断簡等1

断簡二〔C1・文永元年〕/日蓮云く、第五の五百歳に殊に閻浮提に広宣流布して□□尽未来際慈尊の出世に至るまで断絶すべからず。

 

法華文句要文〔C1・建治元年〕/地師云く、十住は是れ不退を証するのみ。

  

法華文句要文〔C1・建治元年〕/乃ち三乗共の十地の義なるのみ

 

断簡五〔C1・文永一二年〕/ゆへなかるべ

 

断簡六〔C1・文永一二年〕/菩薩誕生天台と伝教

 

断簡七〔C1・文永三年〕/久遠大通の御時法華経をならいし人、此の経をすてざりしは、三五の塵点をへず、則ち仏になりけるとみゆ。法華経をうちすてて権経

 

断簡八〔C1・文永元年〕/日蓮云く、記の一に云く「小乗毘尼母論の五箇の五百歳に依りて、稍壅と之れを嫌ふ」。次に大集経の五箇の五百歳に依るに、亦此れも権大乗を以て実大乗を釈す。毘尼母論を嫌ふが如くならば、又稍権之□□□□。若し爾らば、大集経を以て但(ただ)後五百歳計りは法華経の為なるべしと意得べからず。其の上□□□□故に大教流行すべき時を釈して、五百問論には「他人大集経の後五百歳に依りて契□□□嫌ひて云く、今謂く此れを弁ず応らず」等云云。故に但法華経の五後の文並びに涅槃経の文に依るべし。

 

断簡九〔C1・弘安元年〕/かつはそしり、かつは帰信せんとし候ひしに、須跋陀羅はなをまいらず候ひし程に、仏、阿難尊者を御使ひとして召ししかば、いにしへはさたなかりし者のいかにかしけん。阿難に

 

断簡一〇〔C1・建治元年〕/の肝要は弘通あるべからず。問うて云く、慈覚大師は自身の旨目によむで如法経を始めたり

 

断簡一一〔C1・建治四年〕/十羅刹、掌を合はせて頂受す。是れ法華経に兼ねて之れを察し当来を案ずるの記か

 

断簡一二〔C1・建治二年〕□興盛にして、日本国の者死する事大半に過ぎて未だ止まらず。又前代に超え大半

 

断簡一三〔C1・建治三年〕/人も、をやの心をたがへさせ給はぬにや

 

断簡一四〔C1・弘安二年〕/と等のごとし。法華経の 

 

断簡一五〔C1・弘安元年〕/迦葉は仏に□る人なり。

 

断簡一六〔C1・建治二年一〇月三日〕/恐々謹言。/十月三日日蓮(花押)/御返事

 

断簡一七〔C1・弘安四年〕/父と母と子と、王と左右の大臣と、又四あてこそよく候へ。所謂四方と四季と二の手と

 

断簡一八〔C1・建治二年〕/尼仏、観音経・地蔵経等之れに准じて知るべし。他仏を設くと雖も釈迦牟尼教主必ず之れを用ゐるべきか。

 

安国論御勘由来草案断簡〔C1・文永五年・法鑑御房〕/正嘉元年〈太歳丁巳〉八月二十三日戌亥の刻、前代に絶えたる大地振〈振挙大地一方三尺〉。同二年〈戊午〉八月一日大風。同三年〈己未〉大飢饉。正元元年〈己未〉大疫病。同二年〈庚申〉四季に亘りて大疫已まず。既に民大半に超えて死を招き了んぬ。而るに内外典に仰せ付け□□□大法秘法の御祈祷。爾りと雖も、一分の験無く還りて飢疫等を増長す。日蓮仏法に於て験無きを見了んぬ。□疑粗一切経外典を窺ふに、御祈祷験無きの由、其の謂れ之れ有るを存じ了んぬ。遂に止む無く勘文を造り、文応元年〈庚申〉七月十六日〈辰時〉屋戸野入道に付して最明寺入道殿に奏進し了んぬ。此れ偏に国土の恩を報ぜんが為なり。其の勘文の意は、此の国天神地神十二代、百王第三十代欽明天皇の御宇に、百済の国より仏法此の国に渡り、□桓武天皇の御宇に至る、其の中間五十余代、二百六十余年なり。其の間一切経並びに六宗有りと雖も、天台法華宗之れ無し。桓武の御宇、山階寺行表僧正御弟子最澄有り〈後に伝教大師と号す〉、延暦四年叡山を建立す。同十三年桓武皇帝、帝土を遷して平安城を建つ。二十一年正月十九日、南京七大寺六宗の碩学、勤操・長耀等十四人と召し合はせ宗論を遂ぐるの時、六宗の学者口を閉づること鼻の如し。退きて後勅宣を下す云云。勤操等謝表を以て皇帝に奉り、六宗の執心を抛ちて天台宗に帰伏し了んぬ。其の時より一切経並びに法華経の義理始めて顕はれ了んぬ。其の後代々の国主、叡山に違背すべからざるの由誓言を捧げ奉る。故に白河院は非を以て理に処し、清和天皇は叡山の恵亮和尚の法威を以て即位す。又九条右丞相の御起請文之れ有り。鎌倉源右将軍は清和天皇の末孫なり。叡山に背違せば一日も世を持つべからざるか。□其の跡を紹継する、代々虎牙□、天台・真言の御帰依を褊し、禅宗念仏宗とに伏するの間、天太国中の山寺七万一千三十七所の仏陀・守護の善神瞋恚を作し、他国の□□□□将を以て此の国を破らんとなす先相なり。

 

断簡二〇〔C1・弘安〕/〈御宇応神御子〉大山皇子大石山丸

 

断簡二一〔C1・不明・入道某〕/多の不思議候ひしかども第一の不思議見へて候ひしなり。今入道殿は御とし八十一になると御物語候ひき。去年まで八十年が間は四十余年の

 

断簡二二〔C1・不明〕/事もものとなりて、かかるめ

 

断簡二三〔C1・不明〕/南北共に通用し、王臣掌を合はせて、三百余年なり、其の時智

 

断簡二四〔C1・文永〕/皇帝の御時、天台・真言始めて興る云云。茲より此の国に流布する所の六宗諍論をなす間

 

断簡二五〔C1・建治年間〕/此れは又天台宗の末学者等が本宗の所立を忘れぬるゆへなり。今

 

断簡二六〔C1・弘安二年〕/劣りて候。経文に白々なり、赤々なり。申すならばいかなる愚人も弁

  

断簡二七〔C1・弘安三年九月以降(一二月中旬か)・南条殿〕/て、わづかに十六になり候ひし小くわん者、いきてをはせし時、度々法華経聴聞し、やまいのゆか臨終と申

 

断簡二八〔C1・建治三年・富木常忍〕/進上富木入道殿日蓮

 

断簡二九〔C1・建治三年〕/此の国より西に三千里を

 

 断簡三〇〔C1・文永三年〕/行ありて学生ならざるは国の用なり。智行共に備ふは国の財なり。智行共にかけたるは国の賊、国人の中の牛なり。法華経の許されなくして自由に四十余年経々をならい行じて、生死をはなれんとをもう学者等は、自身謗法の者となる上、一切衆生皆謗法の者となるべき因縁なり。此の法門は震旦国に仏法わたりて二百年と申せしに、天台智者大師始めて一切経を料簡し給ひしやうなり。日本国には仏法始まりて二百余年と申せしに、伝教大師、天台の本疏三十巻をみて始めて此の義をあらわし給へり。此の義だにも実にして仏意にかなわば、四十余年の諸経の行者と、彼の経々に依りて法華経を全とせざる諸宗の人々は皆謗法の因縁なり。問うて云く、一仏の名号には諸仏の功徳

 

断簡三一〔C1・建治元年〕/何れの経々もをろかなる事よも候はじ。なれども金口の明説よりをこつて法華最第一の文明々と候

 

断簡三二〔C1・弘安三年〕/のかな。日蓮が生まれて候国なれば、かなわぬまでもいのりてかなわずば国のために命をすてて国の恩をほうぜん□こそ

 

小乗大乗分別抄断片〔C1・文永八年〕/には天台宗劣れるなりと申す。此等の人師は世間の盗人にはあらねども、法の盗人なるべし。

 

断簡三四〔C1・建治三年〕/人と申すに声聞供養の功徳はすぐれて候。又辟支仏・菩薩等は此れにすぐれて候。一切世界の声聞・辟支仏・菩薩等の三聖を供養せんよりも、釈迦仏一仏を供養し奉る功徳はすぐれて候。此の釈迦仏を三千大千世界を器として金を供養

 

断簡三五〔C1・建治元年〕/教主釈尊に於ては又之れ多し。諸の小乗経の釈迦牟尼仏は、陳如・迦葉・阿難等の沙門の僧を以て脇士と為し、諸大乗経は或は二乗を以て脇士と為し、或は普賢・文殊等の菩薩を以て脇士と為し華厳経盧舎那仏、或は毘盧遮那仏中台本尊は、其の左右に千の釈迦等之れ有り。大日経の定印の大日如来には、八葉の四仏・四菩薩、金剛頂経の智拳印の大日如来は、四仏・十六大菩薩等之れ有り。而も世間

 

断簡三六〔C1・文永六年〕/重ねて何ぞ忽ちに没収の重科に行はるるや、争でか怠状の沙汰ならんや。

 

断簡三七・二六三〔C1・弘安元年〕/守護の御ちかいあり。しかるにいかなれば百王までは守り奉はずして人王八十一代の安徳天皇は源右将軍にせめられて西海には沈み給ひしぞ。

 

断簡三八〔C1・建治元年〕/とのの今年の御いのち、いきさせ給はん事、よるひるなげき申せしに、これほどうれしき事候はず。さこそなげかせ給ひ候らめ。ただしこれにはなげき候はぬぞ、悦をなげく事

 

断簡三九〔C1・文永九年〕/人二百五十戒の諸僧数十万人を集め、八万法蔵を読むと雖も何ぞ一雨も下らざる。竜王の慳貪か、諸仏の妄語か。良観上人身口は仏弟子に似たりと雖も心は一闡提の人為るか。

 

断簡四〇〔C1・建治二年〕/釈顕はし給□誦□権経□□顕はすへし。去ぬる正嘉元年□□□□

 

断簡四一〔C1・弘安元年〕/掌を合はせて候ひけるとうけ給はるうれしさに、そのあとをつがせ給

 

断簡四二〔C1・弘安二年一〇月一八日・上野殿〕/又々申上べく候。恐々謹言。/十月十八日日蓮(花押)/上野殿御返事

 

断簡四三〔C1・建治三年〕/我が身にあたりてをいたるをや(親)はとどまて、わかきこ(子)はさきゆくらむ

 

法蓮抄断片〔C1・建治元年・法蓮上人〕/足なくして千里の道をく□がごとし。但近き現証を引きて

 

断簡四五〔C1・弘安元年〕/しんぜさせ給ひしなり。これも又かくやあるらむ。日蓮が法華

 

断簡四六〔C1・建治二年〕/と申して妄語を雑へざる経なり。仏に二説あり。一には爾前の経々。仏には妄語なけれども所化の衆生実語

 

断簡四七〔C1・文永末〕/文永九年文永元年の大彗星□□にして起答□□□□□此れを知る秘術

 

断簡四八〔C1・弘安〕/教と申す聖人に

 

断簡四九〔C1・建治〕/申等□□□□□宗なんど申す法華経の強敵ども、国に充満せり。大白癩病

 

念仏破関連御書〔C1・文永三年〕/者の中に臨終のあてがたなくものせうせういできたる。ここに人すいしをもう。信施ををいて念仏を申すが臨終のわろきやらんなんどをもう程に、一向信施をたち、童男女等をすてて山林にこもりゐて、名利名聞等をたちて一向に念仏を申す人の中に、ことに臨終わろき人々又これをほし。この時、信施ををいて臨終のわろきやらんの疑又やぶれぬ。進退きわまりてあれども、いかなる故という事をしらず。例せば提婆・善星・瞿伽梨・苦得尼等の人々、或は仏弟子なるもあり、或は外道なるもあり、或は二百五十戒を持ち、四禅定をえ、欲界の貪・瞋・痴等を断じ、或は十二部経をそらにし、或は六万八万法蔵をうかべたりし人々或は生身に大地われて無間地獄に堕ち、或は死して食吐鬼となりなんどせしかども、彼の所化の弟子どもはすべて我が師地獄に堕つとわしらず、但得道の人なんめりとわをもいしなり。又心に疑ふは、臨終のさだめなきはいかにとをもう。此に仏ののたまわく、此等は皆無間地獄に堕ちたりと。彼等が所化の弟子等としごろの法華読誦の功徳を浄土に回向して、観経の上品上生に往生せん。上品中生は解第一義をもちて往生すべしととかれたり。華厳経の唯心法界、法華経の一念三千・十法成乗、真言の入我々入・五相成身等を回向して、西方の浄土の上品中生に往生すべし。わづかにすこし一戒を持つものは中三品を志ざす。悪人は名号を唱へて下三品を心ざす。法然等が料簡には、経の面は読誦・解第一義・戒等の往生したるやうにはみへたれども、遠くは浄土の三部経の先後、近くは観経の始中終を勘へたるに、実には九品に亘りて必ず念仏をもちて往生すべし。経文に読誦等の諸行を往生の業にいたせるは、且く末代の凡夫が観経等にあわざりし先に法華経等の諸経をよみつみ戒等を持てるを但一度に、往生の業にはあらず、すてて念仏にうつれといわば、本意なくをもい、信をなさずして観経にうつるべからざる故に、且く人の心をとらんがために諸行往生とわ申す。法華経を入事をば、伝教大師あながちに謗法の者とこそ定め給へ。而るを華厳・深密・般若経にだにも及ざる観経の読誦大乗の内に法華経ををさむべしや。此の義をわきまえざる故、天台・真言の人々も行は諸行にわたれども心は一向の念仏者なり。かるがゆへに謗法の者となりて臨終はをもうさまならず。在家の無智下賤のもの並びに悪人が臨終のあてがたなるは、又下賤なる故にいたう謗法の念仏者をも供養せず。悪人なる故に謗法の念仏者にも近つかず。但あるほどに先の世に五戒を持ちて人間に生まれたり。自然に堂寺なんどをもめにみ、一年十年等の内にも如法経なんどの縁をもむすび、父母なんどのけうやうの心もあるかの故に、生死をはなるるまでこそなけれども、人天の果報をうるかの故に、臨終あてがたなるなり。譬へば将門・貞任なんどは謀反のものなりしかども、我等が領内の百姓はいたうとがもなければことごとく打事もなし。郎従なんども大将軍の亡後はいたうたづねられず。謗法も又かくのごとし。これをもちて一切心うべし。

 

 

 

念仏破関連御書〔C1・文永三年〕/止観十巻には内外典を打頽して法華経となしてつくれる文なり。教相を以て定めば、法華已前の諸経の談にして、一仏の一切の仏の功徳をば備へざる事なり。法華経にをいても迹門にすら、なをしこれをゆるさず。何に況や爾前の経々をや。されば爾前の諸経に、一仏一切仏の義をとけるは、或は平等意趣と心へ、或は法身のかたをとけると心へ、或は爾前の円教の融通の心としるべきを、遠くは一代聖教の先後をもわきまへず、近くは天台・妙楽の釈をもしらざる者ども、但一文一句計りをとりて先後もしらずいう事なり。阿弥陀の三字に一切の諸仏を摂む事は、源法華経の所説、一切の諸法を三諦ととかるれば、法華経の行者のためには阿弥陀の三字に一切の仏ををさむべし。法華経も信ぜぬ権経をさまらず法華経の三字□□□□□□□をさまるというか。答へて云く、爾なり。金ににたる石あり、又実の金あり。珠ににたる石あり、実の珠あり。愚者は金ににたる石を金とをもい、珠ににたる石を珠とをもう。この僻案の故に又金に似る石と実の金と、珠に似る石と実の珠と勝劣をあらそう。世間の人々は何れをという事をしらざる故に、或は千人のいうかたにつきて一人の実義をすて、或は上人の言につきて少人の実義をすつ。或は威徳の者のいうぎ(義)につきて無威の者の実義をすつ。仏は依法不依人といましめ給へども、末代の諸人は依人不依法となりぬ。仏は了義経に依りて不了義経に依らざれとはせいし給へども、濁世の衆生は不了義経に依りて了義経に依らざるの者となりぬ。あらあら世間の法門を案ずるに、華厳宗と申す宗は華厳経を本として一切経をすべたり。法相宗三論宗等も皆我が依経を本として諸経を

 

念仏破関連御書〔C1・文永三年〕/よするなり。されば華厳宗人多しといえども澄観等の心をいでず。彼の宗の人々諸経をよめども、ただ澄観の心をよむなり。全く諸経をばよまず。余宗又かくのごとし。澄観等仏意にあいかなわば彼等又仏意に相叶ふべし。澄観もし仏意に相叶はずば彼の宗の諸人又仏意に相叶ふべからず。一人妄をさえづれば諸人妄をつたう。一人まつり事をだやかならざれば万民苦をなすがごとし。当世の念仏者たとい諸経諸仏を念じ行ずとをもえども、道綽・善導・法然等の心をすぎず。若し爾らば道綽禅師が未有一人得者の釈、善導が千中無一の釈、法然が捨閉閣抛の四字謬りならば、たとえ一代聖教をそらにせる念仏者なりとも阿弥陀の本願にもすてられ、諸仏の御意にもそむき、法華経の其人命終入阿鼻獄の者とならん事疑ひなし。これ偏に依法不依人の仏の誓戒をそむいて、人によりぬる失のいたすところなり。問うて云く、人に依る失ならばなんぞなんぢは天台・妙楽・伝教大師に依るや。答へて云く、あえて天台・妙楽・伝教大師を用ゐず。但天台・妙楽・伝教大師の引き給へる証文によるなり。例せば国ををさむる人、国の中のまつり事、三皇・五帝等の三墳・五典にて賞罰ををこなえば、聖人・賢人とはいわるれども、人を罰する罪によりて悪道にをちず。而るを重罪の者も愛するによりて軽罪にをこなひ、奉公あるものを悪むによりて賞せずなんどあれば、現世には佞人のなをとり、国やぶれ、未来にはあしき名をながすなり。これ偏に文書に依りて人によらず、人によりて文書によらざるによりて賢愚はいで来たるなり。当世の僧俗多くは人を本として経文を本とせず。或者云く、日蓮は善導和尚にはすぐべからず。或は云く、日蓮見るほどのと難ぜらるるか。若爾らばいかにまけたる問注の義と恐れかへされたる先判をば公家武家にはをさめをかれたるべし。先判は後判のためのかたうどとなり、まけたる問注の記はかつものの証文となる。故にをさめをかれたるなり。爾前の諸経は爾前の行者のためには用事なけれども、法華経の行者のためには□□なるなり。故に阿難尊者此れを結集し、訳者たち震旦・日本までもわたし来るなり。問うて云く、阿弥陀の三字に一代聖教・一切諸仏をさまり給わずば、いかに止観に云ふ「十方の仏の名字を称ると功徳正等なり」の釈如何。答へて云く、反詰して云く、此の釈は何の経文により処有りや。答へて云く、止観の常坐常行の両三昧の処なり。問うて云く、其の両三昧は何の経文に依るぞや。答へて云く、常坐三昧は文殊問等、常行三昧は般舟経等なり。問うて云く、文殊問経・般舟経は何れの部の経ぞ。法華経爾前か、巳後か、並か如何。答へて云く、しらず。難じて云く、経を定め、釈をば料簡すべし。汝ほぼこれをきけ、天台・妙楽の心は玄義十巻諸経の

 

念仏破関連御書〔C1・文永三年〕/是我有、其中衆生悉是吾子」等云云。この文のごとくならば、この三界は皆釈迦如来の御所領なり。寿量品に云く「我常在此娑婆世界」等云云。この文のごとくならば、過去五百塵点劫よりこのかた、此の娑婆世界は釈迦如来の御進退の国土なり。其の上、仏滅後一百年に阿育大王と申す王をはしき。此の南閻浮提を三度まで僧に付属し給ひき。又此の南閻浮提の内、大日本国をば尸那国の南岳大師、此の国に上宮太子と生まれてこの国の主となり給ひき。しかれば聖徳太子已後の諸王は皆南岳大師の末葉なり。桓武天王已下の諸王は又山王

 

仏説御書〔C1・弘安元年〕/諍そひし時、仙経等やけにき。此の経□経に対せざりし時は、萩につみこめてやきしに焼きざりき、□□□やけぬるなり。□□仙経は天竺にして焼亡に□ては焼きしぞかし。仏経の内にても又々かくのごとし。華厳経は一権一実、一妄語一真実。方等経は三権一実、三妄語一真実。般若経は二権一実、二妄語一真実なり。阿含経は出世間の一権なり。世間に対すれば実語なれども、仏教の中の妄語なり。大日経金剛頂経蘇悉地経の両部の真言は三権一実、三妄語一実語。法華経に対せば一切経は一向妄語となるべし。而るを漢土にては善無畏三蔵、大日経真言法華経とをは一義二経になしぬ。其の上に印と真言とを加へて超過と云云。純円の法華経を帯権の大日経に混合しつれば、法華経かへて帯権の経となり。経王国に失ひしかば世王又たへて、或は大王臣下にをかされ、或は他国にあなづられ、やうやくすぐるほどに、禅宗念仏宗等の邪法かさなりて、終に主しなき国となりぬ。/仏法は主体なり、世法は影響なり。体曲がれば影ななめなりというは此れなり。日本国は又桓武の御世にやうやく真言まさりになりて、座主は真言座主になり給ひぬ。名は天台座主、所領は天台の所領、其人の能は真言なり。又真言かとをもへば法華経の円頓の受戒あり。鼠にもあらず、鳥にもあらず。法華経にもあらず、大日経にもあらず。きさきを民の犯したるが太子を生みたるがごとし。詮を論ずれは房是れなり。師子国と申す国は、父は師子、母は人なり。これ国の始めなるゆへに、今にいたるまで彼の国の人の心師子のごとし。漢の日種国と申す国は、唐土の王女に日天のあわせ給ひて

 

断簡五五〔C1・建治二年〕/の劣なり。師子の身の内の虫の師子を食ふと申すは、今天台宗の人々の自宗を他宗に同ずるこれなり。問うて云く、其の相貌如何。答へて云く、大日経に云く「心実相」。善無畏・金剛智・不空・一行が云く「彼の経の諸法実相は此の経の心実相なり」等云云。慈覚大師云く「爾るべし」。安然云く「爾るべし」。大日経に云く「我は一切の本所なり」。善無畏云く「彼の経の久遠実成と同じ」云云。慈覚等云く「爾るべし」。華厳経に云く「心と仏と及び衆生と是の三差別無し」。澄観云く「彼の法華経に云く、諸法実相と是三無差別とをなじ」。智礼等云く「此れ同じ」。かくのごとく立つるゆへに天台法華宗は失せぬるなり。疑って云く、此等をばいかんが心うべき。答へて云く、此の事には四の法門あり。一には名同体異、二に名異体同、三には名義共同、四には名義共異なり。をはいかにとして善無畏等は名義共七十ケ国を修行し□□□大日経をつたへ、結句、漢土に来たりて大日経玄宗皇帝に授けし三国真言の元祖なり。一四天肩を並ぶべからざる聖人ぞかし。しかれども、いかなる義にてやありけん、一時に頓死して、閻魔のせめをかほり、鉄の縄七すぢつき給ひしは、世間の悪にはあらず、ひとえに此の悪法のゆへなり。「今此三界」の経文を恃まずば、いままで阿鼻の人にてこそをはすべけれ。しかるを今の天台真言の二宗の末学、此のことわりを知ざるかのゆへに、真言法華経との理同の義を存するは、いかにとあるべきぞ。はかなしはかなし。

 

断簡五六〔C1・弘安元年〕/権経をひろむる国あらば、守護はなすとも強盛なる事は有るべからず。いかにいわうや、仏説にもあらざる権経を執して、仏説たる

 

念仏破関連御書〔C1・文永三年〕/かの浅経の読誦等の句に華厳・方等・般若等をいるるだにも不思議なるに、後八年の大法法華・涅槃・大日経等をば通じ入れて上品上生の往生の業とするだにも不思議なるに、あまつさえ称名念仏に対して法華経等の読誦は無間等の往生なんど申して、日本国中の上下万人を五十余年が程、謗法の者となして無間大城に堕しぬる罪はいくら程とかをぼす。先づ法然が亀鏡にささげたしり双観経の本願の文には「唯除五逆誹謗正法」と法蔵比丘いましめをかねてなし、正直捨方便の法華経には「若人不信毀謗乃至其人命終入阿鼻獄」と記しをかれたり

 

念仏破関連御書〔C1・文永三年〕/□□するとも、善導・法然聖人の御義をすつべからず。善導・法然上人のをはしまさざる故にというか。若し爾らば釈迦如来の二天三仙の外道の義をやぶり給ひし、天台大師の南三北七つめし向かう、さればと申して人用ゐざりしか。□の義をいいて用させし者はをこの者にてこそありしか。又云く、日蓮かしこしという

 

仏説御書〔C1・弘安元年〕/仏説にはあらず。今の観経・阿弥陀経等も仏説にはあらず。源を尋ぬれば華厳経

 

断簡六〇〔C1・建治二年〕/四味為麁、醍醐為妙とは是れなり。答へて云く、此の義は汝が今始めたる私の義にあらず

 

断簡六一〔C1・文永〕/天台妙楽等の釈を顕はし出だして□心みる□釈し

 

仏説御書〔C1・弘安元年〕/法華経こそ大覚世尊初めてとかせ給ふ法門なれば仏説の始めなれ。大日経等と申すも、詮を論ずれば仏説にはあらず。華厳経の法門なるゆへなり。華厳宗が華厳経を根本法輪と申すは、法華経をだにも除きて有りましかばいわれたる事にて有るなり。今の天に列なりまします日月衆星も、前四味の間は仏の御弟子にはあらず。初成道已前華厳経の別円二教をさとりたりし人なり。総じて三千大千世界の天人竜神等の上首たる人々は皆かくのごとし。本より他仏に随ひて別円二教を知りたりしかども、応化応生と申して釈迦仏の行化を助けんがた(め)に

 

断簡六三〔C1・建治二年〕/日蓮責か本師責か。汝の師は念阿、念阿の師は皇覚、皇覚の師は法然法然の師は善導、善導の師は道綽なり。

 

断簡六四〔C1・弘安三年〕/吼ゆることなし。ひるすぎよに入り候へば、よろづのけだもの、きつねは人となり、とらは鬼神等となりて、一切衆生をたぼらかし、ないし師子王の子をあなづり候なり。

 

断簡六五〔C1・文永一一年・人々〕/人々御返事日蓮

 

上野殿御返事断片〔C1・建治三年五月一五日・上野殿〕/今の釈迦仏といわれさせ給ひぞかし、さればとてひが事をすべきにはあらず。今はすてなば、かへりて人わらわれになるべし。かたうど(方人)なるやうにて、つくりをとして、我もわらい、人にもわらわせんとするがきくわひ(奇怪)なるに、よくよくけうくわん(教訓)せさせて、人の多くき

 

断簡六七〔C1・弘安元年〕/るところ□□□□□両方の□

 

断簡六八〔C1・文永五年〕/正直捨方便これなり。大竜

 

断簡六九〔C1・弘安元年〕/り。又十悪五逆

 

三論宗御書〔C1・弘安二年〕/三論宗の始めて日本に渡りしは、三十四代推古の御宇治十年〈壬戌〉十月、百済の僧観勒之れを渡す。日本紀の太子の伝を見るに異義なし。但し三十七代の事、流布の始めなり。天台宗律宗の渡る事は、天平勝宝六年〈甲午〉二月十六日〈丁未〉乃至四月、京に入り東大寺に入る、天台止観等云云。諸伝之れに同じ。人王第四十六代孝謙天皇の御宇なり。聖武は義謬りなり。書き直すべきか。戒壇は以て前に同じ。大日経の日本に渡る事は、弘法の遺告に云く「件の経王は大日本国の高市郡久米道場の東塔の下に在り」云云。此れ又元政天皇の御宇なり。/法華経の渡り始めし事は、人王第三十四代推古の四年なり。「太子云く、恵慈法師謂ひて曰く、法華経の中に此の句、字を落とす」云云。太子使ひを漢土に遣はす已前、法華経此の国に有るや。推知するに欽明の御宇に渡る所の経の中に法華経は有るなり。但し自づから御不審の大事有り。所謂日本紀に云く「欽明天皇十三年〈壬申〉冬十月十三日〈辛酉〉、百済国の聖明王始めて金銅の釈迦像一躯を献ず」等云云。善光寺流記に云く「阿弥陀並びに観音・勢至、欽明天皇の御宇治天下十三年〈壬申〉十月十三日〈辛酉〉百済聖明王件の仏菩薩頂戴」云云。相違如何。

  

五大のもとへ御書〔C1・弘安二年頃〕/□□□□□□□□□等御尋ねあるべし。経は或は先後し、或は落経にても候はず、□□□りけるに、なに事もかくの事□不沙汰あるか。ものくるわしきとはこれなり。法門もかしこききやうにて候へばかるかるべし。/追申/五大のもとへは三四度も之れを申し、他所に於て之れを聞かしむ。将又事に依りて子細有るべきか。伯耆阿闍梨の事は但我私なるやうなるべし、設ひ件の人見参をなすと雖も其の義を存して候へ 

 

一定証伏御書〔C1・弘安三年〕/一定と証伏せられ候ひしかば、其の後の智人かずをしらず候へども、今に四百歳が間さで候なり。かるがゆへに今に日本国の寺々一万余、三千余の社々、四十九億九万四千八百二十八人の一切衆生、皆彼の三大師の御弟子となりて、法華最第一の経文、最第二最第三とをとされて候なり。されども始めは失なきやうにて候へども、滴つもりて大海となり、ちりつもて大山となる。

 

断簡七五〔C1・弘安元年〕/べからず。弘法大師・慈覚大師・智証大師と申す三

 

断簡七六〔C1・文永六年〕/各所罷り蒙るべきなり。仍って起請件の如し。貞永元年七月十日等と起請文に載せ了んぬ。次下武蔵守平朝臣

 

断簡七七〔C1・建治元年〕/戯論にも法華経を我が経々に相対して下しぬれば必ず阿鼻に堕すべし。所謂無垢論師・徳光論師・嵩法師・信行禅師・得一等なり。「謗法開罪於無間」等の釈これなり。天台大師は漢土第一の福人なり。

 

断簡七八〔C1・文永元年〕/寿仏といわれましまして寿の長くましますも、凡夫にてましましし時の不殺生戒の力なり。又極楽世界の七重宝樹と申す木も不殺生戒の力なり。

 

 断簡七九〔C1・建治元年〕/をてらす。瓶沙王に勝ること千倍、家中に金犁九百九十九、其の家にあり。最下品直百千両金釘を以てこれを指すに、七尺穿たずして本のごとし。□六十庫蔵あり。一庫に三百四十斛を入れたり。十六大国の中□第一の大長者なり。教主釈迦後第四年にまいりて御弟子となる。家を捨て欲を捨てて出家せし時、身に無価の宝衣を被りて候ひしが、截ちて僧伽梨衣となして四にたたみ、仏にたてまつりて

 

 断簡八〇〔C1・建治二年〕/つけるなり。今も又かくの事し。をやのあとをつがせ給ひて

 

断簡八一〔C1・建治三年〕/近をもって遠を知るなら

 

断簡八二〔C1・建治二年頃・富木常忍及び尼御前〕/現在には九旬のよわひをたもち、一国に財をみて、臨終には法華経を唱へさせ給ひて、同じく霊山にまいり給ひ、父母にげざん有る時、いくそばくかうれしくをはせん。又

  

断簡八三〔C1・弘安〕/ととはれてかへてたうがごとし。今天台宗云く、華厳経・観経等の円と法華経

 

断簡八四〔C1・文永一一年一二月から文永一二年一月頃〕/宅内に食を絶つこと両三日、道路に通人無し。此の僧正寒に責められ、又食無きの上、洛中に一の青女有り。余が悲母なり。誰人か之れを養はん。我仏法を学し不

  

小乗大乗分別抄断片〔C1・文永八年〕/又還りて天台本宗をば下して華厳宗真言

 

 断簡八六〔C1・建治元年六月六日・四条金吾〕/なり。よくきこしめすべし。/恐々謹言六月六日日蓮(花押)/左衛門尉殿御返事

 

断簡八七・一八二〔C1・建治元年〕/呉王となる。劉備は蜀王となる相人の申せし事一分言相違なし□□□□初めの相に後の報 

 

断簡八八〔C1・建治三年〕/を貫赤気宮

 

断簡八九〔C1・建治二年〕/迦葉・舎利弗等あり。いかにあながちに地涌千界上行等を実の眷属というや。答へて云く、法華経の涌出・寿量等を

 

断簡九〇〔C1・弘安〕/又地涌の菩薩の

 

断簡九一〔C1・弘安三年・三郎殿〕/三郎殿、ずくし二、すどう菩薩と申せし蓮五本を定光仏にくやうしまいらせ釈迦仏となり給ふ。

 

念仏破関連御書〔C1・文永三年〕/王これをもちゐず。仏、地神天神を証人として論じかたせ給ひたりき。さればこの世界は我等が本師釈迦如来の御所領なり。されば四衆ともに仏弟子なれども、憂婆塞・憂婆夷は仏弟子なれども外道にもにたり。比丘・比丘尼は仏の真子なり。されば大悲経には大梵天・第六天・帝釈・四大天王・人王等を一々にめして、三千大千世界を次第にゆづり給ひて云く、この世界を領知して我が真子比丘比丘尼を供養すべき由をとき給ひき。爾の時、梵天・帝釈等仰ぎて仰せに随ひにき。又、正直捨方便の法華経の譬喩品に云く「今此の三界は皆

 

断簡九三〔C1・弘安〕/□想結□まい

 

断簡九四〔C1・建治元年〕/然非不有故言

 

断簡九五〔C1・建治元年〕/半坐を許され仏とならび、閻浮第一の大僧と成り給ひしか

 

法蓮抄断片〔C1・建治元年・法蓮上人〕/此れを妄語といはんとすれば

 

断簡九七・九八〔C1・建治二年〕/弟子と見しほどに法華経の弟子らに

 

断簡九七・九八〔C1・建治二年〕/初発心の弟子にはあらず。双林最後の

 

断簡九九等五編断簡〔C1・文永六年〕/なり、主なり。王〈当帝〉の御ために山門は主師親の三

 

大乗止観法門要文断簡〔C1・文永七年〕/然有証有凡有聖。但

  

断簡一〇一〔C1・弘安元年〕/ただ一人ある者をにくみ、うしなわせ給ひては、もしやの事の

  

断簡一〇二〔C1・建治二年〕/候上はいかにと此れは叶ひ候べき。たのま

 

断簡一〇四〔C1・建治元年〕/物部守屋大連。中臣勝海連曰。何背国神敬他神哉。由来不識若此事矣。蘇我大臣曰可随詔而奉助生異計。遂引法師〈豊国法師〉入於内裏大連横睨大怒。太子語左右曰。大連不識因果理。而今将亡。噫嗚可悲。是時有人。蜜語大連曰。群臣図卿不可不備。大連聞之招軍兵。中

  

断簡一〇五〔C1・佐前〕/含経の肝心は□説中阿含

  

断簡一〇六〔C1・佐前〕/□□経□□□□□

 

断簡一〇七〔C1・文永一一年〕/へは候か。釈迦仏はをやに/乃時日蓮(花押)

 

千日尼御返事断片〔C1・弘安三年七月二日・千日尼〕/指し付きてをはせし御舌どもの、くぢらの死にてくされた

 

断簡一〇九〔C1・弘安二年〕/漢のかうそ□□にてをはせし時、秦の始皇にせめられて山中にをはせしに、呂后と申せし婦の候はんを□□□□但一人山中に入りて沛公をたすけよと

 

断簡一一〇〔C1・文永六年〕/梵天・帝釈・四大天王、総じて日本国中六十余州大小の神祇、別しては伊豆・筥根両所の権現、三島大明神・八幡

 

断簡一一一〔C1・弘安元年〕/抑是非につけて御使ひは神妙に候とをぼしめせと、しづしづという

 

南條兵衛七郎殿御書断片〔C1・文永元年一二月一三日・南條兵衛七郎〕/法華経をすてて念仏等の権教に

 

断簡一一三〔C1・建治三年〕/ごとし。大蒙古国日本国を

 

断簡一一四〔C2・文永九年五月二六日・日妙聖人〕/人をば天まぼり給ふゆへに、とがなけ

 

断簡一一五〔C1・建治元年〕/あらざるか。将又過去の貧道偸盗の業を消滅するかのゆえに、しばらく貧なるべしと心えよ。あえて経文のとがにはあらざるか。伝教大師云く「讃者

 

断簡一一六〔C1・建治元年〕/て候へども人の御心へのために

 

断簡一一七〔C1・文永五年〕/去ぬる正嘉元年〈丁巳〉大地震〈此の大瑞日本日記に見えざるか〉日蓮諸経を引き勘ふるに、念仏宗禅宗等の邪法此の国に出現し、存の外に国中の上下鎮護国家の為の大法を蔑如せしむるに依りて、法華・真言の国中の守護の諸大善神瞋恚を為し、悉く他国に向かふが故に起こる所の災難なり。此の国将に他国に襲はるべし等云云。具には故最明寺入道殿に奉る勘文のごとし〈谷土野禅門之れを尋ぬべし〉念仏者並びに檀那等之れを聞いて怨を成すこと、譬へば不軽菩薩の増上慢の四衆の如し。

 

断簡一一八〔C1・弘安元年〕/給へるは、此れは有る人物語りて云く、いかに京上りの人のさかわに止りて、いへをつくり妻子をまうけて、洛陽とをぼすぞ、いそぎいそぎ御京上り有るべしと申せし、うちをどろきて、さぞかしとをぼしめして大竜にうちのり、須臾の間に花のみやこ

 

断簡一一九〔C1・建治三年〕/法門水火なり。何を信ずべしともをぼへざりしに、陳主皇帝の御宇に徳安大師智顗と申せし人、後には天台大師とがうす。南北数流の流れを止めて但天台の一海となせ 

 

念仏破関連御書〔C1・文永三年〕/釈迦仏にはすぐべからず。釈迦如来は正しく法華経に「悪世末法の時、能く是の経を持つ者」等云云。善導云く「千中無一」等云云。いづれを信ずべしや。又云く、日蓮がみる程の経論を善導・法然上人は御覧なかりけるかと申すか。若しこの難のごとくならば、先の人の謬りをば後の人のいかにあらわすとも用ゐるべからざるか。若し爾らば、なんぞ善導

 

破信堕悪御書〔C1・建治三年〕/かたきはををく、かたきはつよく、かたうど(方人)はこわくしてしまけ候へば、悪心ををこして、かへて法華経の信心をもやぶり、悪道にをち候なり。あしきところをばついしざりてあるべし。釈迦仏は三十二相そなわて、身は金色、面は満月のごとし。しかれども、或は悪人はすみとみる、或は悪人ははいとみる、或は悪人はかたきとみる。

 

断簡一二二〔C1・建治三年〕/ども、法華経並びに一切経の心をしりたる人一人もなし。謗法の人のみありて一国こぞって阿鼻地獄

 

断簡一二三〔C1・建治元年〕/大日経との梵本を御覧ありしが、一とかかせ給ひて候へば一としるぞかし

 

断簡一二四〔C1・建治〕/かたがたいわひこめ□□□□ただしと□□□□めにやまのすまひ□□

  

断簡一二五〔C1・建治元年〕/末孫なり。など師子の子は象の子には劣るぞ。

  

断簡一二六〔C1・建治元年〕/と申すは此れこそ心えられ候はね。頸を

  

断簡一二七〔C1・文永〕/天畜と人鬼上下□□

  

断簡一二八・一二九貼合〔C1・文永七年〕/僧都・僧上なんど申せし

 

断簡一二八・一二九貼合〔C1・文永七年〕/□塔の前にともさせ

 

断簡一三〇〔C1・文永五年〕/三論宗天竺の祖師/□□竜樹・青目・清弁・智光/論師・羅什三蔵/唐土の師嘉祥大師等/二蔵経小乗声聞蔵一切の小乗経/大乗菩薩像華・方・般若・法華・涅槃等也/三時教有教小乗/中道教・深密経・華厳経法華経・涅槃経等なり/└了義経

 

断簡一三一・一三二〔C1・文永八年〕/し。しかも此の法華経に已今当説最

  

断簡一三一・一三二〔C1・文永八年〕/経中最為深大」等云云。譬へば華厳経

 

下山御消息断片〔C1〕/法華経をすてて念仏を申す。日蓮法華経を持つといへども念仏を恃まず。我等は念仏をも持ち、法華経をも信ず。戒をも持ち、一切の善を行ず等云云。此等は野兎が跡を隠し、金鳥が頭を

 

断簡一三四〔C1・弘安三年〕/南無律宗禅宗等と申すもみなながら、はたとをれ、どうとたふれ、木のをれたうるるがごとく、山のくづれ、いわのはれ、なみのたち、地のふるうがごとく候へば、国土もをだやかならず、人の心もさわぎ

 

断簡一三五・断簡追加V〔C1・建治二年〕/何経の文ぞや。南北十師の末学等一同に答へて云く、涅槃経第七に、我今日より始めて正見を得たり。世尊是れよりの前、世尊は我等を悉く邪見の人と名づく等云云。智顗此の経文を糾明せしかば、法華経邪見と申す文にはあらず。迦葉童子菩薩か

  

断簡一三六〔C1・建治元年〕/行ぜば、如意珠をもてる者の瓦礫と交易をなし、帝釈の瀰猿を友とせるがごとしと心うべし。かくのごとく心へて他宗の人々にむかひては、経計り

 

断簡一三七〔C1・文永八年〕/薬師経に云く「若是女人得聞世尊薬師□□□至心受持於後不復更受」。のみならず華厳宗法相宗三論宗・真

 

断簡一三八〔C1・弘安元年〕/二乗有ること無し」等云云。伝教諍ひて云く「此の経文は一乗方便という経文にはあらず。前後を見るべしとせめしかば

  

断簡一三九〔C1・文永末〕/之可説なり。是一。観経の文に妙法といふは、小乗経の無妙法に対するなり。何ぞ必ずしも法華経を指すと意得んや。

  

断簡一四〇〔C1・建治二年〕/十一年四月八日

 

断簡一四一〔C1・建治〕/ひとと馬とを見まがうことなし。白と白と黒と黒とにこそまどう□ん

 

断簡一四二〔C1・弘安〕/不順との意にてとくとこの

  

断簡一四三〔C1・文永六年〕/地に因りて倒れ、還た扶けて起つが如し

 

断簡一四四〔C1・文永〕/真の法華行者

 

断簡一四五〔C1・文永〕/かへりて行はれんがごと

 

一乗要決要文・断簡一四六等八種貼合〔C1・正元年間〕/一家の学者尚を

  

断簡一四七〔C1・文永〕/迦きよし定

 

断簡一四八〔C1・文永七年〕/阿闍世、未生怨太子をかたら

 

断簡一四九〔C1・文永七年・浄顕房・義浄房〕/ひとをふみ経々の中をもに□□/□法華経の日本□釈迦三徳/ある□□ます/しかたき/□□見惑は草木を筆とんとす/硯をき昔聞次乃至童仏所得教昔聞権是諸人無量方/仏相即是

  

断簡一五〇〔C1・文永七年〕/に二言なしと申して、人王となる人虚妄なしとあれば、○あなづらずば自他の大難もとどめぬべし。問うて云く、何禍に□□□□□□□□□

  

断簡一五一〔C1・建治三年〕/法華経に云く「疑ひを生じて信ぜざらん者は則ち当に悪道に堕つべし」。各々疑って無間大城

  

断簡一五二〔C1・文永一二年〕/まろばらに□軍兵などよせ□□なんと申す事こそ存外の妄語にて候へ。

 

断簡一五三〔C1・建治二年〕/天台大師は約部・約教あり。約教は天台の釈の本意にはあらず。天台已前

 

断簡一五四〔C1・建治元年〕/問うて云く、去ぬる正嘉の大地震、永元の大彗星は国日□国天子並びに万民一同に日蓮を理不尽ににたれども、聖賢にあらざるかのゆへに善無畏等に打ちぬかれぬ。さて善無畏が云く、汝に天竺の秘法教ふべし。漢土の

 

断簡一五五〔C1・建治三年〕/功徳をさうる大悪としる人候はず。譬へば日本国の女人の御た

  

帰伏正法御書〔C1・弘安二年〕/仏法の中にあらそい出来すべきたね、国のみだるべきせんへうなり。いかなる聖人の御ことばなりとも用ゐるべからず。各々日蓮をいやしみて云く、真言宗法華経宗とは叡山・東寺・園城・なら、上一人・下万民一同に帰伏する正法なり。始めて勝劣を立て慈覚・智証・弘法にそむかんとをほせあるはいかんがとをぼすか。強敵を

 

断簡一五七〔C1・建治二年〕/の先の師の義を破るをば用ゐるるや。設ひ当世の□□□□□念仏者

 

断簡一五九〔C1・文永五年〕/と勘へて、正元二年〈庚申〉、同文応元年なり。七月十六日、野戸野入道に付けて最明寺入道殿に奏□□被了。此故日蓮文応二年〈辛酉〉五月伊豆国伊東

 

仏説御書〔C1・弘安元年〕/あらず。阿含経こそ仏説にては候へども、又拙き経なり。華厳経をとくほどの人の、阿含経をとかざるべきぞ。

 

断簡一六一〔C1・弘安元年〕/外道あり。其の弟子に六師、九十五種にながれて法門

 

断簡一六二〔C1・建治〕/はいま

 

念仏破関連御書〔C1・文永三年〕/是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」等云云。この文のごとくならば、この三界は皆釈迦如来の御所領なり。寿量品に云く「我常に此の娑婆世界に在り」等云云。この文のごとくならば、乃往過去五百塵点劫よりこのかた、此の娑婆世界は釈迦如来の御進退の国土なり。其の上、仏滅後一百年に阿育大王と申す王をはしき。此の南閻浮提を三度まで僧に付属し給ひき。又此の南閻浮提の内の大日本国をば、尸那国の南岳大師此の国に上宮太子と生まれて、この国の主となり給ひき。しかれば聖徳太子已後の諸王は皆南岳大師の末葉なり。桓武天王已下の諸王は又山王

 

南無御書〔C1・建治元年〕/堂塔つくらず、布施まいらせず、唯をしき物は命ばかりなり。これを法華経にまいらせんとをもう。三世の仏は皆凡夫にてをはせし時、命を法華経にまいらせて仏になり給ふ。此の故に一切の仏の始めは南無と申す。南無と申すは月氏の語、此の土にては帰命と申すなり。帰命と申すは天台釈して云く「命を以て自ら帰す」等云云。命を法華経にまいらせて仏にはならせ給ふ。日蓮今度命を法華経にまいらせて

 

題目功徳御書〔C1・建治元年〕/功徳は先の功徳にもくらぶれば、前の功徳は爪上の土のごとし、法華経の題目の功徳は十方の土のごとし、先の功徳は一渧の水のごとし。題目の功徳は大海のごとし。先の功徳は瓦礫のごとし、題目の功徳は金銀のごとし。先の功徳は蛍火のごとし、題目の功徳は日月のごとしと申す経文なり。

  

常楽我浄御書〔C1・弘安元年〕/出でさせ給ひて諸大乗経をかんがへ出だし、十方の浄土を立て、一切諸法は常楽我浄と云云。其の時、五天竺の十六の大国・五百の中国・十千の小国・無量の粟散国の諸小乗経の無量無辺の寺々の衆僧、一同に蜂のごとく蜂起し、蟻のごとく聚集し、雷のごとくなりわたり、一時に聚集して頭をあわせてなげいて云く、仏在世にこそ五天の外道、我等が本師教主釈尊とわあらそいしが、仏は一人なり、外道は多勢なりしかども、外道はありのごとし。仏は竜のごとく、師子王のごとくましませしかばこそせめかたせ給ひしか。此れはそれにはにるべくもなし。馬鳴は一人なれども、我等は多人なれども、代すへになれば悪はつよく善はゆわし。仏の在世の外道と仏法とは水火なりしかば、

  

窪尼御前御返事断片〔C1・弘安三年七月頃・窪尼(高橋殿後家尼)〕/くぼの尼ごぜん日蓮/ひさやいこめ・きびやいこめ・あわのこめ・はじかみ・えだまめ・ねいも等のしなじなの物

 

断簡一六八〔C1・文永六年〕/れば□□の御帰依もあさし

 

大田入道殿御返事断片〔C1・建治元年一一月三日・大田乗明〕/造五百部大乗論破失小乗

  

断簡一七〇〔C1・文永〕/わづかの邪法一をつ

 

断簡一七一〔C1・建治〕/経の円と方等経の円と斉等なり。方等の

 

断簡一七二〔C1・建治三年〕/法華経と三大師と法門水火なり、天地なり。日蓮此れを不審し申しければ、三大師の御弟子等答へて云く、法華経は顕経の中の最第一、顕密相対せば或は第二、或は第三と云云。或は云く、大日経は三密相応一切第一、法華経は意密計り有りて身口なし。或は云く、教主の勝劣と云云。随って又日本国の天台華厳等の七宗の学者等も此の義を証伏し了んぬ。此の故四百余年が間は日本一同に此の義にて候なり。漢土の義大体かくのごとし

  

断簡一七三〔C1・文永九年〕/候へば。なるる心にてをどろかれ候はねども、つらつらをもひ候へば、いへざる事にてをはする上、名あるつわものかまくらに多しといへども、ことにこの御

 

断簡一七四〔C1・弘安五年四月一三日・人々〕/あながちに申させ給へ。/四月十三日日蓮(花押)/人々御返事

 

断簡一七五〔C1・建治三年〕/さてこそ最澄法師、大師にもならせ給ひ、聖人ともいわれさせ給ふ。

 

断簡一七六〔C1・文永〕/のごとし。法華経より外の一切経は仏口よりは出ださせ給ふとも、世尊一切衆生の心に随ひてとかせ給ひて候へば、仏経にして仏経にあらず。故に天台云く「非仏法故非実教非円教」云云。又

 

断簡一七七〔C1・文永五年〕/正嘉元年〈太歳丁巳〉八月二十三日戌亥尅先代□□大地振。外典者種々勘文雖爾□他国此の国を責むべしとの□勘文之れ無し。日蓮あに□□みをなすところ、正嘉二年〈戊午〉八月一日大風、同三年〈己未〉飢饉、正元元年〈己未〉、同三年〈庚申〉流罪せられ、弘長三年〈癸亥〉二月二十四日御赦免。文永元年〈甲子〉七月上旬の四五日、東方に彗星出で、光□□大体一国に満つ。陰陽家一々勘文す。然りと雖も止絶他国此国□□□知之但助利一人知□□人不用之、是の如き次第文□年□今年文永五年〈戊辰〉閏正月上旬、豊前□□□至蒙古国朝状を以て□□鎌倉殿。日蓮が勘文宛も符契の如し。

 

断簡一七八〔C1・文永一一年〕/人肉を食はざる投身無用なり。今其の中を取りて之れを勘へるに、法華経実相は一同に之れを存すと雖も、其の行儀時に随ひて不定なるべし。故に流通の諸品、品々なり。仏菩薩の意楽随時の故か。設ひ悪に非ずと雖も小善を以て大善を防ぐは五逆罪に過ぐるなり。今の智者万善を勧めしむるよりは一大悪を治するには如かず。例せば外道の九十五種の如し。其の所詮を取るに常楽我浄の四字なり。名は仏法の根本を得たるも其の義は即ち邪なり。仏世に出でて先づ此の悪を治す。正法を説かんが為に苦・無常等の四法を構へて彼の邪見を治す。今の世間は弥陀の名号の権法を以て円機を抑へ、円経に進まざらしむ。名号の権悪を治せんが為には妙法蓮華経の実術を用ゐる。在世・滅後異なりと雖も正法を弘むるの心是れ一なり。時に当たりて秘術を得たるか。

 

断簡一七九〔C1・文永〕/諸仏如来の一仏もかけ給はず広長舌を大梵王宮に

 

断簡一八〇〔C1・弘安〕/思処なり。されば法華

 

断簡一八一〔C1・弘安〕/行菩薩逆末代謗法一子

 

断簡一八二・八七〔C1・建治元年〕/後漢の末に三人の賢人あり。所謂孫権〈呉王〉と劉備〈蜀王〉と曹操〈魏王〉となり。此の三人謂と申す相人のもとへ行きて相を問ふに、相人申す、三人共に王となるべし。

 

断簡一八三〔C1・建治二年〕/叶ふまじきにや、此の人々□□□□念仏者等は法華経に□□んなり

 

断簡一八四〔C1・文永一〇年〕/三人なりと云云。法華経の行者の世に出現する瑞相は、文永元年七月四日の大長星の虚空に出でたりしを、諸人此れを見てをどろきしがごとし。又去ぬる正嘉元年八月の大地震に人のさわぎしかども、先づ教主釈尊の御出現の時さわぎし事、涅槃経に一切の外道、摩竭大国阿闍世王に讒訴して云く、今は唯一の大悪人有り、瞿曇沙門等云云。又云く、一切世間の悪人、利養の為の故に其の所に往集して眷属と為り、善を修するあたわず。呪術力の故に、迦葉及び舎利弗目連等を調伏すと云云。天台大師を南北の諸師の讒訴あり云云。之れを略す。南都七大寺の三百余人伝教大師を讒訴して云く「西夏には鬼弁波羅門有り。東土に巧言を出だすは禿頭の沙門なり。此れ乃ち物類を冥召し、世間を誑惑す」云云。法華経に云く「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度後をや」云云。

  

報恩抄断片〔C1・建治二年七月二一日・義淨房・浄顕房〕/なり。金剛頂経を其の徳善無畏のごとし。ふるこの人の功徳いかにして地獄には

 

断簡一八六〔C1・建治三年〕/過去を以て未来を知るべし。予は地涌の一分に非ざれども

  

断簡一八七〔C1・弘安三年〕/若人有病得聞是経」の文は候へども、此の経をよむ人々

 

断簡一八八〔C1・弘安三年〕/とたのもしく候。法華経の法門には種熟脱と申して三つの大事候。

 

断簡一八九・一九〇〔C1・文永一二年〕/末代法華経広宣流布□時は必ず此等の経の邪義を糺明して如来滅後

 

断簡一九〇〔C1・文永一二年〕/かほれる人の漢土に亘りて法華経

 

断簡一九一〔C1・建治三年〕/にくませ給ふ。智者どもにあわすれば経文すでに明々たる故に人ごとにつまらせ給ふ。しかも念仏はたうとし薫習としひさし、結句は悪心ををこして私ににくみ、ををやけにつけてあだをなす、わづかに信ぜし人々も

 

断簡一九二〔C1・文永三年〕/のみあり、なんど申す。これはたとき者か。或は又云く、外道を供養せんものは阿鼻地獄に堕つべしと、ひ

 

断簡一九三〔C1・建治四年〕/知やうにかんがへてまいらせよと候ひしかば、仰せに随ひて十住心論と申す文十巻造りてまいらせて候。又仰せに云く、凡夫のために広し、つづめてまいらせよと仰せ下されしかば、三巻につづめられて候。秘蔵宝鑰と申す文なり。かの文の中に一切経の中には第一大日経、第二華厳経、第三法華

  

断簡九九等五編断簡〔C1・文永六年〕/法師にても俗にても山門の上を申すものをば、我が父母の上とをぼしめすべし。これは国をやぶり、我が後世

  

断簡一九五〔C1・弘安元年(一一月頃か)〕/て経をよみ候ひしは八かん(寒)地獄の大苦も此れにはすぎじ。雪山の寒苦鳥もかくやとをもひしに、十一月のついたちの日

  

断簡一九六〔C1・建治元年〕/を競は天災弥(いよいよ)来たるべきか如何。答へて云く爾なり。根隠枝繁源深流□□なり。今日本国の王臣等是の災を畏れて神仏に祈請せばいよ□□重るべし。諸高位に調伏せさ□□国亡速疾ならん。問うて云く、猶いふべし。災難の起□□

 

断簡一九八〔C1・建治元年一一月五日〕/給ひて、霊山会上にまいり値はせ給ひて、みまいらせ給ひ候へ恐々謹言。/十一月五日日蓮(花押)/御返事

 

御所御返事断片〔C1・弘安四年七月二七日・波木井実長〕/れ候はんれうにとどめて候恐々。/七月二十七日日蓮(花押)/御所御返事