大田殿女房御返事

〔C0・弘安三年七月二日・大田殿女房〕/八月分の八木(こめ)一石給はり候ひ了んぬ。/即身成仏と申す法門は、諸大乗経並びに大日経等の経文に分明に候ぞ。爾ればとて彼の経々の人々の即身成仏と申すは、二つの増上慢に堕ちて必ず無間地獄へ入り候なり。記の九に云く「然して二つの上慢深浅無きにあらず、如と謂ふは乃ち大無慚の人と成る」等云云。諸大乗経の煩悩即菩提・生死即涅槃の即身成仏の法門は、いみじくをそたかきやうなれども、此れはあえて即身成仏の法門にはあらず。其の心は二乗と申す者は鹿苑にして見思を断じて、いまだ塵沙・無明をば断ぜざる者が、我は已に煩悩を尽くしたり。無余に入りて灰身滅智の者となれり。灰身なれば即身にあらず。滅智なれば成仏の義なし。/されば凡夫は煩悩・業もあり、苦果の依身も失ふ事なければ、煩悩・業を種として報身・応身ともなりなん。苦果あれば生死即涅槃とて、法身如来ともなりなんと、二乗をこそ弾呵せさせ給ひしか。さればとて煩悩・業・苦が三身の種とはなり候はず。今法華経にして、有余・無余の二乗が無き煩悩・業・苦をとり出だして、即身成仏と説き給ふ時、二乗の即身成仏するのみならず、凡夫も即身成仏するなり。此の法門をだにもくはしく案じほどかせ給わば、華厳・真言等の人々の即身成仏と申し候は、依経に文は候へども、其の義はあへてなき事なり。僻事の起こり此れなり。弘法・慈覚・智証等は、此の法門に迷惑せる人なりとみ(見)候。何に況や其の已下の古徳・先徳等は言ふにたらず。但し、天台の第四十六の座主東陽の忠尋と申す人こそ、此の法門はすこしあやぶまれて候事は候へ。然れども天台の座主慈覚の末をうくる人なれば、いつわりをろかにて、さてはてぬるか。其の上日本国に生を受くる人は、いかでか心にはをもうとも、言に出だし候べき。しかれども釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌・竜樹菩薩・天台・妙楽・伝教大師は、即身成仏は法華経に限るとをぼしめされて候ぞ。我が弟子等は此の事ををもひ出にせさせ給へ、せさせ給へ。/妙法蓮華経の五字の中に、諸論師・諸人師の釈まちまちに候へども、皆諸経の見を出でず。但し、竜樹菩薩の大論と申す論に「譬へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」と申す釈こそ、此の一字を心へさせ給ひたりけるかと見へて候へ。毒と申すは苦集の二諦、生死の因果は毒の中の毒にて候ぞかし。此の毒を生死即涅槃、煩悩即菩提となし候を、妙の極とは申しけるなり。良薬と申すは毒の変じて薬となりけるを良薬とは申し候ひけり。此の竜樹菩薩は大論と申す文の一百の巻に、華厳・般若等は妙にあらず、法華経こそ妙にて候へと申す釈なり。此の大論は竜樹菩薩の論、羅什三蔵と申す人の漢土へわたして候なり。天台大師は此の法門を御らむあて、南北をばせめさせ給ひて候ぞ。/而るを漢土唐の中、日本弘仁已後の人々の誤りの出来し候ひける事は、唐の第九代宗皇帝の御宇、不空三蔵と申す人の天竺より渡して候論あり、菩提心論と申す。此の論は竜樹の論となづけて候。此の論に云く「唯真言法の中にのみ即身成仏する故に是れ三摩地の法を説く。諸教の中に於て欠きて書せず」と申す文あり。此の釈にばかされて、弘法・慈覚・智証等の法門はさんざんの事にては候なり。但し、大論は竜樹の論たる事は自他あらそう事なし。菩提心論は竜樹の論、不空の論と申すあらそい有り。此れはいかにも候へ、さてをき候ひぬ。/但し、不審なる事は、大論の心ならば即身成仏は法華経に限るべし。文と申し、道理きわまれり。菩提心論が竜樹の論とは申すとも、大論にそむいて真言の即身成仏を立つる上、唯の一字は強しと見へて候。何れの経文に依りて、唯の一字をば置きて、法華経をば破し候ひけるぞ。証文尋ぬべし。竜樹菩薩の十住毘婆娑論に云く「経に依らざる法門をば黒論」云云。自語相違あるべからず。大論の一百に云く「而も法華等の阿羅漢の受決作仏、乃至譬へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」等云云。此の釈こそ即身成仏の道理はかかれて候へ。/但し、菩提心論と大論とは同じ竜樹大聖の論にて候が、水火の異をばいかんがせんと見候に、此れは竜樹の異説にはあらず、訳者の所為なり。羅什は舌やけず、不空は舌やけぬ。妄語はやけ、実語はやけぬ事顕然なり。月支より漢土へ経論わたす人、一百七十六人なり。其の中に羅什一人計りこそ、教主釈尊の経文に私の言入れぬ人にては候へ。一百七十五人の中、羅什より先後一百六十四人は羅什の智をもって知り候べし。羅什来たらせ給ひて前後一百六十四人が誤りも顕はれ、新訳の十一人が誤りも顕はれ、又少しこざかしくなりて候も羅什の故なり。此れ私の義にはあらず。感通伝に云く「絶後光前」云云。光前と申すは後漢より後秦までの訳者。絶後と申すは羅什已後、善無畏・金剛智・不空等も羅什の智をうけて、すこしこざかしく候なり。感通伝に云く「已下の諸人並びに皆俊」云云。されば此の菩提心論の唯の文字は、設ひ竜樹の論なりとも、不空の私の言なり。何に況や次下に「諸教の中に於て欠きて書せず」とかかれて候。存外のあやまりなり。/即身成仏の手本たる法華経をば指しをいて、あとかたもなき真言に即身成仏を立て、剰へ唯の一字ををかるる条、天下第一の僻見なり。此れ偏に修羅根性の法門なり。天台智者大師の文句の九に、寿量品の心を釈して云く「仏三世に於て等しく三身有り。諸教の中に於て之れを秘して伝へず」とかかれて候。此れこそ即身成仏の明文にては候へ。不空三蔵此の釈を消さんが為に、事を竜樹に依せて「唯真言法の中にのみ即身成仏する故に是れ三摩地の法を説く。諸教の中に於て欠きて書せず」とかかれて候なり。されば此の論の次下に、即身成仏をかかれて候が、あへて即身成仏にはあらず。生身得忍に似て候。此の人は即身成仏はめづらしき法門とはきかれて候へども、即身成仏の義はあへてうかがわぬ人々なり。いかにも候へば二乗成仏・久遠実成を説き給ふ経にあるべき事なり。天台大師の「於諸教中秘之不伝」の釈は千旦千旦。恐々。/外典三千余巻は、政当の相違せるに依りて代は濁ると明かす。内典五千七千余巻は、仏法の僻見に依りて代濁るべしとあかされて候。今の代は外典にも相違し、内典にも違背せるかのゆへに、二つの大科一国に起こりて、已に亡国とならむとし候か。不便不便。/七月二日日蓮(花押)/大田殿女房御返事