窪尼御前御返事

〔C2・弘安三年五月三日・窪尼(高橋殿後家尼)〕/粽(ちまき)五把・笋(たかんな)十本・千日(さけ)ひとつつ給はり了んぬ。いつもの事に候へども、ながあめ(長雨)ふりてなつ(夏)の日ながし。山はふかく、みち(路)しげければ、ふみわくる人も候はぬに、ほととぎすにつけての御ひとこへ(一声)ありがたしありがたし。/さてはあつわら(熱原)の事、こんどをもってをぼしめせ。さきもそら事なり。かうのとの(守殿)は人のいゐしにつけて、くはしくもたづねずして、此の御房をながしける事あさましとをぼして、ゆるさせ給ひてののちは、させるとが(科)もなくては、いかんが又あだせらるべき。すへの人々の法華経を心にはあだめども、うへにそし(讒)らばいかんがとをもひて、事にかづけて人をあだむほどに、かへりてさきざきのそら事のあらわれ候ぞ。これはそらみげうそ(虚御教書)と申す事はみぬさきよりすいして候。さど(佐渡)の国にてもそらみげうそを三度までつくりて候ひしぞ。これにつけても上と国との御ためあはれなり。木のしたなるむしの木をくらひたうし、師子の中のむしの師子を食らひうしなふやうに、守殿の御をん(恩)にてすぐる人々が、守殿の御威をかりて、一切の人々ををど(脅)しなや(悩)ましわづら(煩)はし候うへ、上の仰せとて法華経を失ひて、国もやぶれ主をも失ひて、返りて各々が身をほろぼさんあさましさよ。日蓮はいやしけれども、経は梵天・帝釈・日月・四天・天照太神八幡大菩薩のまぼらせ給ふ御経なれば、法華経のかたをあだむ人々は、剣をのみ火を手ににぎるなるべし。これにつけてもいよいよ御信用のまさらせ給ふ事、たうとく候ぞ、たうとく候ぞ。/五月三日日蓮花押/窪尼御返事