本門大法御書

〔C1・建治二年〕/法華経は一代総括の義をこそのべざれども十無上を立てたり。一代超過の心は宛も竜樹菩薩のごとし。而るを南北並びに三論・法相等の宗々の人師の料簡に云く、竜樹・天親の論には法華経の実義を尽くせり。天台の云く「心に存じ給ふとも論にはいまだ尽くさず」。真言師弘法等の云く「竜樹菩薩は顕密の元祖、顕論は仏意を尽くさず、蜜論に尽くす」等云云。今、日本の学者等此の義に迷惑せり。粗漢土・日本の人師の釈を見るに、天台独り此の事をえたまえり。天台は竜樹天/□千未弘の大法と申すは本門の大法なり云云。疑って云く、此の事爾るべしとをぼへず。天台大師は此の法華経を二経□□あり。所謂迹門十四品一経、本門十四品一経なり。迹門の大法は一切経に対しての大法なり。本門の大法と申すは、迹門の円仏の大法に対して彼れを小法と下しての大法なり。所謂天台云く、或は迹門小法といゐ、或は小仏といゐ、或は妙楽云く、或は迹門の円人を畜生とゆう。此等に勝れていかなる法門ありて本門の極理尚を残るというや。答へて云く、月支・漢土・日本国の二千二百三十余年が間の寺塔を見るに、いまだ寿量品の仏を造立せる伽藍なし、精舎なし。