秀句十勝抄

〔C0・弘安元年〕/┌─仏説已顕真実勝一/│仏説経名示義勝二/│無問自説果分勝三/秀句│五仏道同帰一勝四/十勝───┤仏説諸経校量勝五秀句三巻伝教大師作/法華経の│仏説十喩校量勝六人王五十代桓武・平城一・嵯峨二/一代に超│即身六根互用勝七弘仁十三年六月四日遷化/過せる事│即身成仏化道勝八/十有り。│多宝分身付属勝九/└─普賢菩薩勧発勝十/仏説已顕真実勝一/未顕已顕肩を比べて先を諍ひ、三乗一乗権を訴へて是非す。現在の麁食者偽章数巻を造りて法を謗じ亦人を謗ず。法華経を謗じて則ち権と為し亦密と為す云云。羽翼に云く「問ふ、若し法華は是れ権教の摂ならば何が故ぞ経に世尊法久後・要当説真実と云ひ、又今為汝等・説最実事と云ふや。是れ即ち四十年の前の教は是れ権、法華の後の教は是れ実教の摂なりと説くなり。即ち無量義経に四十年の前は方便の説なるが故に得果差別せりと云ふに同ず。何ぞ法華を権教と名づくるや。答ふ、是れ不定性の根機熟するに拠りて前後に而も説く。頓悟には約せず。此れ復云何(いかん)。不定性の二乗、四十年より前には一乗の根機熟せず。此れに由りて如来為に一乗を説かず。故に世尊法久後と名づく。今、法華の会に至りて其の根純熟して一乗を聞くに堪えたり。故に要当説真実と名づく。頓悟の菩薩は始め華厳より涅槃の教に至るまで、恒に一乗を聞き常に記別を授かる。故に法久後と名づけず。常に一乗真実の法を聴受す。故に復(また)要当説真実と名づけず」。又云く「舎利弗自ら領解して云く、我昔仏に従ひて是の如きの法を聞き、諸の菩薩の受記作仏を見る。而も我等は斯の事に預からず。甚だ自ら如来の無量の知見を失へることを感傷しき」〈已上経文〉。麁食者、経の意を取りて云く「此れ即ち華厳の会より後四十余年、頓悟の菩薩の受記作仏を見て咨嗟を発して悔ゆと。此の文に准じて知んぬ、頓悟の菩薩に約せば世尊法久後と名づけず、要当説真実と称ぜず。唯舎利弗等の不定性の声聞、四十年の前には小乗の果に住し、未だ一乗を聞かず未だ仏記を受けず。故に声聞に約して法久後と名づく。今法華の会に至りて一乗の法を聞き、仏の記別を受く。故に要当説真実と称す」。伝教大師御作──弘仁十三年六月四日遷化/法華秀句三巻十勝此の秀句は弘仁十二年〈太歳辛丑〉之れを造る。中巻を見るべし。/得一の羽翼三巻/七教二理/四証二理//仏説経名示義勝二/当に知るべし、果分の経には十七の名を具せり〈秀句の語なり〉。一には無量義経と名づく。〈迹中諸経仏意を談ぜず。故に有量と名づく。今経は本迹施開廃の三。仏旨無尽なり。故に無量と云ふ。況や成道の後処々に開廃すれば無量義と名づく〉二には最勝修多羅と名づく。三には大方広と名づく。四には教菩薩法と名づく。五には仏所護念と名づく。六には一切諸仏秘密法と名づく。七には一切諸仏蔵と名づく。八には一切諸仏秘密処と名づく。九には能生一切諸仏と名づく。十には一切諸仏道場と名づく。十一には一切諸仏所転法輪と名づく。十二には一切諸仏堅固舎利と名づく。十三には一切諸仏大巧方便経と名づく。十四には説一乗経と名づく。十五には第一義住と名づく。十六には妙法蓮華経と名づく〈私に云く。経の字の有無は異本なり〉十七には最上法門と名づく。籤の七、今略して法華論の十七名の中の意を知らんと欲せば、第十六既に妙法蓮華と名づく。当に知るべし、諸名並びに是れ法華の異名なるのみ。/秀句に云く「当に知るべし、歴劫修行頓悟の菩薩は終に無上菩提を成ずることを得ず。未だ菩提の大直道を知らざるが故に終に不得の言大小倶に有り。直道直至は已顕の日に興る。是の故に法華経の宗は諸宗の中の最勝なり。法相の賛〈慈恩大師の法華玄賛十巻〉と三論の疏〈嘉祥寺吉蔵大師の法華玄十巻〉との法華に順ぜざること具に別に説くが如し。」/日蓮疑って云く、光宅の法華の疏、上宮の法華の疏等並びに畏・智・空の大日経の疏、法蔵の華厳経の疏等は法華並びに一切経の意に順ずるや不や。/無問自説果分勝三/謹んで法華経方便品を案ずるに云く「爾時世尊従三昧乃至所不能知」〈已上経文〉。又偈に云く「不退○」〈已上偈文〉。又経に云く「仏所成就乃至乃能究尽」〈已上経文〉。是の如き等は果分の法を示す。又云く「諸仏世尊唯以一大事因縁故出現於世」〈已上経文〉。当に知るべし、一乗の為の故に世に出現したまひて、三乗の為に世に出現したまはざることを。果分の一乗遍く衆生に施したまふ。寧んぞ門外に車を索め門側にして庵に住せんや。父を知り家を知り車を知り道を知る、豈に歴劫の路に入りて迂廻の道を過ぎんや。故に譬喩品に云く「今所応作唯仏智恵」〈已上経文〉。菩薩の智恵は所応作ならず。是の故に又云く「若し善男子善女人、我が滅度の後窃かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん。当に知るべし、是の人は則ち如来の使ひなり。如来の所遣として如来の事を行ずるなり」〈已上経文〉。明らかに知んぬ、法華経を説く人は即ち是れ如来の使ひにして、即ち如来の事を行ずるなり。又云く、之れを略す。又神力品に云く「要を以て之れを言はば、如来一切の所有の法〈名なり〉、如来一切の自在の神力〈用なり〉、如来一切秘要の蔵〈体なり〉、如来一切甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す」〈已上経文〉。明らかに知んぬ、果分の一切の所有の法、果分の一切の自在の神力、果分の一切の秘要の蔵、果分の一切の甚深の事、皆法華に於て宣示し顕説するなり。夫れ華厳経は○但住上地上の因分を説いて、未だ如来内証の果分を説かず。故に天親の十地論に、因分可説・果分不可説と云ふは即ち其の事なり。当に知るべし、果分は因分に勝ることを。夫れ三十唯識論は一巻二紙、天親の本頌なり。華厳等の経に依りて唯識の義を立つ。乃至是の故に妙法華の宗に対比するに足らず。夫れ中・百・十二門の七巻の論は、竜・提二菩薩の所造なり○大乗無相の空教を採集せり〈已上〉。明らかに知んぬ。但因分の空の歴劫修行を説いて未だ果分の空の大直道を説かざることを。誠に願はくは一乗の君子仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ。仰ぎて誠文を信じて偽会を信ずること莫れ。天台所釈の法華経の宗は諸宗に勝れたり。寧んぞ所伝を空しうせんや。日蓮(花押)/五仏道同帰一勝四/総の諸仏、過去の諸仏、現在十方の諸仏、未来の諸仏、当に世に出でたまふべし云云当に知るべし、未来の諸仏・弥勒・無著等先に方便を以て三乗の法を説きたまふことを。法相所伝の三乗等の宗は○未だ究竟せざるが故に真実の説にあらず。華厳・三論二宗の所伝も之れに准じて知んぬべし。又云く、仏滅度の後の六百年の経宗・論宗、九百年の中の法相の一宗は歴劫の行を説いて衆生を引接す。是の故に未顕真実に並びに包含せらるるなり。又云く、法華の前の四時の教を指して経に「四十余年未顕真実」と云ふ。阿毘達磨の両箇の宗・修多羅の華厳宗は四十余年に包含せらるるが故に未だ究竟せず。故に仏の会釈無きなり。又云く、華厳の一道、深密の一乗は成不成の二説倶に存す。是の故に諍論の本なり。法華の一乗皆悉く成仏す。是れ一説なるが故に諍論の本ならず。他宗所依の経は其の本性に随ひて説く。天台法華宗は出世本法の説なり。当に知るべし、後一の宗は諸宗に勝ることを。/日蓮疑って云く、華厳・涅槃・金光明・深密等は、天台・妙楽・伝教の御釈をもって知んぬべし。知り難きは、密厳経に云く「十地華厳等、大樹と神通・勝鬘及び余経と皆此の経より出づ。是の如く密厳経は一切経の中に勝れたり」。大雲経の第四に云く「是の経は即ち是れ諸経の転輪聖王なり。何を以ての故に。是の経典の中に衆生の実性仏性常住の法蔵を宣説する故なり」。大論に云く「本起経・断一切衆生疑経・華手経・法華経・雲経・大雲経・法雲経・弥勒問経・六波羅蜜経・摩訶般若波羅蜜経、是の如き等の無量無辺阿僧祇の経は或は仏の説、或は化仏の説、或は大菩薩の説、或は声聞の説、或は諸の得道天の説なり。是の事和合して皆摩訶衍と名づく。此の諸経の中に般若波羅蜜最も大なり」。/仏説諸経校量勝五/謹んで法華経法師品を案ずるに云く「我所説諸経而於此経中法華最第一」〈已上経文〉。当に知るべし、斯の法華経は諸経の中に最も為(こ)れ第一なり。釈迦世尊、宗を立つるの言、法華を極と為す。金口の校量なり。深く信受すべきや。又云く「爾時○而此経者如来現在猶多怨嫉況滅度後」〈已上経文〉。当に知るべし、已説の四時の経、今説の無量義、当説の涅槃経は易信易解なり、随他意の故に。此の法華経は最も為(こ)れ難信難解なり、随自意の故。随自意の説は随他意に勝れたり。但し無量義を随他意といふは未合の一辺を指す、余部の随他意に同じからざるなり。代を語れば則ち像の終り末の初め、地を尋ぬれば唐の東、羯の西、人を原(たず)ぬれば則ち五濁の生、闘諍の時なり。経に云く「猶多怨嫉況滅度後」と、此の言良に以(ゆえ)有るなり。又安楽行品に云く「文殊師利、是の法華経は無量の国中に於て、乃至名字をも聞くことを得べからず。何に況や見ることを得て受持読誦せんをや」〈已上経文〉。当に知るべし、天台所釈の法華宗の名字をも聞くこと難し。何に況や読誦せんをや。他宗には此の歎きなし。何ぞ法華に帰せざらん。有る人問うて曰く、法相宗の人、法華の賛を造りて盛んに法華を弘む。其の疏記等数百巻あり。又三論宗の人、法華の疏を造りて盛んに法華を講ず。今の天台法華宗は何の異釈有りて二宗に勝るるや。答ふ、若し異釈を論ぜば玄・疏・籤・記四十巻あり。今一隅を指して三方を知らしめん。法相宗の人は成唯識を以て尊主と為し、法華の義を屈して唯識に帰せしむ。法華経を讃むと雖も還りて法華の心を死す。故に湛然の記に云く「唯識の滅種は其の心を死す」。記の十に云く「然るに此の経は常住仏性を以て咽喉と為し、一乗妙行を以て眼目と為し、再生敗種を以て心腑と為し、顕本遠寿を以て其の命と為す。而るを却って唯識の滅種を以て其の心を死し、婆沙の菩薩を以て其の眼を掩ひ、寿量を以て釈疑と為して其の命を断じ、常住遍からざるを以て其の喉を割き、三界八獄を以て大科と為して斯に形べて小と為し、一乗四徳を以て小義と為して会帰すべき無し。斯に拠りて以て論ずるに諸例識りぬべし」文。当に知るべし、其の義懸別なることを。又三論宗の人、法華の疏を造ると雖も其の義未だ究竟せず。是の故に嘉祥大徳は称心に帰伏す。高僧伝の第十九を案ずるに「潅頂、晩に称心精舎を出でて法華を開講すること朗〈法朗〉竜〈恵竜〉に跨え、雲〈法雲〉印〈僧印〉に超えたり。方集奔随し篋を負ひて書誦す。吉蔵法師なるもの有り、興皇の入室なり。嘉祥に肆を結び独り擅にす○義記を求借して浅深を尋閲す。乃ち知んぬ、体解心酔従ふ所有ることを。因りて講を廃し衆を散じ、天台に投足し法華を餐稟し発誓弘演せり」。当に知るべし、法華の疏有りと雖も天台の釈に如かざることを。/嘉祥の法華玄十巻に┌─華厳は根本/三種の法輪────────┤三味は枝末/又云く会二破二└─法華は摂末帰本/┌─已──般若/├─今──法華又云五時─┬─阿含・般若・方等/└─当──涅槃等└─法華・涅槃/記の三に云く「嘉祥、身妙化に沾ひ、義已に神に潅ぐ」文。又云く「旧章須く改むべし。若し旧立に依らば師資成ぜず。伏膺の説施すこと靡く、頂戴の言奚んぞ寄せん」。輔の三に云く「嘉祥とは寺の名なり、会稽に在り。王羲之、宅を捨てて立つる所なり、名は吉蔵、胡郷の所生なり。世に覚海と称す。心に難伏の恵を包み口に如流の弁を瀉ぐ。章疏を著述し徒を領し化を盛んにす。大師初めて陳の都に至る。沙弥法盛なるもの有り、席に造(いた)りて数数問ふ。法師〈吉〉対ふること無し。法盛時に年十七、身小にして声大なり。法師嘲りて曰く、ち那んぞ声を摧きて体を補はざるや。法盛声に応じて対へて曰く、法師何ぞ鼻を削りて眸を填めざる。吉蔵良久しく咽んで調を更めて曰く、汝好々問へ、闍梨好々汝が為に答へん。法盛曰く、野干の和上は著れて経文に在り。胡、闍梨と作る、何れの典拠に出でたる。吉蔵泣きて謂ひて曰く、尺水は計るに丈波無し。法盛曰く、余が水は鯨鷁を泛かぶること能はずと雖も、亦蟻蜂を淹すに足れり。吉蔵又問ふ、誰か汝が師たる、汝は誰が弟子ぞ。法盛曰く、宿王種覚、天人衆の中に広く法華を説きたまふ。是れ我等が師、我は是れ弟子なり。講散じて乃ち山水納一領を捨て用ゐて大師に奉る。遂に即ち伏膺し請じて法華を講ぜしめ、身を肉磴となして高座に登す。後章安の義記を借るに因りて、乃ち弥(いよいよ)浅深に達し、体解け口鉗み、身踊り心酔ひ、講を廃し衆を散じ、天台に投足し、法華を餐稟し、弘演頂戴永々までにす。豈に異轍を生ぜんや」。続高僧伝十九〈道宣撰〉に云く「晩に出でて○発誓弘演す。十七年に至り智者疾を現じ、暁夕に瞻侍し艱劬心を尽くす。爰に滅度に及んで親しく遺旨を承る。乃ち留め書き並びに諸の信物を奉じて哀泣跪授す。晋王乃ち五体を地に投じ、悲涙頂受し、事賓礼に遵ひ、情法親に敦し。尋いで楊州の総管府司馬王弘をして頂を送りて山に還し、智者の為に千僧斎を設け、国清寺に置く」。日蓮が云く、此の亀鏡を以て案じて云く、謗法謗人は其の法と人とに向かはずんば罪滅せざるか。弘法・慈覚・智証は如何。法蔵・澄観・慈恩・善導・善無畏・金剛智・不空は如何。又経に云く「当に知るべし、未だ法華を説かざる前の所説の諸経等は髻中の珠とするに足らず」。又経に云く「諸経の中に於て最も其の上に在り」文。明らかに知んぬ、天台所釈の法華の宗は釈迦世尊所立の宗、是れ諸の如来の第一の説なり。諸経の中に於て最も其の上に在り。大牟尼尊豈に愛憎あらんや。是れ法の道理なり、是れ讃すべきのみ。天親論師は説無上と為す。良に以(ゆえ)有るなり。天台法華宗の諸宗に勝るるは、宗とする所の経に拠るが故なり。自讃毀他にはあらず。庶くば有智の君子、経を尋ねて宗を定めよ。/仏説十喩校量勝六/謹んで法華経の薬王菩薩本事品を案ずるに云く「宿王華、譬へば一切の川流江河諸水の中に海為れ第一なるが如く、此の法華経も亦復是の如し。諸の如来の所説の経の中に於て最も為(こ)れ深大なり」〈已上経文〉。天台の法華玄に云く〈之れを略す〉。明らかに知んぬ、他宗所依の経は大海の徳有ること無し。唯法華宗のみ大海深大の徳有り〈第一の喩へ竟はる〉。文句の十に云く「本地を説き窮むるを深と為し、一切処に遍するを大と為す」文。〈此の釈の心は、大海の譬へ本迹に亘るか〉。又云く「須弥山為(こ)れ第一なり」〈之れを略す。第二の譬へ竟はる〉。又云く「衆星の中に月天子最も為れ照明なるが如し」〈之れを略す。第三の譬へ竟はる。迹門を以て水月に譬へ、本門を本月に譬ふる釈之れ有り〉。又云く「又日天子の能く諸の闇を除くが如く、此の経も亦復是の如し。能く一切不善の闇を破す」〈已上経文〉。玄一に云く「灯炬星月は闇と共に住す、諸経の二乗の道果を存して小星と並び立つるに譬ふるが故なり。日は能く闇を破する故に法華は化城を破し、草庵を除くが故なり。又日は星月を映奪して現ぜざらしむるが故に、法華は迹を払ひ方便を除くが故なり」。〈日蓮云く、迹門を月に譬へ、本門を日に譬ふるか。九喩如何〉。釈籤一に云く「但日の明、能く諸明の映ずるを取るが故に」。秀句に、当に知るべし、他宗所依の経は破闇の義未だ円満ならず。故に日高山を照らせども未だ幽谷を照らさず。幽谷を照らすと雖も未だ平地を照らさず。天台法華宗は已に平地を照らす時山谷倶に照らす。故に能く不善の闇を破すこと深く以有るなり。又云く〈之れを略す〉。当に知るべし、未顕真実の四十余年の所説の衆経等は彼の諸王の如し。他宗所依の経は諸経の王等一両句の文有れども当分の王たるが故に転輪王と名づけず。已顕真実の日に説く所の法華は此れ転輪王の如し。天台法華宗は衆経の中に於て最も其の尊たり。是の故に諸宗に勝るることは是れ臆説にあらず〈第五の喩へ竟はる。海・山・月・日・梵王は仏の全喩、輪王・帝釈・五仏子は菩薩の分喩なり。大なること海の如く、高きこと山の如く、円かなること月の如く、明らかなること日の如く、自在なること梵王の如く、極なること仏の如し〉。又云く〈第六の譬へ之れを略す〉。「又大梵天王の一切衆生の父なるが如く、此の経も亦復是の如し。一切賢聖・学無学及び菩薩の心を発せる者の父なり」〈已上経文〉。玄に云く〈略す〉、経と玄と開合して王が中の王なるを顕はさんが為なり○王中の王を法華に喩ふ○明らかに知んぬ、他宗所依の経は是れ王の中の王にあらず。天台法華宗のみ独り王が中の王たることを。〈大日経第七に云く、我が大日経王の説に依る。金剛頂経に云く、大教王経。蘇悉地経に云く、三部の中に於て此の経を王と為す云云。日蓮が云く、大日三部経は小王の中の王か、中王の内か、将又王中の王に勝るか〉。当に知るべし、他宗所依の経は一分の仏母の義有りと雖も、然も但愛のみ有りて厳の義を欠く。天台法華宗のみ厳愛の義を具す。一切賢聖・学無学及び菩薩の心を発せる者の父なり〈第七喩竟〉。又〈第八〉「一切凡夫人の中に須陀・斯陀含・阿那含・阿羅漢・辟支仏為れ第一なるが如く、此の経も亦復是の如し。一切如来の所説、若しは菩薩の所説、若しは声聞の所説、諸の経法の中に最も為れ第一なり。能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」〈已上経文〉。〈玄は略す〉。当に知るべし、他宗所依の経は未だ最も為れ第一ならず。其の能く経を持つ者も亦未だ第一ならず。天台法華宗所持の法華は最も為れ第一なり。故に能く法華を持つ者も亦衆生の中に第一なり。已に仏説に拠る、豈に自歎ならんや〈第八の譬へ竟はる〉。/日蓮疑って云く、真言宗の畏・智・空・法・覚・証と伝教大師末学の法華の行者の四衆と勝劣如何。/又云く〈第九〉「一切の声聞・辟支仏の中に菩薩為れ第一なり。此の経も亦復是の如し。一切の諸の経法の中に於て最も為れ第一なり」〈已上経文〉。〈之れを略す〉。又云く「仏の諸法の王為るが如く、此の経も亦復是の如し。諸経の中の王なり」〈已上経文〉。〈日蓮私に入る〉。玄一に云く「又薬王品に十譬を挙げて教を歎ず。今其の六を引かんに、大なること海の如く、高きこと山の如く、円かなること月の如く、照らすこと日の如く、自在なること梵王の如く、極なること仏の如し」。又云く「月は能く虧盈するが故に、月は漸く円なるが故に。法華も亦爾なり。同体の権実なるが故に、漸を会して頓に入るが故なり。灯炬星月は闇と共に住す。諸経の二乗の道果を存し小と並び立つに譬ふ故に。日は能く闇を破するが故に、法華は化城を破し草庵を除くが故なり。又日は星月を映奪して現ぜざらしむるが故に、法華は迹を払ひ方便を除くが故なり」。籤一に云く「次に月の譬へとは、実は盈つるが如く権は虧くるが如し。同体の権実は月輪の欠くること無きが如く、漸を会して頓に入るは明相の漸く円かなるが如し。故に知んぬ、前の教相の中に是れ漸頓と云へるは月の譬へと意同きことを。経の中には星を以て月天子に比し天子を挙ぐると雖も、経に合すれば既に此の法華経最も為れ照明なりと云ふ。故に今は但円を取り、亦兼ねて明を以て譬へと為す。次に日の譬への中に復(また)灯炬を加ふ。今日の譬へに合する中に破化城故と云ふは、但日の明の能く諸明の映ずるを取るが故なるのみ。若し更に合はせば亦灯等の四を以て二乗及び通別の菩薩に譬ふべし。並びに無明と共に住するが故なり。故に次に重ねて引く中に略して星月を挙げて而も方便を除く。故に知んぬ、方便の所収復広きことを」。此の秀句に云く「天台の法華玄に云く月は能く乃至灯炬星月は闇と共に住す。諸経の二乗の道果を存して小と並び立つを譬ふ」〈已上玄文〉。乃至〈第三の譬へ竟はる〉。又云く「又如日天子乃至」〈第四の喩へ竟はる〉。第十には仏を法王に喩ふ。日蓮が云く、迹仏は長者の位、本仏は法王の位か。此の秀句に云く「他宗所依の教には都て此の十喩無し。唯法華にのみ此の十喩有り。若し他宗の経に此の喩へ有りと雖も当分跨節を分別するのみ。釈尊、宗を立てたまふに法華を極と為す。本法の故に時を待ち機を待つ。論師の宗を立つる自見を極と為す。随宜の故に空を立て有を立つ。誠に願はくは有智の聖賢玄かに仏説を鑑みて指南と為すべし」〈第十の喩へ竟はる〉。論師の宗を立つる自見を極と為す云云。授決集に云く「徴他学決〈五十二〉。真言・禅門・華厳・三論・唯識律宗・成倶の二論等、乃至謬りて真言を誦すとも三観一心の妙趣を会せずんば、恐らくは別人に同じて妙理を証せじ。所以に他の所期の極に逐ひ理に准じて〈我宗の理なり〉徴すべし。因明の道理は外道と対すること、多く小乗及以(およ)び別教に在り。若し法華・華厳・涅槃等の経に望むれば是れ摂引門なり。権(かり)に機に対して設けたり。終に以て引進して邪小の徒をして会して真理に至らしむるなり。所以に論ずる時は四依撃目の志を存して之れに執著すること莫れ。又須く他を将って自義に対検し、随って是非を決すべし。執して之れを怨むこと莫れ。大底は他は多く三教に在り。故に円旨至りて少なきのみ」云云。/日蓮云く、園城寺の末学等請ふらくは具に此の決を見よ。智証大師一生の間未だ思ひ定めざるか。但此の一段にのみ師の言を載するか。悲しきかな、当世叡山・園城・東寺等の真言宗の学者等、深く初めの猿を恃みて永く井の底に沈まんこと云云。/即身六根互用勝七/謹んで法華経法師功徳品を案ずるに云く「当に八百の眼の功徳、千二百の耳の功徳、八百の鼻の功徳、千二百の舌の功徳、八百の身の功徳、千二百の意の功徳を得べし。是の功徳を以て六根を荘厳して皆清浄ならしむ」〈已上経文〉。当に知るべし、受持の法師〈一〉・読の法師〈二〉・誦の法師〈三〉・解説の法師〈四〉・書写の法師、是の五種法師各法華経に依りて各の六千の功徳を獲る。其の六即位の中には第四相似即の位なり○父母所生の清浄の肉眼をもって○明らかに知んぬ、父母所生とは即身の異名なり。偈に云く「未だ天眼を得ずと雖も肉眼の力是の如し」〈已上経文〉。当に知るべし、実経の力用は肉眼をして浄からしむ。他宗所依の経には都て此の眼の用無し。天台法華宗には具に此の眼の用有り○又云く「未だ無漏法性の妙身を得ずと雖も清浄の常体を以て一切中に於て現ず」。天親菩薩○謂く「諸の凡夫は経力を以ての故に勝根の用を得ん」〈已上論文〉。当に知るべし、諸の凡夫人の修学すべき経なり。他宗所依の経には都て此の力無き故に。天台法華宗には具に此の力有る故に。権実検むべく妙行進むべし。互用の文、論に具に説くが如し。玄六に云く「三根は〈三根とは眼耳意なり〉種々の義強き故に千二百の功徳有り。三根は〈三根とは鼻舌身なり〉力弱き故に但八百の功徳なりとは云云〈大論に釈するなり〉。蓋し一途の別説なり、経の円意に非ず」文。又云く「能等」。又云く「能縮」。又云く「能盈」。又云く「経に云く、若し能く是の経を持つ功徳は則ち無量にして、虚空無辺なるが如く其の福限るべからずと。互用の意彰らかなり」。籤九に云く「○四念処に云く、六根清浄に真有り似有り。真は華厳の如く〈初住の十種の六根を説くなり〉似は法華の如し」。/私に日蓮云く、大日経の六根互用の疏等に天台宗の如し云云。随って慈覚・智証等之れを承用す、爾るべきや不や。文句十に云く「正法華には整束して六千の功徳を具し、上中下を論ぜず」。又云く「今経の六根清浄は大品と同じ。是の功徳を以て六根を荘厳すとは正法華と同じ」。玄六に云く「正法華には功徳正等にして等しく千なり」。又云く「能等は正法華に説くが如く、能縮は身・眼・鼻の八百の如く、能盈は耳・舌・意の千二百の如し」。「経に云く、若し能く是の経を持つ功徳は則ち無量にして、虚空無辺なるが如く其の福限るべからず」。互用の意彰らかなり。正に云く「是の経典を受け、持・読・書写せば当に千眼功徳の本・八百の名称・千二百の耳根・千二百の鼻根・千二百の舌根・千二百の身行・千二百の意浄を得べし。是れを無数百千品の徳と為す。則ち能く六根の功祚を厳浄す」。又云く「八百の諸の名称清浄にして目明朗らかなり」。又云く「八百の鼻の功徳を得」。又云く「身行八百の功徳を逮得せん」。首楞厳経第四に云く「六根の中各々の功徳に千二百有り。阿難、汝復中に於て克く優劣を定めよ。眼の観見するが如き、後は暗く前は明らかなり。前の方は全く明らかに後の方は全く暗し。左右旁(かたがた)観すること三分の二なり。統べて所作を論ずるに功徳全からず。三分は功を言ふとも一分は徳無し。当に知るべし、眼は唯八百の功徳のみなることを。耳の周く聴くが如きは十方遺すこと無し。若迩若遥動静は辺際無し。当に知るべし、耳根の一千二百の功徳を円満することを。鼻の嗅聞の如きは出入の息に通ず。出有り入有りて中交を欠く。鼻根を験むるに三分に一を欠く。当に知るべし、鼻は唯八百の功徳なることを。舌の宣揚して諸の世間・出世間の智を尽くすが如きは、言には方分有れども理に窮尽無し。当に知るべし、舌根の一千二百の功徳を円満することを。身の触を覚え違順を識るが如きは、合する時は能く覚し、離るる中には知らず、離は一にして合は双へり。身根を験むるに三分に一を欠けり。当に知るべし、身は唯八百の功徳なることを。意の黙して十方三世の一切世間・出世間の法を容るるが如きは、唯聖と凡とを包容して其の涯際を尽くさざること無し。当に知るべし、意根の一千二百の功徳を円満せることを○深く一門に入りて能く六根をして一時に清浄ならしむ」。大論四十に云く「鼻・舌・身は同じく覚と称し、眼は見と称し、耳は聞と称し、意は知と称す」云云。/即身成仏化道勝八/謹んで法華経提婆達多品を案ずるに云く〈之れを略す〉。当に知るべし、此の文は経の力用を顕はすことを。六趣の中には是れ畜生趣、不善の報を明かす。男女の中には是れ即ち女身、不善の機を明かす。長幼の中には是れ即ち小女、不久修を明かす。然りと雖も妙法華の甚深微妙の力をもって具に二厳の用を得。明らかに知んぬ、法華の力用は諸経の中の宝、世に希有なる所なることを。又経に云く「智積」〈之れを略す。已上経文〉。当に知るべし、智積菩薩此に歴劫修行を挙げて即身成仏を難じ、三阿僧祇の仏を信じて須臾の成を信ぜざることを。今時三が中に大いに疑難する所の勢ひ、之れの智積の難に過ぎず。又経に云く「偈を以て讃めて曰く、深く罪福の相に達し○我は大乗の教を闡きて苦の衆生を度脱せん」〈已上経文〉。初めの深達罪福相とは罪福多種なり。故に四悪道を罪と為し、人天を以て福と為す〈一〉。又人天を罪と為し、二乗を以て福と為す〈二〉。両教の二乗を以て罪と為し、六度の菩薩を以て福と為す〈三〉。六度の菩薩を以て罪と為し、通教の菩薩を以て福と為す〈四〉。通教の菩薩を以て罪と為し、別教の菩薩を以て福と為す〈五〉。別教の菩薩を以て罪と為し、円教の菩薩を以て福と為す〈六〉。是の如き罪福の相、理の如く了達する故に、是の故に名づけて深達と為す。若し未だ六重を達せざれば、深達と名づくることを得ず。当に知るべし、竜女深く法身に達することを挙げて、引きて唯仏を証することを。次に経に云く「爾の時に舎利弗、竜女に語りて言く、汝久しからずして無上道を得たりと謂へり。是の事信じ難し」云云〈之れを略す〉。当に知るべし、舎利弗は小乗三蔵教の三僧祇劫に六度の行を修し、百劫に相好の業を修することを信じて、法華の直に道場に至りて、須臾の頃に便ち正覚を成ずるを信ぜざることを。次に経に云く「又女人の身には猶五障有り○五には仏身なり。云何ぞ女身にして速やかに成仏することを得ん」〈已上経文〉。有る人会して云く、是れは此れ権化なり、実凡は成せずと。難じて云く、権は是れ実を引く、実凡成仏せずんば権化無用なり、経力をして没せしめん。釈迦は智積を留め、文殊は妙法を弘め、竜女は経力を顕はす、是の如き妙論議は已顕真実の経に宣示顕説するなり○能化所化倶に歴劫無し、妙法の経力もって即身に成仏す〈文〉。又云く、他宗所依の経には都て即身入無し。一分即入すと雖も八地已上に推(ゆず)りて凡夫の身を許さず、天台法華宗には具に即入の義有り○即身成仏化道の義寧んぞ能く他宗に勝れざらんや。文句の八に云く「智積は別教に執して疑ひを為し、竜女は円を明かして疑ひを釈(と)く。身子は三蔵の権を挟(さしはさ)みて難じ、竜女は一実を以て疑ひを除く」。又云く「竜女の現成明証に復二あり。一には珠を献じて円因を得るを表はす。仏に奉るは是の因を将って果を剋す。仏受くること疾きは果を獲るの速やかなるなり。此れ即ち一念に道場に坐して成仏虚しからざるなり。二には正しく因円果満を示す。胎経〈私に云く爾前の円は生身得忍なり〉に云く、魔・梵・釈・女は皆身を捨てず、身を受けずして、悉く現身に於て成仏を得と。故に偈に言く、法性は大海の如く是非有りと説かず、凡夫・賢聖の人平等にして高下無く、唯心垢の滅するに在り、証を取ること掌を反すが如し」。記八に云く「正に円果を示す中に竜女作仏と云ふは、問ふ、分段を捨てずして即ち成仏為るや。若し即身に成仏せずんば、此の竜女の成仏及び胎経の偈云何ぞ通ぜんや。答ふ、今の竜女の文は権に従ひて説く、以て円経の成仏速疾なるを証す。若し実行疾からざれば権行徒らに引ならん。是れ即ち権実義等しくして理徒然ならず。故に胎経の偈は実得に従ひて説く〈生身得忍の益〉。若し実得ならば六根清浄より無生忍を得、物の好む所に応じて神変を起こし現身に成仏し、及び円経を証すべし。既に無生を証す、豈に知ること能はざらん。本捨受無けれども、何ぞ此れを捨て彼しこに往くことを妨げん。余教の凡位此の会の中に至りて、進みて無明を断ずるも亦復是の如し。凡そ此の如き例は必ず須く権実不二を以て疑妨を釈すべし」。文句の八に云く「此れは是れ権巧の力、一身一切身を得。普現色身三昧なり」。記の八に云く「権巧と言ふは必ずしも一向に唯権の釈を作すにあらず。只竜女已に無生を得と云ふときは、則ち体用に約して権巧を論ず。専ら本迹に約して権巧と為すと謂ふには非ず。故に権実の二義、経力倶に成ぜり。他人此れを釈するに或は七地・十地等と云ふは経の力用を顕はすこと能はざる故なり」。輔に云く「経に深達罪福相とは、問ふ、此れは是れ仏を讃するや自讃と為るや。答ふ、経及び疏を観るに是れ自身の所証を讃じて、以て智積の疑を釈するなり」。/日蓮疑って云く、法華の天台・妙楽・伝教の心は大日経等の即身成仏を許すや。慈覚・智証等之れを許す。安恵・安然等も又之れを許す。随って日本国の末学も之れを許せり。/菩提心論〈此の論は竜猛菩薩の造。不空の釈。或は不空の造と云ふ〉に云く「唯真言法の中にのみ即身成仏する故に是れ三摩地の法を説く。諸教の中に於て欠きて書せず」。又云く「勝義・行願・三摩地」云云。「第三に三摩地と言へるは〈三十七尊を釈して金剛頂経の心を引き、又摩訶般若経を引く〉○此の甚深密の瑜伽を説いて、修行者をして内心の中に於て日月輪を観ぜしむ」。又云く「我自心を見るに形月輪の如し」。又云く「一切の有情、心質の中に於て一分の浄性有り、衆行皆備はれり。其の体極めて微妙にして皎然として明白なり。乃至六趣に輪回すれども亦変易せざること月の十六分の一の如し」。又云く「初めに阿字を以て本心の中の分の明を発起して、只漸く潔白分明ならしめて無生智を証す。夫れ阿字とは一切諸法本不生の義なり。毘盧遮那経の疏に准せば阿字を釈するに具に五義有り。一には阿(あ)字〈短声〉是れ菩提心なり。二には阿(あー)字〈引声〉是れ菩提行なり。三には暗(あん)字〈短声〉是れ証菩提の義なり。四には悪(あく)字〈短声〉是れ般涅槃の義なり。五には悪(あーく)字〈引声〉是れ具足方便智の義なり。又阿字を将ちて法華経の中の開示悟入の四字に配解せば、開の字は仏知見を開く。即ち双べて菩提心を開くこと初めの阿字の如し。是れ菩提心の義なり。示の字は仏知見を示す。第二の阿字の如し。是れ菩提行の義なり。悟の字は仏知見を悟る。第三の暗字の如し。是れ証菩提の義なり。入の字は仏知見に入る。第四の悪字の如し。是れ般涅槃の義なり。総じて之れを言へば具足成就の第五の悪字なり。是方便善巧智円満の義なり。即ち阿字は是れ菩提心の義なることを讃ずるなり。頌に曰く、八葉の白蓮、一肘の間に阿字素光の色を炳現す。禅智倶に金剛縛に入りて如来の寂静の智を召入す。五相成身云云。一には通達心、二には菩提心、三には金剛心、四には金剛身、五には無上菩提を証して金剛堅固の身を獲るなり。然も此の五相具に備はれば方に本尊の身と成るなり」。「大毘盧遮那経に云く、是の如く真実心の故に仏宣説したまふ所なり」。又云く「妙道を欲求し、次第を修持して、凡より仏位に入る者なり。即ち此の三摩地とは」。又云く「故に大毘盧遮那経に云く、悉地は心より生ず。金剛頂瑜伽経に説くが如し。一切義成就菩薩」。又云く「故に大毘盧遮那経供養次第法に云く、若し勢力無くんば」。又云く「菩提心を讃して曰く、若し人仏恵を求めて菩提心に通達せば父母所生の身をもって速やかに大覚位を証す」。二教論〈弘法大師作〉下に云く「菩提心論に云く、諸仏菩薩昔因地に在りて是の心を発し已りて勝義・行願・三摩地を戒と為し、乃し成仏に至るまで、時として暫くも忘るること無し。惟れ真言の法の中にのみ即身成仏するが故に是れ三摩地の法を説く。諸経の中に於て欠きて書せずと。喩して曰く、此の論は竜樹大聖所造の千部の論の中の密蔵肝心の論なり。是の故に顕密二教の差別浅深及び成仏の遅速勝劣皆此の中に説けり。謂く、諸教とは他受用身及び変化身等の所説の法、諸の顕教なり。是説三摩地法とは自性法身の所説の秘密真言の三摩地門是れなり。謂ゆる金剛頂の十万頌の経等是れなり」。菩提心義〈五大院の抄〉の一に「問ふ、此の二文〈一は菩提心義、二は菩提心論なり〉是れ誰が説くや。答ふ、真言の目録には並びに不空と云ふ。私に二文を検するに論は是れ竜樹の造、不空の訳なり。菩提心義は造主の名無し。而るに古徳皆不空の造と云へるは疑ひ有るなり○問ふ、若し爾らば菩提心論に亦云く、毘盧遮那経の疏に准じて阿字を釈するに具に五義有り文。豈に不空の一行の記を引けるに非ずや。答ふ、彼れは是れ後人、彼の疏の文を引きて論の中に注入せしなり。而るに有る論の本に長行に書ける者は写生の誤りならん。問ふ、抑大日の疏に所引の文無きなり。何ぞ疏に准ずと言ふや。答ふ、高野の十四と二十の巻には此の文を脱せり。慈覚大師・遍明和尚・円成和上・円覚僧正等の本には並びに此の文有り。故に知んぬ、高野の抄本には脱去せるを。問ふ、菩提心義の末に古徳の注有り。云く、高野の大僧正の進官入唐学法の目録の中に云く、不空の訳なりと。今謂へらく、恐らくは是れ彼の不空の集なるのみ文。此の語を用ゐるや否や。答ふ、縦令(たとい)不空の集なりとも秘蔵の文をば集むべし。何の故ぞ唯顕教の経論のみを集むるや。故に用ゐ難し。問ふ、若し経に疑ひあらば彼の五門を用ゐざるや。答ふ、真言の古徳、目を閉ぢて信用す。今須く古へに違はずして且く彼の文の五門を用ゐると言ふ。○問ふ、古徳の有るが云く、有る目録に云く、菩提心論は不空の集なり、故に竜樹の説に非ずと。此の語用ゐるや否や。答ふ、論に云く、竜猛菩薩の造、不空詔を奉りて訳すと。而るに不空の集と言へるは憑み無く用ゐ難し」。/多宝分身付属勝九/謹んで法華経の見宝塔品を案ずるに云く「爾の時に多宝仏、宝塔の中に於て半座を分かちて、釈迦牟尼仏に与へて、而も是の言を作さく○大音声を以て普く四衆に告げたまはく、誰か能く此の娑婆国土に於て、広く妙法華経を説かん。今正しく是れ時なり。如来久しからずして当に涅槃に入るべし。仏此の妙法華経を以て付属して在ること有らしめんと欲す」〈已上経文〉。当に知るべし、過去の多宝・現在の釈尊同じく塔中に坐し、十方現在の釈迦の分身各八方に坐し、大会の一切の衆皆虚空に在りて妙法華経付属有在といふことを。他宗所依の経には都て此の付属無し。天台法華宗のみ具に此の付属有り。是の故に天親菩薩の釈論の下巻に云く「多宝如来の塔は一切仏土の清浄なることを示現すとは」○其れ権大乗経は彼の権の一乗経なれば都て此の付属無し、未顕真実なるが故に。今の実大乗経は具に此の付属有り、已顕真実なるが故に。他宗の経の付属は法華宗に如かず○又六難を挙げて重ねて九易を示す。又経の偈に云く「諸余の経典数恒沙の如し」。○夫円教の心を発して書持すること得難し。東隅の一公法華中を制書し、法華の釈氏、大律儀を断ず。是れ則ち難しとなす。深く信じ恐るべし○夫れ円融の三諦を解し、暫くも法華経を読みたてまつるは濁悪の世の中に其の人極めて得難し。今の時法華を読むもの其の数忽ち多きに似たり。然りと雖も即身に六根清浄の果無きは未だ円融の三諦を解了せざるに由る。故に難は則ち法華を指すなり○又云く、夫れ円融の三諦は一乗の本法なり。持ち難く説き難し、所化も得ること難し。一人の為にも説けば仏種断せず。是れ則ち難しと為す。難は則ち法華を指すなり○当に知るべし○未顕真実の八万法蔵十二部経は是れ妙法ならず。是の故に易しと為すなり○夫れ仏知仏見は其の義解し難く、体内の権実は機に非ざれば信せず。是の故に法華を聴受し其の義趣を問ふは是れ則ち難しと為す。難は則ち法華を指すなり○夫れ当代に説法すれども、未だ一人をして羅漢を証得せしめず。何に況や二・三・四・五・六・七人をや。何に況や無量無数の恒沙の衆生に阿羅漢を得しめんをや。而るに小乗の威儀に執して法華の制に順ぜず、大乗の威儀を奪って但両聚の戒を許せり。寧んぞ大小権実の義を解了する者ならんや。既に得果の阿羅漢を挙げて「是の益有りと雖も未だ難しと為さず」といへり。何ぞ固く其の威儀に執して、万億の行者を小道に引かんや。小乗の持戒は即ち菩薩の煩悩なりとは蓋し此の事を謂ふか。但し小儀に執せざるを除くなり。又云く、他宗所依の経は未だ九易の局りを出でず。天台法華宗のみ独り六難の頂に居す。誰か智有らん者経文を別たざらんや。是の如き等の校量の付属は他宗の経に無き所にして唯法華経にのみ有り○浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり。浅きを去りて深きに就くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順して法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承して法華宗を助けて日本に弘通す。夫れ玄賛の家は法華の旨を会して唯識の義に帰す。是れ則ち唯識の宗を弘めて法華を弘めず。無相の家には法華の旨を会して無相の義に帰す。是れ則ち無相の宗を弘めて法華を弘めず。是の故に天台一家は一切の経を会して法華経に帰す。是れ則ち法華を敷揚して諸経を会通す。委曲の義は玄疏に出でたり。/日蓮疑って云く、大日経等は九易の内か、六難の内か、仏法を習学せんの輩能く能く意を留めよ。日本国の弘法・慈覚・智証、漢土の善無畏・金剛智・不空等云云。日蓮が云く、漢土・日本の智人等此の六人に拘はり、今生には国を亡し後生には無間を招かんか。乞ひ願はくは一切の学者等、人を捨てて法に附け。一生を空しうすること勿れ。普賢菩薩勧発勝十/謹んで法華経普賢菩薩勧発品を案ずるに云く〈之れを略す〉。当に知るべし、普賢菩薩は法華を得ることを決して、滅後の持経者を勧発す。得経の義、意趣甚だ多し。巻を得、義を得、思を得、修を得る、六即の位に経て分別すべきのみ。又云く「爾の時に普賢菩薩、復仏に白して言さく、世尊後の五百歳に於て」と○当に知るべし、法華真実の経は後の五百歳に於て、必ず流伝すべきなり。普賢の正身、果分を守るが故に、持経者を護りて安穏なることを得しむ。他宗所依の経には都て此の勧発無し。天台法華宗には具に此の勧発有り○当に知るべし、普賢菩薩身を現じて法華を読誦する者を供養することを。夫れ果分の経は因位の菩薩の人尊むべく貴むべし。故に法華経を供養す。他宗所依の経には都て此の供養無く亦此の安慰無し。天台法華宗には具に此の供養有り。亦此の安慰有り。勧発の功は果分の経に尽きぬ。又云く、円融三諦の義陀羅尼は、唯法華のみに有りて余経には都て無し。他宗所依の経には都て円益を得ること無し。天台法華宗には具に円益を得ること有り。勧発の功は果分の経に尽きぬ。又云く「世尊、若し後世の後五百歳濁悪世の中に」云云。当に知るべし、法華経の力の故に後世の後五百歳に円機の四衆等。又云く、経に又云く「亦復其れに陀羅尼呪を与へん、是の陀羅尼を得るが故に」云云。当に知るべし、法華経を護らんが為に真言を持者に与へ自身常に守護することを。他宗所依の経には都て此の勧発無し。天台法華宗には具に此の勧発有り。妙法の真言は他経に説かず。是の故に法華宗は二の論宗に勝れ、亦華厳宗にも勝れたり。又云く、夫れ仏知・仏見の内証の経は信じ難く解し難し。果分の教は独り諸経に秀でて対無く比無し。全身の舎利は亦上亦一なり。深く金口を信ぜよ。又云く、天台法華宗の能説の仏は久遠実成なり。所説の経は髻中の明珠なり。能伝の師は霊山の聴衆なり。所伝の釈は諸宗の憑拠なり。委曲の依憑は具に別の巻に有り文。/日蓮疑って云く、伝教大師真言宗を破せざるや。答ふ、依憑天台集序〈前入唐受法沙門伝灯大法師位最澄撰〉「天台の伝法は諸家の明鏡なり。陳隋以降興唐より已前、人は則ち歴代称して大師と為し、法は則ち諸宗をもって証拠とす。故に梁粛の云く、夫れ治世の経は孔門に非ずんば則ち三王四代の訓へ、寝んで彰はれず、出世の道は大師に非ずんば則ち三乗四教の旨、晦くして明らかならざる者なり、と。我が日本の天下は円機已に熟し、円教遂に興らん。此の間の後生各自宗に執して偏に妙法を破す○新来の真言家は則ち筆受の相承を泯し、旧到の華厳家は則ち影響の軌模を隠す。沈空の三論宗は弾呵の屈恥を忘れて称心の心酔を覆ひ、著有の法相宗は僕陽の帰依を非(なみ)して青竜の判経を撥ふ。最澄南唐の後に此の一宗を稟け、東唐の訓へを彼の戒疏に閲し、円珠を海西に拾ひ、連城を海東に献ず。略菽麦の殊なりを示し、目珠の別を悟らしむ。謹んで依憑一巻を著して同我の後哲に贈る。其れ時興ること、日本第五十二葉、弘仁之七〈丙申〉の歳なり」。大唐新羅諸宗義匠依憑天台義集巻一〈前入唐習業沙門最澄撰〉「大唐南岳の真言宗沙門一行、天台の三徳に同じて数息三諦の義あり。其の毘盧遮那経の疏第七の下に云く、三落叉とは是れ数なり。数は是れ世間なり。出世の落叉は是れ見なり。三相とは謂く字と印と本尊と等しく、随って其の一を取るに一合の相是れなり。/字と印と尊と等しく、身と語と心と等しきをば実相を見ると名づく。乃至能く持誦せしむとは、浄ければ一切の罪をして除かしむ。若し浄からざれば更に一月等しく前の如くするなり。所説の念誦の数とは上の文を牒するなり。此の法則に異なるべからざるなり。是の故に耳をして聞かしめ、息出づる時は字出で、入る時は字入り、息に随ひて出入せしむるなり。今謂く、天台の誦経は是れ円頓の数息なりとは是れ此の意なり○猶天台の法身・般若・解脱の義の如し」云云。「天竺の名僧、大唐天台の教迹最も邪正を簡ぶに堪へたりと聞いて、渇仰訪問する縁。法華文句の記の第十巻の末に云く、適(たまたま)江淮の四十余僧と往きて台山を礼す、因りて不空三蔵の門人含光、勅を奉じて山に在りて修造するを見るに云く、不空三蔵と親り天竺に遊ぶ、彼しこに僧あり、問うて曰く、大唐に天台の教迹有り、最も邪正を簡び偏円を暁らむるに堪えたり。能く之れを訳して将って此の土に至るべしやと。豈に中国に法を失ひて之れを四維に求むるに非ずや。而も此の方に識ること有る者少なり、魯人の如きのみ。故に徳を厚うし道に向かふ者之れを仰ぎて敬はざるは莫し。願はくは学者行者随力称讃せよ。応に知るべし、自行は人を兼ね並びに他典に異なることを」。吉蔵等一百余人の天台を請する言。「千年の興、五百の実、復今日に在り。南岳の叡聖天台の明哲、昔は三業に住持し今は二尊に紹係す。豈に止(ただ)甘露を震旦に灑ぐのみならん、亦当に法鼓を天竺に震ふべし。生知の妙悟、魏晋以来典籍風謡実に連類無し」。律宗道宣の天台讃むる語。「法華を照了すること高輝の幽谷に臨むが若く、摩訶衍を説くこと長風の大虚に遊ぶに似たり。仮令(たとい)文字の師千群万衆彼の妙弁を数(せめ)尋ぬるとも能く窮むる者無きなり○義月を指すに同じ、筌蹄に滞らず○理無生に会し、宗は一極に帰する者なり」。「吁乎実なるかな、生まれながらにして知る者は上なり、学ぶは次なりと。此の言以(ゆえ)有るなり。庭戸を出でずして天下知んぬべしとは、豈に空しく伝へんや。此の間比蘇に在り。大唐にして天台を聞く。今吾が大師杖を葱嶺に遂かずと雖も、然も霊山の聴き、恒に心腑に存し、経を流沙に負はずと雖も而も南岳の告げ篤く簡牘に載す。三蔵は梵偈を印度に尋ね天台は法鼓を天竺に振るふ。波倫は漢に入りて文殊を台山に礼し、梵僧は呉に来たりて弥勒に東陽にして謁す。漢地已に聖有り。秦国何ぞ賢無からんや。支那の三蔵は諍論を天竺に和し、震旦の人師は群釈を梵本に揉ゆ。彼の智略に於ては神州も亦好し、此の義味に於ては大唐も亦妙なり。唯義理を敬信せよ、寧んぞ人法を謗じて殃を招かんや。耳を貴みて目を賤しむは漢人の嗟く所、遠きを敬ひ近きを軽んずるは此の間免れ難し。伏して願はくは心有らん君子、愛憎の情を捨て諸宗の憑みを熟察せよ。今吾が天台大師法華経を説き法華経を釈すること特に群に秀でて唐に独歩す。明らかに知んぬ、如来の使ひなりと。讃ずる者は福を安明に積み、謗ずる者は罪を無間に開かん。然りと雖も信ずる者に於ては天鼓と為り、謗ずる者に於ては毒鼓と為る。信謗彼此決定して成仏せん。又偈に云く〈略〉(なん)ぞ福を捨て罪を慕ふ者あらんや。願はくは同じく一乗を見て倶に和合海に入らんことを」。