小乗小仏要文

〔C0・文永六年〕/┌─華厳/├─阿含/│┌─大日経──真言宗/├─方等─┼─観経等──浄土宗/小乗─┤├─深密経等─法相宗/│└─楞伽経──禅宗等/├─般若────────三論宗/├─無量義経/└─法華経迹門十四品。本門薬王品已下の六品並びに普賢・涅槃経等。/┌─劣応身/┌─応身─┴─勝応身/小仏─┼─報身───華厳経のルサナ仏/├─大日経等のビルサナ・大日等/└─并びに迹門・涅槃経等の仏/涌出品に云く「阿逸、汝当に知るべし、是の諸の大菩薩、無数劫より来(このかた)仏の智恵を修習す。悉く是れ我が所化なり。大道心を発さしむ。此等は是れ我が子なり。是の世界に依止せり」。/玄の七に云く「六に本説法妙とは、経に言く、此等我所化、令発大道心、今皆住不退と。我が所化とは、正しく是れ説法なり。大道心を発さしむとは、小の説に非ざることを簡ぶなり。此れ本時の簡説を指す。迹の説には非ざるなり。迹説多種なれども若し涅槃に依れば」等云云。華厳経に云く「寂滅道場に始めて正覚を成ず」。/〈迹仏〉/増一阿含経の十に云く「仏、摩竭国の道場の樹下に在す。爾の時に世尊得道してより未だ久からず」。浄名経に云く「始め仏樹に坐して力めて魔を降す」。大集経に云く「如来成道したまひてより始めて十六年なり」。大日経に云く「我、昔道場に坐し四魔を降伏す」。仁王般若経に云く「大覚世尊、先に已に我が為に二十九年」。無量義経に云く「我、先に道場菩提樹下にして端坐すること六年、乃至、四十余年」。法華経の方便品に云く「我、始め道場に坐し樹を観じ亦経行し、三七日の中に於て、是の如き事を思惟す」。籤の七に云く「大乗の融通、華厳に過ぎたるは無し。経の初めに云く、菩提場に於て始めて正覚を成ず。故に知んぬ、大小に成を説くは皆近なり」。/寿量品に云く「爾の時に世尊、諸の菩薩の三たび請じて止まざるを知ろしめして、これに告げて言く、汝等諦らかに聴け、如来の秘密神通の力を。一切世間の天人及び阿修羅は、皆今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からずして、道場に坐し阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂へり。然るに善男子、我、実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」等云云。文句の九に云く〈天台〉「仏三世に於て等しく三身有り。諸教の中に於て之れを秘して伝へず。故に一切世間の天・人・修羅は、今の仏は始めて道場に於て此の三身を得ると謂へり。故に近に執して以て遠を疑ふなり」。寿量品に云く「諸の善男子、如来諸の衆生の小法を楽へる徳薄垢重の者を見ては、是の人の為に我少(わかく)して出家し、阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く。然るに我実に成仏してより已来、久遠なること、斯の若し」。文句の九に云く「一約○。二約○。三約○。四に果門に約せば、近成の小を聞かんと楽ふは釈氏の宮を出でて始めて菩提を得たりとし、長遠大久の道を聞かんことを欲楽(ねが)はず、故に楽小と言ふ。此等の小心は今日に始まるに非ず。若し先より大を楽はば、仏即ち始成を説かず。始成を説くことは皆小法を楽ふ者の為のみ」。又云く「諸の衆生小法を楽ふ者とは所見の機なり。華厳に云く、大衆清浄なりと雖も其の余の楽小法の者は、或は疑悔を生じ長夜に衰悩せん。此れを愍むが故に黙す。偈に云く、其の余は久しく行ぜず、智恵未だ明了ならず、識に依りて智に依らず、聞き已りて憂悔を生じ、彼れ将に悪道に堕ちんとす。此れを念ふが故に説かずと。彼の経を案ずるに、声聞二乗無し。但不久行の者を指して、楽小法の人と為すのみ。師の云く、楽小は小乗の人に非ざるなり。乃ち是れ近説を楽ふ者を小と為すのみ」。文句の九に云く「徳薄とは、縁了の二善功用微劣なれば、下の文に諸子幼稚と云ふなり。垢重とは見思未だ除かざるなり」。記の九に云く「徳薄垢重とは、其の人未だ実教の二因有らざるなり。下の文に云諸子幼稚と言ふは、下の医子の譬への文を指す。尚未だ円を聞くに堪えず、況や遠を聞かんをや。見思未除とは、且く譬への中の幼稚の言を消す。定めて未だ遠を知らず」。玄の一に云く「厚く善根を殖ゑて此の頓説を感ず」文。籤の一に云く「一往は総じて別円を以て厚と為す」。五百問論に云く「一経の中に本門を以て主と為す」文。又云く「一代教の中に未だ曾て遠を顕はさず。父母の寿は知らずんばあるべからず。始めて此の中に於て方に遠本を顕はす。○但恐る才一国に当たるも、父母の年を識らざれば、失ふ所小と謂ふも辱むる所至りて大なり。若し父の寿の遠きを知らざれば復父統の邦に迷ふ。徒らに才能と謂ふも、全く人の子に非ず」。/文句の九に云く「菩薩に三種有り。下方と他方と旧住となり」。玄義の七に云く「若し迹因を執して本因と為さば、斯れ迹を知らず、亦本を識らざるなり。天月を識らずして但池月を観るが如し。○払迹顕本せば即ち本地の因妙を知る。影を撥ひて天を指すが如し。云何ぞ盆に臨みて而して漢を仰がざる。嗚呼聾駭、若為(なんすれぞ)道を論ぜんや」。又云く〈同七に云く〉「若し迹果を執して本果と為さば、斯れ迹を知らず、亦本を識らざるなり。本より迹を垂るるは月の水に現ずるが如く、迹を払ひて本を顕はすは影を撥ひて天を指すが如し。当に始成の果は皆是れ迹果なりと撥ひて、久成の果は是れ本果なりと指すべきなり」。又云く「諸土は悉く迹土なり。一には今仏の所栖の故に、二には前後修立の故に、三には中間所払の故に。若し是れ本土は今仏の所栖に非ず。今仏の所栖は即ち迹土なり。若し是れ本土は一土一切土にして前後修立・深浅不同なるべからず。○迹を執して本と為す者は、此れ迹を知らず、亦本を識らざるなり。今迹を払ひて本を指すときは、本時所栖の四土は、是れ本国土妙なり」。/┌─蔵因─三祇百劫菩薩──未断見思/迹仏─┼─通因─動踰塵劫菩薩──見思断/├─別因─無量劫菩薩───十一品断無明/└─円因─三千塵点劫菩薩─四十一品断無明/┌─劣応──蔵─〈草座〉三十四心断結成道/迹仏果─┼─勝応──通─〈天衣〉三十四心見思塵沙断の仏/├─報身──別─〈蓮華座〉十一品断無明の仏└─法身──円─〈虚空座〉四十二品断無明の仏