・苦・障。上地は浄・妙・離。外道此の智を以て下地を厭ひ上地を願ふ時、見惑を伏し修惑を断じて、非想非々想に至る。而るに有漏地の習、上地に心を繋ぎて下地を厭ふ間、下八地の修惑をば断ずれども、非想地の上に地無き故に、非想地の修惑を断じえざる故に、非想地の見・修を伏断せざる故に、還りて四悪趣へ堕するなり。されば外道をば尺虫に譬へたるなり。/外道に二類有り。色・無色界へ生ずる外道は善外道なり。鶏狗等の戒を持つ外道、或は裸形等は但欲界の人天に猶(なを)生じ難し等云云。/無漏智とは四。苦・空・無常・無我。又十六。/苦諦〈四。苦・空・無常・無我〉。集諦〈因・集・生・縁〉。滅諦〈滅・静・妙・離〉。道諦〈道・如・行・出〉。此れをば十六諦観と云ふ。苦・空等の四観は別・総の二位にあり。十六諦観は・頂の二位にあり。減縁減行は忍位にあり。又十六行相あり。/欲界┌─苦法智忍色・無色┌─苦類智忍/苦諦──┴─苦法智苦諦───┴─苦類智/欲界┌─集法智忍色・無色┌─集類智忍/集諦──┴─集法智集諦───┴─集類智欲界┌─滅法智忍色・無色┌─滅類智忍/滅諦──┴─滅法智滅諦───┴─滅類智/┌─道法智忍┌─道類智忍/道諦──┴─道法智道諦───┴─道類智/小乗の三学/戒・定・恵/戒五戒・八戒十戒・十善戒・二百五十・五百戒。/定味禅〈定〉・静禅〈定〉・無漏禅。/恵苦・空等云云。/七賢/一には五停心。二には別想念処。三には総想念処。四には法。五には頂法。六には忍法。七には世第一法。/┌─一に五停心/三賢とは─┼─二に別想念処/└─三に総想念処┌─一に/├─二に頂/四善根とは─┼─三に忍/└─四に世第一/┌─一に数息──散乱を治す/├─二に不浄貪を治す/五停心├─三に慈悲疾妬を治す/├─四に因縁愚痴を治す/└─五に界方便障道を治す/┌─一に身──不浄と観じて外道の浄(きよ)顛倒を治す。/├─二に受──苦と観じて外道の楽顛倒を治す。/別想念処四├─三に心──無常と観じて外道の常顛倒を治す。/└─四に法──無我と観じて外道の我顛倒を治す。/総想念処四諦を総じて苦総じて空総じて無常総じて無我と観ず/┌─苦諦──苦・空・無常・無我〈退位〉├─集諦──因・集・生・縁/法├─滅諦──滅・静・妙・離/└─道諦──道・如・行・出/智恵の火煩悩の薪を焼くなり。/〈退位〉/頂法────十六行相。法の如し。/┌〈不退〉┌─下忍十六行相を修す。/忍位├─中忍──減縁減行/└─上忍──一行一刹那/世第一───一行一刹那/七賢をば皆世間と云ふ。世間の中に此の位第一なる故に世第一と云ふ。/又七聖をば出世と云ふ。此の位出世の中に第一なる故に世第一と云ふ。/釈に云く「能く聖道を開するを初門と為す故に」文。/┌苦類智忍┌苦法智忍/┌一に苦諦二九十八の見惑┌一苦諦十の見│└苦類智│└苦法智/│┌集類智忍│┌集法智忍/├二に集諦二六十二の見惑├二に集諦七の見/│└集類智│└集法智/色・無色の四│┌滅類智忍欲の四│┌滅法智忍/├三に滅諦二六十二の見惑├三に滅諦七の見/│└滅類智│└滅法智/│┌道類智忍│┌道法智忍/└四に道諦二七十四の見惑└四に道諦八の見/└道類智└道法智欲の苦忍より此の道類/┌道類智忍/色・無色の道諦智忍まで十五心に八十八の見惑は断じ了んぬ。見惑断じ尽くすを見道の位と云ふ。/└道類智頌に云く「前の十五は見道なり。曾て見ざるを見る故に」文。/├初果八十八使の見惑を断じ尽くし無漏の理を一分明かす。此の見道の位は八忍・七智なり。/└預流果/欲界散地の一地の九品の修惑/┌─両生┌─一生/上の上品中の上/┌─一生半生┌─下が上品/上上の中品中中の中─┐下─┼─下が中品/┌─一生半生├─一生└─下が下品上の下品中の下─┘└─一生/已上九品に七生なり。/上の三より中が中に至るまでは第二向。中が下までは六品断。第二果〈亦は一来果と云ふ。亦斯陀含果と云ふ〉。下三品を断じ了れば九品を断じ了り、欲界の七生を尽くす。七品・八品断をば第三向と云ふ、又不還向と云ふ。第三果は欲界の九品の修惑を断じ尽くしたる聖人。いまは永く欲界へ還らざる人なり。色界の五浄居天の聖人とは是の人なり。見惑をば断じぬれば、永く四悪趣に生ぜず。修惑の九品をば断じ尽くしぬれば、又欲界の人天へも生ぜざるなり。/色界三十六の修惑。無色界三十六の修惑。已上七十二品の修惑を七十一品断は、第四果の向。阿羅漢向と云ふ。七十二品を断じ尽くすをば阿羅漢果と云ふ。此の阿羅漢をば此には不生と云ふ。永く見・修を断じ尽くして三界に生ぜざる故に。亦云く殺賊と云ふ。見・修の賊を殺せる人なる故に。但し阿羅漢に侵習気と云ふ事あり。見・修をば断じ尽くすとも、猶瞋恚の気分あり等云云。此の習気は生を引かざるなり。┌─見道に二人─┬─随信行鈍人/│└─随法行利人/│┌─鈍┌─利/七聖とは─┼─修道に三人─┬─信解見得/│└─身証〈利鈍に亘る〉/└─無学道に二人─┬─恵解脱/└─倶解脱/已上声聞の位。七賢・七聖なり。/次に縁覚。/┌─鈍根利根/二人あり。一には部行独覚。二には麟喩独覚。/徒党あり但一人/部行は声聞の如く七賢を経て見道の位に上りて見惑を断じ了り、修惑を未だ一分も断ぜず。七生を経る程に、仏の出世無けれども無仏の世に出でて、飛花落葉を観じて修惑を断じ尽くし、独覚の菩提を証す。/麟喩独覚は前生に仏の出世に値ひて七賢の位に在りし人。今生は仏教をも聞かず位を経ずとも、自然に無漏智を発して見・修を断じ、独覚の菩提を証す。此の縁覚は見・修を断ずるのみならず、又習気をも断じて永く起こさず。已上三蔵教の縁覚。/次に菩薩。/此の菩薩は、六道に生じて衆生を導くが為に、染汚〈見・修〉無知をば断ぜず、不染無知を断ず〈味熱熟徳等〉。但凡夫の慈悲あるが如し。/┌─一に初僧祇四弘誓願を発し六度万行を修して七万五千の仏を供養す。/│五障を離れ自の作仏を知らず。/三僧祇─┼─第二僧祇四弘・六度・七万六千仏。/│自の作仏を知りて他に向かって説かず。/└─第三僧祇四弘・六度・七万七千仏。/自の作仏を知りて人に向かって説く。/已上三僧祇の間は一向化他の位、見・修を断ぜず。三悪道に救ふべき衆生あれば、同じく苦を受けて救はんが為に願を発し、悪業を造りて彼しこに生ず。具に忍苦捍労の苦に有り。声聞の位に当たりては初僧祇は三賢。第二僧祇は法。第三僧祇は頂法に当たれり。/次に菩薩の自行百劫。菩薩は仏に成らんが為に、百劫が間三十二相の為に三十二の業因を植ゑ、師長・父母等を敬ふなり。/次に八相。仏に成らんが為に兜率天に生ず、生天。天より下る、下天。女人の胎に宿す、詫胎。胎を出づ、出胎。/出家す──外道を師として六行智を以て、下八地の見を伏し修を断ず。/降魔菩提樹下に坐して第六天の魔王を降伏す。初め化他の初僧祇より今の自行の降魔に至りては、いまだ凡夫菩薩なり。/次に成道。有漏智の断じ残せる非想地の見・修を見惑をば、八忍・八智の無漏智を以て断じ、非想地の修惑をば、無漏智の九無碍・九解脱を以て断ず。已上八忍・八智・九無碍・九解脱は三十四心なり。既に見・修断の仏と成る。習気も亦断ず。/次に転法輪四諦生滅の法を説く。/次に入涅槃─┬─八十入滅└─老比丘像三蔵の仏草座に坐す。/声聞の位に当りては/三賢──初僧祇/法第二僧祇/七賢頂法第三僧祇/┌─下──百劫/忍法┼─中──生天・下天・詫胎・出胎・出家・降魔/└─上/世第一/已上。上忍・世第一は成道・転法輪・入涅槃なり。/三蔵教の声聞・縁覚・菩薩の時節。/声聞三生〈鈍〉六十劫〈利〉。縁覚四生〈鈍〉百劫〈利〉。菩薩は三無数劫。/声聞の三生は第一の生は三賢。第二の生は三賢・四善根。第三の生は三賢・四善根・見道なり。/又声聞に一生に見道に入ると云ふ事も有り。/四弘誓願とは。/一には衆生無辺誓願度──苦諦を見て願を発すなり。二煩悩無辺誓願断──集諦を見て願を発すなり。/三法門無尽誓願学──道諦を見て願を発すなり。/四無上菩提誓願証──滅諦を見て願を発すなり。/三蔵教は依報は六界。正報は十界。而れども声聞界に縁覚・仏は帰する故なり。此の教の意は凡夫に本より仏性ありと云はず。始めて四諦を習へば声聞の性を成し、十二因縁を習へば縁覚道を成し、四弘・六度を学すれば菩薩と云ひて、始めて仏種姓を成ずるなり。/已上三蔵教。/通教の十地/┌─一には乾恵地──三賢。/├─二には性地───四善根。/├─三には八人地──初向。八忍・七智。/├─四には見地───初果。八十八使の見惑断。/十地├─五には薄地───欲界九品の修惑の前の六品断。/├─六離欲地──欲界の九品を断じ了る。不還果。/├─七已弁地──色・無色界の修惑を断じ尽くして阿羅漢と成る。├─八辟支仏地─因縁。見・修・習気を尽くす。/├─九菩薩地──八相の前の五相。/└─十仏地───成道・転法輪・入涅槃。/┌─一乾恵地──声聞・縁覚・菩薩三人共にあり。三賢。/├─二性地──四善根。三人共。/├─三八人地──三人。/├─四見地──三人。/十地├─五薄地───三人。/├─六離欲地──三人。/├─七已弁地──三人。/├─八辟支仏地─二人。縁覚・菩薩。/├─九菩薩地──但菩薩一人。/└─十仏地───比丘の像を帯し尊特の身の仏を現ず。/小乗三蔵教をば析空の教と云ふ。通教をば大乗体空の教と云ふ。通教の仏は七宝の蓮華に坐す。此の教は動踰塵劫を経て仏に成ることを得。/別教の五十二位┌─一十信─〈三蔵の七賢。通教の乾恵・性地の二位に当たれり〉。/├─二には十住─〈三蔵の七聖。見・修断。通教の八人地より仏地までの八地に当たれり〉。/├─三には十行/五十二位├─四十回向/├─五十地/├─六等覚/└─七妙覚/十信。一に信心。二に念心。三に精進。四に恵心。五に定心。六に不退心。七に戒心。八に捨心。九回向心。十に願心。已上伏位。見・思未断。/十住。一に発心住〈見を断ず〉。二に持地住等と云ふ。二住より七住に至りて修惑を断ず。後の三住は上品の塵沙を断ず。/十行。一に歓喜行等と云ふ。中品の塵沙を断ず。/十回向。一に救護衆生回向等。下品の塵沙を断ず。又中道を修す。/十地。一に歓喜地〈一品の無明を断ず〉。乃至、法雲地〈十品の無明を断ず〉。等覚〈一品の無明を断ず〉。妙覚〈一品の無明を断ず〉。已上。別教は声聞・縁覚無し。但菩薩一人の教。十信は凡夫菩薩。退位。十住よりは不退の位。十住・十行・十回向の位は見・思・塵沙断なり。十地・等覚は無明断の菩薩。妙覚は十二品の無明を断じ了れる仏なり。此の教は戒・定・恵。戒は五戒・八戒十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒・三聚浄戒。此れ尽未来際の菩薩戒なり。梵網経・瓔珞経の戒是れなり。定は観・練・薫・修の四種の禅。地持論の九種の浄禅等なり。恵は十住に入空。十行に出仮。十回向に修中。十地に但中。次第の空・仮・中の三諦なり。此の教は煩悩より外に菩提を求め、生死より外に涅槃を尋ぬ。空・仮・中の三諦相即せざるなり。此の教は一行を以て仏に成るとは云はず。一々の位に無量劫を経、一々の位を超えること無し。次第次第に経登り、又下位の功徳をば捨て上位の功徳を得。/次に円教。/爾前の円。十信の初信に見を断じてより、二信より七信に至るまで思を断ず。八・九・十の三信は、上中下の三種の塵沙を断ず。十住・十行・十回向・十地・等・妙に四十二品の無明を断ず。円の仏。此の教は四十二位互ひに具して初後不二なり。又位をも超えて仏に成る。三諦相即す。煩悩即菩提・生死即涅槃を談ず。又六即を談ず。┌─一理即/├─二名字即/├─三観行即/├─四相似即円の十信。見・思・塵沙断。/├─五分真即円の十住・行・向・地・等なり。/└─六究竟即妙覚。/已上は四教。/次に五時。/一に華厳〈別円〉。二に阿含〈但三蔵〉。三に方等〈四教〉。四に般若〈通別円の三教〉。五に法華〈純円〉。涅槃〈四教〉。/私に云く、華厳の別教・方等の別教・般若の別教・涅槃の別教はかわりめ如何。又華厳の円・方等の円・般若の円・法華の円・涅槃の円のかわりめ如何。/天台大師。/玄義十巻。妙法蓮華経の五字を釈するに、名・体・宗・用・教の五重玄義を立てたり。/文句十巻。序品第一より作礼而去に至るまで、一部八巻の経の文句を釈す。一々の文句に因縁・約教・本迹・観心の四の法門を釈す。止観十巻。別しては法華・涅槃に依り、総じては一代聖教に依る。妙楽大師の義例と申す文に止観を釈して云く「諸文を散引し、一代を該るに文体の正意、唯二経に帰す。一には法華の本迹・顕実に依り、二には涅槃の扶律顕常に依る」文。/天台は玄義に観心を釈す。此れをば附法観と云ふ。文句に観心あり。此れをば詫事観と云ふ。止観の観心を約行観と云ふ。又止観にも附法・詫事の二観あり云云。/玄義・文句には十界互具・百界千如は立つとも、一念三千の文は無し。後に妙楽大師、玄義を承けて釈籖十巻を造る。文句を承けて疏記十巻を造り、止観を承けて弘決十巻を造る。已上六十巻。/天台大師〈智者・智顗〉。章安大師〈玄義・文句・止観の記者なり〉。智威〈文無し〉。恵威〈文無し〉。玄朗。湛然〈妙楽〉。/┌─道邃/湛然に├─道暹道邃──日本の伝教、最澄と云ふ。/├─智度/└─行満五陰和合の体十。十界の五陰世間。/五陰の不和合体十。十界の国土世間。四種の仏土なり。/一には同居土。凡〈六凡〉聖〈四聖〉雑居の土なり。二には方便土。純菩薩僧の住処。三には実報土〈断無明の菩薩・仏の住処〉。四には寂光土〈唯仏一人の住処〉。/初めの同居土に六。/一には地獄の住処赤鉄を以て所居の土とす。/二には、餓鬼の住処閻魔宮を以て所居の土とす。/三には、畜生の住処水・陸・空を以て所居の土とす。/四修羅の住処海畔・海底を以て所居の土とす。/五人の住処須弥山の四辺の四州を以て所居の土とす。/六は天の住処或は地居。或は空居等云云。/七には声聞の住処但見惑を断じ、或は思惑を断じ残る。或は見・思を断じ尽くすとも未だ有余涅槃の間は阿羅漢も人天に居す。/八縁覚の住処声聞の如し云云。九に菩薩の住処三蔵の未断見・思の菩薩は、凡夫の如く六道に有り。通教の断見・思の菩薩は二乗の如し。断無明の菩薩は実報土に住す。/初果・二果・三果・四果・縁覚の五人は無余涅槃に入れば、法華経を以て見れば、純菩薩僧と云われて方便土に住す。/十には仏の住処。但一人寂光土に住す。/同居土とは横に十方、竪に三世。皆同居土なり。西東北南と方を指すは同居土と知れ。弥陀の浄土・薬師の浄土等は、皆同居の内の浄土なり。問ふ、十方世界は皆同居土ならば、此れより外に何れの処にか三土は有るや。答ふ、此れは天台一宗の大事なり。但し総想の義には三惑分斉を以て論ずべし云云。/十如是とは。/一には相如是十半の色法乃至依報のなり。/二には性如是七半の心法。依報には通ぜず。/三には体如是十八界共なり。人の体質なり。/四力とは堪任力用。王の力士の如し。/五作とは運を作と名づく。/六因とは業なり。引業なり。七縁とは無明なり。/八果習因習果なり。習因習果とは満業なり。業の上の因果なり。先生に淫を習ふ習因は、今生に淫欲熾盛の者と成る。鴿雀等の如し。/九報とは報因報果なり。報因とは前の第六の引業なり。又習因習果を報因と云ふ事あり。報果とは受くる所の身なり。/十如是本末究竟等本とは相如是。末とは報如是。究竟とは始めの相如是に終りの報如是を究竟し、終りの報如是に始めの相如是を究竟す。等とは十如是等しく空、等しく仮、等しく中なり。/十界に一々の界に十如是有り。百如是なり。一界に十如是。其の十如是の一如是に三種世間。十如是には三十種世間。十界には百如是。十界互具せば千如是。千如是の一如是に三種世間。千如是には三千種世間。此の三千種世間、凡夫の汎々の一念の心に有り。又心に念ふ所の色、乃至法に有り。されば能縁の心に三千を具す。所縁の境にも三千を具す。能所合しても三千を具す。能所離しても三千を具す。されども定自〈能〉・定他〈所〉・定共・定無因にあらず。而も自・他・共・無因に具す。妙法とは是れを申すなり。妙の文字此の経に無くば、四性の計を離れず、四性の計を離れずば、成仏の道無し。能く能く十境十乗を学すべし。/┌一、殺生の業道二報〈一、短命。二、多病〉/┌身の三─┼二、不与取又偸盗と云ふ二報〈一、貧窮。二、財を失なひ自在を得ず〉/│└三、邪淫の二報〈一、婦貞潔ならず。二、不随意の眷属を得〉/│┌四、虚誑語又妄語と云ふ二報〈一、常に誹謗せらる。二、人の為に誑せらる〉/十不善業道─┼口の四─┼五、麁悪語又悪口と云ふ二報〈一、常に悪音を聞く。二、言説すべき所恒に諍論有り〉/│├六、離間語又両舌と云ふ二報〈一、弊悪の眷属を得。二、不知の眷属を得〉/│└七、雑穢語又無義語と云ふ二報〈一、所有の言説人信受せず。二、所有の言説明了なること能はず〉/│┌八、貪の二報〈一、多欲。二、乏にして厭足すること無し〉└意の三─┼九、瞋の二報〈一、常に一切の為に其の長短を求めらる。二、常に衆人の為に悩害せらる〉/└十、邪見の二報〈一、邪見の家に生ず。二、其の心諂曲なり〉/弘決の二に云く「法華を除きて外の余の一切の教には、但生々に悪の為に相悩せらると云へり。此れ乃ち教法の権実同じからざればなり」。/記の四に云く「発心せんと欲すと雖も、偏円を簡ばず誓境を解せずんば、未来に法を聞くとも何ぞ能く謗を免れん」。

 

 

 

華厳法相三論天台等元祖事〔C0・文永九年頃〕/華厳宗の元祖。梵には馬鳴〈起信論の故に〉。竜樹菩薩〈十住毘婆娑論の故に〉。天親菩薩〈十地論の故に〉。花には智儼・杜順・法蔵・澄観──清涼なり/五教〈一代を摂む〉一には小乗教。四阿含経。倶舎・成実・律。/一切総じて無仏性教なり。/二には大乗始教。方等。深密経等なり。般若。法相宗三論宗。/少分無仏性教なり。二乗・闡提等なり。/三には終教涅槃経。一切衆生悉く仏性有り。/二乗・闡提等の成仏の教なり。/四には頓教一切経の頓悟成仏の文。並びに禅宗なり。/五には円教。二あり。別教華厳経/〈最初に二乗作仏・久遠実成を明かす〉┌─大海自在力を顕現して円満経を演説す。無量の諸の衆生に/本教。悉く菩提の記を授く。純ら諸菩薩の教。頓々教。報身如来の説。如来出世の本懐なり。/円教法華経/┌─諸河を引きて大海に帰せしむ。純に円教を説いて全く余教を雑へず。天台大師独り華厳経の義を弁へずして別教を説くと云ふ。誤れる哉誤れる哉。/摂末帰本教。/初後の高山。始め我が身を見、我が所説を聞き、即ち皆信受して如来恵に入る。先より修習して小乗を学せる者を除く。是の如きの人も、我今亦是の経を聞いて仏恵に入ることを得しむ。/法相宗の元祖。梵には釈迦如来弥勒菩薩・無著菩薩・世親菩薩・護法菩薩・難陀菩薩・戒賢論師・玄奘三蔵。花には玄奘・慈恩等なり。/有四阿含経。倶舎・成実・律等なり。/不了義経/三時教。空般若経三論宗なり。了義経/中華厳経・方等経・法華経・涅槃・深密経等。/弥勒菩薩の瑜伽論─〈無著菩薩之れを書く=摂論─無著菩薩造。唯識論─天親菩薩造〉。/深密経は了義が中の了義経法華経等は了義が中の不了義経。/五性各別。仏種性・独覚・声聞・不定・無性。/一切の声聞・独覚・菩薩は、皆此の一妙清浄の道を共にし、皆此の一究竟清浄を同じくして、更に第二無し。我此に依るが故に、密意を説いて惟だ一乗有りと言ふ。/一切の有情界の中に於て、種々の有情の種性、或は鈍根性、或は中根性、或は利根性の有情の差別有ること無きには非ず。/法華経の一乗を会する証文。/深密経に云く「諸の浄道に依る清浄の者は唯此の一に依りて第二無し。故に其の中に於て一乗を立つ。有情の性の差別無きには非ず」。摂論に云く〈無著菩薩〉「一類を引摂し及び所余を任持せんが為に不定種性に由りて諸仏一乗を説く」。釈論に云く〈天親菩薩造〉、釈論に云く〈無性菩薩造〉「四十余年未顕真実とは、四十余年の経は決定性・無性有情の為の真実の経。法華経不定性等の為の真実の経なり。故に不定性の為には、四十余年には未だ真実を顕はさず」。/三論宗の元祖。梵には文殊・竜樹菩薩〈三論の故なり〉・青目菩薩・青弁菩薩・智光論師・羅什。花には羅什・道朗・嘉祥等なり。/有四阿含経等なり。/三時教。空─深密経・一切の方等部の経なり。/中般若経法華経・涅槃経・華厳経・妙智経等なり。/般若経は了義経の中の了義経。/中天竺大那蘭陀寺の智光論師妙智経に依りて三時教立つ等云云。妙智経は未だ漢土に渡らず。又嘉祥は五時を立て、三法輪を立て、二蔵を立つ。一根本法輪〈華厳〉。枝末法輪。摂末帰本法輪。大論の四十六に云く「所説の種々の法、所謂本起経・断一切衆生疑経・花手経・法華経・雲経・大雲経・法雲経・弥勒問経・六ハラ蜜経・摩訶般若ハラ蜜経。是の如き等の無量無辺阿僧祇の経、或は仏説、或は化仏の説、或は大菩薩の説、或は声聞の説、或は諸の得道せる天の説、是の事和合して皆摩訶衍と名づく。此の諸経の中に、般若ハラ蜜最大なり。故に摩訶衍を説く。即ち知んぬ、已に般若ハラ蜜を説くに諸余の助道法、般若ハラ蜜に和合する無ければ、則ち仏に至ること能はず」。/天台宗の元祖。智者の観心論に云く「帰命竜樹師」。/付法蔵第十三┌───因縁所生法の文の故なり。地位初住に登る。/梵には竜樹菩薩────恵文禅師─北斉の禅師。/└中論の故なり└───中観を以て師宗と為す。/┌─位相似十信の位に登る。/南岳の恵思禅師。/└─天台大師止観に云く「天台南岳より三種の止観を伝ふ」。/又云く「普賢菩薩・天台大師」等云云。/乳┌──但菩薩のみ/華厳────┘別円/亦醍醐と云ふ。/酪/阿含玄の十に云く「初後の仏恵、円頓の義斉し」。亦乳と云ふ。/方等生蘇籖の一に云く「故に始終を挙ぐるに、意仏恵に在り」。/五時亦五味を具するか。/般若熟蘇味文句の五に云く「今の如きは始めの如く、始めの如きは今の如し」。/亦醍醐を具するか。/法華経─┬醍醐皆始見等の文の故なり。/涅槃経─┘/華厳経の円と法華経の円と同じと云ふ文。「始め我が身を見る」。/方等・法相等と法華経と同じと云ふ文。「我昔、仏に従ひて是の如き法を聞き、諸の菩薩の授記作仏を見たり」。文句の五に云く「只是れ方等教の中に大乗の実恵を聞くこと今と殊ならず。故に聞如是法と言ふ」。/般若経法華経と同じと云ふ文。法華経に云く「般若ハラ蜜をば除く」。又云く「平等大恵」。玄の十に云く「般若と法華は是れ異名なるのみ」。籖の十「一には、会宗・大明に拠れば般若は法華に勝るるに似たり」文。又云く「三には、但是れ異名ならば則ち二経斉等なるに似たり」。又云く「不共般若に一切法を摂す。何ぞ法華其の中に入ることを妨げん」。記の四に云く「若し仏恵を以て法華と為さば即ち始終倶に有り。若し会帰を以て法華と為さば即ち終りには有れども始めに無し」。玄の十に云く「此れ一往は則ち斉しけれども、而も疎蜜無きにあらず」。/真言宗の元祖/大日如来・金剛薩・竜猛〈竜樹なり〉・竜智・金剛智〈天竺なり〉・金剛智〈震旦なり〉・不空・恵果・弘法。弘法〈日本なり〉。/又大日如来・金剛薩・竜猛・竜智・善無畏〈天竺なり又震旦なり〉・順暁・伝教〈震旦なり、日本なり〉/又大日如来文殊・竜樹等と云ふ。又云ふ。文殊・善無畏云云。/┌一には顕教釈迦一代の教/日本の東寺弘法二教─┤法華経華厳経より下す等云云。/└二には蜜教大日の三部等なり。六ケの大徳を師とす/伝教・慈覚一には顕教阿含経なり/天台二教/智証等なり二には蜜経─華厳・方等・般若・法華・大日経等なり。/又云く「法華経は理秘密。大日経は事理倶密」。/又云く「四十余年は顕教法華経大日経は蜜教なり」。/十住心異生羝羊心。二に愚童持斎心。三に嬰童無畏心。四に唯薀無我心〈声聞〉。五に抜業因種心〈縁覚〉。六に他縁大乗心〈法相〉。七に覚心不生心〈三論〉。八に如実一道心〈天台〉。九に極無自性心〈華厳〉。十に秘密荘厳心〈真言〉。菩提心論並びに大日経の住心品に依りて之れを立つ。/又六ハラ蜜経の五蔵。ソタラム蔵〈経〉・毘那耶蔵〈戒律〉・阿曇蔵〈論〉・般若蔵〈諸大乗経〉・タラニ総持蔵〈真言教なり〉。/又云く「顕教は他受用応化身の説。密教は自受用法身の説なり。又顕教は乳・酪・生蘇なり。秘密教は醍醐なり」〈東寺の真言宗の立拠なり〉。

 

 

 

五十二位図〔C1・文永一二年〕/外凡/┌─三賢──種─順解脱分位/三蔵教─┼─四善根─熟─順決択分位/└─七聖──脱─見思断位/├─見道───決択分位/├─修道─┬─解脱分位/└─学道┘/爾前/種乾恵地─外凡三賢/通教十地熟性地──内凡四善根/解脱八人地乃第十地/別教五十二位種───十信外凡/迹門┌─十住初住より第七住に至りて見思を断ず。八、九、十に/円教熟─┤上品の塵沙を断ず/名字─┬─外凡─種├─十行中品の塵沙を断ず/観行─┘└─十回向下品の塵沙を断ず十信───内凡┌─十地─┐/十住──┐脱─┼─等──┼─十二品の無明を断ず/十行──┤└─妙──┘/十回向─┼─脱/十地──┤/等───┤/妙───┴不説華厳に果分を説かざるは唯一仏乗を名づけて果分と為す/妙覚位──説法華経当分/跨節

 

 

 

一代勝劣諸師異解事〔C0・建治二年〕/一代勝劣諸師異解事/一┌─之れを除く/漢─┬┤/第一華厳─┐魏─┼┘/│晋─┤┌─光宅等/第二涅槃─┤宋─┤五百余年/│斉─┤南北二百六十余人/第三法華─┘梁─┘/第一般若────────三論宗/第一法華─┐陳─┐/第二涅槃─┤│天台智者/第三華厳─┘隋─┴─国清寺/┌─唐の太宗/第一深密経└──┐法相玄奘/第二華厳・法華・涅槃─┘慈恩/第一華厳─┐/第二法華─┼──唐法蔵等/第三涅槃─┘則天皇后の御宇/第一大日経┌─玄宗の御宇/第二法華・涅槃唐善無畏等第三華厳経/二┌─中堂/┌─第一法華経────┐伝教大師/├─第二涅槃経────┤日本/└─第三華厳・大日経等─┘桓武等/第一大日経─┐日本/第二華厳経─┤弘法/第三法華経─┘嵯峨天皇の御宇/┌─総持院/第一大日経─┐日本/第二法華経─┼────慈覚/第三諸経──┘仁明/文徳/智証も大体之れに同じ。/三/次第劣なり┌─法華経第一本門/法華第一一─┴─法華経第二迹門/涅槃経第二是の諸の大乗方等経典は、復無量の功徳を成就すと雖も、是の経に比せんと欲するに喩へを為すことを得ず。百倍千倍百千万億乃至算数譬喩も及ぶこと能はざる所なり。/無量義経三次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説く。/┌─未だ真実を顕はさず。/└─真実甚深なり。/華厳第四/般若第五/┌─妙成就なり┌─第一に云く、三部の中に於て此の経を王と為す。/蘇悉地経第六─┴─蘇悉地経〈中巻〉に云く、猶(なお)成ぜざれば或は復大般若経七返を転読す。/大日経第七/弘法大師は、法華経大日経に相対すれば三重の劣と云云。日蓮之れを怨みて謂へらく。七重の劣か、将又経文有るや。三国に未だ弘通せざる法門なり。

 

 

 

五行事〔C0・文永初期〕/木不殺生戒肝臓/眼根/酢味/東方/青色/春/青雲/魂/歳星/火不飲酒戒心臓/舌根/苦味/南方/赤色/夏/赤雲/神/惑星/土不妄語戒脾臓/身根甘味/中央/黄色/土用/黄雲/意/鎮星/金不偸盗戒肺臓/鼻根/辛味/西方/白色/秋/白雲/魄/太白星/水不邪淫戒腎臓/耳根/鹹味/北方黒色/冬/黒雲/志/辰星

 

 

 

六識事〔C0・弘安元年〕/正説・領解・述成・授記・歓喜/但彰灼に二乗に授記して顕露分明に長遠の寿を説くことを知る茲の一座に於て聞知せざること無し。故に名づて顕と為す。/心/眼識意肉・天・恵・法・仏眼/耳識肉・天・恵・法・仏耳/鼻識肉・天・恵・法・仏鼻/知舌識見/身識肉身・天身・恵身・法身・仏身/意識/魔梵釈女/菩薩処胎経/「法性は大海の如く是非有るを説かず。凡夫賢聖の人は唯心垢の滅するに在り。平等にして高下無く、証を取ること掌を反(かえ)すが如し」。大乗を学ばん者は肉眼有りと雖も名づけて仏眼と為す。耳鼻の五根も例して亦是の如し。/理具/加持顕徳/┌世出世に亘る┌世間に限る┌鼻舌身合中智/強眼耳意弱鼻舌身至不至/└眼耳意離中智/知覚聞見/六識・眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識/知見・眼・耳・鼻・舌・身・意/巳四月・午五月火・未六月・申七月・酉八月金・戌九月・亥十月・子十一月水・丑十二月・寅正月・卯二月木・辰三月

 

 

 

念仏破関連御書〔C1・文永三年〕/文はとかれたれども、実には諸行は往生せずと料簡したりけり。この二義世間にひろまりけるほどに、法華経等は一部八巻よむもよだけし。真言の観念大事なり。一念は但南無阿弥陀仏と申せばやすし。させる功労をも入らざる故に、在家の諸人は一向称名念仏になりぬ。自然に法然が義つをりて多勢になるほどに、ををぜいにをどされて、法華経真言等を行じつる人々も自義をすてて法然が義をならいまねび、心よせにをもい、久修聖行の法華経等をすてて三万六万等の念仏者になりぬ。結句はことに天台・真言の人々、法華経をすてて念仏になる証人となれるなり。ここに第一の不思議あり。法然が一類の一向の念仏者法然・隆観・上光・善恵・南無・薩生等、或は七日・二七日、無記にて死す者もあり、或は悪瘡、或は血をはき、或は遍身にあつきあせをながし、総じて法然が一類八十余人、一人も臨終よきものとてなし。又一向専修の念仏者をもちうる在

 

 

 

断簡二〇一〔C1・建治三年〕/ます、とりどりにいづれも心ざしをろかならず。しかれども去ぬる文永八年の御かんきの時、佐渡の国雪中にゐ

 

 

 

断簡二〇二〔C1・弘安元年〕/無妙法蓮華経と唱へさせ給はん女人は、大海の江河にすぐれ□□の

 

 

 

断簡二〇三〔C1・弘安三年〕/正像二千年すぎて末法になり候ひぬれば、天も神も年より心もをぼろになり候へば、小乗権大乗の

 

 

 

断簡二〇四〔C1・文永五年・富木常忍〕/如何。止観等の大事の要文、双紙に聚集してまいらせ候ひし内

 

 

 

断簡二〇五〔C1・弘安三年五月一二日・西山氏〕/大餅五、聖人ひとつつ、やまのいも五本、大根いつつ/〈十八〉五月十二日日蓮(花押)西山殿御返事

 

 

 

断簡二〇六〔C1・建治三年〕/もめてたくて国の人々も

 

 

 

南條兵衛七郎殿御書断片〔C1・文永元年一二月一三日・南條兵衛七郎〕/愚痴の人も悪としればしたがわぬへんもあり。火を水を用ゐてけすがごとし。善は但善と思ふほどに、小善に付きて大悪のをこる事を

 

 

 

断簡二〇八〔C1・文永〕/天神の大威徳天とあらわれて其の徳□天に勝れ給

 

 

 

断簡二〇九〔C1・弘安元年・日興〕/法師申す。寺務為る二位律師厳誉世間一分の科無しと雖も

 

 

 

仏説御書〔C1・弘安元年〕/〈十一〉うみたりし太子、今に其の子孫なれば、漢日種国とて人の心かしこくいさぎよくあるなり。象国・馬国なんど申す国は人なれども其の畜生の心あり。仏教も又かく

 

 

 

断簡二一一〔C1・文永建治交・いよの入道〕/此れ何人ぞや。答へて云く、一人なり。万人一同の悪心を起こす。かるがゆへに起こるなり。問うて云く、何をもってかこれを信ぜん。答へて云く、明鏡あり、眼あらば汝これをみよ。大集経に梵天・帝釈・日月・四天□□□□進上いよの□殿

 

 

 

断簡二一二〔C1・建治二年〕/いうは道理必然なり。伝教大師弘法大師はしばらく此れををく。日本国の慈覚大師は我が国にして伝教大師に値ひたてまつりて、天台・真言の二宗を習ひきわめ、唐土にわたては宗叡

 

 

 

断簡二一三〔C1・弘安元年〕/経文なり。たれか迷はざるべき。弥陀念仏は観音・勢至等の

 

 

 

断簡二一四〔C1・建治二年〕/南岳・天台・伝教の法華経付属の人にあらざるに二の故あり。一には迦葉・阿

 

 

 

断簡二一五〔C1・弘安元年〕/彼の文の如し。鳩般荼とは

 

 

 

断簡二一六〔C1・建治三年〕/経文に付くべし、捨

 

 

 

断簡二一七〔C1・建治三年〕/〈三〉釈尊已前に或は八百年、或は無量百歳、三仙と申す大

 

 

 

断簡二一八〔C1・建治二年〕/こと、正法の前五百年には迦葉・阿難等、一向に小乗経を弘通せしかども、諸大乗経を結集せり。其の法門をば弘通せずといえども、自身の存知は疑ひなし。竜樹・天親等は正法の後五百歳に、権大乗

 

 

 

断簡二一九〔C1・建治二年〕/人の心地一同に大いに動ずるゆへに、大地は人の心にのっとれるゆへに大地ふるうか。天は人の眼に法華経のてきとなれる

 

 

 

断簡二二〇〔C1・建治二年〕/なんだをながし、遍身にしろきあせをあかして申し候

 

 

 

断簡二二一〔C1・弘安〕/聴聞候ひき。大海へは

 

 

 

断簡二二二〔C1・弘安二年・千日尼〕/〈四〉「方便現涅槃而実不滅度」ととかれて、八月十五夜の満月の雲にかくれてをはするがごとく、いまだ滅し給はず候なれ。人こそ雲にへだてられてみまいらせず候とも、月は仏眼・仏耳をもってきこしめし御らんあるらむ。其の上、故阿仏房は一心欲見仏の者なり。あに臨終の時釈迦仏を見まいらせ候ざらむ。其の上

 

 

 

断簡二二三〔C1・文応元年〕/やすきことぞかし。この経を一四句偈供養せんことは又十のたとえあり。一切の江河のもろもろの水の中には大海第一なり。一切の山の中には須弥山第一なり。一切のひかりあるものには日輪第一なり。一切の王の中に大梵天王第一なり。この経は一切の経の中には第一なり。この経をけちえん(結縁)せん人は諸人のなかには大海のごとくひろく、須弥山のごとくたかう、日月のごとくあきらかなるべし。もし女人ありてこのあつはり給ひしををくの仏、多宝仏・釈迦牟尼仏、一々の仏舌をいだして梵天につけたりしは、をへただしかりしことなり。このしたをいだし給ふことはかみの一々の不思議のことどもまことなりというしようこ(証拠)なり。舌は不妄語戒のちからなるゆへなり。ことにこのふみは女人のをんためにしるすことに候へば、かみのだいば(提婆)品に竜女が須臾に仏になりたりしこともこの品にしてうたが

 

 

 

断簡二二四〔C1・文永二年〕/かの禅門にげざんして候ひしかば、内心はしり候はず、をもわざるほかにこころよげに候ひき。又かれよりすごにしたがうべからざるよし申すとて、ことにいかり申されげに候ひき。又そのひ、やがて下手人まいらせすべきの申状つけ候ひき。とくとく問注あるべきよし申し候ひしかども、あつかのあくたう(悪党)どもを申す人にめしあづけられよとこそ申し候ひしか。さてはこの白米の事、申しつくしがたう候。そうぜんして法華経一部よみて候。

 

 

 

断簡二二五〔C1・建治二年〕/つたなきかなや天台の学者等、善無畏等は誑惑の心ある上、我が執する法を立てんがために妄語をなすとも、法華宗の学者等智恵かしこくば、たぼらかさるべきか。但し善無畏は月支の経を見たりという事、信ずべきににたれども、天竺の人は妄語なく、漢土・日本の人は実語なきか。提婆が虚狂罪は月支より始まり、瞿伽利が妄

 

 

 

断簡二二六〔C1・弘安四年〕/□なやいごめひとをけ、蓮花三本給はり候ひ了んぬ。はちすと申すは蓮花なり。天上に花あり、まんだら花等云云。大地の上にも種々の花あり、春はさくら、秋はきく、夏はぼうたん、冬は

 

 

 

断簡二二七〔C1・弘安二年〕/〈二〉そりやう(所領)ゆへなくめしあげられて、ただてのひろさあるやしきにすませ給へば、びんぐう(貧窮)□□すい□くて□□ばかりは

 

 

 

断簡二二八〔C1・弘安二年〕/世間ををそれていつわりをろかなり。御心へあるべし。黒白と申してくろくしろき物には人迷ふことなし。人畜と申して

 

 

 

断簡二二九〔C1・文永〕/□□□□□いはん人と□□□□□ごとく修行すとも□□□□□恥辱せん者と此等の諸□□□□□し其人命終入阿鼻獄と定めさせ給ひて候。此の事は唯釈迦仏の仰せなりとも、外道に有らずば疑ふべきにては候はねども、已今当の諸経の説に色

 

 

 

断簡二三〇〔C1・弘安三年五月二二日・東兵衛某〕/御志ざしかうじんかうじん(幸甚々々)。恐々謹言。/五月二十二日日蓮(花押)/東ひやうゑ(兵衛)どのの御返事

 

 

 

断簡二三二〔C1・建治弘安交〕/いも一石、はじかみひとたわらをくり給び候ひ了んぬ。いつもの事によにはちうある人にてこそ

 

 

 

断簡二三三〔C1・文永五年〕/等興盛の故に、朝家の重んじ給ふ大法、法華・真言等、存外に忽緒の義出来する間、天子本命の道場・鎮護国家の道場並びに諸寺諸山、自然に荒廃せしむるか。茲に因りて守護の諸大善神等、法味嘗めずして威光を失ふ。定めて他国より

 

 

 

断簡二三四〔C1・弘安〕/上□是日尼か膝□

 

 

 

断簡二三五〔C1・弘安〕/一仏なれば末代の

 

 

 

断簡二三六〔C1・文永三年〕/又あししときくなり。念仏者の臨終の悪しき故は、四十余年の権経の内になを華厳・方等・般若にも及ばず、わづかの浄土の三部によれる者どもが

 

 

 

断簡二三七〔C1・建治元年〕/へなり。例せば日本国には、神武天皇よりいまにいくさ多しというとも、此の蒙古国の合戦第一なるべし。日本国こわくささうるならば、減じて

 

 

 

断簡二三八〔C1・弘安二年七月一六日・左衛門某〕/恐々謹言。/七月十六日日蓮(花押)/さゑもん(左衛門)どのの御返事

 

 

 

断簡追加I〔C1・文永〕/□□不審をなすにあきらめたる人なし、善悪□□□□が無間地獄道疑ひなしとをもい候。法然法華経の名をあげてなげすてよとかき

 

 

 

断簡追II〔C1・文永三年〕/文に相違す。序品に云く「諸の菩薩の為に、大乗経の無量義、教菩薩法、仏所護念と名づくるを説きたまふ」等云云。此の文の

 

 

 

断簡追加III〔C1・文永〕/伝教大師は日本第一の得人なり。問うて云く、汝は何に分け見るや。答へて云く、得人に二あり。身には身の悦び、二に心の得なり。日本の人は心に名を得たり、日蓮は心に楽を得たり、一切の楽の中には心楽を第一とす。日本の愚痴なり、大苦の中の最大苦なり、日蓮は智者なり大楽の

 

 

 

断簡追加IV〔C1・文永五年〕/豈に此□□□□□而るに法華・真言の僧□或は此の義を識らざるか。或は識ると雖も之れを世に慢(へつらう)か。故に来□□□□祈祷の故に天神も祐けず□□□□災を滅せざるのみに非ず返りて災殃を招くか。飢□□□□□失者奏事を企つに似て為非□□□□汝等天奏を経ずんば終に此の国□□□□□及ぶ。之れを罰する由之れを奏す可し。はた又□□不忠の臣為る可し□□□□の日蓮末代法華の□□未□□□聖賢一分乎。世間□□□□□□日月の蛍火を見るが如し。汝等□□□□如□□重□□不□自慢□□□見成敗□□□□□の思□□□

 

 

 

断簡一三五・断簡追加V〔C1・建治二年〕/自身邪見と申す文なりとせめし

 

 

 

断簡追加〔C1・弘安〕/凡夫は疑ひやせんずらむ

 

 

 

断簡二三九〔C1・建治元年・門下一般〕/一代五時図/┌──竜樹菩薩造仏滅後九・八百年/大論に云く「十九出家三十成道」/権大乗┌─智儼法師/│二七日├─杜順和尚/華厳経───華厳宗─┼─法蔵法師/三七日└─澄観/阿含十二年達磨大師/方等─┬─双観経─┐┌─曇鸞法師/│├─観経──┼─浄土宗─┼─道綽/大集└─阿弥陀経┘└─善導/大日経─┐善無畏三蔵/金剛頂経─┼─真言宗金剛智三蔵/蘇悉地経─┘不空三蔵/┌三十年/│竜樹菩薩作/│権大乗┌─百論─┐/└般若─┼─中論同─┼─三論宗嘉祥大師/大品├─十二門論同─┤└─大論同─┘

 

 

 

断簡二四〇〔C1・建治二年・富木常忍〕/大聖人/父母所生の身なり┌─無生忍の名なり/生身得忍────┼─見思・塵沙・無明を断ず/苦道├─煩悩道/即法身└─業道/内色/苦道即法身/即身成仏─煩悩即般若─業即解脱/外色/草木成仏──国土世間/如是無辺禍出在於/文徳────────仁寿二年/国中五丈の彗星/大宗─貞観戌年六丈の彗星

 

 

 

断簡二四一〔C1・文永一二年〕/三宗一宗/┌─一根性の融不融/迹門─┤三蔵教〈遠種近種〉/└─二化道の始終・不始終/通教〈遠種近種〉/別教〈遠種近種〉/円教〈遠種近種〉/本門師弟の遠近・不遠近/三蔵教入不退。過去の法華の力なり。/通同/別同/円同/爾前の四教の機。乃至迹門の純円の機。/寿量品に云く──諸の衆生の、小法を楽える徳薄垢重の者を見ては。爾前の四教乃至因□円なり/┌─三垢我見・戒禁・疑/└────┬─八十八使なり/└─見思なり/涅槃経の三に云く、天台云く、垢重とは見思未だ除かざるなり

 

 

 

断簡二四二〔C1・文永七年〕/┌─唐の世/│安楽集なり/└─道綽禅師の云く/聖道門──未だ一人の得る者有らず/浄土門──唯浄土の一門のみ有りて通入の路なる可し。/唐の世/│往生礼讃等なり/善導───雑行──百の時に希に一二を得。/千の時に希に三五を得。/千が中に一も無し。/正行/└─十は即ち十生し、百は即ち百生す。/今に五十余年なり/日本国の後鳥羽院の御宇

 

 

 

断簡二四三〔C1・建治元年〕/三車・四車/ひつじのくるま/羊車〈やうしゃ〉─┐しやうもんにたとう/しかのくるま├─あごんきゃう/鹿車〈ろくしゃ〉─┘えんがくにたとう/うしのくるま/牛車〈ごしゃ〉─┐華厳〈くゑごん〉・方等〈ほうどう〉・般若〈はんにゃ〉/└──ぼさつにたとう/ををきにしろきうしのくるま/大白牛車〈たいびゃくごしゃ〉法華経/はじめには、みつのくるまをもって、もろもろのこを/初以〈しょい〉・三車〈さんしゃ〉・誘引〈ゆういん〉・諸子〈しょし〉・/然後〈ねんご〉・但与〈たんよ〉・大車〈だいしゃ〉

 

 

 

断簡二四四〔C1・文永一一年〕/我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於て、此の法華経、最も為れ難信難解なり。/記の六に「縦ひ経有りて諸経の王と云ふとも、已今当説最為第一と云はず。兼但対帯其の義知んぬべし」。弘の六に「已今当の説に最も為れ第一なり。此の経を聞かざれば善行と名づけず、方便門を開き真実の相を示す」

 

 

 

断簡二四五〔C1・建治元年〕/(法華経法師品云)/「薬王、多く人有りて、在家、出家の、菩薩の道を行ぜんに、若し是の法華経を見聞し、読誦し、書持し、供養することを得ること能はずんば、当に知るべし。是の人は、未だ善く菩薩の道を行ぜざるなり。若し是の経典を聞くこと得ること有らん者は、乃ち能善く菩薩の道を行ずるなり」/外┌─已説──花・阿・方・般若/三説─┼─今説──無量義経─┬─未善/法華│└─大愚痴/└─当説──涅槃経──┬─未善/└─大愚痴/弘決の六に云く「已今当の説に最も為れ第一なり。此の経を聞かずんば、善行と名づけず。方便の門を開きて真実の相を示す」/┌─開三─┐/└─顕一─┴─三説超過の法なり

 

 

 

断簡二四六〔C1・文永六年〕/第八識┌─法相宗/┌─観薀阿頼耶─┼─深密経等/四句総摂一切経─┤└─同類諸経/│華厳経┌─花厳宗/└─極無自性心─┤/般若経└─三論宗

 

 

 

断簡二四七〔C1・文永一一年〕/法華経第四に云く「薬王今汝に告ぐ我が所説の諸経而も此の経の中に於て法華最も第一なり爾の時に仏、復(また)薬王菩薩摩訶薩に告げたまはく、我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於て、此の法華経、最も為れ難信難解なり」/嘉祥の義なり/┌─已説──花・阿・方・般若等。無量義経/├─今説──法華経/└─当説──涅槃経/┌─已説──花・阿・方・般等/├─今説──無量義経/└─当説──涅槃経/三説の外法華経天台の義なり/妙教貶挫せんと欲す。毀り其の中に在り、何んが弘讃と成さん。

 

 

 

断簡二四八〔C1・文永五年〕/┌─華厳経別教──┐/│円教─┐│/├─阿含小乗┐││/│┌─蔵─┤││/│├─通─┼┼┤未顕真実/├─方等─┼─別─┘││/天台宗意─┤└─円──┤│/│┌─通─┐││/├─般若─┼─別─┴┼┘/│└─円──┤玄の二に云く/├─法華───円──┤此の妙も円彼の妙も円/│┌─蔵│妙の義殊なること無し。/└─涅槃─┼─通│/├─別│/└─円──┘/玄義の十に云く「初後の仏恵、円頓の義斉し」。

 

 

 

断簡二四九〔C1・文永一二年・門下一般〕/┌─殺生─地合戦───┐/外┌─身三─┼─偸盗─餓饉渇│/色法│└─邪淫─畜・疫病│/┌─七枝─┤┌─妄語│業・因/││├─綺語│/│└─口四─┼─悪口│十善/十悪─┤└─両舌────────┘/│┌─飢渇・水災─────┐/│内┌─貪─┴─愛欲・慳貪順違│/│心法│┌─合戦・火災│└─三毒───意三─┼─瞋─┼─恚二万一千│煩悩・縁/│└─嫉妬│/└─痴─┬─疫病・風災│/└─愚二万一千─────┘/法句経に云く、口を守り意を摂し身に犯すこと莫れ。/是の如き行者世を度することを得。十一分二万一千

 

 

 

断簡二五一〔C1・文永五年〕/正法中能勤修行方住説とは、論に曰く「譬へば若し人多宝仏の名を誦持すれば、決定して無上菩提に於て更に退堕せず、と説くこと有るが如し」。釈して曰く是れ嬾堕善

 

 

 

断簡二五二〔C1・建治二年〕/たりぬ。阿難・迦葉

 

 

 

断簡二五三〔C1・弘安二年〕/なんと申して候人々も候。よにやわらかげになり

 

 

 

断簡二五四〔C1・文永六年〕/初三報従重

 

 

 

断簡二五五〔C1・文永初期か・富木常忍か〕/をんいのりのためなり。恐々謹言乃時

 

 

 

断簡二五六〔C1・建治二年〕/問ふ、恵法師三時教を立つるや。答ふ、文に云く「震旦の恵は具に其の狭を斥ふ」文。之れに付きて何を以てか知るを得ん。三時の狭ことを斥ふと云ふ事何れの処にか其の義見たるや。答ふ、次下の文に云く「又恵法師の云く、玄奘三蔵の三時の法輪は祇た唯是れ漸教にして唯三性の一法を論ず唯一機の為なるべし。以て定量と為して一切の仏法を部判すべからず」と文

 

 

 

断簡二五七〔C1・正元〕/行住坐臥を時処諸縁を論ぜず。之れを修するに難からず。乃至臨終には往生を願求するに其の便宜を得ること念仏に如かず。始見大収なり、今見拾□。□□竹初節を破るが如し。今見余節の如く□□□例せば天台宗法華□如し

 

 

 

断簡二五八〔C1・文永五年〕/□胎蔵界七百余尊の其の中央に大日如来まします。身相は黄金色にし□□□

 

 

 

断簡二五九〔C1・建治〕/法界定印なり。二には金剛界五百余□身相は白色にして智拳印な

 

 

 

断簡二六〇〔C1・建治〕/〈九〉天台・真言二宗わたりぬ。真言宗をば天台宗の方便と伝教大師は定め給ひぬ。御弟子の慈覚

 

 

 

断簡二六一〔C1・弘安〕/仏菩薩等は皆□を御らむ候なり。三世十方の諸仏は或は一丈二丈、或は十丁百丁、或は百里千里、或は

 

 

 

断簡二六二〔C1・建治〕/我も智者智者とはをもへども、梵釈と天照太神八幡大菩薩には□□□られて、日本国人王八十一代

 

 

 

断簡二六三〔C1・弘安元年〕/護の御ちかいやぶれをはり候ひぬ。此れをもってをもうに、日本国もいかんが有らんずらむ。をぼつかなしと申すふしんあり。此の事は日本国に知る人一人もなきか。日蓮ほぼ此れをかんがえて候に、其のゆへあるかとをぼへ候。下は上をしらぬ事なれば、天照太神

 

 

 

断簡二六四〔C1・文永五年〕/人語。八万の諸天、天の語を聞き地獄夜叉各其の語を聞く。唱告梵天に至れば是れを梵音と為す。亦是れ仏

 

 

 

断簡二六五〔C1・建治元年〕/御入滅いかでか此の恩をばほうじまいらせ候へき。願は仏しばらく

 

 

 

稲河入道殿御返事断片〔C1・弘安四年三月二一日・稲河入道とその女房〕/女房よくよく御らむあるべし。恐々謹言。/三月二十一日日蓮(花押)/稲河入道殿御返事女房御返事

 

 

 

断簡二六七〔C1・弘安〕/付けて仏前にまいり、いなむ事もなくして大般涅槃経聴聞して、立ち所に阿羅漢となりぬ。恵眼を開きて大地の底をみしかば、須跋陀羅が堕つべき大地獄の

 

 

 

断簡二六八〔C1・建治二年・面々〕/面々御返事日蓮

 

 

 

断簡二六九〔C1・文永三年・南條七郎〕/南条七郎殿日蓮

 

 

 

断簡二七〇〔C1・建治〕/〈三〉多く候。其の上宝塔品と申す品には東方宝浄世界と申す国より多宝仏と申す仏来させ給ひしかば、又十方の仏あつまらせ給ふ。三千大千世界に居あまらせ給ひて、三千大千世界より外、四百万億那由他の世界に衆星の月日をめぐれるがごとく、釈迦・多宝の二仏をくるくるとめぐりて坐せさせ給ひぬ。其の外の菩薩人天のあつまれる事、言をもってのべがたし。心をもって計るべし。ををかた大海のごとく候へば、法華経を大海に譬へさせ給ひて候。此の大衆の御前にして仏せんぎしての給はく

 

 

 

断簡二七一〔C1・建治〕/るしきがごとし、又羅什三蔵のあやまりを加へけるかと疑ひ候。

 

 

 

断簡二七二〔C1・文永六年〕/覚大師の門徒云云。□京□鳥羽院の御願文に云く「昔は九五の尊位を践み、思ひを敬神□□に運び、今は三千の禅徒に烈なり誠を□帰仏の中に抽んず。

 

 

 

断簡二七三〔C1・文永初期〕/経を修行していのちをはらんとき、かならずあみだ仏の国にむまるべしととかれたり。この安楽世界は観経とうにすすめたる極楽とをもうこと、ゆめゆめあるべからず。すなはちこの経を信ずる女人の身、釈迦・阿弥陀・一切の仏ぼさつにてあるべし。この女人のいたらんところ、すなはち安楽世界なるべし。観経とうの安楽世界、じち(実)にはこの経のさとりをへぬ人のためにはえど(穢土)にてあるなり。この経を眼に

 

 

 

断簡二七四〔C1・不明〕/□ませ給ふべし。法華経をつたへさと昔喜見と申せし人は七宝の

 

 

 

断簡二七五〔C1・建治二年〕/云く。子父の法を弘む等云云。輔正記に云く

 

 

 

断簡二七六〔C1・建治元年〕/〈三〉大師、日本国には伝教大師なり。印度の竜樹菩薩・天親菩薩、漢土の光宅法師・善無畏

 

 

 

阿耆多王御書〔C1・弘安二年五月二三日・波木井実長か〕/大麦一斗、胡瓜二十五給はり了んぬ。仏にまいらせて候。月氏国に阿耆多王と申せし悪王候ひき。仏を請し奉りて供養しまいらせ候はざりし□□□大王と生まれたり。此れは大麦なり。なんぞ仏のたねとならざらむと、かしこまり申すよし、申し上げさせ給ふべく候。恐々謹言/五月二十三日日蓮(花押)

 

 

 

断簡二七八〔C1・弘安二年一〇月二六日〕/又若し明年までいきてたがいにをはするならば、なつのころは人をまいらせ候はん。御わたりありて御らむあるべし。恐々謹言/十月二十六日日蓮(花押)/いたわりと□ろくせんてくはしく□□□

 

 

 

断簡二八〇〔C1・文永一二年か〕/今云く、孔子の言を以て□儒道二宗を責め口を閉じて開かず。内典諸宗又復是の如し。其の宗元祖帰伏の言を以て彼の宗末学の謗言を閉止するなり。

 

 

 

断簡二八一〔C1・弘安元年〕/ついにほろびぬ。仏教又かくのごとくなり。華厳経大日経等を法華経にまさると云ひし大師等は、皆無間地獄にをちぬ。かれをかくせし弟子等、やしなひし国主万民又かくのごとしべからす。弘法大師・慈覚大師・智証大師と申す三

 

 

 

断簡二八二〔C1・建治元年〕/金剛頂経□、二経に替はると雖も一経は只法華経なり。是れ則ち王臣礼節乱れ無し。覚一人、異朝・本朝の吉例に違背し、将又教大師の三部を軽蔑するなり。又法公、東寺に日・頂の二経を安置し、国家鎮護す。其の後、天台・真言の学者の云く、顕教は三部、蜜教は二三部と云云。法華三部を軽蔑すること土の如く沙の如し。秘教二三部を崇重すること金の如く珠の如し。之れに依りて仏法滅尽し、王法も減少するか。已上陳隋二代の両帝天台に帰伏するなり。夫れ両帝は本南北の諸師に帰依す。而

 

 

 

食物三徳御書断片〔C1・建治二年〕/たからとす。山の中には塩をたからとす。魚は水ををやとし、鳥は木を家とす。人は食をたからとす。かる

 

 

 

断簡二八五〔C1・建治〕/頂経・蘇悉地経の三部経に劣ると申せし事のやうやく/釈迦・多宝の二仏の経なるゆへ

 

 

 

断簡二八六〔C1・正嘉年間〕/露。皆赦宥の仁風に従ふ。本山に帰依せば重ねて疑ひ至らんなり云云。諸賢の記録、露点未だ消せず。先王の格言、鳳文暗に非ず。此の外の証拠に満てり。慎みて凶跡を避けて須く嘉猷に従ふべし。衆徒等只山門の陵遅を思ふに非ず。常に又国土の衰乱を恐る。今誤りて行欲す。

 

 

 

断簡二八七〔C1・正嘉年間〕/濫に釈門を刑す。争でか更に直陳を皇室に献せざらん。若し夫れ万人の唯々は一夫の諤々に如かず。将に刑を僧侶に加へんとして一旦の威慮を示すと。誤りを神祗に謝して万代の福褒を得んと。何れか是、何れか非なる。謹んで聖明を仰ひで望みを天恩に請ひ、且つは山王の添はんが為に

 

 

 

断簡二八八〔C1・正嘉年間〕/雲。国土の安寧此の事に在るべし。〈是れ五〉承久以来僅かに十余年。学侶を召されるの事。触れ訴ふ。衆徒の云く「地頭左衛門尉高信、神人を陵辱し宮仕を刃傷す」云云。衆徒等早く先□□□□□□□任せ天奏に至る。更雖

 

 

 

断簡二八九〔C1・弘安二年・四条金吾か〕/すでに御薬のしるし

 

 

 

断簡二九〇〔C1・文永六年〕/又私に云く、発趣大乗の難。大は小に由り起こるを以て

 

 

 

断簡二九一〔C1・建治二年〕/法華経の御かたきとなり、阿弥陀仏の御かたき、釈迦・十方の仏の御かたきなりとしろしめせ。法華経誹謗の国には、不軽菩薩のごとく、覚徳比丘のごとく

 

 

 

断簡二九二〔C1・正元二年〕/次に不邪淫を持つに依りて耳を得たり。此の戒を破ぶる者は跋難陀竜の如し。耳無き者と生まる。又大海江河一切の水の無き処に生まれて、常に苦に値ふべし。又婦も無し。又設ひ婦有れども意に相叶はず。母犯すは

 

 

 

断簡二九三〔C1・建治〕/内裏へはせまいりて大王の見参に入らせ給ふと申すは、決定無有疑の経文なり。其中衆生悉是吾子なり。釈迦大王の愛子ぞかし

 

 

 

断簡二九四〔C1・文永六年〕/彼等の由。厳制頻に降る。仍って謹んで厳旨を仰ぎて、人に与同すること無し。然るに彼の輩中堂に虜(いけどり)と為り、頻に放たれんことを欲す

 

 

 

断簡二九五〔C1・文永五年〕/仏菩薩乗の離合、初後の同異を説かず。所以に須く不会を会すべし。

 

 

 

断簡二九六〔C1・弘安元年〕/くすすめ給はざりけ

 

 

 

断簡二九七〔C1・建治元年〕/□震。文永元年七月四日大彗星。此の日本国の自界叛逆難の後に他国侵逼難有るべき瑞相なり。□に□仏滅後一千四百三十余年の間一閻浮提の内

 

 

 

断簡二九八〔C1・文永七年〕/二乗作仏・久遠実成、重ねて之れを説くなり。涅槃経の如きは、法華の涅槃、二乗作仏・久遠実成、重ねて之れを説き□

 

 

 

断簡二九九〔C1・文永五年〕/のか。其の例如何。若し観経に制止

 

 

 

断簡三〇〇〔C1・文永五年〕/道は常・楽・我・浄。仏出世して云く「苦・空・無常・無我」等云云。仏より已後の人、苦・空・無常・無我ととなへば皆仏弟子なり。華厳宗

 

 

 

断簡三〇一〔C1・建治二年〕/妻女之れを売りて銭五百文。乃至老母も又五百文を相加ふ等云云。

 

 

 

断簡三〇二〔C1・弘安二年〕/或僧の追出の事、人はいかにも申せ、この一門は沙

 

 

 

断簡三〇三〔C1・建治二年〕/退・不退に亘る。□退失無き者は習種姓の終りか。本種姓は退すべきなり。故に不退位に解行住に属せん時は、始めの退位を以て□□住に属すべきなり。此の時には種姓住を十住に対すべからず。種姓を十住に対せん時は□□習性を皆種姓住に属すべきなり。之れに依りて玄義の第四に三十心解行と云ひながら然も十住をば習種姓と名づけたり。又了義灯にも勝解行已去を皆□種姓菩薩と名づく。此等の意に□□□習種姓をば或は種姓住にも属し、或は解行住にも属す意有るべきなり。止観の記にも「退失有ること無きは習種性なり」文。又大乗義章には本性・習性共に種姓住と為すと見えたり。又唯識述記には十三住の中の種姓住を云ふに本性住種姓と釈せり。故に習種姓は両向に取らるべきなり。習種性を種姓住に属せん時は種性住、行・向は解行住なるべし。今の釈の如し。又習種姓か解行に属する時は、三十心は解行十

 

 

 

断簡三〇四〔C1・建治二年〕/問ふ、山家大師、瑜伽論に明かす所の種姓住・解行住を引きて、別教の次位に対判して、爾も十住を以て対するは何ぞや。答ふ、釈不定なるべし。且く解行住に対する釈は明らかならず。地持・瑜伽は是れ同本異訳なり。地持論の種姓住を以て既に十住に対す。何ぞ瑜伽の解行住を以て十住に対せん。□

 

 

 

断簡三〇五〔C1・建治元年〕/故に。六には関節・広略・起尽・宗要の文を点示せんが為の故に。七には師の解を建立し淪墜せざらしめて(来世を益せんが)為の(故に。)

 

 

 

断簡三〇六〔C1・建治元年〕/国にいけどりにせらる。聖と申すは理

 

 

 

断簡三〇七〔C1・弘安二年〕/須弥山の諸山にすぐれ、月輪の衆星にこへ、日輪の灯炬等に

 

 

 

断簡三〇八〔C1・建治元年〕/なり。此の事を知るとを

 

 

 

断簡三〇九〔C1・文永九年〕/正覚。我昔坐道場等云云○正直捨方便

 

 

 

断簡三一〇〔C1・文永九年〕/道綽の弟子なり善導五五百歳の事か安楽集に云く「大集月蔵経に云く、我が末法時の中、億々の衆生起行修道すとも、未だ有らず

 

 

 

断簡三一一〔C1・建治二年〕/あるがごとし。法華経真言等を行じて即身の

 

 

 

断簡三一三〔C1・建治元年〕/及ばざりければ仏の云く、無勝童子の肩に乗りて供養すべしと云云。得勝、仏の御をしえをうけ給ひて無勝が肩に

 

 

 

断簡三一四〔C1・建治四年〕/肉眼有りと雖も名づけて仏眼と為す等□□。天台之れを承けて云く「耳・鼻の五根も例して亦是の如し」等云云。権□□□

 

 

 

断簡九九等五編断簡〔C1・文永六年〕/□人とをぼしめししかども、山門のをそれによりて、こ

 

 

 

断簡九九等五編断簡〔C1・文永六年〕/りき。建久年中、佐々木左衛門尉定

 

 

 

断簡三一七〔C1・文永七年〕/鑑公の止観・玄・文を討尋して、明らかに三観の日を覩る

 

 

 

断簡三一八〔C1・建治二年〕/宗と為す。故に可ならず。二に提婆達多品に智積菩薩、多宝如来に白して言さく、本土に還りたまふべしと。事既に未

 

 

 

断簡三一九〔C1・建治二年〕/かりしか、とし又百二十なり。仏の御誕生の時は四十・八十にて

 

 

 

断簡三二〇〔C1・建治二年〕/日蓮注して云く、一法界より非明分位に至るまでは釈摩訶衍論第五の文なり。但し論に云く、若し爾れば一法界心百非に非ざれば千是に背き、中と非中に非ざれば天と背く。天と背きぬれば演水の談足断にして止まり、審慮の量手亡にして住まる。是の如き一心を明・無明とや為ん。是の如き一心は無/尾末、標嵐を出生す。是の竜に由るが故に大海の水風、常恒に相続して断絶有ること無し。一心の竜王亦復た是くの如し。能く生一切差別平等自唱に非ずして自に契ふ。我の如く名を立つれども実我に非ず。自の如く唱を得れども実自に非ず。玄々にして又玄、遠々にして又遠。是くの如き勝処を明とや為ん無明か。是の如き

 

 

 

断簡三二一〔C1・文永五年〕/天台より以て東。日本より以て西。一切仏子、悉く皆判して邪見の徒に入る。若し途を改めざるは常不軽著法の如し

 

 

 

断簡三二二〔C1・文永七年〕/智の道を退きて久遠の営ごとを立てんには。大を以て小に与するは是れ天を楽しむる者なり。小を以て大に与するは是れも天を畏るる者なり。仁者は天を楽しむ故に天下を保つ。知者は天を畏るる故に其の国を保つ。縦ひ和親を許さざれども、報旨を遣はせらるるの条、何事か有らむや。礼の厚薄を論ぜず。志の奢侈を謂はず。父誥の令を用ゐて威譲の辞有るは、先王の嘉謨、莫巨の条善言なり。国を治むるに聖徳を以てすれば遠人盍ぞ賓従せざる。宗廟に祈請するに至誠を以てし、要害を警固するに義兵を以てし、海外区々の賊を退け、天下元々の民に令せん者か。

 

 

 

断簡三二四〔C1・文永七年〕/広開三顕一五仏の章。譬喩品の三車一車、乃至寿量品の久遠実成。是の如きを聞く者、説いて如是我聞と云ふ。故に天台大師此の文を承けて云く「如是とは所聞の法体を挙ぐなり」等云云。我等が経釈道理、皆下を指して如是と云ふか如何。答へて云く、阿難尊者八箇年の間二十八品を聞き滅如

 

 

 

断簡三二五〔C1・弘長三年〕/末代不相応ならば誰か之れを用ゐん。又何れの経文にか法華経の後々五百歳等の文を載せ、之れを会して末代不相応の経と為るや。若し経文無きに自らの会通に拘らば、豈に「若人不信毀謗此経其人命終入阿鼻獄」を招かざらんや。若し人有りて之れを軽毀して言わん。汝は狂人ならくのみ。空しく是の行を作して終に無

 

 

 

断簡三二六〔C1・建治元年〕/其の外の摩竭大魚百千里の

 

 

 

断簡三二八〔C1・建治〕/あえて法華真言等の

 

 

 

断簡三二九〔C1・正嘉二年〕/妙法蓮華経〈又名目に玄義の序の釈を載せたり。見るべし〉私に云く、妙は四性計を離るなり。故に「妙名不可思議」と云ふ。人に常に云ふべからず。又は四不可説なり。法蓮華経をば釈して後に書くべし。法とは聚集の義。倶舎論□法所・法界。四念処の法念処。此れは□当々をば法と云はず。聚集を法と云ふ。又当体を法と云ふ事は聚集の法の流類なる故なり。されば法とは十界十如の法なり。十界に二。一には正報の十界。二には依報の十界。正報の十界に二。一には衆生世間。二には五陰世間。依報の十界を具すれば三種世間なり。一界に三種世間。十界には三十種世間。

 

 

 

断簡三三〇〔C1・建治二年〕/五逆罪は無間獄に堕ちて一中劫を経、誹謗は阿鼻獄に堕ちて無量劫を経。

 

 

 

断簡三三一〔C1・建治弘安交〕/須離豈二百耶。但此菩薩已発大心。雖未断惑且名仏乗。人見仏乗便為一概。若爾牟尼説法応已摂九会五百阿羅漢。応是四菩薩世品。応是諸陀羅尼。若法若衆既其不。

 

 

 

断簡九九等五編断簡〔C1・文永六年〕/然れば則ち三井の戒壇所望、永く断じ畢んぬ。大事猶□□□□小事をや等云云。此れは長治二年に興均法師が事によりて捧ぐるところの退状なり。然るを寺門の僧綱等、竜顔にちかづきたてまつりて、戒場を当今の御時建てられなば、二世の大願成就□□よし、やうやうに申す故に正元二年〈庚申〉正月四日始めて園城寺戒壇を立つべきの勅宣くだりた□□

 

 

 

断簡三三三〔C1・建治元年〕/其の土に仏出現し給ふ。釈迦牟尼仏とがうす。頭陀第一の弟子あり。迦葉尊者と

 

 

 

断簡三三四〔C1・文永八年〕/をもひ候ひしかども□□□人用ゐ給はざる上、あ□□□□

 

 

 

断簡三三六〔C1・建治二年〕/して心を知ろしめす。此の衆生の五根を十界の塵を集めて造る物なり。

 

 

 

断簡三三七〔C1・弘長三年〕/経に具に明かすが如し。無始際より来(このかた)計りに随ふが為に、設ひ能く仏法に於て信を生ずれども但情に随ひて信を生ず。自の智境に迷ふが故に自ら実智に契ひて真信の修を起こすこと無し。故に若し廻心せざれば畢竟して成仏せず。故に設ひ復(また)衆生を教化すとも還りて能く三乗及び人天の種を得ることを成す。但一方の浄刹に住して広大法界の量虚空に等しき無し。無辺智の大十方の塵刹の色身を対現するを見るに、一切衆生根に随ひて引接して三乗分無く、但三千大千の境を見ると云ふ。又云く、華厳経は即ち是れ始めて正覚を成ぜる時頓に上根の者の為に説く。法華経即ち是れ

 

 

 

断簡三三八〔C1・文永八年〕/肝心□髻中の明珠□□□□□王の頂の珠を妙法蓮華経と為す。

 

 

 

断簡三三九〔C1・弘安元年〕/申すは「須臾聞之即得究竟」の南無妙法蓮華経これな

 

 

 

断簡三四〇〔C1・弘安〕/ひはみじかし。よはながし。ひるはなくさ□□かたし

 

 

 

断簡三四一〔C1・建治〕/或は仏所讃等云云。華厳経と申すは

 

 

 

断簡三四二〔C1・建治二年〕/法華経を信せ□□□□□子は我が母の

 

 

 

断簡三四三〔C1・文永五年・対告者不明〕/又泉殿紙三帖。泉殿にはこのふみを

 

 

 

断簡三四四〔C1・建治二年〕/定め給ふにかたりは松に

 

 

 

断簡三四五〔C1・建治三年〕/りも真言すぐれたりとならわせ給ひ、又観智儀軌・威儀形色経を持たれけり。先後相違の法門なり。善無畏三蔵も始めには法華経にてをはしけるか、後には真言にうつりて

 

 

 

断簡三四六〔C1・建治元年〕/等云云。此等の経文は又未来の事なれば、我等凡夫信ずべしともをぼへず。さ

 

 

 

一念三千名目出処勘文〔C0・文永六年・対告者不明〕/一念三千の名目出処の勘文。問うて曰く、何れの処より一念三千の名目を出だせるや。答へて曰く、止観の第五に始めて之れを出だせり。問うて曰く、其の文如何。答へて曰く、止観の第一、十章の外の章安の序に云く「此の止観は天台智者己心中所行の法門を説く」。止観の第五に云く「第七に正修止観をいはば、前の六重は修多羅に依りて以て妙解を開き、今は妙解に依りて以て正行を立つ。乃至夫れ一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具して百法界あり。一界に三十種の世間を具すれば百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千一念の心に在り。若し心無ければ而已なん。介爾も心有らば即ち三千を具す」。弘決の第五に此の文を承けて云く「夫れ一心より下は理境を結成す。乃至、当に知るべし、身土は一念の三千なり。故に成道の時、此の本理に称ひて一身一念法界に遍し。○但無心に異なるは三千具足するが故なり。大師、覚意三味・観心食法及び誦経法・小止観等の諸の心観の文に於ては、但自他等の観を以て三仮を推し、並びに未だ一念三千具足を云はず。乃至観心論の中にも、亦只(ただ)三六問を以て四心を責めて、亦一念三千に渉らず。唯四念処の中に、略して観心十界を云ふのみ。故に止観の正しく観法を明かすに至りて並びに三千を以て指南と為す。乃ち是れ終窮究竟の極説なり。故に序の中に云く、説己心中所行法門と。良に以へ有るなり。請ふ尋ね読まん者、心に異縁無かれ」文。今私に之れを勘ふるに、妙楽大師の料簡の如くんば、天台智者大師の弘法三十年。摩訶止観より外の玄義・文句等の章疏には一念三千の名目之れ無し。御年五十七に至りて、始めて渓州玉泉寺に於て、章安大師に対して之れを説くと料簡するなり。疑って云く、玄義の第一に云く「〈天台〉妙とは不可思議に名づく。法とは十界十如・権実の法を謂ふ」。釈籤の第一に〈妙楽〉此の文を承けて云く「略して界如を挙ぐるに具に三千を摂す」。文句の第一に云く「〈天台〉十二入を観ずるに一入に十法界を具す。一界に又十界あり。十界に各十如是あり。即ち是れ一千なり。一入既に一千なれば十二入は即ち是れ万二千の法門なり」已上。玄義の二・三等に云く「千如是」文。既に一千・二千と云へり。豈に一念三千の名目に非ずや。答へて曰く、本より答へ申すが如く、玄・文等に於て一千・二千等の名目無しと云ふには非ず。三千の名目を具すること無しと云ふなり。亦妙楽の釈籤・疏記等は論ずる所に非ず。問うて曰く、弘決の第五の料簡の文を以て、玄義・文句等に一念三千の名目無しとは、少しく其の謂はれ無きか。弘決の第五には、玄義・文句の題目を挙げて之れを嫌はざれば知んぬ。文句・玄義に有ることを成ぜん如何。答へて曰く、本書の文には、一念三千の文を料簡し了り、次に止観に対して、天台所説の一期の章疏を挙げて一念三千の名目の有無を論ずる時、覚意三昧・観心食法及び誦経法・小止観等の諸の心観の文を挙げて、並びに未だ一念三千具足を云わずと云へり。天台所説の章疏の中、一念三千の名目無き書は、「並未云一念三千具足」の文に入れざるや。而も止観等の諸の心観の文等と云へり。諸の心観の文の内に玄・文の観心を入れざらんや。其の上止観に対して、故に止観に至りて正しく観法を明かすと云へり。汝が云ふが如くんば、故に玄・文・止観に至りて等と云ふべし。其の上亦、終窮究竟の極説と云へり。玄義・文句は御年五十七、大隋の開皇十四年四月二十日よりの所説に非ず。豈に「乃是終窮究竟極説」の内に入るべしや。其の上、止観第一には「説己心中所行法門」を引き、章安の序には「良有以也」の由の言を置けり。章安大師の所説の玄義・文句の序には、説己心中の言無しと知る等と料簡する文なり。其の上最後の料簡に云く「請ふ、尋ね読まん者は心に異縁無かれ」。此の料簡の意は、止観第五の夫一心等の文より外に天台大師道場所悟の肝心無きを、「請尋読者心無異縁」と云ふなり。若し此の文より外に玄義・文句等に一念三千の名目有りとせば、心に異縁有ることを成ぜん。其の上疏記・釈籤等に云く「若し三千に非ざれば摂すること即ち遍からず」。「縦ひ施設すること有るも事に託し法に附す」等とは、豈に玄・文等に於て一念三千の名目無しと云ふに非ずや。一千・二千等を即ち一念三千の名目なりと云はば、「摂即不遍」の失有るに非ずや。倩(つらつら)事の意を案ずるに、如来は説教五十年の間、四十余年には妙法蓮華経の名目を隠したまふ。天台大師は三十年の所説、五十七に至るまでは一念三千の名目を秘せるなり。其の上、唐土の人師等の所釈の中にも、止観第五より外には一念三千の名目無き由の勘文之れ有り。私の義に非ず。問うて曰く、止観の先六重、先四巻の間に、天台大師己心中一念三千の名目有るや。答へて曰く此れ無し。問うて曰く、其の証文如何。答へて曰く、止観の第五に云く「第七に正修止観をいはば、前の六重は修多羅に依りて以て妙解を開き、今は妙解に依りて以て正行を立つ」。妙楽大師、此の文を承けて云く「問ふ、前の五略の中に行有り解有り。因有り果有り。何が故ぞ但六重は是れ解なりと云ふや。答ふ。大意と言ふは行解・自他・因果に冠らしむ。意既に顕はし難ければ還りて行解・因果等を作して釈す。已に行果等有りと謂ふには非ず。故に大意は是れ総。余の八は是れ別なり。別は是れ別して行解・因果を釈す。釈禅波羅蜜の如き十章の初めも亦是れ大意なり。総別等の意、意亦是の如し。若し復人有りて、前の五略に依りて行を修し果を証す。能く他を利する等は、自ら是れ一途なり。即ち第三巻の初めに記するが如し。若し文の意を論ぜば但解に属す。解に属する中に於て、恐らくは解周からず。故に須く委しく名体及び摂法等を明かして、方に下の十境十乗を成ずるに勘ふべし。大意の中の如き、発心の十種同じからず、及び四の三昧に行の差別を明かすと云ふと雖も、但頭数を列ねて相を弁ずること未だ足らず。是の故に都て未だ十境十観に渉らず。方便を五に望むに、稍や行の始めに似れども、若し正観に望めば全く未だ行を論ぜず。亦二十五法に歴て事に約して解を生ずるに、方て乃し正修の方便と為るに堪えたり。是の故に前の六は皆解に属す」文。亦云く「故に止観の正しく観法を明かすに至りて、並びに三千を以て指南と為す。乃ち是れ終窮究竟の極説なり。故に序の中に云く、説己心中所行法門と。良に以(ゆえ)有るなり。請ふ、尋ね読まん者心に異縁無かれ」。亦云く「若し大師の正説の文の中に就きて、義をもって三段を開せば、則ち前六重を以て序分と為し、正観果報を以て正宗と為し、起教化他を流通分と為す」。私の勘文、天台宗の観心に於て三有り。一には託事観。二には附法観。三には約行観なり。玄義・文句と止観の先四巻は託事観・附法観なり。約行観には非ず。而るに三種の観を弁へざる学者は、託事・附法観を見て約行観と思ひ誤りて、玄・文並びに止観の先四巻に略ぼ約行観有りと思へり。止観の先四巻・六重の内に、天台説己心中所行法門と云ふとも、先六重を以て序分と為すの釈を見ざることの至す所なり。問うて曰く、玄・文並びに止観の先六重が託事・附法の二観にして約行観に非ざるには、其の証拠有りや。答へて曰く、釈籤の六に云く「縦ひ施設すること有るも、事に託し法に附す」文。此の文の意は、玄義・文句の観は附法・託事なり。止観の第五巻を約行観と云ふなり。亦弘決の四に云く「亦二十五法に歴て事に約して解を生ずるに、方て乃し正修の方便と為るに堪えたり」。釈籤の第一に云く「観心とは一句を聞くに随ひて事を摂して理を成す。観境を待ちて方に修観と名づくるにあらず」。此の文の意は、止観の第五巻の十境十乗の観行の如く観境を待つこと莫きを、託事・附法と云ふなりと云へる釈なり。止観第二の四種三昧の観等は託事観なり。故に止観の第二に云く「一切の事に歴て観を成せざること無し。○香塗とは即ち無上の尸羅なり。五色蓋は五陰を観じて子縛を免る。○新浄衣とは即ち寂滅忍なり。瞋惑重積するを称して故と為す。瞋を翻して忍を起こすを新と為す」等云云。文句の第一に云く「観心の釈をいはば王は即心王。舎は即五陰。心王即ち此の舎を造す」文。止観の先四巻の観と文句等の観と之れ同じ。義例に云く「夫れ三観とは義唯三種あり。一は行に従ふ。又約行と云ふ。唯万境に於て一念心を観ず。万境殊なりと雖も妙観の理等し。陰等を観ずるが如き即ち其の意なり。二には法相に約す。又附法と云ふ。四諦五行の文に約し一念心に入れて以て円観と為すが如し。三には事相に詫す。王舎・耆闍の名の、事に従ひて立て、事を借りて観を為して、以て執情を導くが如し。即ち方等・普賢の如し。其の例識るべし」云云。

 

 

 

断簡三四八〔C1・文永五年〕/南城/檀子東依文/威王四臣子西門判義/黔夫依義/種首判文/横の一念三千〈迹門〉/縦の一念三千〈本門〉/籖の十「迹門は大通を元始と為し。本門は久遠を元始と為し。今日は初成を元始と為す」元始・要終。

 

 

 

断簡三四九〔C1・文永二年〕/本教/円教一別教。華厳経なり。頓機の為に頓法を説く。但大菩薩の教なり。経に云く「自在力を顕現す、為に円満経を説く」

 

 

 

随眠品事〔C1・建治元年〕/傍/三界九地一欲界五趣地〈自地至他化自在天〉散地地・餓・畜・人・天二離生喜楽地〈初禅〉三定生喜楽地〈二禅〉四離喜妙楽地〈三禅〉五捨念清浄地〈第四禅〉六空七識八無所九非想非々想地/┌───随逐有情/六随眠──増昏体故/愚痴/一貪・二瞋・三慢・四無明・五見・六疑/┌煩悩┌二十五有一二三四五六/頌に云く、随眠は諸有の本なり。此の差別に六有り。謂く、貪と瞋と亦慢と無明と見と及び疑となり。/先/論じて云く、前世間の差別は皆業に由りて生ずと言ふは、業は随眠に由りて方に生長することを得。随眠を離れたる業は有を感ずる能無し。/┌─上二界貪なり/七随眠一欲貪二有貪/欲界貪外門転頌に云く、六貪の異に由りて七なり。有貪は上二界なり。内門に於て転ずるが故に。解脱の想を遮んが為なり。/色無色貪内門転/十随眠/六、見異なるに由りて十なり。異とは謂く、有身見と辺執見と邪見と見取と戒禁取となり。/五見/梵に薩伽耶見と云ふ。又此には有身見と云ふ。/一身見┌─母指/我見─┴─麻指等/我々所見/二辺見二断見無見/常見有見/三邪見撥無見/撥無因果/四見取見亦劣謂勝見/五戒禁取見二一非因計因なり二非道計道なり/九十八随眠/八十八使の見惑に修の十を合して九十八/色無色三已上六。欲四已上十/苦諦─┐/集諦─┤/滅諦─┼─四諦修道五部/道諦─┤/修道─┘/苦九瞋を除く苦十具に十随眠を具す/集六身辺戒取瞋を除く集七身辺戒取を除く/上二界四諦上下八諦欲界四諦/滅六同滅七/道七〈身辺瞋を除く〉道八随眠〈身辺を除く〉/三貪・痴・慢四貪・瞋・痴・慢/六/上二界に五十六見惑欲界に三十二見惑頌に云く六は行と部と界と異なるが故に九十八を成す欲の見苦等の断に十と七と七と八と四となり謂く次のごとく具すると三と二との見と見と疑とを離するとなり色無色には瞋を除く余は等し欲に説くが如し/旧訳新訳/毘曇─┬─羅什訳薩婆多倶舎宗/成実─┘経部玄奘訳/見惑迷理惑背上使/修惑事相浮偽惑/我見辺見邪見見取見戒禁取見/頌に云く我々所と断常と撥無と劣を勝ると謂ふと因と道とに非ざるを妄りに謂ふと是れ五見の自体なり/常─無常を常と謂ふ/四顛倒楽─苦を楽と云ふ/我─無我を我と云ふ/浄─不浄を浄と云ふ/┌─数息散乱を治す/三賢├─不浄貪欲を治す一五停心─┼─慈悲嫉妬を治す/├─因縁愚痴を治す/七賢└─界方便障道を治す/二別想念住/三総想念住/天竺には阿那波那観と云ひ、漢には数息観と云ふ。入出息数・増数・減数雑乱せり。此の三失を離れたる十息を正数息と云ふ。/六妙門数・随・止・観・転・浄/頌に云く持息念は応に知るべし六種の異の相有り謂く数と随と止と観と転と浄との相の差別なり

 

 

 

四諦事〔C1・建治二年〕/五停心/三賢別想念住─苦・空・無常・無我/総想念住─同/此れより法を生ず/法具に四聖諦を観じ、十六行相を修す/四善根次の生頂亦然り/頂法/┌─下忍下中品同頂/忍法─┼─中忍中忍減縁減行七種減縁二十四数減行/└─上忍/上下八諦/苦・空・無常・無我苦・空・無常・無我/二九十八十/無色色苦諦───欲苦諦/因集生縁因集生縁/二六十二七/無色色集諦───欲集諦/滅静妙離滅静妙離二六十二七/無色色滅諦───欲滅諦/道如行出道如行出/二七十四八/無色色道諦───欲道諦/諦八諦/行二十二

 

 

 

断簡三五二〔C1・建治二年〕/擬宜(あてかうよろしきに)/誘引(こしらえひく)/弾呵/汰(えりそろう)/如是我聞/若し超八の如是に非ずんば安んぞ此の経の所聞と為さん。

 

 

 

断簡三五三〔C1・建治二年〕/│七已弁地──┬─上二界の七十二品を断ず/│└─阿羅漢向果/菩薩此の位に誓をもって習ひを扶けて生│八辟支仏地─┬─此の地は声聞無く/│└─辟支・菩薩有り/八相の先の五相│九菩薩地────菩薩一人/八相の後の三相└十仏地─────解脱分/別教┌─順解脱分未だ見・思を断ぜず/十信───三蔵の三賢・四根、通の乾恵・性地、円名字・観行に当たる/┌─順決択分/├─十住───初住に見を断ず────┐/│二住より七住に至りて思を断ず│/│八・九・十上品の塵沙を断ず├─円の相似に当たる├─十行───中品の塵沙を断ず───┤/七位│┌下品の塵沙を断ず│/└─十回向─┴又無明を伏す─────┘/十地─┬─初歓喜地決択分/等──┼─十二品無明を断ず離苦地より解脱分/妙──┴─円は十住十行の第二行に当たる/┌─見思塵沙を断ず/┌─十信──蔵の七聖、通は後の八地、別は十住・十行・十廻に当たる/│├─八信──上品の塵沙を断ず/│├─九信──中品の塵沙を断ず/│└─十信──下品の塵沙を断ず/│└─後心に無明を伏す/本門├─十住──十品の無明を断ず/├─十行──十品の無明を断ず/├─十回向─十二品の無明を断ず/├─十地──十品の無明を断ず/├─等───一品の無明を断ず└─妙─┬─一品の無明を断ず/└─法界品の無明/一二三四五六七八九十/発心住・持地住・修行住・生貴住・方便具足住・正心住・不退住・童真住・法王子住・潅頂住。

 

 

 

断簡三五四〔C1・建治二年〕/│日本┌─シタク第一修勝房/││源空├─慈悲第一阿勝房/法然├─持戒第一葉上房/│世間には智者第一法然

 

 

 

断簡三五五〔C1・建治二年〕/││┌─大日経──┐/三十年└─┼─金剛頂経──┼──真言宗/└─蘇悉地経──┘

 

 

 

断簡三五六〔C1・建長末年〕/西方肺蔵/辛(からき)味白色/鼻根金秋/不偸盗戒陀/北方腎蔵/鹹味黒色/耳根水/不邪淫戒仏

 

 

 

断簡三五七〔C1・建治元年〕/┌──三止四請/│一品半/│迹門略開三顕一動執生疑/開三顕一広開三顕一断疑生信七品半

 

 

 

断簡三五八〔C1・文永一一年〕/大日経旨帰/慈覚菩提心義に出づ/事理倶密金剛乗義。故に彼れと異なり。

 

 

 

断簡三五九〔C1・建治〕/伊尹と賢人隠叉/夏代──第十七王帝桀后末嬉(はつき)/└─竜蓬の殺/肉山脯(ほしし)林酒池三千余人/殷成湯王──討ぬ/凶三女より起こる姦/殷第三十主紂─┐妲己(たつき)┌─箕子を囚へ/└─臣──────┴─比干を殺/周第十二幽王─┬─后褒似子伯服携/└─申后宣臼〈平王なり〉

 

 

 

断簡三六〇〔C1・建治三年〕/┌─習禅篇の二/│┌道宣撰/続高僧伝巻第十七/荊州の花容に居すなり/├─徳安法師/天台智顗/┌──陳氏。穎川の人なり/孟陽公起祖の第二子なり。/父なり。/母は徐氏。

 

 

 

断簡三六一〔C1・建治〕/又云く、行大直道無留難故/最第一顕露教/│実大乗/法華経八ケ年世尊法久後要当説真実/│最極秘蜜教/天台宗雖示種々道其実為仏乗/法華一大円教/正直捨方便華厳経華厳宗正直捨方便但説無上道/│││┌─倶舎宗/││└阿含経─┤成実宗将非魔作仏悩乱我心耶/││└─律宗/││┌─法相宗/│└─方等─┤禅宗妙法蓮華経皆是真実/│└─浄土宗

 

 

 

断簡三六二〔C1・建治元年〕/第六に有領解・無領解門。第七に得記・不得記門。第八に悟有浅深門。第十に待時・不待時門。/授決集に云く三周互ひに二周を具する決。第十五/六云

 

 

 

断簡三六三〔C1・正元二年〕/頓───華/┌─阿/漸─┼─方七方便─┬─両教の二乗/└─般若└─三教の菩薩/迹因門二種涅槃─┬─有余涅槃/本果門└─無余涅槃

 

 

 

断簡三六四〔C1・建治〕/真実/又云く「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも、終に無上菩提を成ずることを得ず。所以は何ん、菩提の大直道を知らざるが故に。険径を行くに留難多きが故に」/又云く「大直道を行くに留難無きが故に」/実大乗雖示種々道其実為仏乗/法華経──八ケ年世尊法久後要当説真実/天台宗正直捨方便但説無上道

 

 

 

断簡三六五〔C1・文永一二年春・曾谷入道・大田乗明〕/仏随□所属□□弘□□□。迦葉・阿難等は一向に小乗経を弘通して大乗経を申(の)べず。竜樹無著等は大乗経を申べて一乗経を弘通せず。設ひ之れを申べしかども纔に以て之れを指示し、或は迹門の一分のみ之れを宣べて全く化道の始終を語らず。南岳・天台等は/第五の五百歳の一事、豈に唐捐ならんや。随って当世の為体(ていたらく)、大日本国と大蒙古国と合戦す。第五の五百歳、闘諍堅固に相当たれる/者等/一代の聖教を安置すべし、八宗の章(疏)習学すべし。/気・衆度の大難の時、或は一巻二巻散失し、或は一字二字脱落し、或は魚魯の謬誤を出来し、或は一部を損朽す。然れば則ち一期□□鶴林の後には、未来の弟子等必ず謬乱出来の基なり。糺調

 

 

 

南条殿御返事〔C0・弘安元年四月一四日・南条時光〕/いも・はじかみ悦びて給はり候ひ了んぬ。いまをはじめぬ事に候へば、とかく申すにをよばず候。をりふしそうそうなる事候ひし間、委細の御返事に及ばずの由候ところに候。恐々謹言/卯月十四日日蓮(花押)/南条殿御返事

 

 

 

安州出雲尼御前御書〔C1・弘安元年一二月一日・出雲尼御前〕/をば逆縁とをぼ(ほ)しめすべし。道の間いかんが候ひけん、をぼつかなしをぼつかなし。いそぎ御返事うけ給はりて心の内をはれ候ばや。恐々謹言/十二月一日日蓮(花押)/安州出雲尼御前

 

 

 

かわいどの御返事〔C1・弘安三年四月一九日・河合殿〕/人にたまたまあわせ給ふならば、むかいくさき事なりとも向かはせ給ふべし。えまれぬ事なりともえませ給へ。かまへてかまへて、この御をんかほらせ給ひて、近くは百日、とをくは三ねんつつがなくば、みうちはしづまり候べし。それより内になに事もあるならば、きたらぬ果報なりけりと、人のわらわんはずかしさよ。かしく。/卯月十九日日蓮(花押)/かわいどの御返事

 

 

 

おけ・ひさご御消息〔C0・弘安二年から四年の四月六日・対告者不明〕/おけ三・ひさく二・をしき四十枚、かしこまり給はりて候。恐々謹言。/卯月六日日蓮(花押)/御返事

 

 

 

御所御返事〔C1・弘安四年七月二七日・波木井実長〕/清酒一へいしかしこまて給はり了んぬ。これほどのよきさけ今年はみず候。へいししばら、(以下、貼り合わせ)き候はんれうにとどめて候。恐々。/七月二十七日日蓮(花押)/御所御返事

 

 

 

断簡三六六〔C1・文永〕/縉雲威恵威玄朗湛然自如来滅度至十有三世出竜樹、上者始因彼文字、広第一義諦、後嗣其学者、名法性宗也、元魏高斎間有釈恵文師、黙而得之也、授南岳大師由是有三観、(ヲヨヒテ)智者大師

 

 

 

断簡三六七〔C1・不明〕/法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑ふべから

 

 

 

断簡三六八〔C1・弘安〕/山会上釈迦仏ののらせ給ひて出現し

 

 

 

断簡三六九〔C1・文永末〕/必世乱而、天は妄語の人を守護せず。日月は地に落ち候か

 

 

 

断簡三七〇〔C1・建治弘安交〕/立真言の三部経をあがめて

 

 

 

断簡三七一〔C1・建治元年〕/失なきに大難の来たりかさなるをもって法華経の行者としるべし。しかるに日蓮

 

 

 

断簡三七二〔C1・建治〕/いとうにながされてありし時

 

 

 

断簡三七三〔C1・文永末〕/仏とき給ふ事なし。仏の初成道の時

 

 

 

断簡三七四〔C1・弘安〕/思なと其の上今殿のき心あらんたれ□は

 

 

 

断簡三七五〔C1・弘安初〕/を用ゐざれば彼の機縁に随ひてしばらく妄語をなす類

 

 

 

断簡三七六〔C1・文永建治交〕/□万諸経諸宗文也。追尋第二

 

 

 

断簡三七七〔C1・弘安初〕/思慎十異等文

 

 

 

断簡三七八〔C1・弘安・富木常忍〕/上富木入道殿御返事日蓮

 

 

 

断簡三七九〔C1・建治〕/日本東寺元祖弘法大師/釈迦□□華厳方等般若/顕教□□乳酪生蘇

 

 

 

断簡三八〇〔C1・弘安〕/せめんとせんましければ日本国をつくりたりしいざなぎ

 

 

 

断簡三八一〔C1・弘安〕/大師智恵は仏のごとく、徳は四海をなびけたり。火を水と申せども、月を

 

 

 

断簡三八二〔C1・文永建治交〕/りけり。爾前の経にして二乗仏にな

 

 

 

断簡三八三〔C1・弘安二年頃〕/〈七〉智証大師の法華尚不及の釈と弘法大師の望後

 

 

 

断簡三八四〔C1・弘安〕/し伝教は天台□と申すならば其の時

 

 

 

断簡三八五〔C1・建治弘安交〕/らむ。仏もあわれみ給

 

 

 

断簡三八六〔C1・建治・門下一般〕/嘉祥五時/十二部経/乳権/阿含十二年/実/修多羅/酪/権/般若十二年後/実/方等/生/権/浄名思益/実/熟/権/法華/実般若/涅槃┬権醍醐└実/天台難じて云く〈玄十〉、/従生蘇出熟蘇。譬万善同帰法華。従熟蘇出醍醐。譬涅槃常住教。此現文乖文。義理顛倒文

 

 

 

断簡三八七〔C1・文永建治交〕/日月のごとし。又旱魃に雨を

 

 

 

断簡三八八〔C1・弘安・南条時光〕/進上南条上野殿御返事日蓮

 

 

 

断簡三八九〔C1・文永末・富木常忍〕/進上富木殿御返事日蓮

 

 

 

断簡三九〇〔C1・文永末〕/欲求諸仏法、是人去仏道、譬如天与地。天台宗云、約性不断闡提

 

 

 

断簡三九一〔C1・文永建治交〕/毘婆沙論を釈したり。宝法師は印度へわたらず、而れども婆沙の十六字は宝□

 

 

 

米穀御書〔C6・弘安元年・南条時光〕/米穀も又々かくの如し。同じ米穀なれども謗法の者をやしなうは仏種をたつ命をついで弥々強盛の敵人となる。又命をたすけて終に法華経を引き入るべき故か。又法華の行者をやしなうは、慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし。一切衆生を利益するなればなり。故に仏舎利変じて米と成るとは是れなるべし。かかる今時分人をこれまでつかはし給ふ事うれしさ申すばかりなし。釈迦仏・地涌の菩薩、御身に入りかはらせ給ふか。其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ。仏種は縁に従ひて起こる。是の故に一乗を説くなるべし。又治部房・下野房等来たり候はばいそぎいそぎつかはすべく候。松野殿にも見参候はばくはしくかたらせ給へ。

 

 

 

『新定』断簡九「おぼろげならずば」〔C1・建治二年頃・四条金吾〕/をぼろげならずば、御さかもり、人によりあい、よるのあるき、めこ・ずうさ(従者)なりとも心をゆるさせ給ふべからず。

 

 

 

『新定』断簡一〇「今の釈迦牟尼仏」〔C1・不明〕/今の釈迦牟尼仏是れなり。此の娑婆

 

 

 

『新定』断簡一一「うせず、七年まで」〔C1・不明〕/うせず、七年まで天台大師につか

 

 

 

『新定』断簡一二「随六宗碩学」〔C1・不明〕/随って六宗の碩学且く之れを諍ひ、終に劣ると申し怠状を捧げたり。既に申し遣わす状は是れ爾前経の説なること分明なるのみ。

 

 

 

『新定』断簡一三「善議等謝差勅使表」断片〔C1・建治三年頃〕/総じて釈迦一代の教を括りて、悉く其の趣を顕はすに通ぜざる所無く、独り諸宗に逾えて殊に一道を示す。又云く、其の中の所説、甚深の妙理なり。七箇の大寺、六宗の学生、昔より(来)未だ聞かざる所、曾て未だ見ざる所なり。三論・法相久年の争い渙焉として氷

 

 

 

『新定』断簡一四「大唐終南山」〔C1・不明〕/大唐の終り南山の豊徳寺の律宗沙門道宣、両大師の伝を造りて云く、法華三昧に入り陀羅尼門を証し法華を照了す。

 

 

 

『新定』断簡一五「闡揚云云。」〔C1・不明〕/闡揚す云云。窃かに天台の玄疏を見れば、

 

 

 

『新定』断簡一六「無量なりと申せども」〔C1・不明〕/無量なりと申せども其の詮四あり、所謂常・楽・我・浄なり、無量の外道菩提心を発して

 

 

 

行敏訴状御会通異本断簡〔C1・文永八年・良観房等(雑掌=直接訴人は行敏)〕/行敏申状に云く右八万四千の教々は而も出離の教ならざるは莫し。大小顕密の法々は而も解脱の法ならざるは莫し。乃至。一を是として諸を非とするの理、豈に然るべけん哉等云云。行敏の本師法然上人選択に云く、道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、聖道を捨て正しく浄土に帰するの文。又云く、未だ一人も得る者有らず、当今末法は是れ五濁の悪世なり、唯浄土の一門のみ有りて通入すべき

 

 

 

『新定』断簡一八「こそなけかしくて候」〔C1・不明〕/こそなげかしく候へ、又一にはかんもんあいぬとみへ候へばなげきが中にも

 

 

 

『新定』断簡二〇「すを・さとり」〔C1・不明〕/すを/さとり

 

 

 

上野殿御返事断簡〔C1・弘安四年一一月二〇日・上野殿〕/たちのかまくらへ御のぼりと申させ給へこのこめはかへしまいらせて候あいさわのれうにて候かへすがへす御心の内に心へさせ/弘安四十一月二十上野殿すぎて国

 

 

 

『新定』断簡二九〔C1・不明〕/法等並□□□□□□せん等

 

 

 

一谷入道百姓女房御書断片〔C1・建治二年五月八日・一谷入道女房〕/入道といゐめといゐ、つかうもの

 

 

 

『新定』断簡二八八「ろむる故」〔C1・不明〕/ろむる故、一切の外道

 

 

 

『新定』断簡二八九「し給事こそ」〔C1・不明〕/し給ふ事こそ不思議におぼゆれ。爾前の経々にことならば、法華経は天下第一の大妄語法華経

 

 

 

「のへひいつへし」等四行断簡〔C1・不明〕/のべひ(つ)いづべしをもいきや、あしたにのべへ出でしにはゆうべにかへらむ事のをそさををぼつかなしと、よるみざりしにはあけんあし

 

 

 

一乗要決断簡〔C1・不明〕/一乗を顕はす。而して先師の疏文は多く五性を引く

 

 

 

「顕れ俗ハ真の底」等四行断簡〔C1・弘安二年一〇月頃〕/顕はれ俗は真の底にこそと習ふは此れ問注なり。かへすがへす、わ法師ども日蓮をいやしみて故三位房がやうに無間地獄に堕つる事なかれ、堕つる事なかれ、

 

 

 

上野殿御返事断片〔C1・建治三年一月三日・上野殿〕/給ふ事、父母の子ををもうがごとし。まことに法華経の御志みへて候。くはしくは釈迦仏に申し上げ候ひ了んぬ。恐々謹言/正月三日日蓮/上野殿御返事/建治三年

 

 

 

「開善引経」等五行断簡〔C1・不明〕/開善引経云無明力大仏菩薩智之所能断果有等妙覚等覚即断荘厳引経云上士者断無上不断観師云果地非断非不断縁宜断聞如開善縁宜不断如荘厳今若依四教義三蔵果断因不断通教因時断正果地断習別教因断多分果断

 

 

 

「るを法相と三論と」等五行断簡〔C1・不明〕/るを法相と三論と地論と摂論等は経をすてて論に付ぬ。背上向下宗の天台伝教にわらわる□□なり。論の経に相違するすら猶を此れをすつ、何況人師の経に相違せんをや。但なけ

 

 

 

「乗如実道」等一行断簡〔C1・不明〕/如実の道に乗じて三有に来生し正覚を成ぜんを示す

 

 

 

「須弥山はくつる」等三行断簡〔C1・不明〕/須弥山はくづるとも、仏に妄語なし。故に聖人と申す。何に況や、法華経は正直捨方便

 

 

 

「鏡をもん」等三行断簡〔C1・不明〕/鏡をもん光をもつて今□を

 

 

 

白木御返事〔C0・不明〕/始めにて候へば、かうし(柑子)まいらせ候。先づ白木の事、悦び入り候。法華経一品読誦すべきの折紙、悦び入り候。恐々。乃時日蓮御返事

 

 

 

「志耶」等二行断簡〔C1・不明〕/志や。答ふ、此の四分宗義は大乗戒に当たる。本文に云く、若し自身のために仏道を欲求すること有らば、当に浄を尊重すべし。

 

 

 

「ゆき候わは」等四断簡貼合〔C1・不明〕/ゆき候わは/□るなるへし/三日は□/へけに

 

 

 

「ならさらんや」等一行断簡〔C1・不明〕/ならざらんや。法華経

 

 

 

「法顕伝云」等一行断簡〔C1・不明〕/法顕伝に云く、王妃の肉団を生ずること、菰の千有るがごとし。

 

 

 

「富木殿日蓮」貼合一行断簡〔C1・文永一〇年頃・富木殿〕/富木殿日蓮

 

 

 

新麦一斗御返事〔C6・身延期の五月頃・甲駿地方の檀越〕/新麦一斗、たかんな三本、油のやうな酒五升。南無妙法蓮華経と回向いたし候。

 

 

 

「ろ十枚」等一行断簡〔C1・弘安元年閏一〇月一二日か・南条時光か〕/ろ十枚給はり了んぬ。

 

 

 

「国大体」等三行断簡〔C1・弘安元年頃か・甲駿地方の檀越〕/国大体当世□□□死に了んぬ。其の時□□□子と心をあわせて□□□

 

 

 

「速出何瞰」等二行断簡〔C1・文永初期か〕/速出す。何ぞ瞰て縦横に余の術計を論ぜん。行者も亦爾り。他念を生ずること勿かれ。目連所問経に云ふが如し。譬へば○

 

 

 

「涅槃生実」等三行断簡〔C1・建治期か〕/涅槃、実滅度を生じて亦無余涅槃に求入す。是の時我余国に於て成仏を示現し而して異名有り。□彼の人、秘かに無余涅槃に求入して、然して引導令

 

 

 

「小児或は」等九行断簡〔C1・建治四年二月一三日か・松野殿〕/□(出)□□□(人け)□小児、或は病人等の□□□□をやふりとり、□□人をくらわさる□□なし。此の国存外に□□鬼となれり。経に□□□□羅刹国か鬼□□をそろしをそろしは上はな

 

 

 

「其□□」等一行断簡〔C1・不明〕/其の□□故に□□□に亘りて二

 

 

 

「三代所訳」等二行断簡〔C1・不明〕/三代の所訳は倶に本論の外□下往生の下に千金の譬之れ無し

 

 

 

「□如来之」等一行断簡〔C1・不明〕/□如来の因位に衆生に下種

 

 

 

「□□□花厳」等二行断簡〔C1・弘安元年か〕/□□□花厳経と申して仏経と申すなり。此は詮を論ずれば一言も仏説に

 

 

 

「以摩訶衍」等三行断簡〔C1・不明〕/摩訶衍を以て而して之れを授与し読誦・愛楽・恭敬・供養す。実義に達すと雖も、未だ道証を獲ず。○即ち自ら一切智人の心に慢を生ずること甚大なりと謂ふ。貢高便

 

 

 

「かして其国」等四行断簡〔C1・不明〕/かして其の国をにらめ給ふ。始終用ゐずして国人にくみとをせば、其の数々ゆへもなくひびきをこり

 

 

 

「大賢山」等二行断簡貼合〔C1・不明〕/大賢山誦妙法花□三部

 

 

 

「二十九日お」等二行断簡〔C1・不明〕/二十九日お□□□□□□二三□□□□□て

 

 

 

「罪□」二字断簡〔C1・不明〕/罪□

 

 

 

「の肝心を」等二行断簡〔C1・不明〕/の肝心を修行し習ひ玉へる上行等の□の法土現ずる時尅に相当たれり云云

 

 

 

「其宗元祖」等五行断簡〔C1・不明〕/□□□□□□□他□□等先□□□□□□金言なり。□□□二別其の宗の元祖等出□□是れなり。例せば如□□孔丘等□

断簡等1

断簡二〔C1・文永元年〕/日蓮云く、第五の五百歳に殊に閻浮提に広宣流布して□□尽未来際慈尊の出世に至るまで断絶すべからず。

 

法華文句要文〔C1・建治元年〕/地師云く、十住は是れ不退を証するのみ。

  

法華文句要文〔C1・建治元年〕/乃ち三乗共の十地の義なるのみ

 

断簡五〔C1・文永一二年〕/ゆへなかるべ

 

断簡六〔C1・文永一二年〕/菩薩誕生天台と伝教

 

断簡七〔C1・文永三年〕/久遠大通の御時法華経をならいし人、此の経をすてざりしは、三五の塵点をへず、則ち仏になりけるとみゆ。法華経をうちすてて権経

 

断簡八〔C1・文永元年〕/日蓮云く、記の一に云く「小乗毘尼母論の五箇の五百歳に依りて、稍壅と之れを嫌ふ」。次に大集経の五箇の五百歳に依るに、亦此れも権大乗を以て実大乗を釈す。毘尼母論を嫌ふが如くならば、又稍権之□□□□。若し爾らば、大集経を以て但(ただ)後五百歳計りは法華経の為なるべしと意得べからず。其の上□□□□故に大教流行すべき時を釈して、五百問論には「他人大集経の後五百歳に依りて契□□□嫌ひて云く、今謂く此れを弁ず応らず」等云云。故に但法華経の五後の文並びに涅槃経の文に依るべし。

 

断簡九〔C1・弘安元年〕/かつはそしり、かつは帰信せんとし候ひしに、須跋陀羅はなをまいらず候ひし程に、仏、阿難尊者を御使ひとして召ししかば、いにしへはさたなかりし者のいかにかしけん。阿難に

 

断簡一〇〔C1・建治元年〕/の肝要は弘通あるべからず。問うて云く、慈覚大師は自身の旨目によむで如法経を始めたり

 

断簡一一〔C1・建治四年〕/十羅刹、掌を合はせて頂受す。是れ法華経に兼ねて之れを察し当来を案ずるの記か

 

断簡一二〔C1・建治二年〕□興盛にして、日本国の者死する事大半に過ぎて未だ止まらず。又前代に超え大半

 

断簡一三〔C1・建治三年〕/人も、をやの心をたがへさせ給はぬにや

 

断簡一四〔C1・弘安二年〕/と等のごとし。法華経の 

 

断簡一五〔C1・弘安元年〕/迦葉は仏に□る人なり。

 

断簡一六〔C1・建治二年一〇月三日〕/恐々謹言。/十月三日日蓮(花押)/御返事

 

断簡一七〔C1・弘安四年〕/父と母と子と、王と左右の大臣と、又四あてこそよく候へ。所謂四方と四季と二の手と

 

断簡一八〔C1・建治二年〕/尼仏、観音経・地蔵経等之れに准じて知るべし。他仏を設くと雖も釈迦牟尼教主必ず之れを用ゐるべきか。

 

安国論御勘由来草案断簡〔C1・文永五年・法鑑御房〕/正嘉元年〈太歳丁巳〉八月二十三日戌亥の刻、前代に絶えたる大地振〈振挙大地一方三尺〉。同二年〈戊午〉八月一日大風。同三年〈己未〉大飢饉。正元元年〈己未〉大疫病。同二年〈庚申〉四季に亘りて大疫已まず。既に民大半に超えて死を招き了んぬ。而るに内外典に仰せ付け□□□大法秘法の御祈祷。爾りと雖も、一分の験無く還りて飢疫等を増長す。日蓮仏法に於て験無きを見了んぬ。□疑粗一切経外典を窺ふに、御祈祷験無きの由、其の謂れ之れ有るを存じ了んぬ。遂に止む無く勘文を造り、文応元年〈庚申〉七月十六日〈辰時〉屋戸野入道に付して最明寺入道殿に奏進し了んぬ。此れ偏に国土の恩を報ぜんが為なり。其の勘文の意は、此の国天神地神十二代、百王第三十代欽明天皇の御宇に、百済の国より仏法此の国に渡り、□桓武天皇の御宇に至る、其の中間五十余代、二百六十余年なり。其の間一切経並びに六宗有りと雖も、天台法華宗之れ無し。桓武の御宇、山階寺行表僧正御弟子最澄有り〈後に伝教大師と号す〉、延暦四年叡山を建立す。同十三年桓武皇帝、帝土を遷して平安城を建つ。二十一年正月十九日、南京七大寺六宗の碩学、勤操・長耀等十四人と召し合はせ宗論を遂ぐるの時、六宗の学者口を閉づること鼻の如し。退きて後勅宣を下す云云。勤操等謝表を以て皇帝に奉り、六宗の執心を抛ちて天台宗に帰伏し了んぬ。其の時より一切経並びに法華経の義理始めて顕はれ了んぬ。其の後代々の国主、叡山に違背すべからざるの由誓言を捧げ奉る。故に白河院は非を以て理に処し、清和天皇は叡山の恵亮和尚の法威を以て即位す。又九条右丞相の御起請文之れ有り。鎌倉源右将軍は清和天皇の末孫なり。叡山に背違せば一日も世を持つべからざるか。□其の跡を紹継する、代々虎牙□、天台・真言の御帰依を褊し、禅宗念仏宗とに伏するの間、天太国中の山寺七万一千三十七所の仏陀・守護の善神瞋恚を作し、他国の□□□□将を以て此の国を破らんとなす先相なり。

 

断簡二〇〔C1・弘安〕/〈御宇応神御子〉大山皇子大石山丸

 

断簡二一〔C1・不明・入道某〕/多の不思議候ひしかども第一の不思議見へて候ひしなり。今入道殿は御とし八十一になると御物語候ひき。去年まで八十年が間は四十余年の

 

断簡二二〔C1・不明〕/事もものとなりて、かかるめ

 

断簡二三〔C1・不明〕/南北共に通用し、王臣掌を合はせて、三百余年なり、其の時智

 

断簡二四〔C1・文永〕/皇帝の御時、天台・真言始めて興る云云。茲より此の国に流布する所の六宗諍論をなす間

 

断簡二五〔C1・建治年間〕/此れは又天台宗の末学者等が本宗の所立を忘れぬるゆへなり。今

 

断簡二六〔C1・弘安二年〕/劣りて候。経文に白々なり、赤々なり。申すならばいかなる愚人も弁

  

断簡二七〔C1・弘安三年九月以降(一二月中旬か)・南条殿〕/て、わづかに十六になり候ひし小くわん者、いきてをはせし時、度々法華経聴聞し、やまいのゆか臨終と申

 

断簡二八〔C1・建治三年・富木常忍〕/進上富木入道殿日蓮

 

断簡二九〔C1・建治三年〕/此の国より西に三千里を

 

 断簡三〇〔C1・文永三年〕/行ありて学生ならざるは国の用なり。智行共に備ふは国の財なり。智行共にかけたるは国の賊、国人の中の牛なり。法華経の許されなくして自由に四十余年経々をならい行じて、生死をはなれんとをもう学者等は、自身謗法の者となる上、一切衆生皆謗法の者となるべき因縁なり。此の法門は震旦国に仏法わたりて二百年と申せしに、天台智者大師始めて一切経を料簡し給ひしやうなり。日本国には仏法始まりて二百余年と申せしに、伝教大師、天台の本疏三十巻をみて始めて此の義をあらわし給へり。此の義だにも実にして仏意にかなわば、四十余年の諸経の行者と、彼の経々に依りて法華経を全とせざる諸宗の人々は皆謗法の因縁なり。問うて云く、一仏の名号には諸仏の功徳

 

断簡三一〔C1・建治元年〕/何れの経々もをろかなる事よも候はじ。なれども金口の明説よりをこつて法華最第一の文明々と候

 

断簡三二〔C1・弘安三年〕/のかな。日蓮が生まれて候国なれば、かなわぬまでもいのりてかなわずば国のために命をすてて国の恩をほうぜん□こそ

 

小乗大乗分別抄断片〔C1・文永八年〕/には天台宗劣れるなりと申す。此等の人師は世間の盗人にはあらねども、法の盗人なるべし。

 

断簡三四〔C1・建治三年〕/人と申すに声聞供養の功徳はすぐれて候。又辟支仏・菩薩等は此れにすぐれて候。一切世界の声聞・辟支仏・菩薩等の三聖を供養せんよりも、釈迦仏一仏を供養し奉る功徳はすぐれて候。此の釈迦仏を三千大千世界を器として金を供養

 

断簡三五〔C1・建治元年〕/教主釈尊に於ては又之れ多し。諸の小乗経の釈迦牟尼仏は、陳如・迦葉・阿難等の沙門の僧を以て脇士と為し、諸大乗経は或は二乗を以て脇士と為し、或は普賢・文殊等の菩薩を以て脇士と為し華厳経盧舎那仏、或は毘盧遮那仏中台本尊は、其の左右に千の釈迦等之れ有り。大日経の定印の大日如来には、八葉の四仏・四菩薩、金剛頂経の智拳印の大日如来は、四仏・十六大菩薩等之れ有り。而も世間

 

断簡三六〔C1・文永六年〕/重ねて何ぞ忽ちに没収の重科に行はるるや、争でか怠状の沙汰ならんや。

 

断簡三七・二六三〔C1・弘安元年〕/守護の御ちかいあり。しかるにいかなれば百王までは守り奉はずして人王八十一代の安徳天皇は源右将軍にせめられて西海には沈み給ひしぞ。

 

断簡三八〔C1・建治元年〕/とのの今年の御いのち、いきさせ給はん事、よるひるなげき申せしに、これほどうれしき事候はず。さこそなげかせ給ひ候らめ。ただしこれにはなげき候はぬぞ、悦をなげく事

 

断簡三九〔C1・文永九年〕/人二百五十戒の諸僧数十万人を集め、八万法蔵を読むと雖も何ぞ一雨も下らざる。竜王の慳貪か、諸仏の妄語か。良観上人身口は仏弟子に似たりと雖も心は一闡提の人為るか。

 

断簡四〇〔C1・建治二年〕/釈顕はし給□誦□権経□□顕はすへし。去ぬる正嘉元年□□□□

 

断簡四一〔C1・弘安元年〕/掌を合はせて候ひけるとうけ給はるうれしさに、そのあとをつがせ給

 

断簡四二〔C1・弘安二年一〇月一八日・上野殿〕/又々申上べく候。恐々謹言。/十月十八日日蓮(花押)/上野殿御返事

 

断簡四三〔C1・建治三年〕/我が身にあたりてをいたるをや(親)はとどまて、わかきこ(子)はさきゆくらむ

 

法蓮抄断片〔C1・建治元年・法蓮上人〕/足なくして千里の道をく□がごとし。但近き現証を引きて

 

断簡四五〔C1・弘安元年〕/しんぜさせ給ひしなり。これも又かくやあるらむ。日蓮が法華

 

断簡四六〔C1・建治二年〕/と申して妄語を雑へざる経なり。仏に二説あり。一には爾前の経々。仏には妄語なけれども所化の衆生実語

 

断簡四七〔C1・文永末〕/文永九年文永元年の大彗星□□にして起答□□□□□此れを知る秘術

 

断簡四八〔C1・弘安〕/教と申す聖人に

 

断簡四九〔C1・建治〕/申等□□□□□宗なんど申す法華経の強敵ども、国に充満せり。大白癩病

 

念仏破関連御書〔C1・文永三年〕/者の中に臨終のあてがたなくものせうせういできたる。ここに人すいしをもう。信施ををいて念仏を申すが臨終のわろきやらんなんどをもう程に、一向信施をたち、童男女等をすてて山林にこもりゐて、名利名聞等をたちて一向に念仏を申す人の中に、ことに臨終わろき人々又これをほし。この時、信施ををいて臨終のわろきやらんの疑又やぶれぬ。進退きわまりてあれども、いかなる故という事をしらず。例せば提婆・善星・瞿伽梨・苦得尼等の人々、或は仏弟子なるもあり、或は外道なるもあり、或は二百五十戒を持ち、四禅定をえ、欲界の貪・瞋・痴等を断じ、或は十二部経をそらにし、或は六万八万法蔵をうかべたりし人々或は生身に大地われて無間地獄に堕ち、或は死して食吐鬼となりなんどせしかども、彼の所化の弟子どもはすべて我が師地獄に堕つとわしらず、但得道の人なんめりとわをもいしなり。又心に疑ふは、臨終のさだめなきはいかにとをもう。此に仏ののたまわく、此等は皆無間地獄に堕ちたりと。彼等が所化の弟子等としごろの法華読誦の功徳を浄土に回向して、観経の上品上生に往生せん。上品中生は解第一義をもちて往生すべしととかれたり。華厳経の唯心法界、法華経の一念三千・十法成乗、真言の入我々入・五相成身等を回向して、西方の浄土の上品中生に往生すべし。わづかにすこし一戒を持つものは中三品を志ざす。悪人は名号を唱へて下三品を心ざす。法然等が料簡には、経の面は読誦・解第一義・戒等の往生したるやうにはみへたれども、遠くは浄土の三部経の先後、近くは観経の始中終を勘へたるに、実には九品に亘りて必ず念仏をもちて往生すべし。経文に読誦等の諸行を往生の業にいたせるは、且く末代の凡夫が観経等にあわざりし先に法華経等の諸経をよみつみ戒等を持てるを但一度に、往生の業にはあらず、すてて念仏にうつれといわば、本意なくをもい、信をなさずして観経にうつるべからざる故に、且く人の心をとらんがために諸行往生とわ申す。法華経を入事をば、伝教大師あながちに謗法の者とこそ定め給へ。而るを華厳・深密・般若経にだにも及ざる観経の読誦大乗の内に法華経ををさむべしや。此の義をわきまえざる故、天台・真言の人々も行は諸行にわたれども心は一向の念仏者なり。かるがゆへに謗法の者となりて臨終はをもうさまならず。在家の無智下賤のもの並びに悪人が臨終のあてがたなるは、又下賤なる故にいたう謗法の念仏者をも供養せず。悪人なる故に謗法の念仏者にも近つかず。但あるほどに先の世に五戒を持ちて人間に生まれたり。自然に堂寺なんどをもめにみ、一年十年等の内にも如法経なんどの縁をもむすび、父母なんどのけうやうの心もあるかの故に、生死をはなるるまでこそなけれども、人天の果報をうるかの故に、臨終あてがたなるなり。譬へば将門・貞任なんどは謀反のものなりしかども、我等が領内の百姓はいたうとがもなければことごとく打事もなし。郎従なんども大将軍の亡後はいたうたづねられず。謗法も又かくのごとし。これをもちて一切心うべし。

 

 

 

念仏破関連御書〔C1・文永三年〕/止観十巻には内外典を打頽して法華経となしてつくれる文なり。教相を以て定めば、法華已前の諸経の談にして、一仏の一切の仏の功徳をば備へざる事なり。法華経にをいても迹門にすら、なをしこれをゆるさず。何に況や爾前の経々をや。されば爾前の諸経に、一仏一切仏の義をとけるは、或は平等意趣と心へ、或は法身のかたをとけると心へ、或は爾前の円教の融通の心としるべきを、遠くは一代聖教の先後をもわきまへず、近くは天台・妙楽の釈をもしらざる者ども、但一文一句計りをとりて先後もしらずいう事なり。阿弥陀の三字に一切の諸仏を摂む事は、源法華経の所説、一切の諸法を三諦ととかるれば、法華経の行者のためには阿弥陀の三字に一切の仏ををさむべし。法華経も信ぜぬ権経をさまらず法華経の三字□□□□□□□をさまるというか。答へて云く、爾なり。金ににたる石あり、又実の金あり。珠ににたる石あり、実の珠あり。愚者は金ににたる石を金とをもい、珠ににたる石を珠とをもう。この僻案の故に又金に似る石と実の金と、珠に似る石と実の珠と勝劣をあらそう。世間の人々は何れをという事をしらざる故に、或は千人のいうかたにつきて一人の実義をすて、或は上人の言につきて少人の実義をすつ。或は威徳の者のいうぎ(義)につきて無威の者の実義をすつ。仏は依法不依人といましめ給へども、末代の諸人は依人不依法となりぬ。仏は了義経に依りて不了義経に依らざれとはせいし給へども、濁世の衆生は不了義経に依りて了義経に依らざるの者となりぬ。あらあら世間の法門を案ずるに、華厳宗と申す宗は華厳経を本として一切経をすべたり。法相宗三論宗等も皆我が依経を本として諸経を

 

念仏破関連御書〔C1・文永三年〕/よするなり。されば華厳宗人多しといえども澄観等の心をいでず。彼の宗の人々諸経をよめども、ただ澄観の心をよむなり。全く諸経をばよまず。余宗又かくのごとし。澄観等仏意にあいかなわば彼等又仏意に相叶ふべし。澄観もし仏意に相叶はずば彼の宗の諸人又仏意に相叶ふべからず。一人妄をさえづれば諸人妄をつたう。一人まつり事をだやかならざれば万民苦をなすがごとし。当世の念仏者たとい諸経諸仏を念じ行ずとをもえども、道綽・善導・法然等の心をすぎず。若し爾らば道綽禅師が未有一人得者の釈、善導が千中無一の釈、法然が捨閉閣抛の四字謬りならば、たとえ一代聖教をそらにせる念仏者なりとも阿弥陀の本願にもすてられ、諸仏の御意にもそむき、法華経の其人命終入阿鼻獄の者とならん事疑ひなし。これ偏に依法不依人の仏の誓戒をそむいて、人によりぬる失のいたすところなり。問うて云く、人に依る失ならばなんぞなんぢは天台・妙楽・伝教大師に依るや。答へて云く、あえて天台・妙楽・伝教大師を用ゐず。但天台・妙楽・伝教大師の引き給へる証文によるなり。例せば国ををさむる人、国の中のまつり事、三皇・五帝等の三墳・五典にて賞罰ををこなえば、聖人・賢人とはいわるれども、人を罰する罪によりて悪道にをちず。而るを重罪の者も愛するによりて軽罪にをこなひ、奉公あるものを悪むによりて賞せずなんどあれば、現世には佞人のなをとり、国やぶれ、未来にはあしき名をながすなり。これ偏に文書に依りて人によらず、人によりて文書によらざるによりて賢愚はいで来たるなり。当世の僧俗多くは人を本として経文を本とせず。或者云く、日蓮は善導和尚にはすぐべからず。或は云く、日蓮見るほどのと難ぜらるるか。若爾らばいかにまけたる問注の義と恐れかへされたる先判をば公家武家にはをさめをかれたるべし。先判は後判のためのかたうどとなり、まけたる問注の記はかつものの証文となる。故にをさめをかれたるなり。爾前の諸経は爾前の行者のためには用事なけれども、法華経の行者のためには□□なるなり。故に阿難尊者此れを結集し、訳者たち震旦・日本までもわたし来るなり。問うて云く、阿弥陀の三字に一代聖教・一切諸仏をさまり給わずば、いかに止観に云ふ「十方の仏の名字を称ると功徳正等なり」の釈如何。答へて云く、反詰して云く、此の釈は何の経文により処有りや。答へて云く、止観の常坐常行の両三昧の処なり。問うて云く、其の両三昧は何の経文に依るぞや。答へて云く、常坐三昧は文殊問等、常行三昧は般舟経等なり。問うて云く、文殊問経・般舟経は何れの部の経ぞ。法華経爾前か、巳後か、並か如何。答へて云く、しらず。難じて云く、経を定め、釈をば料簡すべし。汝ほぼこれをきけ、天台・妙楽の心は玄義十巻諸経の

 

念仏破関連御書〔C1・文永三年〕/是我有、其中衆生悉是吾子」等云云。この文のごとくならば、この三界は皆釈迦如来の御所領なり。寿量品に云く「我常在此娑婆世界」等云云。この文のごとくならば、過去五百塵点劫よりこのかた、此の娑婆世界は釈迦如来の御進退の国土なり。其の上、仏滅後一百年に阿育大王と申す王をはしき。此の南閻浮提を三度まで僧に付属し給ひき。又此の南閻浮提の内、大日本国をば尸那国の南岳大師、此の国に上宮太子と生まれてこの国の主となり給ひき。しかれば聖徳太子已後の諸王は皆南岳大師の末葉なり。桓武天王已下の諸王は又山王

 

仏説御書〔C1・弘安元年〕/諍そひし時、仙経等やけにき。此の経□経に対せざりし時は、萩につみこめてやきしに焼きざりき、□□□やけぬるなり。□□仙経は天竺にして焼亡に□ては焼きしぞかし。仏経の内にても又々かくのごとし。華厳経は一権一実、一妄語一真実。方等経は三権一実、三妄語一真実。般若経は二権一実、二妄語一真実なり。阿含経は出世間の一権なり。世間に対すれば実語なれども、仏教の中の妄語なり。大日経金剛頂経蘇悉地経の両部の真言は三権一実、三妄語一実語。法華経に対せば一切経は一向妄語となるべし。而るを漢土にては善無畏三蔵、大日経真言法華経とをは一義二経になしぬ。其の上に印と真言とを加へて超過と云云。純円の法華経を帯権の大日経に混合しつれば、法華経かへて帯権の経となり。経王国に失ひしかば世王又たへて、或は大王臣下にをかされ、或は他国にあなづられ、やうやくすぐるほどに、禅宗念仏宗等の邪法かさなりて、終に主しなき国となりぬ。/仏法は主体なり、世法は影響なり。体曲がれば影ななめなりというは此れなり。日本国は又桓武の御世にやうやく真言まさりになりて、座主は真言座主になり給ひぬ。名は天台座主、所領は天台の所領、其人の能は真言なり。又真言かとをもへば法華経の円頓の受戒あり。鼠にもあらず、鳥にもあらず。法華経にもあらず、大日経にもあらず。きさきを民の犯したるが太子を生みたるがごとし。詮を論ずれは房是れなり。師子国と申す国は、父は師子、母は人なり。これ国の始めなるゆへに、今にいたるまで彼の国の人の心師子のごとし。漢の日種国と申す国は、唐土の王女に日天のあわせ給ひて

 

断簡五五〔C1・建治二年〕/の劣なり。師子の身の内の虫の師子を食ふと申すは、今天台宗の人々の自宗を他宗に同ずるこれなり。問うて云く、其の相貌如何。答へて云く、大日経に云く「心実相」。善無畏・金剛智・不空・一行が云く「彼の経の諸法実相は此の経の心実相なり」等云云。慈覚大師云く「爾るべし」。安然云く「爾るべし」。大日経に云く「我は一切の本所なり」。善無畏云く「彼の経の久遠実成と同じ」云云。慈覚等云く「爾るべし」。華厳経に云く「心と仏と及び衆生と是の三差別無し」。澄観云く「彼の法華経に云く、諸法実相と是三無差別とをなじ」。智礼等云く「此れ同じ」。かくのごとく立つるゆへに天台法華宗は失せぬるなり。疑って云く、此等をばいかんが心うべき。答へて云く、此の事には四の法門あり。一には名同体異、二に名異体同、三には名義共同、四には名義共異なり。をはいかにとして善無畏等は名義共七十ケ国を修行し□□□大日経をつたへ、結句、漢土に来たりて大日経玄宗皇帝に授けし三国真言の元祖なり。一四天肩を並ぶべからざる聖人ぞかし。しかれども、いかなる義にてやありけん、一時に頓死して、閻魔のせめをかほり、鉄の縄七すぢつき給ひしは、世間の悪にはあらず、ひとえに此の悪法のゆへなり。「今此三界」の経文を恃まずば、いままで阿鼻の人にてこそをはすべけれ。しかるを今の天台真言の二宗の末学、此のことわりを知ざるかのゆへに、真言法華経との理同の義を存するは、いかにとあるべきぞ。はかなしはかなし。

 

断簡五六〔C1・弘安元年〕/権経をひろむる国あらば、守護はなすとも強盛なる事は有るべからず。いかにいわうや、仏説にもあらざる権経を執して、仏説たる

 

念仏破関連御書〔C1・文永三年〕/かの浅経の読誦等の句に華厳・方等・般若等をいるるだにも不思議なるに、後八年の大法法華・涅槃・大日経等をば通じ入れて上品上生の往生の業とするだにも不思議なるに、あまつさえ称名念仏に対して法華経等の読誦は無間等の往生なんど申して、日本国中の上下万人を五十余年が程、謗法の者となして無間大城に堕しぬる罪はいくら程とかをぼす。先づ法然が亀鏡にささげたしり双観経の本願の文には「唯除五逆誹謗正法」と法蔵比丘いましめをかねてなし、正直捨方便の法華経には「若人不信毀謗乃至其人命終入阿鼻獄」と記しをかれたり

 

念仏破関連御書〔C1・文永三年〕/□□するとも、善導・法然聖人の御義をすつべからず。善導・法然上人のをはしまさざる故にというか。若し爾らば釈迦如来の二天三仙の外道の義をやぶり給ひし、天台大師の南三北七つめし向かう、さればと申して人用ゐざりしか。□の義をいいて用させし者はをこの者にてこそありしか。又云く、日蓮かしこしという

 

仏説御書〔C1・弘安元年〕/仏説にはあらず。今の観経・阿弥陀経等も仏説にはあらず。源を尋ぬれば華厳経

 

断簡六〇〔C1・建治二年〕/四味為麁、醍醐為妙とは是れなり。答へて云く、此の義は汝が今始めたる私の義にあらず

 

断簡六一〔C1・文永〕/天台妙楽等の釈を顕はし出だして□心みる□釈し

 

仏説御書〔C1・弘安元年〕/法華経こそ大覚世尊初めてとかせ給ふ法門なれば仏説の始めなれ。大日経等と申すも、詮を論ずれば仏説にはあらず。華厳経の法門なるゆへなり。華厳宗が華厳経を根本法輪と申すは、法華経をだにも除きて有りましかばいわれたる事にて有るなり。今の天に列なりまします日月衆星も、前四味の間は仏の御弟子にはあらず。初成道已前華厳経の別円二教をさとりたりし人なり。総じて三千大千世界の天人竜神等の上首たる人々は皆かくのごとし。本より他仏に随ひて別円二教を知りたりしかども、応化応生と申して釈迦仏の行化を助けんがた(め)に

 

断簡六三〔C1・建治二年〕/日蓮責か本師責か。汝の師は念阿、念阿の師は皇覚、皇覚の師は法然法然の師は善導、善導の師は道綽なり。

 

断簡六四〔C1・弘安三年〕/吼ゆることなし。ひるすぎよに入り候へば、よろづのけだもの、きつねは人となり、とらは鬼神等となりて、一切衆生をたぼらかし、ないし師子王の子をあなづり候なり。

 

断簡六五〔C1・文永一一年・人々〕/人々御返事日蓮

 

上野殿御返事断片〔C1・建治三年五月一五日・上野殿〕/今の釈迦仏といわれさせ給ひぞかし、さればとてひが事をすべきにはあらず。今はすてなば、かへりて人わらわれになるべし。かたうど(方人)なるやうにて、つくりをとして、我もわらい、人にもわらわせんとするがきくわひ(奇怪)なるに、よくよくけうくわん(教訓)せさせて、人の多くき

 

断簡六七〔C1・弘安元年〕/るところ□□□□□両方の□

 

断簡六八〔C1・文永五年〕/正直捨方便これなり。大竜

 

断簡六九〔C1・弘安元年〕/り。又十悪五逆

 

三論宗御書〔C1・弘安二年〕/三論宗の始めて日本に渡りしは、三十四代推古の御宇治十年〈壬戌〉十月、百済の僧観勒之れを渡す。日本紀の太子の伝を見るに異義なし。但し三十七代の事、流布の始めなり。天台宗律宗の渡る事は、天平勝宝六年〈甲午〉二月十六日〈丁未〉乃至四月、京に入り東大寺に入る、天台止観等云云。諸伝之れに同じ。人王第四十六代孝謙天皇の御宇なり。聖武は義謬りなり。書き直すべきか。戒壇は以て前に同じ。大日経の日本に渡る事は、弘法の遺告に云く「件の経王は大日本国の高市郡久米道場の東塔の下に在り」云云。此れ又元政天皇の御宇なり。/法華経の渡り始めし事は、人王第三十四代推古の四年なり。「太子云く、恵慈法師謂ひて曰く、法華経の中に此の句、字を落とす」云云。太子使ひを漢土に遣はす已前、法華経此の国に有るや。推知するに欽明の御宇に渡る所の経の中に法華経は有るなり。但し自づから御不審の大事有り。所謂日本紀に云く「欽明天皇十三年〈壬申〉冬十月十三日〈辛酉〉、百済国の聖明王始めて金銅の釈迦像一躯を献ず」等云云。善光寺流記に云く「阿弥陀並びに観音・勢至、欽明天皇の御宇治天下十三年〈壬申〉十月十三日〈辛酉〉百済聖明王件の仏菩薩頂戴」云云。相違如何。

  

五大のもとへ御書〔C1・弘安二年頃〕/□□□□□□□□□等御尋ねあるべし。経は或は先後し、或は落経にても候はず、□□□りけるに、なに事もかくの事□不沙汰あるか。ものくるわしきとはこれなり。法門もかしこききやうにて候へばかるかるべし。/追申/五大のもとへは三四度も之れを申し、他所に於て之れを聞かしむ。将又事に依りて子細有るべきか。伯耆阿闍梨の事は但我私なるやうなるべし、設ひ件の人見参をなすと雖も其の義を存して候へ 

 

一定証伏御書〔C1・弘安三年〕/一定と証伏せられ候ひしかば、其の後の智人かずをしらず候へども、今に四百歳が間さで候なり。かるがゆへに今に日本国の寺々一万余、三千余の社々、四十九億九万四千八百二十八人の一切衆生、皆彼の三大師の御弟子となりて、法華最第一の経文、最第二最第三とをとされて候なり。されども始めは失なきやうにて候へども、滴つもりて大海となり、ちりつもて大山となる。

 

断簡七五〔C1・弘安元年〕/べからず。弘法大師・慈覚大師・智証大師と申す三

 

断簡七六〔C1・文永六年〕/各所罷り蒙るべきなり。仍って起請件の如し。貞永元年七月十日等と起請文に載せ了んぬ。次下武蔵守平朝臣

 

断簡七七〔C1・建治元年〕/戯論にも法華経を我が経々に相対して下しぬれば必ず阿鼻に堕すべし。所謂無垢論師・徳光論師・嵩法師・信行禅師・得一等なり。「謗法開罪於無間」等の釈これなり。天台大師は漢土第一の福人なり。

 

断簡七八〔C1・文永元年〕/寿仏といわれましまして寿の長くましますも、凡夫にてましましし時の不殺生戒の力なり。又極楽世界の七重宝樹と申す木も不殺生戒の力なり。

 

 断簡七九〔C1・建治元年〕/をてらす。瓶沙王に勝ること千倍、家中に金犁九百九十九、其の家にあり。最下品直百千両金釘を以てこれを指すに、七尺穿たずして本のごとし。□六十庫蔵あり。一庫に三百四十斛を入れたり。十六大国の中□第一の大長者なり。教主釈迦後第四年にまいりて御弟子となる。家を捨て欲を捨てて出家せし時、身に無価の宝衣を被りて候ひしが、截ちて僧伽梨衣となして四にたたみ、仏にたてまつりて

 

 断簡八〇〔C1・建治二年〕/つけるなり。今も又かくの事し。をやのあとをつがせ給ひて

 

断簡八一〔C1・建治三年〕/近をもって遠を知るなら

 

断簡八二〔C1・建治二年頃・富木常忍及び尼御前〕/現在には九旬のよわひをたもち、一国に財をみて、臨終には法華経を唱へさせ給ひて、同じく霊山にまいり給ひ、父母にげざん有る時、いくそばくかうれしくをはせん。又

  

断簡八三〔C1・弘安〕/ととはれてかへてたうがごとし。今天台宗云く、華厳経・観経等の円と法華経

 

断簡八四〔C1・文永一一年一二月から文永一二年一月頃〕/宅内に食を絶つこと両三日、道路に通人無し。此の僧正寒に責められ、又食無きの上、洛中に一の青女有り。余が悲母なり。誰人か之れを養はん。我仏法を学し不

  

小乗大乗分別抄断片〔C1・文永八年〕/又還りて天台本宗をば下して華厳宗真言

 

 断簡八六〔C1・建治元年六月六日・四条金吾〕/なり。よくきこしめすべし。/恐々謹言六月六日日蓮(花押)/左衛門尉殿御返事

 

断簡八七・一八二〔C1・建治元年〕/呉王となる。劉備は蜀王となる相人の申せし事一分言相違なし□□□□初めの相に後の報 

 

断簡八八〔C1・建治三年〕/を貫赤気宮

 

断簡八九〔C1・建治二年〕/迦葉・舎利弗等あり。いかにあながちに地涌千界上行等を実の眷属というや。答へて云く、法華経の涌出・寿量等を

 

断簡九〇〔C1・弘安〕/又地涌の菩薩の

 

断簡九一〔C1・弘安三年・三郎殿〕/三郎殿、ずくし二、すどう菩薩と申せし蓮五本を定光仏にくやうしまいらせ釈迦仏となり給ふ。

 

念仏破関連御書〔C1・文永三年〕/王これをもちゐず。仏、地神天神を証人として論じかたせ給ひたりき。さればこの世界は我等が本師釈迦如来の御所領なり。されば四衆ともに仏弟子なれども、憂婆塞・憂婆夷は仏弟子なれども外道にもにたり。比丘・比丘尼は仏の真子なり。されば大悲経には大梵天・第六天・帝釈・四大天王・人王等を一々にめして、三千大千世界を次第にゆづり給ひて云く、この世界を領知して我が真子比丘比丘尼を供養すべき由をとき給ひき。爾の時、梵天・帝釈等仰ぎて仰せに随ひにき。又、正直捨方便の法華経の譬喩品に云く「今此の三界は皆

 

断簡九三〔C1・弘安〕/□想結□まい

 

断簡九四〔C1・建治元年〕/然非不有故言

 

断簡九五〔C1・建治元年〕/半坐を許され仏とならび、閻浮第一の大僧と成り給ひしか

 

法蓮抄断片〔C1・建治元年・法蓮上人〕/此れを妄語といはんとすれば

 

断簡九七・九八〔C1・建治二年〕/弟子と見しほどに法華経の弟子らに

 

断簡九七・九八〔C1・建治二年〕/初発心の弟子にはあらず。双林最後の

 

断簡九九等五編断簡〔C1・文永六年〕/なり、主なり。王〈当帝〉の御ために山門は主師親の三

 

大乗止観法門要文断簡〔C1・文永七年〕/然有証有凡有聖。但

  

断簡一〇一〔C1・弘安元年〕/ただ一人ある者をにくみ、うしなわせ給ひては、もしやの事の

  

断簡一〇二〔C1・建治二年〕/候上はいかにと此れは叶ひ候べき。たのま

 

断簡一〇四〔C1・建治元年〕/物部守屋大連。中臣勝海連曰。何背国神敬他神哉。由来不識若此事矣。蘇我大臣曰可随詔而奉助生異計。遂引法師〈豊国法師〉入於内裏大連横睨大怒。太子語左右曰。大連不識因果理。而今将亡。噫嗚可悲。是時有人。蜜語大連曰。群臣図卿不可不備。大連聞之招軍兵。中

  

断簡一〇五〔C1・佐前〕/含経の肝心は□説中阿含

  

断簡一〇六〔C1・佐前〕/□□経□□□□□

 

断簡一〇七〔C1・文永一一年〕/へは候か。釈迦仏はをやに/乃時日蓮(花押)

 

千日尼御返事断片〔C1・弘安三年七月二日・千日尼〕/指し付きてをはせし御舌どもの、くぢらの死にてくされた

 

断簡一〇九〔C1・弘安二年〕/漢のかうそ□□にてをはせし時、秦の始皇にせめられて山中にをはせしに、呂后と申せし婦の候はんを□□□□但一人山中に入りて沛公をたすけよと

 

断簡一一〇〔C1・文永六年〕/梵天・帝釈・四大天王、総じて日本国中六十余州大小の神祇、別しては伊豆・筥根両所の権現、三島大明神・八幡

 

断簡一一一〔C1・弘安元年〕/抑是非につけて御使ひは神妙に候とをぼしめせと、しづしづという

 

南條兵衛七郎殿御書断片〔C1・文永元年一二月一三日・南條兵衛七郎〕/法華経をすてて念仏等の権教に

 

断簡一一三〔C1・建治三年〕/ごとし。大蒙古国日本国を

 

断簡一一四〔C2・文永九年五月二六日・日妙聖人〕/人をば天まぼり給ふゆへに、とがなけ

 

断簡一一五〔C1・建治元年〕/あらざるか。将又過去の貧道偸盗の業を消滅するかのゆえに、しばらく貧なるべしと心えよ。あえて経文のとがにはあらざるか。伝教大師云く「讃者

 

断簡一一六〔C1・建治元年〕/て候へども人の御心へのために

 

断簡一一七〔C1・文永五年〕/去ぬる正嘉元年〈丁巳〉大地震〈此の大瑞日本日記に見えざるか〉日蓮諸経を引き勘ふるに、念仏宗禅宗等の邪法此の国に出現し、存の外に国中の上下鎮護国家の為の大法を蔑如せしむるに依りて、法華・真言の国中の守護の諸大善神瞋恚を為し、悉く他国に向かふが故に起こる所の災難なり。此の国将に他国に襲はるべし等云云。具には故最明寺入道殿に奉る勘文のごとし〈谷土野禅門之れを尋ぬべし〉念仏者並びに檀那等之れを聞いて怨を成すこと、譬へば不軽菩薩の増上慢の四衆の如し。

 

断簡一一八〔C1・弘安元年〕/給へるは、此れは有る人物語りて云く、いかに京上りの人のさかわに止りて、いへをつくり妻子をまうけて、洛陽とをぼすぞ、いそぎいそぎ御京上り有るべしと申せし、うちをどろきて、さぞかしとをぼしめして大竜にうちのり、須臾の間に花のみやこ

 

断簡一一九〔C1・建治三年〕/法門水火なり。何を信ずべしともをぼへざりしに、陳主皇帝の御宇に徳安大師智顗と申せし人、後には天台大師とがうす。南北数流の流れを止めて但天台の一海となせ 

 

念仏破関連御書〔C1・文永三年〕/釈迦仏にはすぐべからず。釈迦如来は正しく法華経に「悪世末法の時、能く是の経を持つ者」等云云。善導云く「千中無一」等云云。いづれを信ずべしや。又云く、日蓮がみる程の経論を善導・法然上人は御覧なかりけるかと申すか。若しこの難のごとくならば、先の人の謬りをば後の人のいかにあらわすとも用ゐるべからざるか。若し爾らば、なんぞ善導

 

破信堕悪御書〔C1・建治三年〕/かたきはををく、かたきはつよく、かたうど(方人)はこわくしてしまけ候へば、悪心ををこして、かへて法華経の信心をもやぶり、悪道にをち候なり。あしきところをばついしざりてあるべし。釈迦仏は三十二相そなわて、身は金色、面は満月のごとし。しかれども、或は悪人はすみとみる、或は悪人ははいとみる、或は悪人はかたきとみる。

 

断簡一二二〔C1・建治三年〕/ども、法華経並びに一切経の心をしりたる人一人もなし。謗法の人のみありて一国こぞって阿鼻地獄

 

断簡一二三〔C1・建治元年〕/大日経との梵本を御覧ありしが、一とかかせ給ひて候へば一としるぞかし

 

断簡一二四〔C1・建治〕/かたがたいわひこめ□□□□ただしと□□□□めにやまのすまひ□□

  

断簡一二五〔C1・建治元年〕/末孫なり。など師子の子は象の子には劣るぞ。

  

断簡一二六〔C1・建治元年〕/と申すは此れこそ心えられ候はね。頸を

  

断簡一二七〔C1・文永〕/天畜と人鬼上下□□

  

断簡一二八・一二九貼合〔C1・文永七年〕/僧都・僧上なんど申せし

 

断簡一二八・一二九貼合〔C1・文永七年〕/□塔の前にともさせ

 

断簡一三〇〔C1・文永五年〕/三論宗天竺の祖師/□□竜樹・青目・清弁・智光/論師・羅什三蔵/唐土の師嘉祥大師等/二蔵経小乗声聞蔵一切の小乗経/大乗菩薩像華・方・般若・法華・涅槃等也/三時教有教小乗/中道教・深密経・華厳経法華経・涅槃経等なり/└了義経

 

断簡一三一・一三二〔C1・文永八年〕/し。しかも此の法華経に已今当説最

  

断簡一三一・一三二〔C1・文永八年〕/経中最為深大」等云云。譬へば華厳経

 

下山御消息断片〔C1〕/法華経をすてて念仏を申す。日蓮法華経を持つといへども念仏を恃まず。我等は念仏をも持ち、法華経をも信ず。戒をも持ち、一切の善を行ず等云云。此等は野兎が跡を隠し、金鳥が頭を

 

断簡一三四〔C1・弘安三年〕/南無律宗禅宗等と申すもみなながら、はたとをれ、どうとたふれ、木のをれたうるるがごとく、山のくづれ、いわのはれ、なみのたち、地のふるうがごとく候へば、国土もをだやかならず、人の心もさわぎ

 

断簡一三五・断簡追加V〔C1・建治二年〕/何経の文ぞや。南北十師の末学等一同に答へて云く、涅槃経第七に、我今日より始めて正見を得たり。世尊是れよりの前、世尊は我等を悉く邪見の人と名づく等云云。智顗此の経文を糾明せしかば、法華経邪見と申す文にはあらず。迦葉童子菩薩か

  

断簡一三六〔C1・建治元年〕/行ぜば、如意珠をもてる者の瓦礫と交易をなし、帝釈の瀰猿を友とせるがごとしと心うべし。かくのごとく心へて他宗の人々にむかひては、経計り

 

断簡一三七〔C1・文永八年〕/薬師経に云く「若是女人得聞世尊薬師□□□至心受持於後不復更受」。のみならず華厳宗法相宗三論宗・真

 

断簡一三八〔C1・弘安元年〕/二乗有ること無し」等云云。伝教諍ひて云く「此の経文は一乗方便という経文にはあらず。前後を見るべしとせめしかば

  

断簡一三九〔C1・文永末〕/之可説なり。是一。観経の文に妙法といふは、小乗経の無妙法に対するなり。何ぞ必ずしも法華経を指すと意得んや。

  

断簡一四〇〔C1・建治二年〕/十一年四月八日

 

断簡一四一〔C1・建治〕/ひとと馬とを見まがうことなし。白と白と黒と黒とにこそまどう□ん

 

断簡一四二〔C1・弘安〕/不順との意にてとくとこの

  

断簡一四三〔C1・文永六年〕/地に因りて倒れ、還た扶けて起つが如し

 

断簡一四四〔C1・文永〕/真の法華行者

 

断簡一四五〔C1・文永〕/かへりて行はれんがごと

 

一乗要決要文・断簡一四六等八種貼合〔C1・正元年間〕/一家の学者尚を

  

断簡一四七〔C1・文永〕/迦きよし定

 

断簡一四八〔C1・文永七年〕/阿闍世、未生怨太子をかたら

 

断簡一四九〔C1・文永七年・浄顕房・義浄房〕/ひとをふみ経々の中をもに□□/□法華経の日本□釈迦三徳/ある□□ます/しかたき/□□見惑は草木を筆とんとす/硯をき昔聞次乃至童仏所得教昔聞権是諸人無量方/仏相即是

  

断簡一五〇〔C1・文永七年〕/に二言なしと申して、人王となる人虚妄なしとあれば、○あなづらずば自他の大難もとどめぬべし。問うて云く、何禍に□□□□□□□□□

  

断簡一五一〔C1・建治三年〕/法華経に云く「疑ひを生じて信ぜざらん者は則ち当に悪道に堕つべし」。各々疑って無間大城

  

断簡一五二〔C1・文永一二年〕/まろばらに□軍兵などよせ□□なんと申す事こそ存外の妄語にて候へ。

 

断簡一五三〔C1・建治二年〕/天台大師は約部・約教あり。約教は天台の釈の本意にはあらず。天台已前

 

断簡一五四〔C1・建治元年〕/問うて云く、去ぬる正嘉の大地震、永元の大彗星は国日□国天子並びに万民一同に日蓮を理不尽ににたれども、聖賢にあらざるかのゆへに善無畏等に打ちぬかれぬ。さて善無畏が云く、汝に天竺の秘法教ふべし。漢土の

 

断簡一五五〔C1・建治三年〕/功徳をさうる大悪としる人候はず。譬へば日本国の女人の御た

  

帰伏正法御書〔C1・弘安二年〕/仏法の中にあらそい出来すべきたね、国のみだるべきせんへうなり。いかなる聖人の御ことばなりとも用ゐるべからず。各々日蓮をいやしみて云く、真言宗法華経宗とは叡山・東寺・園城・なら、上一人・下万民一同に帰伏する正法なり。始めて勝劣を立て慈覚・智証・弘法にそむかんとをほせあるはいかんがとをぼすか。強敵を

 

断簡一五七〔C1・建治二年〕/の先の師の義を破るをば用ゐるるや。設ひ当世の□□□□□念仏者

 

断簡一五九〔C1・文永五年〕/と勘へて、正元二年〈庚申〉、同文応元年なり。七月十六日、野戸野入道に付けて最明寺入道殿に奏□□被了。此故日蓮文応二年〈辛酉〉五月伊豆国伊東

 

仏説御書〔C1・弘安元年〕/あらず。阿含経こそ仏説にては候へども、又拙き経なり。華厳経をとくほどの人の、阿含経をとかざるべきぞ。

 

断簡一六一〔C1・弘安元年〕/外道あり。其の弟子に六師、九十五種にながれて法門

 

断簡一六二〔C1・建治〕/はいま

 

念仏破関連御書〔C1・文永三年〕/是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」等云云。この文のごとくならば、この三界は皆釈迦如来の御所領なり。寿量品に云く「我常に此の娑婆世界に在り」等云云。この文のごとくならば、乃往過去五百塵点劫よりこのかた、此の娑婆世界は釈迦如来の御進退の国土なり。其の上、仏滅後一百年に阿育大王と申す王をはしき。此の南閻浮提を三度まで僧に付属し給ひき。又此の南閻浮提の内の大日本国をば、尸那国の南岳大師此の国に上宮太子と生まれて、この国の主となり給ひき。しかれば聖徳太子已後の諸王は皆南岳大師の末葉なり。桓武天王已下の諸王は又山王

 

南無御書〔C1・建治元年〕/堂塔つくらず、布施まいらせず、唯をしき物は命ばかりなり。これを法華経にまいらせんとをもう。三世の仏は皆凡夫にてをはせし時、命を法華経にまいらせて仏になり給ふ。此の故に一切の仏の始めは南無と申す。南無と申すは月氏の語、此の土にては帰命と申すなり。帰命と申すは天台釈して云く「命を以て自ら帰す」等云云。命を法華経にまいらせて仏にはならせ給ふ。日蓮今度命を法華経にまいらせて

 

題目功徳御書〔C1・建治元年〕/功徳は先の功徳にもくらぶれば、前の功徳は爪上の土のごとし、法華経の題目の功徳は十方の土のごとし、先の功徳は一渧の水のごとし。題目の功徳は大海のごとし。先の功徳は瓦礫のごとし、題目の功徳は金銀のごとし。先の功徳は蛍火のごとし、題目の功徳は日月のごとしと申す経文なり。

  

常楽我浄御書〔C1・弘安元年〕/出でさせ給ひて諸大乗経をかんがへ出だし、十方の浄土を立て、一切諸法は常楽我浄と云云。其の時、五天竺の十六の大国・五百の中国・十千の小国・無量の粟散国の諸小乗経の無量無辺の寺々の衆僧、一同に蜂のごとく蜂起し、蟻のごとく聚集し、雷のごとくなりわたり、一時に聚集して頭をあわせてなげいて云く、仏在世にこそ五天の外道、我等が本師教主釈尊とわあらそいしが、仏は一人なり、外道は多勢なりしかども、外道はありのごとし。仏は竜のごとく、師子王のごとくましませしかばこそせめかたせ給ひしか。此れはそれにはにるべくもなし。馬鳴は一人なれども、我等は多人なれども、代すへになれば悪はつよく善はゆわし。仏の在世の外道と仏法とは水火なりしかば、

  

窪尼御前御返事断片〔C1・弘安三年七月頃・窪尼(高橋殿後家尼)〕/くぼの尼ごぜん日蓮/ひさやいこめ・きびやいこめ・あわのこめ・はじかみ・えだまめ・ねいも等のしなじなの物

 

断簡一六八〔C1・文永六年〕/れば□□の御帰依もあさし

 

大田入道殿御返事断片〔C1・建治元年一一月三日・大田乗明〕/造五百部大乗論破失小乗

  

断簡一七〇〔C1・文永〕/わづかの邪法一をつ

 

断簡一七一〔C1・建治〕/経の円と方等経の円と斉等なり。方等の

 

断簡一七二〔C1・建治三年〕/法華経と三大師と法門水火なり、天地なり。日蓮此れを不審し申しければ、三大師の御弟子等答へて云く、法華経は顕経の中の最第一、顕密相対せば或は第二、或は第三と云云。或は云く、大日経は三密相応一切第一、法華経は意密計り有りて身口なし。或は云く、教主の勝劣と云云。随って又日本国の天台華厳等の七宗の学者等も此の義を証伏し了んぬ。此の故四百余年が間は日本一同に此の義にて候なり。漢土の義大体かくのごとし

  

断簡一七三〔C1・文永九年〕/候へば。なるる心にてをどろかれ候はねども、つらつらをもひ候へば、いへざる事にてをはする上、名あるつわものかまくらに多しといへども、ことにこの御

 

断簡一七四〔C1・弘安五年四月一三日・人々〕/あながちに申させ給へ。/四月十三日日蓮(花押)/人々御返事

 

断簡一七五〔C1・建治三年〕/さてこそ最澄法師、大師にもならせ給ひ、聖人ともいわれさせ給ふ。

 

断簡一七六〔C1・文永〕/のごとし。法華経より外の一切経は仏口よりは出ださせ給ふとも、世尊一切衆生の心に随ひてとかせ給ひて候へば、仏経にして仏経にあらず。故に天台云く「非仏法故非実教非円教」云云。又

 

断簡一七七〔C1・文永五年〕/正嘉元年〈太歳丁巳〉八月二十三日戌亥尅先代□□大地振。外典者種々勘文雖爾□他国此の国を責むべしとの□勘文之れ無し。日蓮あに□□みをなすところ、正嘉二年〈戊午〉八月一日大風、同三年〈己未〉飢饉、正元元年〈己未〉、同三年〈庚申〉流罪せられ、弘長三年〈癸亥〉二月二十四日御赦免。文永元年〈甲子〉七月上旬の四五日、東方に彗星出で、光□□大体一国に満つ。陰陽家一々勘文す。然りと雖も止絶他国此国□□□知之但助利一人知□□人不用之、是の如き次第文□年□今年文永五年〈戊辰〉閏正月上旬、豊前□□□至蒙古国朝状を以て□□鎌倉殿。日蓮が勘文宛も符契の如し。

 

断簡一七八〔C1・文永一一年〕/人肉を食はざる投身無用なり。今其の中を取りて之れを勘へるに、法華経実相は一同に之れを存すと雖も、其の行儀時に随ひて不定なるべし。故に流通の諸品、品々なり。仏菩薩の意楽随時の故か。設ひ悪に非ずと雖も小善を以て大善を防ぐは五逆罪に過ぐるなり。今の智者万善を勧めしむるよりは一大悪を治するには如かず。例せば外道の九十五種の如し。其の所詮を取るに常楽我浄の四字なり。名は仏法の根本を得たるも其の義は即ち邪なり。仏世に出でて先づ此の悪を治す。正法を説かんが為に苦・無常等の四法を構へて彼の邪見を治す。今の世間は弥陀の名号の権法を以て円機を抑へ、円経に進まざらしむ。名号の権悪を治せんが為には妙法蓮華経の実術を用ゐる。在世・滅後異なりと雖も正法を弘むるの心是れ一なり。時に当たりて秘術を得たるか。

 

断簡一七九〔C1・文永〕/諸仏如来の一仏もかけ給はず広長舌を大梵王宮に

 

断簡一八〇〔C1・弘安〕/思処なり。されば法華

 

断簡一八一〔C1・弘安〕/行菩薩逆末代謗法一子

 

断簡一八二・八七〔C1・建治元年〕/後漢の末に三人の賢人あり。所謂孫権〈呉王〉と劉備〈蜀王〉と曹操〈魏王〉となり。此の三人謂と申す相人のもとへ行きて相を問ふに、相人申す、三人共に王となるべし。

 

断簡一八三〔C1・建治二年〕/叶ふまじきにや、此の人々□□□□念仏者等は法華経に□□んなり

 

断簡一八四〔C1・文永一〇年〕/三人なりと云云。法華経の行者の世に出現する瑞相は、文永元年七月四日の大長星の虚空に出でたりしを、諸人此れを見てをどろきしがごとし。又去ぬる正嘉元年八月の大地震に人のさわぎしかども、先づ教主釈尊の御出現の時さわぎし事、涅槃経に一切の外道、摩竭大国阿闍世王に讒訴して云く、今は唯一の大悪人有り、瞿曇沙門等云云。又云く、一切世間の悪人、利養の為の故に其の所に往集して眷属と為り、善を修するあたわず。呪術力の故に、迦葉及び舎利弗目連等を調伏すと云云。天台大師を南北の諸師の讒訴あり云云。之れを略す。南都七大寺の三百余人伝教大師を讒訴して云く「西夏には鬼弁波羅門有り。東土に巧言を出だすは禿頭の沙門なり。此れ乃ち物類を冥召し、世間を誑惑す」云云。法華経に云く「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度後をや」云云。

  

報恩抄断片〔C1・建治二年七月二一日・義淨房・浄顕房〕/なり。金剛頂経を其の徳善無畏のごとし。ふるこの人の功徳いかにして地獄には

 

断簡一八六〔C1・建治三年〕/過去を以て未来を知るべし。予は地涌の一分に非ざれども

  

断簡一八七〔C1・弘安三年〕/若人有病得聞是経」の文は候へども、此の経をよむ人々

 

断簡一八八〔C1・弘安三年〕/とたのもしく候。法華経の法門には種熟脱と申して三つの大事候。

 

断簡一八九・一九〇〔C1・文永一二年〕/末代法華経広宣流布□時は必ず此等の経の邪義を糺明して如来滅後

 

断簡一九〇〔C1・文永一二年〕/かほれる人の漢土に亘りて法華経

 

断簡一九一〔C1・建治三年〕/にくませ給ふ。智者どもにあわすれば経文すでに明々たる故に人ごとにつまらせ給ふ。しかも念仏はたうとし薫習としひさし、結句は悪心ををこして私ににくみ、ををやけにつけてあだをなす、わづかに信ぜし人々も

 

断簡一九二〔C1・文永三年〕/のみあり、なんど申す。これはたとき者か。或は又云く、外道を供養せんものは阿鼻地獄に堕つべしと、ひ

 

断簡一九三〔C1・建治四年〕/知やうにかんがへてまいらせよと候ひしかば、仰せに随ひて十住心論と申す文十巻造りてまいらせて候。又仰せに云く、凡夫のために広し、つづめてまいらせよと仰せ下されしかば、三巻につづめられて候。秘蔵宝鑰と申す文なり。かの文の中に一切経の中には第一大日経、第二華厳経、第三法華

  

断簡九九等五編断簡〔C1・文永六年〕/法師にても俗にても山門の上を申すものをば、我が父母の上とをぼしめすべし。これは国をやぶり、我が後世

  

断簡一九五〔C1・弘安元年(一一月頃か)〕/て経をよみ候ひしは八かん(寒)地獄の大苦も此れにはすぎじ。雪山の寒苦鳥もかくやとをもひしに、十一月のついたちの日

  

断簡一九六〔C1・建治元年〕/を競は天災弥(いよいよ)来たるべきか如何。答へて云く爾なり。根隠枝繁源深流□□なり。今日本国の王臣等是の災を畏れて神仏に祈請せばいよ□□重るべし。諸高位に調伏せさ□□国亡速疾ならん。問うて云く、猶いふべし。災難の起□□

 

断簡一九八〔C1・建治元年一一月五日〕/給ひて、霊山会上にまいり値はせ給ひて、みまいらせ給ひ候へ恐々謹言。/十一月五日日蓮(花押)/御返事

 

御所御返事断片〔C1・弘安四年七月二七日・波木井実長〕/れ候はんれうにとどめて候恐々。/七月二十七日日蓮(花押)/御所御返事

本門大法御書

〔C1・建治二年〕/法華経は一代総括の義をこそのべざれども十無上を立てたり。一代超過の心は宛も竜樹菩薩のごとし。而るを南北並びに三論・法相等の宗々の人師の料簡に云く、竜樹・天親の論には法華経の実義を尽くせり。天台の云く「心に存じ給ふとも論にはいまだ尽くさず」。真言師弘法等の云く「竜樹菩薩は顕密の元祖、顕論は仏意を尽くさず、蜜論に尽くす」等云云。今、日本の学者等此の義に迷惑せり。粗漢土・日本の人師の釈を見るに、天台独り此の事をえたまえり。天台は竜樹天/□千未弘の大法と申すは本門の大法なり云云。疑って云く、此の事爾るべしとをぼへず。天台大師は此の法華経を二経□□あり。所謂迹門十四品一経、本門十四品一経なり。迹門の大法は一切経に対しての大法なり。本門の大法と申すは、迹門の円仏の大法に対して彼れを小法と下しての大法なり。所謂天台云く、或は迹門小法といゐ、或は小仏といゐ、或は妙楽云く、或は迹門の円人を畜生とゆう。此等に勝れていかなる法門ありて本門の極理尚を残るというや。答へて云く、月支・漢土・日本国の二千二百三十余年が間の寺塔を見るに、いまだ寿量品の仏を造立せる伽藍なし、精舎なし。

釈迦一代五時継図

〔C6・不明・門下一般〕/大論に云く「十九出家三十成道八十入滅」文。此の論は竜樹菩薩の造、寿命三百年、三十万偈の論師なり。付法蔵の第十三、仏滅後七百年の人なり。/┌─説処は中天竺摩竭提国の寂滅道場菩提樹下七処八会/├─仮立実報土別円の二教を説く/├─三七日の説なり〈三七日は法華の説二七日は華厳の説〉/華厳経─┼─兼と名づく/├─権大乗なり乳味と名づく頓大の機の為に説く/├─頓教と名づく〈亦秘密教有り亦不定教有り〉擬宜と名づく/└─結経は梵網経なり/┌─馬鳴菩薩─起信論を造る/┌─天竺─┼─天親菩薩─十地論を造る/│└─竜樹菩薩─十住毘婆沙論を造る華厳宗祖師─┤┌─杜順和尚/│├─智儼大師/└─漢土─┼─法蔵法師/└─澄観法師/此の華厳教とは所謂仏、摩訶陀国寂滅道場菩提樹下にして始めて正覚を成じたまひし時、七処八会に於て、法恵・功徳林・金剛幢・金剛蔵の四菩薩に加へて頓大の根性の為に、因陀羅網・無障碍土の相を現じて、別円の両教・住行向地の功徳・法界唯心の理を説きたまふ。所謂華厳経なり。此の経には四十一位を明かす。謂く十住・十行・十回向・十地・仏果なり。此の経には新古の二訳有り。六十華厳は旧訳なり。八十華厳は新訳なり。梵網経を以て華厳の結経と為す。此の華厳は、化儀は頓部、化法は別円なり。成道の最初に此の教を説きたまふ。譬へば日出でて先づ高山を照らすが如し。厚殖善根は斯の頓説を感ず。頓説本小の為にせず。彼の初分に於ては永く声聞無し。後分には即ち有り。復坐に在りと雖も聾の如く唖の如し。経文に云く「即ち傍人を遣はして急に追ひて将に還さんとす。乃至、悶絶して地に躄る」云云。/┌─説処は波羅奈国鹿野苑同居土の説├─但三蔵教を説く但と名づく/├─十二年小乗を説く酪味と名づく/阿含経─┼─三乗の根性の為に説く漸教と名づく〈亦秘密教有り亦不定教有り〉/├─誘引と名づく/├─結経は遺教経なり/└─倶舎宗成実宗律宗/此の阿含は是れ小乗教なり。仏成道五十七日を経て梵王の請ひに赴き、波羅奈国の鹿野苑に於て、陳如等の五人の為に三蔵教の四諦の法輪を説きたまふ。謂く、四阿含等の小乗経を説くなり。増一阿含には人天の因果を明かし、長阿含には邪見を破し、中阿含には真寂の深義を明かし、雑阿含には禅定を明かす。遺教経を以て結経と為す。化儀は漸の部の初め、化法は三蔵教なり。三乗の根性の為に此の阿含の教を説く。経の次第に依れば日の次に幽谷を照らすが如し。浅行を偏に明かせば当分に漸を解る。三蔵本大の為ならず。座に在りと雖も多婆和す。経に云く「将に其の子を誘引せんと欲して方便を説く。密かに二人の形色憔悴せる威徳無き者を遣はす」云云。┌─説処は欲色二界の中間大宝坊同居土の説/├─蔵通別円の四教を説く/├─十六年の説なり〈三井寺の義〉説時不定なり〈山門の義〉権大乗生蘇味/├─対と名づく/├─四教の機の為に説く漸教と名づく〈亦秘密教有り亦不定教有り〉/├─弾呵と名づく/├─結経は瓔珞経なり/方等部─┼─深密経─法相宗玄奘三蔵慈恩大師〉/├─楞伽経─禅宗─達磨/│┌─曇鸞法師/├─観経──┐├─道綽禅師/├─双観経─┼─浄土宗─祖師─┼─善導和尚/├─阿弥陀経┘└─法然上人├─大日経─┐┌─善無畏三蔵/├─金剛頂経┼─真言宗─祖師─┼─金剛智三蔵/└─蘇悉地経┘└─不空三蔵/此の方等教は謂く、鹿苑の後般若の前、四教の機に対し処々に四教の法を説いて唯二乗を弾呵し、菩薩を称揚す。所謂密厳経・厚厳経・思益経・方等経・楞伽経・浄名経等なり。瓔珞経を以て結経と為す。化儀は漸部の中、化法は四教なり。説教の次第に依れば日の次に平地を照らすが如し。影万水に臨みて器の方円を逐ひ、波の動静に随ひて一仏土を示すに浄穢不同ならしめ、一身を示現するに巨細各異なり。一音の説法、類に随ひて各解なり。恐畏し歓喜し厭離し断疑す。神力不共の故に見に浄穢有り、聞に褒貶有り、嗅に瞻蔔と不瞻蔔と有り、華に著身と不著身と有り。浄名方等の如し。経文に云く「是れを過ぎて已後、心相体信して入出に難(はばか)り無し」文。/┌─説処は鷲峰山白鷺池等の四処十六会同居土の説├─権大乗なり/├─帯と名づく/┌─┼─熟蘇味と名づく/│├─十四年の説なり〈三井寺の義〉─三十年の説〈山門の義〉/般若部─┤├─漸と名づく〈亦秘密教有り亦不定教有り〉/│├─淘汰と名づく/│└─結経は仁王経なり─已上四十二年なり/│┌─百論──┐/└─┼─中論──┼─三論宗─祖師─┬─嘉祥大師/└─十二門論┘└─吉蔵大師/此の大般若経は唐の玄奘三蔵の所訳、是れ新訳なり。此の経は一部六百巻二百六十五品、六十億四十万字、一万六百三十八紙なり。此の般若経は方等の後、法華の前、四処十六会の中に於て、後三教の機の為に広く諸部の般若を説く。所謂光讃般若経文殊般若経金剛般若経・能断金剛般若経・大品般若・小品般若経・放光般若経・天王問般若経大般若経等なり。仁王般若経を以て結経と為す。唯化儀は漸教の後、化法は通別円なり。此の般若経の時も二乗の念処道品は皆是れ摩訶衍と説いて、亦身子・須菩提をして菩薩の為に般若を転教せしむ。/玄義に云く「大人は其の光用を蒙り、嬰児は其の精明を喪ふ。夜遊の者は伏匿し、作務の者は興盛す。故に文に云く、但菩薩の為に其の実事を説いて、我が為に此の真要を説かず。三人倶に学すと雖も、二乗は証を取る。具には大品等の如し」。経文に云く「爾の時に窮子即ち教勅を受けて衆物を領知し、乃至、而も一餐を取するの意無し」云云。/仏自ら四十余年の諸経を破したまふ事無量義経説法品に云く「我先に道場菩提樹下に端座すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。所以は何ん。諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種々に法を説きき。種々に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕はさず」云云。又云く「文辞は一なりと雖も而も義は各異なり」云云。伝教大師無量義経の注釈に云く「性欲不同種々説法とは是れ能被の教を挙ぐるなり。釈迦一代四十余年の所説の教、略して四教及び八教有り。所謂樹王の華厳・鹿苑の阿含・坊中の方等・鷲峰等の般若、一乗・大小の菩薩の歴劫修行・小乗の三蔵教・大乗の通教・大乗の別教・大乗の円教・頓教・漸教・不定教・秘密教を演説す。是の如き等の前四味各々不同なり。是の故に名づけて種々説法と為す」云云。又云く「但随他の五種性等・門外の方便・差別の権教・帯権の一乗を説いて未だ随自一仏乗等・露地の真実・平等の直道・捨権の一乗を顕はさず。是の故に説いて以方便力四十余年未顕真実と言ふ」云云。無量義経に云く「若し衆生有りて是の経を聞くことを得るは則ち為れ大利なり。所以は何ん。若し能く修行せば必ず疾く無上菩提を成ずることを得ればなり。其れ衆生有りて聞くことを得ざる者は、当に知るべし、是等は為れ大利を失ふなり。無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも、終に無上菩提を成ずることを得ず。所以は何ん。菩提の大直道を知らざる故に。険径を行くに留難多きが故に」云云。注釈に云く「不得疾成無上菩提と言ふは、未だ直道一乗の海路を解らず、未だ純円六度の固船に乗らず、未だ実相方便の順風を得ず。是の故に横に三乗嶮路に道き、留難多き処を歩行して妄想夢裏の大河を懃苦す。是の故に説いて不得疾成無上菩提と言ふなり」云云。/秀句の下に云く「法華経を讃むと雖も還りて法華の心を死す」云云。無量義経に云く「次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説せしかども」云云。伝教大師秀句の下巻に云く「謹んで無量義経を案ずるに云く、○方等十二部経とは法相宗の所依の経なり。摩訶般若とは三論宗の所依の経なり。華厳海空とは即ち華厳宗の所依の経なり。但歴劫修行を説いて未だ大直道を知らず」云云。天台大師玄義の五に云く「成道より以来四十余年未だ真実を顕はさず、法華に始めて真実を顕はす。相伝に云く、仏の年七十二歳にして法華経を説く云云」。恵心僧都の一乗要決の下に云く「仏既に説いて言く、法華真実なり、前は未だ真実を顕はさず。何ぞ強ちに仏教に背きて法華の怨嫉と為るや」云云。記の八に云く「略して経題を挙ぐるに玄(はるか)に一部を収む。故に仏欲以此妙法等と云ふなり」。釈籖一に云く「次に経題を釈す。初めには妙法の両字は通じて本迹を詮し、蓮華の両字は通じて本迹を譬ふ」。/┌─説処は霊山虚空の二処三会実報土の説├─実大乗/├─八箇年の説/├─又開会の妙典とも純円一実の説とも一円機の説とも云ふ/法華経─┼─醍醐味/├─円教/├─頓不定と秘密無し/├─結経は普賢経/└─仏立宗─法華宗天台宗/┌─一に霊山会─序品より法師品に至る十品/二処三会の儀式─┼─二に虚空会─宝塔品より神力品に至る十一品/└─三に霊山会─属累品より勧発品に至る七品/本迹の両門───┬─序品より十四品は迹門なり─開権顕実と名づく/└─涌出品より十四品は本門なり─開近顕遠と名づく/此の法華経は第五時の教なり。無量義経を開経と為し、観普賢経を結経と為す。化儀は会漸帰頓、会三帰一、化法は純円なり。般若の後、双林の前、純ら一の円機に対して真実を説くなり。日光普く照らすに土圭の測影、縮ならず盈ならざるが如し。低頭挙手皆仏道を成ず。汝は実に我が子、我は実に汝が父、唯如来の滅後を以て之れを滅度す。此の第五時の教は是れ日中にして四時に非ず。是れ醍醐にして四味に非ず。是れ定にして不定に非ず。是れ顕露にして秘密に非ず。三乗・五乗・七方便・九法界を会して一仏乗に入らしむ。所以に迹門には二乗初住の位に叶ひて、無生忍を得、成仏の記を受く。八歳の竜女は変成男子して即身に無垢の成道を唱ふ。本門には二世の弟子、増道損生の益を得。凡そ三周四説不可思議なり。方便品に云く「世尊は法久しくして後、要(かなら)ず当に真実を説きたまふべし」。又云く「未だ曾て説かざる所以は説時未だ至らざる故なり。今正しく是れ其の時なり。決定して大乗を説かん」云云。又云く「乃至一偈に於ても皆成仏すること疑ひ無し。十方仏土の中には唯一乗の法のみ有りて二も無く亦三も無し。仏の方便の説を除く」。又云く「諸仏世に出でたまふ。唯此の一事のみ実なり。余の二は則ち真に非ず」。普賢経の記に云く「故に正説に云く、唯此の一事のみ実にして余の二は則ち真に非ずと。斯れに多義有り。一には非頓非漸の妙法を指して一事実と為し、而頓而漸を余二の権と為す。二には三教の仮名を呼びて非真と為し、一円の実理を指して一実と為す。三には四味を以て非真と為し、醍醐を以て一実と為す」。方便品に云く「終に小乗を以て衆生を済度せず」云云。又云く「若小乗を以て化すること乃至一人に於てもせば、我則ち慳貪に堕せん。此の事不可と為す」。又云く「正直に方便を捨てて但無上道を説く」。玄の九に云く「廃三顕一とは此れ正しく教を廃す。其の情を破すと雖も若し教を廃せざれば樹想還りて生ず。教を執して惑を生ず。是の故に教を廃す。正直に方便を捨てて但無上道を説く。十方仏土の中、唯一乗の法のみ有り。二も無く亦三も無し」云云。玄義の一に云く「華落は権を廃するを譬ふ。蓮成は実を立つるを譬ふ」。文に云く「正直に方便を捨てて但無上道を説く」云云。伝教大師の顕戒論に云く「白牛を賜ふ朝には三車を用ゐず。家業を得る夕には何ぞ除糞を用ゐん」。故に経に云く「正直に方便を捨てて但無上道を説く」。方便品に云く「我が昔の所願の如き、今は已に満足しぬ」云云。/玄義の十に云く「即ち方便の一乗を廃して唯円実の一乗なり。故に云く、我本と誓願するが如き今は已に満足す」。方便品に云く「当来世の悪人、仏の一乗を説きたまふを聞いて迷惑して信受せず。法を破して悪道に堕せん」云云。又云く「法を聞いて歓喜し讃めて、乃至一言も発さん、則ち為(こ)れ已に一切三世の仏を供養するなり」。譬喩品に云く「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す」云云。文句の六に云く「旧は西方の無量寿仏を以て、以て長者に合す。今は之れを用ゐず。西方の仏別に縁異なり、仏別なる故に隠顕の義成ぜず。縁異なる故に子父の義成ぜず。又此の経の首末全く此の旨無し。眼を閉ぢて穿鑿す」。疏記の六に云く「弥陀・釈迦二仏既に殊なり。況や宿昔の縁別に化導同じからざるをや。結縁は生の如く成熟は養の如し。生養の縁異なれば父子成ぜず。珍弊途を分かち著脱殊に隔たる。消経事欠け調熟義乖く。当部の文永く斯の旨無し」云云。又云く「往昔は大小の両縁倶に釈迦に在りとし、今は尊特垢衣倶に弥陀に在りとせば更に笑ふべきことを成ず」云云。涅槃経の疏の一に云く「無救無護無所宗仰とは、此れは無主の苦を釈す。貧窮弧露一旦遠離無上世尊とは、此れは無親の苦を釈す。設有疑惑当復問誰とは、此れは無師の苦を釈す」云云。涅槃経の四に云く「我又閻浮提の中に示現し、疫病劫起多く衆生有りて病に悩む所と為さんに、去りて医薬を施し、然して後に為に微妙の法を説いて、其れをして無上菩提に安住せしむ」云云。涅槃経の一に云く「我等今より救護有ること無く、宗仰する所無く、貧窮弧露なり。一旦無上世尊に遠離したてまつらば、設ひ疑惑有りとも当に復誰にか問ふべし」。同二に云く「主無く親無ければ、家を亡ぼし国を亡ぼす」。又云く「一体の仏を主師親と作す」。譬喩品に云く「一切衆生皆是吾子」云云。寿量品に云く「我常に此の娑婆世界に在りて説法教化す。亦余処の百千万億那由他阿僧祇の国に於ても衆生を導利す」云云。大論に云く「十方恒河沙等の三千の国土を名づけて一仏国土と為す。是の中に更に余仏無し。実に一の釈迦仏のみなり」云云。寿量品に云く「我も亦為(こ)れ世の父、諸の苦患を救ふ者なり」云云。宝塔品に云く「能く来世に於て此の経を読み持たんは是れ真の仏子なり」云云。譬喩品に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。其の人命終して阿鼻獄に入らん。一劫を具足して劫尽きなば更(また)生まれん。是の如く展転して無数劫に至らん」。又云く「但楽ひて大乗経典を受持して、乃至余経の一偈をも受けざれ」。妙楽大師の五百問論に云く「況や彼の華厳は但福を以て比す。此の経の法を以て之れを比するに同じからず。故に云く、乃至不受余経一偈と。人之れを思はず、徒らに引く。何の益あらん」。/玄義の五に云く「究竟の大乗は華厳・大集・大品・法華・涅槃に過ぐる無し」。妙楽の釈籖の十に云く「請ふ、眼有らん者は委悉に之れを尋ねて、法華は漸円、華厳の頓極に及ばずと云ふこと勿れ。当に知るべし、法華は部に約するときは則ち尚華厳・般若を破し、教に約するときは則ち尚別教の後心を破す」。譬喩品に云く「初め仏の所説を聞いて心中大いに驚疑す。将に魔仏と作りて我が心を悩乱するに非ずや」。宝塔品に云く「爾の時に宝塔の中より大音声を出だして歎めて言く、善きかな善きかな、釈迦牟尼世尊、能く平等大恵・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以て大衆の為に説きたまふ。是の如し是の如し。釈迦牟尼世尊の所説の如きは皆是れ真実なり」。又云く「釈迦牟尼仏、快く是の法華経を説きたまふ。我是の経を聴かんが為の故に而も此に来至せり」云云。又云く「大音声を以て普く四衆に告げたまはく、誰か能く此の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かん。今正しく是れ時なり。如来久しからずして当に涅槃に入るべし。仏此の妙法華経を以て付属して在ること有らしめんと欲す」。法師品に云く「薬王、若し人有りて何等の衆生か未来世に於て当に作仏することを得べしと問はば、応に示すべし、是の諸人等未来世に於て必ず作仏することを得んと。何を以ての故に。善男子善女人、法華経の乃至一句に於て受持し読誦せん」云云。/宝塔品に云く「諸余の経典数恒沙の如し。此等を説くと雖も未だ難しと為すに足らず。若し仏の滅後に悪世の中に於て能く此の経を説かん。是れ則ち為れ難し」。提婆品に云く「仏諸の比丘に告げたまはく、未来世の中に若し善男子善女人有りて妙法華経提婆達多品を聞いて、浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は、地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして十方の仏前に生ぜん。所生の処には常に此の経を聞かん。若し人天の中に生ずれば勝妙の楽を受け、若し仏前に在らば蓮華より化生せん」。又云く「当時の衆会皆竜女の忽然の間に変じて男子と成りて、菩薩の行を具して即ち南方無垢世界に往きて、宝蓮華に坐して等正覚を成じ、三十二相八十種好あって、普く十方の一切衆生の為に妙法を演説するを見る」。又云く「爾の時に娑婆世界の菩薩・声聞・天・竜・八部・人と非人と、皆遥かに彼の竜女の成仏して普く時の会の人天の為に法を説くを見て、心大いに歓喜し、悉く遥かに敬礼す」。分別功徳品に云く「阿逸多、是の善男子善女人は我が為に復(また)塔寺を起て、及び僧坊を作り、四事を以て衆僧に供養することを須ひず。所以は何ん。是の善男子善女人、是の経典を受持し読誦せん者は、為れ已に塔を起て僧坊を造立し衆僧を供養するなり。則ち為れ仏舎利を以て七宝の塔を起て、高広漸小にして梵天に至る」云云。神力品に云く「仏の滅度の後に能く是の経を持たんを以ての故に、諸仏皆歓喜す」云云。/又云く「我が滅度の後に於て応に斯の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定して疑ひ有ること無けん」云云。薬王品に云く「能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」云云。普賢経に云く「煩悩を断ぜず五欲を離れず、三昧に入らざれども但誦持するが故に」云云。又云く「其れ大乗方等経典を読誦すること有らば、当に知るべし、此の人は仏の功徳を具し、諸悪永く滅して仏恵より生ずるなり」云云。一経の始めの如是我聞を釈する文句の一に云く「如是とは所聞の法体を挙ぐ」。則ち妙法蓮華経是れなり。/┌─一日一夜の説/├─権大乗涅槃経─┼─説処は跋提河の辺/├─常住四教を説く/├─同醍醐味/└─結経は像法決疑経/此の涅槃経は一日一夜の説。三蔵教・通教・別教・円教を明かす。亦醍醐味と名づく。釈尊拘尸那城力士生地、阿利羅跋提河、沙羅双樹の間に於て、二月十五日の晨朝、面門より種々の光を放ちたまふ。十二由旬の内十方の大衆を集めて涅槃経を説きたまふ。即ち三十六の涅槃経、旧訳の四十の涅槃経なり。像法決疑経を以て結経と為す。亦拾教と名づけ、亦扶律顕常と云ふ。化儀は漸部、化法は四教なり。法華の時猶未解の輩有り。更に後番五味を以て余残の機を調熟したまふ。涅槃の時四教の機同じく仏性を見る。秋収冬蔵の如し。唯四機有り、倶に常住を知る。故に法華と合して同醍醐味と為すなり。凡そ一往此の如く配立すと雖も、万差の機縁に随ひて時節の長短不同なり。或は華厳の時長は涅槃の時に至る。阿含・方等・般若も亦爾なり云云。涅槃経の六に云く「法に依りて人に依らざれ、義に依りて語に依らざれ、智に依りて識に依らざれ、了義経に依りて不了義経に依らざれ」云云。又「亦如来随宜の方便所説の法の中に執著を生ぜず。是れを了義と名づく。不了義とは、経の中に一切焼然なり、一切無常なり、一切皆苦なり、一切皆空なり、一切無我なりと説くが如し。是れを不了義と名づく。何を以ての故に。是の如きの義を了すること能はざるを以ての故に、諸の衆生をして阿鼻獄に堕せしむ」云云。/十七の巻に云く「如来は虚妄の言無しと雖も、若し衆生虚妄の説に因ると知れば」文。又云く「虚妄の法則ち是れ罪と為す。是の罪を以ての故に地獄に堕す」云云。/一小乗戒を破する事涅槃経の三の巻に云く「仏迦葉に告げたまはく、能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得。迦葉、我往昔に於て護法の因縁をもって今是の金剛身を成就することを得て、常住にして壊せず。善男子、正法を護持する者は、五戒を受けず威儀を修せず。応に刀剣・弓箭・鉾槊を持ちて持戒清浄の比丘を守護すべし」云云。同十七に云く「仏性を見るが故に大涅槃を得。是れを菩薩の清浄の持戒と名づく。世間戒には非ず」云云。又云く「是の経を受持して戒を毀る者は則ち是れ衆生の大悪知識なり。我が弟子に非ず。是れ魔の眷属なり」云云。法師品に云く「若し是の深経の声聞の法を決了する、是れ諸経の王なるを聞き」云云。安楽行品に云く「又声聞を求むる比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に親近せざれ。亦問訊せざれ。若しは房中に於ても、若しは経行の処、若しは講堂の中に在りても、共に住止せざれ」云云。伝教大師の顕戒論の中に云く「貧人の食は是れ輪王の毒なるが如し。故に二乗の者の持戒精進は即ち菩薩の破戒懶惰なり。故に応に親近すべからず。来たらば為に法を説け。親使利養恭敬をはざれ」云云。秀句の下に云く「小乗の持戒は則ち菩薩の煩悩なり」云云。宝塔品に云く「此の経は持ち難し。若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す。諸仏も亦然なり。是の如きの人は諸仏の歎めたまふ所なり。是れ則ち勇猛なり、是れ則ち精進なり。是れを戒を持ち頭陀を行ずる者と名づく。則ち為れ疾く無上の仏道を得たり。能く来世に於て此の経を読み持たんは是れ真の仏子なり」云云。竜樹菩薩の大論に云く「自法愛染の故に他人の法を毀呰せば、持戒の行人と雖も地獄の苦を脱れず」云云。涅槃経の十二に云く「仏迦葉に告げたまはく、若し菩薩有りて破戒の因縁を以て、則ち能く人をして大乗経典を受持し愛楽せしむることを知りて、又能く其れをして経巻を読誦し通利し書写し広く人の為に説いて阿耨多羅三藐三菩提を退転せざらしめ、是の如き為の故に、故に戒を破ることを得」云云。安然の広釈に云く「能く法華経を説く、是れを持戒と名づく。律儀を持すと雖も善法を摂せざれば、猶木石の衣鉢を帯持せるが如し」云云。弘決の四に大論の十九を引きて云く「諸の比丘仏に問ひたてまつる。阿蘭若の比丘死して、今何の処にか生ずる。仏の言く、阿鼻獄に生ずと。諸の比丘大いに驚く。坐禅持戒して便ち爾に至るや。仏答へて言く、多聞・持戒・禅は未だ漏尽の法を得ず」云云。伝教大師云く「今より已後、声聞の利益を受けず。菩薩は二百五十戒を捨て畢んぬ」云云。涅槃経の四に云く「我涅槃の後、無量百歳に四道の聖人も悉く復涅槃せん。正法滅して後、像法の中に於て当に比丘有るべし。持律に似像して少かに経を読誦し、飲食を貪嗜して其の身を長養せん。袈裟を服すと雖も、猶猟師の細視徐行するが如く、猫の鼠を伺ふが如し。常に是の言を唱ふ、我羅漢を得たりと。諸の病苦多くして糞穢に眠臥す。外には賢善を現じ内には貪嫉を懐く。唖法を受けたる婆羅門等の如し。実に沙門に非ずして沙門の像を現じ、邪見熾盛にして正法を誹謗し、及び甚深秘密の教を壊して各自ら意に随ひて反りて経律を説く」云云。同九に云く「善男子、一闡提有りて、羅漢の像を作し、空処に住して方等大乗経典を誹謗せん。諸の凡夫人見已りて皆真の阿羅漢是れ大菩薩摩訶薩なりと謂はん」。一善導和尚自害の事類聚伝に云く「導、此の身諸若に逼迫せられて情偽反易し、暫くも休息すること無し。乃ち所居の寺の前の柳樹に登りて、西に向かひて願ひて云く、仏の威神驟(しばしば)以て我を摂し、観音勢至も亦来たりて我を助けたまへ。此の心をして正念を失はざらしめ驚怖を起こさず。弥陀の法の中に於て以て退堕を生ぜざらんと。願じ畢りて其の樹の上に極まり身を投じて自ら絶えぬ」。/一仏自害断食身根不具を禁ずる事涅槃の七に云く「若し説いて言ふこと有らん。常に一の脚を翹げて寂黙として言はず。淵に投じて火に赴き、自ら高巌より墜ち嶮難を避けず、毒を服し食を断じ、灰土の上に臥して、自ら手足を縛し、衆生を殺害せん。方道呪術・旃陀羅子・無根・二根・及び不定根・身根不具ならん。是の如き等の事、如来悉く出家して道を為すことを聴きたまふといはば、是れを魔説と名づく」云云。涅槃経の六に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名づけて仏眼と為す。耳鼻五根も例して亦是の如し」云云。像法決疑経に云く「諸の悪比丘、我が意を解せず、己が所見を執して十二部経を宣説し、文に随ひて義を取り、決定の説と作さん。当に知るべし、此の人は三世の諸仏の怨なり。速やかに我が法を滅せん」云云。涅槃経の十四に云く「如来世尊は大方便有り。無常を常と説き、常を無常と説き、楽を説いて苦と為し、苦を説いて楽と為し、不浄を浄と説き、浄を不浄と説き、我を無我と説き、無我を我と説き、非衆生に於て説いて衆生と為し、実の衆生に於て非衆生と説き、非物を物と説き、物を非物と説き、非実を実と説き、実を非実と説き、非境を境と説き、境を非境と説き、非生を生と説き、生を非生と説き、乃至無明を明と説き、明を無明と説き、非色を色と説き、色を非色と説き、非道を道と説き、道を非道と説く」云云。/┌─父は月浄転輪王鼓音声陀羅尼経の説なり/浄土宗の阿弥陀─┼─誓願は執持名号往生極楽/└─正覚は十劫已来なり/┌─父は大通智勝仏/法華宗阿弥陀─┼─誓願は常楽説是妙法蓮華経なり/└─正覚は三千塵点劫なり/薬王品に云く「若し女人有りて、是の経典を聞いて説の如く修行せば、此に於て命終して即ち安楽世界の阿弥陀仏・大菩薩衆の囲繞せる住処に往き、蓮華の中の宝坐の上に生ぜん」云云。疏記の十に云く「若有女人等とは、此の中只是の経を聞くことを得、説の如く修行すと云ふ。即ち浄土の因、更に観経等を指すことを須ひざるなり。問ふ、如何が修行する。答ふ。既に如説修行と云ふ。即ち経に依りて行を立つ。具には分別功徳品の中に直に此の土を観ずるに四土具足するが如し。故に此の仏身即三身なり」云云。「自在所欲生」云云。方便品に云く「舎利弗如来は但一仏乗を以ての故に衆生の為に法を説きたまふ。余乗の若しは二、若しは三有ること無し」云云。安楽行品に云く「無量の国中に於て乃至名字をも聞くことを得べからず」。/陀羅尼品に云く「汝等但能く法華の名を受持せん者を擁護せんすら福量るべからず」。釈籤の一に云く「名は即ち是れ体、文字は解脱なり」。又云く「次に経題を釈す。初めには妙法の両字は通じて本迹を詮し、蓮華の両字は通じて本迹を譬ふ」。疏記の一に云く「妙法の唱へは唯正宗のみに非ず、二十八品倶に妙と名づくが故に。故に品々の内に咸く体等を具し、句々の下に通じて妙名を結す」云云。薬王品に云く「若し復人有りて、七宝を以て三千大千世界に満てて、仏及び大菩薩・辟支仏・阿羅漢を供養せん。是の人の得る所の功徳、此の法華経の、乃至一四句偈を受持する、その福の最も多きには如かじ」云云。又云く「能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」。又云く「此の経は能く一切衆生を救いたまふ、此の経は能く一切衆生をして諸の苦悩を離れしめたまふ。此の経は能く大いに一切衆生を饒益して其の願を充満せしめたまふ」。勧発品に云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出ださん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人現世に白癩の病を得ん。若し之れを軽笑すること有らん者は当に世々に牙歯疎く欠け、醜脣平鼻、手脚繚戻し、眼目角、身体臭穢にして悪瘡膿血、水腹短気、諸の悪重病あるべし。是の故に普賢、若し是の経典を受持せん者を見ては、当に起ちて遠く迎ふべきこと、当に仏を敬ふが如くすべし」。/涅槃経の十三に云く「我爾の時に於て思惟し坐禅し、無量歳を経れども亦如来出世の大乗経の名有ることを聞かず」。文句の五に云く「所以は経に出でたり。人の語を信ずることなかれ」。同三に云く「縦令(たとい)百千種の師あって、一々の師百千種の説を作すとも是れ権ならざるは無し。如来の所説有る、尚復是れ権なり。況や復人師をや。寧ろ権に非ざることを得んや。前に出づる所の如きは悉く皆権なり」。一念仏者謗法罪を作る事法然の選択に云く「道綽禅師、聖道・浄土の二門を立て、聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文。初めに聖道門とは之れに就きて二有り。乃至、之に准じて之れを思ふに、応に密大及び実大を存すべし。然れば則ち今真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論、此等の八家の意正しく此に在り。浄土宗の学者先づ須く此の旨を知るべし。設ひ先に聖道門を学するの人なりと雖も若し浄土門に於て其の志有らん者は須く聖道を棄てて浄土に帰すべし。善導和尚、正雑二行を立てて雑行を捨てて正行に帰するの文。第一に読誦雑行といふは上の観経等の往生浄土の経を除きて已外の大小乗顕密の諸経に於て受持し読誦するを悉く読誦雑行と名づく。乃至、第三に礼拝雑行といふは、上の弥陀を礼拝するを除きて已外の一切諸余の仏菩薩等及び諸の世天等に於て礼拝し恭敬するを悉く礼拝雑行と名づく。第四に称名雑行といふは、上の弥陀の名号を称するを除きて已外の自余一切の仏菩薩等及び諸の世天等の名号を称するを悉く称名雑行と名づく。第五に讃歎供養雑行といふは、上の弥陀仏を除きて已外の一切諸余の仏菩薩及び諸の世天等に於て讃歎し供養するを悉く讃歎供養雑行と名づく。乃至、此の文を見るに弥(いよいよ)須く雑を捨てて専を修すべし。豈に百即百生の専修の正行を捨てて堅く千中無一の雑修雑行を執せんや」。又云く「貞元入蔵録の中に、始め大般若経六百巻より終り法常住経に至るまで、顕密の大乗経総て六百三十七部・二千八百八十三巻なり。皆須く読誦大乗の句に摂すべし。夫れ速やかに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中且く聖道門を閣きて選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正雑二行の中に且く諸の雑行を抛ちて選びて正行に帰すべし」云云。大論に云く「自法愛染の故に他人の法を毀呰せば、持戒の行人と雖も地獄の苦を脱れず」云云。法華経に云く「当来世の悪人、仏の一乗を説きたまふを聞いて迷惑して信受せず。法を破して悪道に堕せん」。又云く「法を破して信ぜざるが故に三悪道に墜ちなん」。双観経に云く「設ひ我仏を得んに、十方の衆生の至心に信楽して我が国に生まれんと欲し、乃至十念せんに若し生ぜずんば正覚を取らじ。唯五逆と誹謗正法とを除く」。譬喩品に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。其の人命終して阿鼻獄に入らん。一劫を具足して劫尽きなば更(また)生まれん。是の如く展転して無数劫に至らん」。文句に云く「今経に小善成仏を明かす。此の縁因を取りて仏種と為す。若し小善成仏を信ぜずんば、則ち一切世間の仏種を断ずるなり」云云。/一真言師謗法罪を作る事/秘蔵宝鑰の上に云く、十住心とは/一に異生羝羊心凡夫悪人二に愚童持斎心凡夫善人/三に嬰童無畏心外道四に唯薀無我心声聞/五に抜業因種心縁覚六に他縁大乗心法相宗/七に覚心不生心三論宗八に如実一道心法華宗/九に極無自性心華厳宗十に秘密荘厳心真言宗/又云く「他縁以後は大乗の心なり。大乗において前の二は菩薩乗、後の二は仏乗なり。此の如きの乗々は自乗には仏の名を得れども、後に望めば戯論と作す」云云。又云く「人を謗じ法を謗ずれば定めて阿鼻獄に堕ちて更に出づる期無し。世人斯の義を知らずして、舌に任せて輙く談じて深害を顧みず。寧ろ日夜に十悪五逆を作るべくとも、一言一語も人法を謗ずべからず」云云。大日経に云く「仏不思議の真言相道の法を説くに、一切の声聞縁覚を共にせず。亦普く一切衆生の為にするに非ず」。法華経の二に云く「汝等若し能く是の語を信受せば、一切皆当に仏道を成ずることを得べし。是の乗は微妙にして清浄第一なり」云云。又云く「此の法華経は是れ諸の如来第一の説なり。諸説の中に於て最も為れ甚深なり」。又云く「此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり、諸経の中に於て最も其の上に在り」。/六波羅蜜経に五蔵五味を説く。私に云く、此の経は天台御入滅已後百余年に天竺より漢土に来たれり。爾れば見ざる経の醍醐を盗むと書くは謬失なり。弘法の二教論の下に云く「喩して曰く、今斯の経文に依らば、仏五味を以て五蔵に配当し、総持を醍醐と称し、四味を四蔵に譬へたまへり。震旦の人師等諍ひて醍醐を盗みて各自宗に名づく。若し斯の経を鑑みる則んば掩耳の智、割剖を待たず」云云。又云く「毘盧遮那経の疏に順ぜば阿字を釈す」云云。私に云く、毘盧遮那経疏供養法の巻は竜樹入滅已後八百年の造疏なり。而るに菩提心論に此の事を引き載せたり。故に知んぬ、菩提心論は竜樹の釈に非ざることを。又云く「唯真言法の中にのみ即身成仏する故に是れ三摩地の法を説く。諸教の中に於て欠きて書せず」云云。一真言は別仏の説に非ざる事大日経の一の巻の五仏は、中央は大日如来と説く。同五巻の五仏は、中央は毘盧遮那と説く。第一の巻の五仏は、中央は釈迦牟尼仏と説く。文句の九に云く「普賢観は法華を結成す」。文に云く「釈迦牟尼仏を毘盧遮那と名づく」。乃ち是れ異名なり。別体に非ざるなり。安然の教時義に云く「真言宗の本地毘盧遮那は即ち天台宗妙法蓮華経最深密処と同仏なり」。智証大師の授決集に云く「真言・禅門・華厳・三論・唯識律宗・成倶の二論等は、若し法華涅槃等の経に望むれば是れ摂引門なり」云云。金剛頂経に云く「婆伽梵釈迦牟尼如来、一切平等に善く通達するが故に、一切方を平等に観察して四方に坐したまふ。不動如来宝生如来観自在王如来不空成就如来」云云。大日経普通真言蔵品の四に云く「時に釈迦牟尼世尊宝処三昧に入りて自心及び眷属の真言を説きたまふ」文。大日経の第二に云く「我昔道場に坐して、四魔を降伏し、大勤勇の声を以て衆生の怖畏を除く。是の時梵天等心に喜び共に称説す。此に由りて諸の世間号して大勤勇と名づく。我本不生を覚る」云云。前唐院、金剛頂経の疏に云く「成仏以来甚大久遠なり。未だ所経の劫数を説かざる所以は、経に於て各傍正の義有り。故に彼の法華の久遠の成仏も亦是れ此の経の毘盧遮那仏と異解すべからず」云云。仏法伝来の次第に云く「大師智拳の印を結びて南方に向かふに、面門俄に開きて金色の毘盧遮那と成り即便ち本体に還帰す」云云。涅槃経の七の巻に「仏迦葉に告げたまはく、我般涅槃して七百歳の後、是の魔波旬漸く当に我が正法を壊乱すべし。乃至化して阿羅漢の身及び仏の色身と作らん。魔王此の有漏の形を以て無漏の身と作りて我が正法を壊らん」云云。/一禅宗謗罪を作す事円覚経に云く「修多羅の教は月を標す指の如し」文。方便品に云く「或は修多羅を説く」、「衆生に随順して説く。大乗に入るに為れ本なり」。梵天王問仏決疑経に云く「梵王霊山会上に至りて、金色の沙羅華を以て仏に献り、仏群生の為に法を説きたまへと請ず。世尊、坐に登り華を拈じて衆に示して青蓮の目を瞬す。天人百万悉く皆措くこと罔し。独り金色の頭陀、破顔微笑す。世尊の言く、吾に正法眼蔵・涅槃妙心・実相微妙の法門有り。文字を立てず、教外に別伝し、摩訶迦葉に付属す」云云。是れは中天竺なり。仏の御入滅は北天竺拘尸那城なり。涅槃経の一に云く「爾の時に閻浮提の中の比丘・比丘尼一切皆集まる。唯、尊者摩訶迦葉・阿難の二衆を除く」。同経の三に云く「若し法宝を以て阿難及び諸の比丘に付属せば、久住することを得ず。何を以ての故に、一切声聞及び大迦葉は悉く当に無常なるべし。彼の老人の他の寄物を受くるが如し。是の故に応に無上の仏法を以て諸の菩薩に付属すべし」云云。像法決疑経に云く「諸の悪比丘、或は禅を修すること有るとも経論に依らず。自ら己見を逐ひて非を以て是と為し、是れ邪、是れ正と分別すること能はず。遍く道俗に向かって是の如き言を作さん。我能く是れを知り我能く是れを見ると。当に知るべし、此の人は速やかに我が法を滅せん。乃至、地獄に入ること猶箭を射るが如し」云云。弘決の一の下に云く「世人多く坐禅安心を以て名づけて発心と為す。此の人都て未だ所縁の境を識らず。所期の果無ければ全く上求無し。大悲を識らざれば全く下化無し。是の故に発心は大悲より起こるなり」云云。天台の止観の五に云く「又一種の禅人他の根性に達せずして純ら乳薬を教ふ。体心踏心、和融覚覓、若しは泯若しは了、斯れ一轍の意なり。障難万途紛然として識らず。纔かに異相を見て即ち是れ道と判ず。自ら法器に非ず。復他に匠たるを欠く。盲跛の師徒二倶に堕落す。瞽蹶の夜遊甚だ憐愍すべし」云云。弘決の一に云く「世人教を蔑ろにし理観を尚ぶは、誤れるかな誤れるかな」。方便品云く「諸法実相、所謂諸法、如是相、如是性、如是体、如是力、乃至、如是本末究竟等」云云。妙楽大師の金論に云く「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土なり」云云。疏記の十に云く「直に此の土を観ずるに四土具足す。故に此の仏身は即ち三身なり」云云。/一権実証拠の事玄義の二に云く「則ち百法界千如是有り束ねて五差と為す。一に悪・二に善・三に二乗・四に菩薩・五に仏なり。判じて二法と為す。前の四は是れ権法、後の一は是れ実法」云云。釈籖の二に云く「九界を権と為し、仏界を実と為す」云云。秀句の下に云く「定性と不定性は位の高下に依り、成仏と不成仏は経の権実に依る」。文句の九に云く「漸頓の益は虚なり」云云。記の九に云く「権を禀けて界を出づるを名づけて虚出と為す」云云。玄義の九に云く「化他の因果は仏菩提を致すこと能はず。是の故に取りて並べ用ゐず。化他の権実も亦他をして極に至らしむること能はず。亦取るべからず」云云。止観の三に云く「権の権は実の権に非ず、実の権と成ることを得べし。権の実は実の実に非ず、実の実と成ることを得べからず」云云。/一権実分別の事一に玄義の一に云く「蓮の為の故に華、実の為に権を施すを譬ふ。権は即ち是れ苗なり。文に云く、種々の道を示すと雖も其れ実には仏乗の為なり」云云。二に又云く「華敷は権を開するを譬ふ。蓮現は実を顕はすを譬ふ。権実共に稲なり。文に云く、方便の門を開きて真実の相を示す」云云。三に又云く「華落は権を廃するを譬ふ。蓮成は実を立つるを譬ふ。実独り真米なり。文に云く、正直に方便を捨てて但無上道を説く」云云。釈籖の一に云く「開廃倶時なり。開の時已に廃するが故なり」云云。又云く「開の時即ち廃す」。又云く「既に実を識り已れば永く権を用ゐず」云云。一破三顕一の事方便品に云く「一仏乗に於て分別して三と説く」云云。玄義の九に云く「廃三顕実」。又云く「施権」。方便品に云く「二も無く亦三も無し。仏の方便の説を除く」云云。涅槃経の二十三に云く「実には三乗無し。顛倒心の故に三乗有りと言ふ。一実の道は真実にして虚しからず。顛倒心の故に一実無しと言ふ」云云。方便品に云く「尚二乗無し、何に況や三有らんや」云云。/一入如来恵の事法華経に云く「是の諸の衆生は世々より已来、常に我が化を受けたり。此の諸の衆生は始め我が身を見、我が所説を聞いて、即ち皆信受して如来の恵に入りにき。先より修習して小乗を学せる者をば除く」云云。文句の九に云く「根利にして徳厚し。世々已来常に大化を受け、始めて我が身を見、即ち華厳を禀けて如来の恵に入る。菓熟して零ち易し」云云。釈籖の十に云く「当に知るべし、法華は部に約する時は則ち華厳般若を破す」云云。一余深法中の事属累品に云く「若し衆生有りて信受せざらん者には、当に如来の余の深法の中に於て示教利喜すべし」。文句の七に云く「示教利喜。示は即ち示転、教は即ち勧転、利喜は即ち証転なり」。玄義の六に云く「余とは方便を帯するなり。深とは中道を明かすなり。方便を帯して中道を明かすは即ち別教なり」云云。又云く「但、為に実を弘むるに而も衆生信ぜず。須く実の為に権を施すべし」。釈籖の六に云く「有深復余とは即ち別教の法なり。入地を深と名づけ地前を余と名づく」云云。文句の十に云く「汝能く余の深法を以て仏恵を助申せば、即ち善巧に仏の恩を報ず」云云。疏記の十に云く「以偏助円は則ち此の意なり。此の経の上下一切皆然なり。人之れを見ずして三乗有りと謂ふは謬れり」云云。/一三種教相の事玄義に「教相を三と為す。一に根性の融不融の相、二に化導の始終不始終の相、三に師弟の遠近不遠近の相」云云。釈籖の一に云く「前の両意は迹門に約し、後の一意は本門に約す」云云。寂滅道場を以て元始と為す。方便以下の五品の意なり。/第一の根性融〈法華〉不融〈爾前〉の相華厳・阿含・方等・般若・法華各得道有り、種熟脱を論ぜず。釈籖の一に云く「又今文の諸義は、凡そ一々の科、皆先づ四教に約して以て麁妙を判ずるときは、則ち前三を麁と為し、後一を妙と為す。次に五味に約して以て麁妙を判ずるときは、則ち前四味を麁と為し、醍醐を妙と為す。全く上下の文意を推求せずして直に一語を指して法華は華厳より劣れりと謂へるは幾許の誤りぞや誤りぞや」云云。/華厳は一麁一妙相待妙───麁妙を判ず/阿含は単麁無妙/方等は三麁一妙相待妙───麁妙を判ず/般若は二麁一妙相待妙───麁妙を判ず/法華は二妙有り相待妙は──麁妙を判ず/絶待妙──麁を開して妙を顕はす/釈籖の十に云く「唯法華に至りて前教の意を説いて、今教の意を顕はす」。玄義の二に云く「此の妙と彼の妙、妙の義殊なること無し〈約教相待。前三を麁と為し後一を妙と為す〉但、方便を帯すると方便を帯せざるとを以て異と為すのみ〈約部相待。前四味を麁と為し醍醐を妙と為す〉」云云。同十に云く「初後の仏恵、円頓の義斉し」〈一往の釈〉文句の五に云く「今の如きは始めの如く、始めの如きは今の如し。二無く異無し」云云。弘決の五に云く「惑者は未だ見ず、とは尚華厳を指す。唯華厳円頓の名を知りて、彼の部の兼帯の説に昧し。全く法華絶待の意を失ふ」云云。釈籖の二に云く「故に諸味の中、円融有りと雖も全く二妙無し」。同三に云く「若し但四教の中の円を判じて之れを名づけて妙と為せば、諸経に皆是の如きの円義有り。何ぞ妙と称せざる。故に須く復更に部に約し味に約して方に今経の教も円、部も円なることを顕はすべし。若し教に約せざれば則ち教の妙を知らず。若し味に約せざれば則ち部の妙を知らず」。爾前の相待妙とは「前三〈蔵通別〉を麁と為し、後一〈円〉を妙と為す」云云。法華の相待妙とは「前四味〈華厳・阿含・方等・般若〉を麁と為し、醍醐を妙と為す。三千塵点大通を以て元始と為す」。/第二化導始〈中間〉終〈霊山の初住〉不始終の相化城喩品の意なり種熟脱を論ず種は大通なり熟は中間乃至今日の四味なり脱は今の法華なり玄の一に云く「異とは、余教は当機益物にして如来施化の意を説かず。此の経は仏の教を設けたまふ元始巧みに衆生の為に頓漸不定顕密の種子を作すを明かす」云云。釈籖の一に云く「漸及び不定に寄すと雖も、余教を以て種と為さず。故に巧為と云ふ」。止観の三に云く「若し初業に常を知ることを作さずんば、三蔵の帰戒羯磨悉く成就せず」。弘決の三に云く「今日の声聞の禁戒を具することは、良に久遠の初業に常を聞きしに由りてなり。若し昔聞かずんば小尚(なお)具せず。況や復大をや」云云。弘決の三に云く「若し全く未だ曾て大乗の常を聞かずんば既に小果無し。誰か禁戒の具不具を論ぜんや」云云。又云く「羯磨不成と言ふは、所謂久遠に必ず大無くんば、則ち小乗の秉法をして成ぜざらしむ。本無きを以ての故に諸行成ぜず。樹に根無ければ華菓を成ぜざるが如し。時機未だ熟せず、権に小の名を立つ。汝等の行ずる所是れ菩薩の道、始めて記を得て方に大人と名づくるに非ず」。釈籖の一に云く「法譬二周の得益の徒は、往日結縁の輩に非ざること莫し」云云。/┌─五百塵点久遠を以て元始と為す寿量品の意なり/├─五百塵点霊山の中間/第三に師弟の遠近不遠近の相/├─種熟脱を論ず/└─種は久遠熟は過去脱は近く世々番々の成道今日の法華なり玄義の一に云く「又衆経には咸く道樹にして師の実智始めて満し、道樹を起ちて始めて権智を施すと云へり。今の経には師の権実道樹の前に在りて、久々に已に満ぜりと明かす。諸経に二乗の弟子は実智に入ることを得ず、亦権智を施すこと能はざることを明かす。今の経には弟子の入実は甚だ久しく、亦先より解して権を行ずることを明かす。又衆経は尚道樹の前の師と弟子との近々の権実を論ぜず。況や復遠々をや。今の経は道樹の前の権実長遠なることを明かす。補処世界を数ふるに知らず。況や其の塵数をや。経に云く、昔未だ曾て説かざる所、今皆当に聞くことを得べし。慇懃に称讃すること良に所以有るなり。当に知るべし、此の経は諸教に異なることを」。釈籤の一に云く「二乗、猶小果に住す。故に不入と云ふ。豈に能く他を化せんや。故に権を施さず。次に今経を明かす。満願等の如き先に已に実に入る。説法第一なり。故に先より解して権を行ずることを」。弘の七に云く「過去に種を下せるは、現在に重ねて聞いて成熟の益を得。未だ曾て種を下さず、現在に種を成して、未来に方に益す。故に三世の益皆法輪に因る」。薬草喩品に云く「汝等が所行は是れ菩薩の道なり。漸々に修学して悉く当に成仏すべし」云云。記の一に云く「一時一説一念の中に、三世九世、種熟脱の三あり」。弟子品に云く「諸の比丘諦らかに聴け。仏子所行の道は善く方便を学せるが故に思議することを得べからず。衆の小法を楽ひて而して大智を畏るることを知れり。是の故に諸の菩薩、声聞・縁覚と作り、無数の方便を以て諸の衆生の類を化す」云云。又云く「内に菩薩の行を秘し外に是れ声聞なりと現ず。少欲にして生死を厭へども実には自ら仏土を浄む。衆に三毒有ることを示し、又邪見の相を現ず。我が弟子是の如く方便して衆生を度す」云云。/方便品に云く「大乗に入るに為れ本なり」云云。分別功徳品に云く「願はくは我未来に於て長寿にして衆生を度さん」云云。玄義の七に云く「但、本極の法身微妙深遠なり。仏若し説かずんば弥勒尚暗し。何に況や下地をや。何に況や凡夫をや」云云。伝教大師の秀句の下に云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり。浅きを去りて深きに就くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す」云云。又云く「謹んで法華経法師品の偈を案ずるに云く、薬王、今汝に告ぐ、我が所説の諸経、而も此の経の中に於て法華最も第一なり〈已上経文〉。当に知るべし、斯の法華経は諸経の中に最も為れ第一なることを。釈迦世尊、宗を立つるの言は法華を極と為す。金口の校量なり。深く信受すべきかな」。

一代五時継図

〔C6・不明・門下一般〕/大論に云く〈百巻。竜樹菩薩の造。如来滅後七百年出世の人なり〉「十九出家三十成道八十涅槃」。/涅槃経に云く「八十入滅」。阿含経にも亦此の説有り云云。/┌─兼説処は中天竺・寂滅道場菩提樹下/├─権大乗/│┌─別教─┐┌─六十巻旧訳仏陀跋多羅三蔵の訳/├─三七日─┤├┼─八十巻新訳実叉難陀三蔵の訳/華厳経─┤└─円教─┘└─四十巻/├─乳味/├─結経は梵網経/│┌─他受用報身如来──旧訳の説/└─教主─┼─毘盧遮那如来───新訳の説/└─所居の土は仮立実報土、亦は蓮華蔵世界とも云ふ。/〈愚法二乗教〉┌─一に小乗教──一切の小乗経を摂す。/│〈空〉/├─二に大乗始教──方等部の経を摂す。/│〈不空〉/華厳宗五教を立つ─┼─三に大乗終教──般若・涅槃経を摂す。/│〈三乗の中の絶言の理を説く〉/├─四に頓教──一切経中の頓悟成仏の旨を摂す。/│〈別教一乗〉/└─五に円教──華厳・法華を摂す。/┌─馬鳴菩薩──起信論を造る。/┌─天竺─┼─竜樹菩薩──十住毘婆沙論を造る。/│└─天親菩薩──十地論を造る。/│┌─杜順和尚──終南山の住文殊の化身云云。│├─智儼法師──至相寺の住/祖師─┼─唐土─┼─法蔵大師──京兆涼山大華寺の住〈又賢首大師と云ふ又康蔵大師と云ふ〉/│└─澄観法師──〈清涼山大華寺の住又清涼国師と云ふ〉/│┌─審祥大和尚─〈大安寺の住、新羅国の人。日本最初伝〉/│├─慈訓小僧都/└─日本─┼─明哲律師/├─良弁僧正──東大寺の本願/├─等定大僧都/└─道雄僧都──海印寺の住/┌─一向小乗波羅奈国鹿野園/├─十二年説┌─一に増一阿含──人天の因果を明かす/阿含経─┼─酪味四阿含経─┼─二に中阿含──真寂の深義を明かす/├─但三蔵教├─三に雑阿含──諸の禅定を明かす/└─結教は遺教経└─四に長阿含──諸の外道を破す┌─有部顕宗六百頌/│┌天竺の人なり/倶舎宗─┼─倶舎論〈三十巻。三乗法を明かす〉世親菩薩の造。如来滅後九百年の人なり/│└新訳/└─経部密宗十万頌天親菩薩の造。天竺には婆薮畔豆と云ふなり。/└旧訳/┌─玄奘三蔵/├─光法師/├─宝法師/┌─唐土─┼─神泰/│├─円暉/祖師─┤├─恵暉/│└─道麟/└─日本─┬─善報/└─伝灯満位の勝貴〈延暦二十五年法相宗に付す。私に云く、余抄に云く、延暦十三年官付云云〉┌─訶梨跋摩三蔵、天竺の人、此に師子鎧と云ふ。/成実宗─┼─成実論十六巻〈二十七賢聖の位を明かす二百二品〉/└─如来滅後九百年/┌─羅什三蔵/┌─唐土─┼─僧叡/祖師─┤└─智蔵、開善寺の僧/└─日本──伝灯満位の賢融〈延暦二十五年三論宗東大寺僧に付す、余抄に云く、延暦十三年云云〉/律宗──如来成道五年の後、律を説く。僧祇律之を説く。或は十二年の後須提に依りて戒律を制す。四分律之れを説く。/┌─一曇無徳部/├─二薩婆多部/五部を明かす─┼─三弥沙塞部/├─四婆麁富羅部/└─五迦葉遺部/五篇七聚を立つ┌─一には波羅夷/│└──────────┐├─二には僧残├─一には波羅夷篇│├─三には偸蘭遮/├─二には僧伽婆尸沙篇└┼─四には波逸提/├─三には波逸提篇├─五には波羅提提舎尼/├─四には波羅提提舎尼篇├─六には突吉羅/└─五には突吉羅篇└─七には悪説/┌─天竺─┬─多三蔵/│└─仏滅後三百年/祖師─┼─唐土─┬─道宣律師/│└─弟子鑑真和尚/└─日本───鑑真和尚、唐土の人なり。東大寺戒壇院立つる人なり。/┌─蔵通別円──十六年説時不定/├─対/方等部─┼─権大乗/├─生蘇味/└─結経は瓔珞経/┌─解深密経/〈又有相宗と云ふ〉┌┼─瑜伽論〈百巻弥勒説無著筆〉法相宗───────────┤└─唯識論/〈総じて一切経に依り、│┌─有初又有相教とも云ふ/別しては六経十一部に依る〉└─三時教を立つ─┼─空昔又無相教とも云ふ/└─中今又中道教とも云ふ/┌─弥勒菩薩──如来滅後九百年に出づ/├─無著菩薩/┌─天竺─┼─世親菩薩/│├─護法菩薩/│└─戒賢論師──摩訶陀国の大那爛陀寺の人/│┌─防法師/祖師─┤┌─玄奘三蔵─弟子四人─┼─尚法師/├─唐土─┼─慈恩大師├─光法師│└─智周法師└─基法師/│┌─智鳳/│├─義淵/└─日本─┼─空晴/├─真喜/├─善議/└─勤操/┌─観経一巻良耶舎の訳──宋の代/├─双観経二巻康僧鎧の訳──魏の代/浄土宗─┼─阿弥陀経一巻鳩摩羅什の訳──後秦の代/│〈一巻〉/└─浄土論────〈天親菩薩の造菩提流支三蔵の訳。天竺の人なり〉/┌─天竺───菩提流支三蔵/│┌─曇鸞法師──雑行易行を立てて一切の経論を摂するなり│├─道綽禅師──聖道浄土の二門を立てて一切の経論を摂するなり/祖師─┼─唐土─┼─善導和尚──正雑の二行を立てて一切の経論を摂するなり/│├─懐感禅師──群疑論を造りて一代の聖教を判ずるなり/│└─小康法師已上、五人唐土の人なり/│〈一巻〉/└─日本───法然上人────選択集〈捨閉閣抛入開入帰〉/禅宗─┬─如来禅──楞伽経・金剛般若経等に依る。又は教禅とも云ふ。/└─祖師禅──教外別伝・不立文字云云/┌─西天の二十八祖別紙に之れ有り/│┌─菩提達磨禅師──天竺の人なり/祖師─┤├─恵可禅師/│├─僧/└─東土六祖─┼─道信├─弘忍/└─恵能/真言宗─┬─胎蔵界──七百余尊/└─金剛界──五百余尊/大日経〈六巻三十一品〉善無畏三蔵訳〈開元四年中天竺の人なり〉/供養法の巻を加へて七巻なり、一巻五品/金剛頂経〈三巻一品〉金剛智三蔵の訳〈開元八年南天竺の人なり〉/蘇悉地経〈三巻三十四品〉善無畏三蔵の訳/菩提心論〈一巻七丁〉竜猛菩薩の造。不空の訳、或は不空の造/┌─大日如来/┌─天竺─┼─金剛薩/│├─竜猛菩薩/│└─竜智已上天竺の人なり/│┌─善無畏三蔵/│├─金剛智/├─唐土─┼─不空/祖師─┤└─恵果│┌─弘法又は空海と云ふ/│├─真雅/│├─源仁/│├─聖宝/│├─淳祐/└─日本─┼─元杲/├─仁海/├─成尊/├─義範/└─範俊/┌─一に素多纜蔵〈乳味経蔵〉阿難の結集/├─二に毘那耶蔵〈酪味律蔵〉優婆利/┌─五蔵─┼─三に阿毘達磨蔵〈生蘇味論蔵〉迦旃延/│├─四に般若波羅蜜多蔵〈熟蘇味文殊〉華厳・方等・般若・法華涅槃等を摂するなり/│└─五に陀羅尼蔵〈醍醐味金剛蔵〉大日経金剛頂経蘇悉地経を摂す弘法大師義立─┤┌─一、異生羝羊住心〈凡夫悪人〉二、愚童持斎住心〈凡夫善人〉/│├─三、嬰童無畏住心外道四、唯蘊無我住心声聞/└─十住心─┼─五、抜業因種住心縁覚六、他縁大乗住心法相宗/├─七、覚心不生住心三論宗八、如実一道住心法華宗/└─九、極無自性住心華厳宗十、秘密荘厳住心真言宗/┌─理趣般若経一巻総じて八部の般若有り/┌─┼─大品般若四十巻羅什三蔵の訳旧訳/│└─大般若経六百巻玄奘三蔵の訳新訳/般若部─┤┌─通別円/│├─帯/│├─権大乗/└─┼─十四年の説。或は三十年の説├─熟蘇味/└─結経は仁王経/┌─百論〈二巻〉提婆菩薩の造/三論宗─┼─中論〈四巻〉竜樹菩薩の造/└─十二門論〈一巻〉竜樹菩薩の造/大論を加へて四論宗とも云ふ。/┌─一に根本法輪/二蔵─┬─一に声聞蔵三転法輪─┼─二に枝末法輪/└─二に菩薩蔵└─三に摂末帰本法輪/┌─文殊/├─馬鳴/├─竜樹/┌─天竺─┼─提婆/│├─竜智/│├─清弁/│└─智光/│┌─羅什祖師─┤├─道朗/├─唐土─┼─法朗/│└─吉蔵〈亦嘉祥大師と云ふ、嘉祥寺の僧なり〉/│┌─観勒僧正──百済国の人なり/│├─恵潅───高麗国の人なり/└─日本─┼─善議/└─勤操/┌─妙法蓮華経羅什三蔵の訳/├─正法華経法護三蔵の訳/┌─┼─添品法華経闍那・笈多の訳/│└─薩吽分陀梨法華新訳/│┌─八箇年の説/│├─実大乗/法華経─┼─┼─醍醐味/│├─純円の説/│└─結経は普賢経曇無蜜多の訳宋代/│┌─法華宗─┐┌─華厳──寅時└─┼─仏立宗─┼─四教五時を立てて一代教を摂す├─阿含──卯時/├─天台宗─┤│└──────────┼─方等──辰時/└─依憑宗─┘│├─般若──巳時/┌────────────┘└─法華──午時/│┌─一に三蔵教──諸部小乗の実有の所説を摂す/└┼─二に通教──諸部の如幻即空の旨を摂す/├─三に別教──諸部の大乗並びに歴劫行の所説を摂す/└─四に円教──諸部の大乗経の速疾頓成の所説を摂す/┌─大覚世尊/┌─天竺─┴─竜樹菩薩/│┌─天台大師/祖師─┼─唐土─┼─章安大師/│└─妙楽大師└─日本───伝教大師/┌─一日一夜の説/涅槃経─┼─醍醐味/└─結経は像法決疑経/涅槃宗の祖師┌─一北地師/├─二菩提流支師/┌─一虎丘の岌法師├─三光統法師/南三─┼─二愛法師北七─┼─四護身の法師/└─三法雲法師〈光宅寺の僧なり〉├─五耆闍の法師/├─六北地の禅師/└─七北地の禅師/法華の外は小乗の事/寿量品に云く「楽於小法徳薄垢重者為是人説我少出家得阿耨多羅三藐三菩提」云云。文句の九に云く「始成を説きたまふことは、皆小法を楽へる者の為にのみ」云云。/疏記に云く「但し近成を楽ふ者を楽小の者と為すは、華厳の頓部諸味の中の円」文。/天親菩薩の法華論に云く「一往は三蔵を名づけて小乗と為し、再往は三教を名づけて小乗と為す」文。/文句の九に云く「小を楽ふ者は小乗の人に非ざるなり。乃ち是れ近説を楽ふ者を小と為すのみ」文。/疏記の九に云く「楽小法とは久近を以て相望して小と為す」文。/秀句の下に云く「仏滅度の後の六七百年の経宗論宗、九百年の中の法相の一宗は歴劫修行を説いて衆生を引摂す。是の故に未顕真実なり」云云。/伝教大師の依憑集に云く「新来の真言家は則ち筆受の相承を泯し、旧到の華厳家は則ち影響の規模を隠し、沈空の三論宗は弾呵の屈恥を忘れて称心の心酔を覆ひ、著有の法相宗は僕陽の帰依を非(なみ)して青竜の判経を撥ふ」云云。/秀句の下に云く「誠に願はくは一乗の君子、仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ。仰ぎて誠文を信じて偽会を信ずること莫れ。天台所釈の法華宗の諸宗に勝る、寧ろ所伝を空しうせんや」。又云く「謹んで無量義経を案ずるに云く、次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説き、菩薩の歴劫修行を宣説す」〈已上経文〉。大唐の伝に云く「方等十二部経とは法相宗の所依の経なり。摩訶般若とは三論宗の所依の経なり。華厳海空とは華厳宗の所依の経なり。倶に歴劫修行を説いて未だ大直道を知らず」文。/妙楽大師の弘決の九に云く「法華以前は猶是れ外道の弟子なり」文。/伝教大師の守護章の上に云く「妙法の外更に一句の経無し」文。/智証大師の授決集の上に云く「経に大小無く、理に偏円無からん。一切人に依らば、仏説無用ならん。若し然らずんば、文に拠りて伝ふべし。己が父は国王に勝ると執すること莫れ。又他に劣ると謂ふこと莫れ。然も家々の尊勝、国々の高貴、大小尊卑、各分斉有り。土を以て金と為さば家々に之れ有り。金を以て金と為さば有無処を異にす。久成の本、開権の妙、法華独り妙にして独り勝る。強ひて抑へて之れを喪し仏説を哽塞す。如来咎め合し、伝者を非すること莫れ」。/又云く「国々とは五味、家々とは四教八教なり」文。天台玄義の十に云く「若し余経を弘むるには、教相を明かさざれども義に於て傷むこと無し。若し法華を弘むには、教相を明かさざれば文義欠くること有り。但、聖意幽隠にして教法弥難し。前代の諸師、或は名匠に祖承し、或は思ひ袖衿より出づ。阡陌縦横なりと雖も、孰れか是なることを知ること莫し。然るに義双び立たず、理両(ふた)つながら存する無し。若し深く所以有りて復修多羅と合する者は録して之れを用ゐよ。文無く義無きは信受すべからず」。/一開会の事/寿量品に云く「諸の経方に依りて、好き薬草の色香美味、皆悉く具足せるを求めて擣和合す」文。/文句の九に云く「経方とは即ち十二部経なり。薬草は即ち教の所詮の八万の法門なり。香美味とは戒定恵なり。空観は擣くが如く、仮観はふが如く、中観は合するが如し」文。/大経に云く「衆流海に入りて同一鹹味なり。故に海味と云ふ」文。/玄の三に云く「諸水海に入れば同一鹹味なり。諸智如実智に入れば本の名字を失ふ」文。一是れ諸経の王と云ふ事/信解品に云く「並びに親族国王大臣を会むる」。文句の六に云く「国王とは一切漸頓の諸経なり」。/疏記の六に云く「諸の小王を廃して唯一の主を立つ。是の故に法華を王中の王と名づく」文。/一法華已前の説を権と云ふ事/玄義の三に云く「涅槃の聖行品に追って衆経を分別す。故に具に四種の四諦を説く。徳王品に追って衆経を泯す」文。/釈籤の三に云く「涅槃に追と言ふは退なり。却って更に前の諸味を分別するなり。泯とは合会なり。法華より已前の諸経皆泯す。此の意は則ち法華の部に順ずるなり」文。/弘の三に云く「彼の経の四教皆常住を知る。故に本意は円に在り」文。/玄義の四に云く「法華の意を得る者は涅槃に於て次第の五行を用ゐざるなり」文。/一常好坐禅と云ふ事/安楽行品に云く「亦、与に師を同じうすることを楽はざれ。常に坐禅を好む」文。普賢経に云く「専ら大乗を誦し、三昧に入らず」文。又云く「其れ大乗経典を読誦する有らば諸悪永く滅して仏恵より生ずるなり」文。/一天台宗阿弥陀の事/弘決の二に云く「諸教の讃むる所多く弥陀に在り。故に西方を以て一准と為す」文。私に云く、此の釈文殊説・文殊問の両経に依るなり。常坐三昧の下。/止観の二に云く「若し弥陀を唱ふれば即ち是れ十方の仏を唱ふる功徳と等し。但専ら弥陀を以て法門の主と為す。要を挙げて之れを言はば、歩々声々念々唯阿弥陀仏に在り」文。私に云く、此の釈般舟三昧経に依るなり。常行三昧の下、口説黙の下。/又云く「意に止観を論ぜば、西方阿弥陀仏を念ず、此を去ること十万億仏刹」文。此の釈、般舟三昧経の文に依るなり。常行三昧の下。/又云く「陀羅尼呪を誦し三宝十仏を請じ、摩訶祖持陀羅尼を思惟せよ」文。此の釈は方等陀羅尼経に依る。半行半坐三昧の下。/又云く「三宝・七仏・釈尊・弥陀、三陀羅尼、二菩薩・聖衆を礼せよ」。此の釈は諸経に依る。非行非坐三昧の下。玄義の九に云く「諸行は傍の実相を以て体と為す。体行倶に麁なり」文。又云く「諸経の方法に依る常行等の行は傍を以て体と為す。体行倶に麁なり」文。/已上四十余年の経釈/止観の二に云く「別に一巻有り、法華三昧と名づく。是れ天台大師の著す所なり。世に流伝して行者之れを宗ぶ。此れ則ち説黙を兼ぬ。復別に論ぜざるなり」文。/法華三昧に云く「道場の中に於て好き高座を敷き、法華経一部を安置し、亦未だ必ず形像・舎利並びに余の経典を安ずることを須ひず。唯法華経を置け」文。/止観の二に云く「意止観とは、普賢観に云く、専ら大乗を誦して三昧に入らず、日夜六時に六根の罪を懺す。安楽行品に云く、諸法に於て行ずる所無く、亦不分別を行ぜざれ」文。/法華経に云く「乃至余経の一偈をも受けざれ」文。又云く「復舎利を安ずることを須ひざれ」文。/一天台の念仏の事/止観の六に云く「見思の惑即ち是仏法界なりと覚して法身を破せざるを念仏と名づく」文。/止観二に云く「意止観とは、普賢観に云く、専ら大乗を誦して三昧に入らず、日夜六時に六根の罪を懺す。安楽行品に云く、諸法に於て行ずる所無く、亦不分別を行ぜざれ」。秀句の下に云く「能化の竜女歴劫の行無く、所化の衆生も亦歴劫無し」文。/一法華成仏人数の事/二の巻舎利弗は華光如来、三の巻迦葉は光明如来須菩提は名相如来迦旃延は閻浮那提金光如来、目連は多摩羅跋旃檀香如来、四の巻富楼那は法明如来、陳如等の千二百は普明如来、阿難は山海恵自在通王仏、羅羅は蹈七宝華如来、五の巻提婆達多天王如来摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏、耶輸陀羅女は具足千万光相如来、娑竭羅竜王の女八歳の竜女は無照光如来正法華経の説なり〉。提婆品に云く「当時の衆会皆竜女の忽然の間に変じて男子と成りて、菩薩の行を具して即ち南方無垢世界に往きて、宝蓮華に坐して等正覚を成じ、三十二相八十種好あって、普く十方の一切衆生の為に妙法を演説するを見る」。文。/又云く「爾の時に娑婆世界の菩薩・声聞・天・竜・八部・人と非人と、皆遥かに彼の竜女の成仏して普く時の会の人天の為に法を説くを見て、心大いに歓喜し、悉く遥かに敬礼す」文。/一四十余年の諸の経論に女人を嫌ふ事華厳経に云く「女人は地獄の使ひなり、能く仏の種子を断ず。外面は菩薩に似て内心は夜叉の如し」文。/又云く「一たび女人を見れば能く眼の功徳を失ふ。縦ひ大蛇を見ると雖も女人を見るべからず」文。/銀色女経に云く「三世の諸仏の眼は大地に堕落すとも、法界の諸の女人は永く成仏の期無し」文。/華厳経に云く「女人を見れば眼大地に堕落す。何に況や犯すこと一度せば三悪道に堕つ」文。/十二仏名経に云く「仮使(たとい)法界に遍する大悲の諸菩薩も、彼の女人の極業の障りを降伏すること能はず」文。/大論に云く「女人を見ること一度なるすら永く輪廻の業を結す。何に況や犯すこと一度、定めて無間獄に堕す」文。/往生礼讃に云く「女人と及び根欠と二乗種とは生ぜず」文。/大論に云く「女人は悪の根本なり。一たび犯せば五百生、彼の所生の処六趣の中に輪廻す」文。/華厳経に云く「女人は大魔王なり、能く一切の人を食す。現在には纏縛と作り後生は怨敵と為る」文。一真言を用ゐざる事/伝教大師の依憑集の序に云く「新来の真言家は則ち筆受の相承を泯す」文。/安然の教時義の第二に云く「問ふ、天台宗の遣唐の決義に云く、此の大盧遮那経は天台五時の中に於て第三時方等部の摂なり。彼の経の中に四乗を説くを以ての故に云云。此の義云何。答ふ、彼の決義に云く、伝へ聞く、疏二十巻有り、但未だ披見せず云云。此れは是れ未だ経意を知らざる誤判なり。何となれば、天台第三時の方等教は四教相対して大を以て小を斥ひ、円を以て偏を弾ず。今の大日経は応供・正遍知、衆生の楽に随ひて四乗の法及び八部の法を説きたまふ。而も是れは一切智々一味云云。若し爾らば法華と同なりと謂ふべし。何ぞ方等弾斥の教に摂するや」文。/広修・維の唐決に云く「問ふ、大毘盧遮那一部七巻には、薄伽梵、如来加持広大金剛法界宮に住して一切の持金剛者の為に之れを演説するなり。大唐の中天竺国の三蔵輸婆迦羅、唐には善無畏と言ふもの訳す。今疑ふ、如来の所説、始め華厳より終り涅槃に至るまで、五時四教の為に統摂せざる所無し。今此の毘盧遮那経を以て何の部・何の時・何の教にか之れを摂せん。又法華の前説とや為さん、当に法華の後説とや為さん。此の義云何。答ふ、謹んで経文を尋ぬるに方等部に属す。声聞・縁覚に被らしむる故に、不空羂索・大宝積・大集・大方等・金光明・維摩・楞伽・思益等の経と同味なり。四教・四仏・四土を具す。今毘盧遮那経の法界宮に於て説くことを顕はす。乃ち是れ法身の寂光土なり。勝に従ひて名を受くるなり。前後詳らかに明かすべし」云云。/一法華と諸経との勝劣の事/法華経第一─┬─〈本門第一已今当第一。薬王今汝に告ぐ、諸経の中に於て最も其の上の在り。又云く、我が所説の諸経而も此の経の中に於て法華最も第一なり云云〉/└─〈迹門第二〉/涅槃経第二是経出世/無量義経第三〈次に方等十二部経を説く〉/華厳経第四/般若経第五/蘇悉地経第六〈第一に云く、三部中に於て此の経を王と為す。中巻に云く、猶成就せざれば或は復大般若経を転読すること七遍或は一百遍〉/大日経第七〈三国に未だ弘通せざる法門なり〉/一鎮護国家の三部の事┌─法華経─┐┌─不空三蔵大暦に法華寺に之れを置く/├─密厳経─┼┼─唐の大暦二年に護摩寺を改めて法華寺を立て中央に法華経・/└─仁王経─┘└─脇士に両部の大日なり/┌─法華経─┐┌─人王三十四代推古天王の御宇聖徳太子/├─浄名経─┼┼─四天王寺に之れを置く摂津国難波郡/└─勝鬘経─┘└─仏法最初の寺なり/┌─法華経─┐┌─人王五十代桓武天皇の御宇伝教大師/├─金光明経┼┼─比叡山延暦寺止観院に之れを置かる/└─仁王経─┘└─年分得度者二人─┬─一人は遮那業/└─一人は止観業/┌─大日経─┐┌─五十四代仁明天王の御宇/├─金剛頂経┼┼─慈覚大師、比叡山東塔の西総持院に之れを置かる└─蘇悉地経┘└─御本尊は大日如来金・蘇二疏十四巻之れを安置せらる/一悲華経の五百の大願等の事並びに示現等/第一百十三願に云く「我来世穢悪土の中に於て当に作仏することを得べし。則ち十方浄土の擯出の衆生を集めて我当に之れを度すべし」文。/第一百十四願に云く「我無始より来、積集せる諸の大善根一分も我が身に留めず、悉く衆生に施さん」文。/第一百十五願に云く「十法界の諸の衆生、無始より来(このかた)造作する所の極重五無間等の諸罪合して我一人の罪と為す。大地獄等に入りて大悲代はりて苦を受けん」文。/悲華経に云く「我が滅度の後、末法の中に於て大明神と現じて広く衆生を度せん」文。/涅槃経の二に云く「爾の時に如来、棺の中より手を出だして阿難を招き密かに言く、汝悲泣すること勿れ。我還りて復閻浮に生じて大明神と現じて広く衆生を度せん」文。/又云く「汝等悲泣すること莫れ。遂に瞻部州に到りて衆生を度せんが為の故に大明神と示現せん」文。悲華経に云く「第五百願に、我来世穢悪土の中に於て大明神と現じて当に衆生を度すべし」文。/大隅正八幡の石の銘に云く「昔霊鷲山に在りて妙法華経を説き、衆生を度せんが為の故に大菩薩と示現す」文。/行教和尚の夢の記に云く「阿弥陀三尊」。/延暦二十三年〈甲申〉春、伝教大師渡海の願を遂げんが為に、筑前宇佐の神宮寺に向かって自ら法華経を講ず。即ち託宣して云く「我此の法音を聞かずして久しく歳年を歴たり。幸ひに和尚に値遇して正教を聞くことを得て至誠随喜す。何ぞ徳を謝するに足らん。苟しくも我が所持の法衣有り。即ち託宣の主、斎殿を開きて手に紫の袈裟一つを捧げて和尚に上る。大悲力の故に幸ひに納受を垂れたまへ。是の時祢宜・祝等各之れを随喜す。元来此の如き奇事見ず聞かざるかなと。彼の施す所の法衣は山王院に在り」文。元慶元年〈丁酉〉十一月十三日、権大宮司藤原実元の女七歳にして託宣して云く「我日本国を持ちて大明神と示現す。本体は是れ釈迦如来なり」。/延喜二年四月二日二歳計りの小児に託宣して云く「我無量劫より以来度し難き衆生を教化す。未度の衆生の為に此の中に在りて大菩薩と示現す」文。一北野の天神法華経に帰して真言等を用ゐざる事/天神の託宣に云く「吾が円宗の法門に於て未だ心に飽かず。仍って遠忌追善に当たりて、須く密壇を改めて法華八講を修すべし」。所以に曼陀羅供を改めて法華八講を始む。吉祥院の八講と号す是れなり。彼の院は北野天神の御旧跡なり。/一賀茂大明神法華を信ずる事〈一条院の御時年代記に之れ有り〉/恵心僧都賀茂の社に七箇日参籠して、出離生死の道は何れの経にか付くべきと祈誠有れば、示現して云く「釈迦の説教は一乗に留まり、諸仏の成道は妙法に在り、菩薩の六度は蓮華に在り、二乗の作仏は此の経に在り」文。/伝教大師賀茂大明神に参詣して法華経を講ず。甲胄をぬいで自ら布施し給ひ畢んぬ。/文句の十に云く「得聞是経不老不死とは此れ須く観解すべし。不老は是れ楽、不死は是れ常。此の経を聞いて常楽の解を得」文。/涅槃経の十三に云く「是の諸の大乗方等経典は復無量の功徳を成就すと雖も、是の経に比せんと欲するに、喩を為すを得ざること、百倍・千倍・百千万億倍乃至算数譬喩も及ぶこと能はざる所なり。善男子、譬へば牛より乳を出だし、乳より酪を出だし、酪より生蘇を出だし、生蘇より熟蘇を出だし、熟蘇より醍醐を出だし、醍醐最上なり。若し服すること有らん者衆病皆除く、所有の諸薬悉く其の中に入るが如し。善男子、仏も亦是の如し。仏より十二部経を出生し、十二部経より修多羅を出だし、修多羅より方等経を出だし、方等経より般若波羅蜜を出だし、般若波羅蜜より大涅槃を出だすこと猶醍醐の如し。醍醐と言ふは仏性を喩ふ。仏性とは即ち是れ如来なり」文。/一金剛峰寺建立修業縁記に云く「吾入定の間、知足天に往きて、慈尊の御前に参仕すること五十六億七千余歳の後、慈尊下生の時、必ず随従して吾が旧跡を見るべし。此の峰等閑にすること勿れ」文。/一弘決に云く「若し衆生生死を出でず、仏乗を慕はずと知れば、魔是の人に於て猶親想を生ず」文。/五百問論に云く「大千界塵数の仏を殺すは其の罪尚軽し。此の経を毀謗するは罪彼れより多し。永く地獄に入りて出づる期有ること無し。読誦する者を毀呰する亦復是の如し」文。/一広宣流布すべき法華の事/伝教大師の守護章に云く「正像稍過ぎ已りて末法太だ近きに有り。法華一乗の機今正しく是れ其の時なり。何を以て知ることを得ん。安楽行品に云く、末世法滅の時なり」文。秀句の下に云く「代を語れば則ち像の終り末の初め、地を尋ぬれば唐の東、羯の西、人を原(たず)ぬれば則ち五濁の生闘諍の時なり。経に云く、如来現在猶多怨嫉況滅度後と。此の言良に所以有るなり」文。/道暹和尚の輔正記に云く「法華の教興れば権教即ち廃(すた)る。日出でぬれば星隠れ、巧みなるを見て拙きを知る」文。/法華経の安楽行品に云く「一切世間怨多くして信じ難し」文。/薬王品に云く「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」文。/勧発品に云く「我今神通力を以ての故に是の経を守護し、如来の滅後閻浮提の内に於て広く流布せしめて断絶せざらしめん」。/文句の一に云く「但、当時大利益を獲るのみに非ず、後五百歳遠く妙道に沾はん」文。/一乗要決に云く「日本一州円機純一にして、朝野遠近同じく一乗に帰し、緇素貴賤悉く成仏を期す」。/安然の広釈に云く「彼の天竺国には外道有りて仏道を信ぜず。亦小乗有りて大乗を許さず。其の大唐国には道法有りて仏法を許さず、亦小乗有りて大乗を許さず。我が日本国には皆大乗を信じて一人として成仏を願はざること有ること無し」。瑜伽論に云く「東方に小国有り。唯大乗の機のみ有りと。豈に我が国に非ずや」文。/一不謗人法の事/安楽行品に云く「人及び経典の過を説くことを楽はざれ。亦諸余の法師を軽慢せざれ」文。/止観の十に云く「夫れ仏説に両説あり。一には摂、二には折。安楽行に不称長短といふ如き、是れ摂の義なり。大経に刀杖を執持し乃至首を斬れという、是れ折の義なり。与奪途を殊にすと雖も、倶に利益せしむ」文。/弘決の十に云く「夫れ仏法両説等とは、大経の執持刀杖等とは第三に云く、善男子正法を護持する者五戒を受けず威儀を修せず、乃至、下の文は仙予国王等の文なり」文。/文句の八に云く「大経には偏に折伏を論じ一子地に住す。何ぞ曾て摂受無からん。此の経には偏に摂受を明かせども頭七分に破る。折伏無きに非ず。各一端を挙げて時に適ふのみ」文。/顕戒論の中に云く「論じて曰く、持品の上位は四行を用ゐず、安楽の下位は必ず四行を修す。摩訶薩の言定めて上下に通ず」文。文句の八に云く「持品は八万の大士忍力成ずる者此の土に弘経す。新得記の者は他土に弘経す。安楽行の一品なり」文。/疏記の八に云く「持品は即ち是れ悪世の方軌、安楽行は即ち是れ始行の方軌、故に住忍辱地等と云ふ。安楽行品に云く、他人及び経典の過を説かざれ。他人の好悪長短を説かざれ」文。/一念仏の一切衆生の往生せざる事〈並びに難行道、次に六道輪廻の事〉/善導和尚の玄義分に云く「問うて曰く、未審(いぶかし)、定・散の二善出でて何れの文にか在る。今既に教備はりて虚しからず。何れの機か受くることを得る。答へて曰く、解するに二義有り。一には謗法と無信八難及び非人と此等は受けざるなり。斯れ乃ち朽林頑石生潤の期有るべからず。此等の衆生は必ず受化の義無し。/斯れを除きて已外は一心信楽して往生を求願すれば、上一形を尽くし、下十念を収む。仏の願力に乗じて皆往かずといふこと莫し」文。/往生礼讃に云く「女人と及び根欠と二乗種とは生ぜず」文。一八難処の事/弘決の四に云く「北州と及び三悪に長寿天と並びに世智弁聡と、仏前仏後と、諸根不具を加ふ。是れを八難と為す」文。/善導の遺言に云く「我、毎日阿弥陀経六十巻念仏六万返懈怠無く、三衣は身の皮の如く、瓶鉢は両眼の如く、諸の禁戒を持ち一戒をも犯さず。未来の弟子も亦然り。設ひ念仏すと雖も、戒を持たざる者は往生即ち得難し。譬へば小舟に大石を載せ大悪風に向かって去るが如し。設ひ本願の船有りと雖も、破戒の大石重きが故に岸に就くこと万が一なり」文。/観念法門経に云く「酒肉五辛誓ひて発願して手に捉らざれ、口に喫まざれ。若し此の語に違せば、即ち身口倶に悪瘡著かんと願せよ」文。/法然上人の起請文に云く「酒肉五辛を服して念仏を申さば予が門弟に非ず」文。/観念法門経に云く「戒を持ちて西方弥陀を思念せよ」文。/無量寿経に云く「三心を具する者は必ず彼の国に生ず」文。善導の釈に云く「若し一心も少なければ即ち生ずることを得ずと。明らかに知んぬ、一少は是れ更に不可なることを。茲に因りて極楽に生ぜんと欲するの人は全く三心を具足すべきなり」。/月蔵経に云く「我が末法の時の中の億々の衆生、行を起こし行を修すとも、未だ一人も得る者有らず。当今は末法なり。現に是れ五濁悪世なり。唯浄土の一門のみ有りて通入すべきの路なり」文。/遺教経に云く「浄戒を持つ者は販売貿易し、田宅を安置し、人民・奴婢・畜生を畜養することを得ざれ。一切の種植及び諸の財宝皆当に遠離すること火坑を避くるが如くすべし。草木を斬伐し、墾土掘地することを得ざれ」文。/善導和尚所釈の観念法門経の酒肉五辛を禁ずる事の依経をいはば、無量寿経一に依り〈二巻〉十六観経二に依り〈一巻〉四紙の阿弥陀経三に依り〈一巻〉般舟三昧四に依り十往生経五に依り〈一巻〉浄土三昧経六に依る〈一巻〉/双観経の下に云く「無智の人の中にして此の経を説くこと莫れ」文。一観経と法華経との説時各別の事/善導和尚の疏の四に云く「仏彼の経を説きたまひし時、処別・時別・教別・対機別・利益別なり。又彼の経を説きたまふ時は即ち観経・弥陀経等を説きたまふ時に非ず」文。/阿弥陀経に云く「況や三悪道無し」文。無三悪と説くと雖も、修羅人天之れ有り。/四十八願の第一に云く〈三悪趣無し〉「設し我仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生有らば正覚を取らじ」。/第二の願に云く〈三悪道に更らず。極楽に於て又死すべしと云ふ〉「設し我仏を得んに、十方の無量不可思議の諸の三悪道には正覚を取らじ」文。/第三十五の願に云く〈名を聞き女人を転ずとも往生せざる事〉「設し我仏を得んに、十方の無量不可思議の諸仏の世界に、其れ女人有りて我が名号を聞いて歓喜信楽して、菩提心を発して女身を厭悪せん。寿終の後、復女像と為らば正覚を取らじ」文。/一黒衣並びに平念珠地獄に堕すべき事/法鼓経に云く「黒衣の謗法なる必ず地獄に堕す」文。/勢至経に云く「平形の念珠を以ゐる者は此れは是れ外道の弟子なり、我が弟子に非ず。仏子我が遺弟必ず円形の念珠を用ゐるべし。次第を超越する者は妄語の罪に因りて必ず地獄に堕せん」文。一天台の念仏の事/┌─一大意本尊は阿弥陀/├─二釈名┌─一発大心┌─一常坐三昧──文殊説経・文殊問経に依る/├─三体相├─二修大行│本尊は阿弥陀/├─四摂法五略とは─┼─三感大果四種三昧─┼─二常行三昧──般舟三昧経に依る/止観十章とは─┼─五偏円├─四裂大網│本尊は別に有り/├─六方便└─五帰大処├─三半行半座三昧──方等経・法華経に依る/├─七正観│本尊は観音/├─八果報└─四非行非坐三昧──説経説善説悪説無記├─九起教右四種三昧の次では先段に之れを注せり/└─十指帰/止観の七に云く「若し四種三昧修習の方便は通じて上に説くが如し。唯法華懺のみ別して六時五悔に約して重ねて方便を作す。今五悔に就きて其の位相を明かす」文。/弘決の七に云く「四種三昧は通じて二十五法を用ゐて通の方便と為す。若し法華を行ぜんには別して五悔を加へて余行に通ぜず」文。/第七の正修止観とは止の五に云く「前の六重は修多羅に依りて以て妙解を開き、今は妙解に依りて以て正行を立つ」文。/十疑の第四に云く「釈迦大師一代の説法、処々の聖教に唯衆生心を専らにして、偏に阿弥陀仏を念じて西方の極楽世界に生ぜんことを求めよと勧めたまへり」文。/七疑に云く「又聞く、西国の伝に云く、三の菩薩有り。一を無著と名づけ、二を世親と名づけ、三を獅子覚と名づく」文。八疑に云く「雑集論に云く、若し安楽国土に生ぜんと願はば即ち往生を得ん等」文。/一天台御臨終の事/止観の一に云く「安禅として化し、位は五品に居す」文。/弘決の一に云く「安禅として化し、位は五品に居す等とは此れ臨終の行位を出だすなり。禅定を出でずして端坐して滅を取る。故に安禅而化と云ふ」文。/又云く「法華と観無量寿の二部の経題を唱へしむ」文。/又云く「香湯を索めて口を漱ぎ竟はりて十如・四不生・十法界・四教・三観・四悉・四諦・十二縁を説くに一々の法門に一切の法を摂す。吾今最後に観を策まし玄を談ず。最後善寂なり○跏趺して三宝の名を唱へて三昧に入るが如し。即ち其の年十一月二十四日未の時端坐して滅に入りたまふ」文。/又云く「大師生存に常に兜率に生ぜんことを願ふ。臨終に乃ち観音来迎すと云ふ。当に知るべし、物に軌り機に随ひ縁に順じて化を設く、一准なるべからざることを」文。又云く「汝善根を種うるに嬾くして他の功徳を問ふ。盲の乳を問ひ、蹶きたる者の路を訪ふが如し。実を告げて何の益かあらん」文。/選択集の上に云く「願はくは西方の行者各其の意楽に随ひ、或は法華を読誦して以て往生の業と為し、或は華厳を読誦し以て往生の業と為し、或は遮那教主及以(および)諸尊の法等を受持し読誦して往生の業と為し、或は般若・方等及以(および)涅槃経等を解説し書写して以て往生の業と為す。是れ則ち浄土宗観無量寿経の意なり」文。/又云く「問うて曰く、爾前経の中に何ぞ法華を摂するや。答へて曰く、今言ふ所の摂とは権実偏円等の義を論ずるに非ず。読誦大乗の言は普く前後の大乗の諸経に通ず」文。/観無量寿経に云く「爾の時に王舎大城に一(ひとり)の太子有す、阿闍世と名づく。調達悪友の教に随順して、父の王の頻婆沙羅を収執し幽閉して七重の室内に置く」文。/法華経の序品に云く「韋提希の子阿闍世王若干百千の眷属と倶なり」文。恵心の往生要集の上に云く「夫れ往生極楽の教行は濁世末代の目足なり。道俗貴賤誰か帰せざらん。但顕密の教法其の文一に非ず。事理の業因其の行惟れ多し。利智精進の人は未だ難しと為さず。予が如き頑魯の者豈に敢へてせんや。是の故に念仏の一門に依りて聊か経論の要文を集め、之を披き之れを修するに、覚り易く行じ易し」文。/恵心往生要集を破し二十三年已後に一乗要決を作る。一乗要決の上に云く「諸乗の権実は古来の諍ひなり。倶に経論に拠り互ひに是非を執す。余寛弘〈丙午〉の歳、冬十月病中に歎じて曰く、仏法に遇ふと雖も未だ仏意を了せず。若し終に手を空しうせば後悔何ぞ追ばん。爰に経論の文義賢哲の章疏、或は人をして尋ねしめ或は自ら思択す。全く自宗他宗の偏党を捨てて専ら権智実智の深奥を探るに、遂に一乗は真実の理、五乗は方便の説なることを得る者なり。既に今生の蒙を開く、何ぞ夕死の恨みを遺さん」文。/一念仏は末代に流布すべき事/双観経の下に云く「当来の世に経道滅尽せんに、我慈悲を以て哀愍して、特り此の経を留めて止住すること百歳ならん。其れ衆生の斯の経に値ふこと有らん者は、意の所願に随ひて皆得度すべし」文。往生礼讃に云く「万年に三宝滅して此の経住すること百年。爾の時に聞いて一念もせば皆当に往生を得べし」文。/慈恩大師の西方要決に云く「末法万年に余経悉く滅し、弥陀の一教のみ」文。/方便品に云く「深く虚妄の法に著して堅く受けて捨つべからず。是の如き人度し難し」文。/堅恵菩薩の宝性論に云く「過去謗法の障り不了義に執著す」文。/方便品に云く「若し余仏に遇はば此の法中に於て便ち決了することを得ん」文。/玄の七に云く「南岳師の云く、初依を余仏と名づく。無明未だ破せず、之れを名づけて余と為す。能く如来秘密の蔵を知りて深く円理を覚す、之れを名づけて仏と為す」文。/涅槃経疏十一に云く「人正法を得るが故に聖人と云ふ」文。/像法決疑経に云く「常施菩薩初成道より乃至涅槃、其の中間に於て如来の一句の法を説くを見ず。然るに諸の衆生は出没説法度人有りと見る」文。二十五三昧・二十五有の略頌に曰く「四州四悪趣・六欲並びに梵世・四禅四無色・無想五那含」文。/一漢土南北の十師天台大師に帰伏する事/国清百録の第四に云く「千年、五百の実、復今日に在り。南岳の叡聖天台の明哲、昔は三業を住持し今は二尊に紹継す。豈に止だ甘露を震旦に灑ぐのみならん。亦当に法鼓を天竺に振ふべし。生知妙悟、魏・晋より以来典籍風謡実に連類無し」云云。乃至禅衆一百余僧と共に智者大師を請じ奉る〈天台大師俗姓陳氏、字徳安、諱は智顗、潁川の人なり。後即ち南荊州華容県に遷居す〉/一伝教大師の一期略記に云く〈桓武天皇の御宇延暦二十一年〈壬午〉正月十九日伝教大師最澄高尾寺に於て六宗と諍ひ責め破り畢んぬ。仍って勅宣を下され帰伏の状を召さる。六宗の碩学共に帰伏の状を奉りて云く〉「漢明の年に教、震旦に被り、礒島の代に訓本朝に及ぼす。聖徳の皇子は霊山の聖衆にして衡岳の後身なり。経を西隣に請ひ、道を東域に弘む。智者禅師は亦共に霊山に侍し、迹を台岳に降し、同じく法華三昧を悟り、以て諸仏の妙旨を演ぶる者なり。窃かに天台の玄疏を見れば、総じて釈迦一代の教を括りて悉く其の趣を顕はすに通ぜざる処無く、独り諸宗に逾え殊に一道を示す。其の中の所説甚深の妙理、七箇の大寺六宗の学匠、昔未だ聞かざる所、曾て未だ見ざる所なり。三論・法相の久年の諍ひ渙焉として氷のごとく釈け、昭然として既に明らかなり。猶雲霧を披きて三光を見るが猶し。聖徳の弘化してより以降今に二百余年の間、講ずる所の経論其の数惟れ多し。彼此理を争ひて其の疑ひ未だ解けず。而も此の最妙の円宗猶未だ闡揚せず。蓋し以みれば、此の間の群生未だ円味に応ぜざるか。伏して惟れば、聖朝久しく如来の付属を受け、深く純円の機を結ぶ。一妙の義理始めて乃ち興顕し、六宗の学衆初めて至極を悟る。謂ひつべし、此の界の含霊、今より後、悉く妙円の船に載りて、早く彼岸に済ることを得んと。猶如来の成道四十余年の後、乃ち法華を説いて、悉く三乗の侶をして共に一乗の車に駕せしむるがごとし。善議等慶躍の至りに堪えず。敢へて表を奉って陳謝以て聞す」云云。/秀句の下に云く「当に知るべし、已説の四時の経、今説の無量義経、当説の涅槃経は易信易解なり、随他意の故に。此の法華経は最も為れ難信難解なり、随自意の故に。随自意の説は随他意に勝る。但し無量義を随他意と云ふは未合の一辺を指す。余部の随他意に同じからざるなり」文。/文句の八に云く「已とは大品以上の漸頓の諸説なり。今とは同一の座席、謂く無量義経なり。当とは謂く涅槃なり。大品等の漸頓は皆方便を帯すれば信を取ること易しと為す。今無量義は一より無量を生ずれども、無量未だ一に還らず、是れ亦信じ易し。今の法華は法を論ずれば、一切の差別融通して一法に帰す。人を論ずれば則ち師弟の本迹倶に皆久遠なり。二門悉く昔と反すれば、信じ難く解し難し。鋒(ほこ)に当たる難事をば、法華已に説く。涅槃は後に在れば、則ち信ずべきこと易し。秘要の蔵とは隠して説かざるを秘と為し、一切を総括するを要と為す。真如実相の包蘊せるを蔵と為す。不可分布とは法妙にして信じ難し、深智には授くべし、無智は罪を益す故に、妄りに説くべからざるなり。従昔已来未曾顕説とは、三蔵の中に於ては二乗の作仏を説かず、亦師弟の本迹を明かさず。方等般若には実相の蔵を説くと雖も、亦未だ五乗の作仏を説かず、亦未だ発迹顕本せず。頓漸の諸経は皆未だ融会せず、故に名づけて秘と為す。此の経には具に昔秘する所の法を説く。即ち是れ秘密蔵を開するに亦即ち是れ秘密蔵なり。此の如きの秘蔵は未だ曾て顕説せず。如来在世猶多怨嫉とは、四十余年には即ち説くことを得ず。今説かんと欲すと雖も、而も五千尋いで即ち座を退く。仏世すら尚爾なり。何に況や未来をや。理、化し難きに在るなり」。/楞伽経に云く「我、得道の夜より涅槃の夜に至るまで一字をも説かず」文。止観の五に云く「是の故に二夜一字を説かず」文。又云く「仏二法に因りて此の如きの説を作したまふ。自法及び本住法を縁ずるを謂ふ。自法とは彼の如来の得る所、我も亦之れを得」文。/又云く「文字を離るるとは仮名を離るるなり」文。法華に云く「但仮の名字を以て衆生を引導す」文。/玄義の五に云く「恵能く惑を破し理を顕はす。理は惑を破すこと能はず。理若し惑を破せば一切衆生悉く理性を具す、何が故ぞ破せざる。若し此の恵を得れば則ち能く惑を破す。故に智を用ゐて乗体と為す」文。/弘の五に云く「何の密語に依りて此の如き説を作したまふ。仏の言く、二の密語に依る。謂く自証法及び本住法なり。然るに一代の施化豈に権智被物の教無からんや。但此の二に約して未だ曾て説有らず。故に不説と云ふのみ」文。/籤の一に云く「三に廃迹とは後の如く前の如し。文を引く中、初めに諸仏の下は同を引く。為度より下は正しく廃迹を明かす。廃し已はれば迹無し。故に皆実と云ふ。実は只是れ本。権は只是れ迹なり。若し同異を弁ぜば広く第七の巻の如し」文。/籤の一に云く「捨は只是れ廃なり。故に知んぬ、開と廃とは名異体同なることを」文。止の六に云く「和光同塵は結縁の始め、八相成道は以て其の終りを論ず」文。/弘の六に云く「和光の下は、身を現ずるを釈するなり。四住の塵に同じ、処々に縁を結び浄土の因を作すを利物の始めと為す。衆生の機熟して八相成道す。身を見て法を聞き終に実益に至る」文。/天照太神の託宣に云く「往昔勤修して仏道を成じ、求願円満遍照尊、閻浮に在りては王位を護り、衆生を度せんが為に天照神」。

一代五時鶏図

〔C6・不明・門下一般〕/大論に云く〈竜樹菩薩造〉「十九出家三十成道」云云。/涅槃経に云く「八十入滅」云云。/┌─説処は寂滅道場/├─結経は梵網経/華厳経─┼─三七日の説/├─別円の二教を説く/└─乳味/┌─唐の則天皇后の御宇に法蔵法師之れを立つ/│┌─馬鳴菩薩/華厳宗─┤┌─梵の三人─┼─竜樹菩薩/││└─天親菩薩/└─祖師─┤┌─杜順和尚/│├─智儼法師/└─華の四人─┼─法蔵大師/└─澄観法師/└─又清涼国師とも云ふ/┌─説処は鹿野苑├─単に三蔵を説く/阿含経─┼─結経は遺教経/├─十二年の説/└─酪味/┌─一に増一阿含人天の因果を明かす/四阿含─┼─二に中阿含真寂の深義を明かす/├─三に雑阿含諸の禅定を明かす/└─四に長阿含外道を破す/倶舎宗───四阿含並びに倶舎論を以て所依と為す/世親菩薩造─┬─旧に天親と云ふ/└─天竺に婆薮畔豆と云ふ/成実宗─┬─成実論を以て所依と為す/└─呵利跋摩三蔵之れを立つ/律宗────祖師─道宣律師/┌─欲色二界の中間の大宝坊に於て之れを説く/├─結経は瓔珞経方等─┼─四教を説く/├─生蘇味/└─権大乗/┌─弥勒菩薩/├─無著菩薩/┌─天竺─┼─世親菩薩/│├─提婆菩薩/法相宗祖師─┤└─戒賢論師/│┌─玄奘三蔵/└─唐土─┼─慈恩大師/└─智鳳法師新羅国の人/禅宗─┬─楞伽経に依る/└─祖師─達磨和尚/又仏心宗とも云ふ/又達磨宗とも云ふ/┌─大日経六巻/├─金剛頂経三巻/┌─三経一論に依る┼─蘇悉地経三巻/│└─菩提心論一巻〈竜樹菩薩造不空三蔵訳〉真言宗─┤┌─竜樹菩薩/│├─竜智菩薩/│├─金剛智三蔵/└─祖師─────┼─善無畏三蔵/├─不空三蔵/├─恵果和尚/└─弘法大師/┌─双観経上下/├─観経一巻/┌─三経一論に依る┼─阿弥陀経一巻/浄土宗─┤├─往生論一巻又浄土論とも云ふ〈天親菩薩造菩提留支訳〉/│┌─曇鸞法師/└─祖師─────┼─道綽禅師/├─善導和尚/└─法然上人/┌─仁王般若/┌─結経仁王経├─光讃般若/般若経─┼─後三教を説く─┼─大品般若四十巻〈羅什訳旧訳〉└─熟蘇味├─金剛般若/├─理趣般若/└─大般若六百巻〈玄奘訳新訳〉/┌─一に中論┌─竜樹菩薩/三論宗─┼─二に百論祖師─┼─青弁菩薩/又云四├─三に十二門論├─智光論師/論└─四に大智度論└─嘉祥法師/無量義経に云く〈説法品〉「我先に道場菩提樹下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。/仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。所以は何ん。諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種々に法を説きき。種々に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕はさず」。/又云く「我樹王より起ちて波羅奈鹿野苑の中に詣りて阿若拘隣等の五人の為に四諦の法輪を転ず」、「次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説す」。/又云く「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも、終に無上菩提を成ずることを得ず。所以は何ん、菩提の大直道を知らざる故に。険径を行くに留難多きが故に」。又云く「大直道を行くに留難無きが故に」。/┌─竜樹菩薩〈本地は法雲自在王仏なり〉/┌─説処は霊山と虚空なり├─恵文禅師/├─醍醐味├─南岳大師/法華経─┼─八箇年の説法華宗祖師─┼─天台大師/├─序分は無量義経├─章安大師/└─結経は普賢経├─妙楽大師/└─伝教大師/法華経に云く「世尊は法久しくして後、要(かなら)ず当に真実を説きたまふべし」。/又云く「種々の道を示すと雖も其れ実には仏乗の為なり」。/又云く「正直に方便を捨てて但無上道を説く」。第二に云く「将に魔の仏と作りて我が心を悩乱するに非ずや」。/又云く「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す」。/又云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん」。/又云く「其の人命終して阿鼻獄に入らん。一劫を具足して劫尽きなば更(また)生まれん。是の如く展転して無数劫に至らん」。/又云く「但楽ひて大乗経典を受持して、乃至余経の一偈をも受けざれ」。/第四に云く「爾の時に宝塔の中より大音声を出だして歎めて言く、善きかな善きかな、釈迦牟尼世尊、能く平等大恵・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以て大衆の為に説きたまふ。是の如し是の如し。釈迦牟尼世尊の所説の如きは皆是れ真実なり」。/┌─四教を説く、倶に常住を知る/├─説処は拘尸那城跋提河/涅槃経─┼─醍醐味├─一日一夜の説/└─結経は像法決疑経/涅槃経に云く「法に依りて人に依らざれ、義に依りて語に依らざれ、智に依りて識に依らざれ、了義経に依りて不了義経に依らざれ」。/同十七に云く「如来は虚妄の言無しと雖も、若し衆生を知りぬれば虚妄説に因る」。