弥源太殿御返事

〔C6・文永一一年二月二一日・弥源太入道〕/抑日蓮は日本第一の僻人なり。其の故は皆人の父母よりもたかく、主君よりも大事におもはれ候ところの阿弥陀仏大日如来・薬師等を御信用ある故に、三災七難先代にこえ、天変地夭等昔にもすぎたりと申す故に、結句は今生には身をほろぼし、国をそこなひ、後生には大阿鼻地獄に堕ち給ふべしと、一日片時もたゆむ事なくよばわりし故にかかる大難にあへり。譬へば夏の虫の火にとびくばり、ねずみがねこのまへに出でたるが如し。是れあに我が身を知りて用心せざる畜生の如くにあらずや。身命を失ふ事、併しながら心より出づれば僻人なり。但し石は玉をふくむ故にくだかれ、鹿は皮肉の故に殺され、魚はあぢはひある故にとらる、すい(翠)は羽ある故にやぶらる。女人はみめかたちよければ必ずねたまる。此の意なるべきか。日蓮法華経の行者なる故に、三類の強敵あつて種々の大難にあへり。然るにかかる者の弟子檀那とならせ給ふ事不思議なり。定めて子細候らん。相構へて能く能く御信心候ひて、霊山浄土へまいり給へ。/又御祈祷のために御太刀同じく刀あはせて二つ送り給はて候。此の太刀はしかるべきかぢ(鍛冶)作り候かと覚え候。あまくに(天国)、或は鬼き(切)り、或はやつるぎ(八剣)、異朝にはかむしやうばくや(干将莫耶)が剣に争でかことなるべきや。此れを法華経にまいらせ給ふ。殿の御もちの時は悪の刀、今仏前へまいりぬれば善の刀なるべし。譬へば鬼の道心をおこしたらんが如し。あら不思議や、不思議や。後生には此の刀をつえ(杖)とたのみ給ふべし。法華経は三世の諸仏発心のつえ(杖)にて候ぞかし。但し日蓮をつえはしらともたのみ給ふべし。けはしき山、あしき道、つえをつきぬればたをれず。殊に手をひかれぬればまろぶ事なし。南無妙法蓮華経死出の山にてはつえはしらとなり給へ。釈迦仏・多宝仏・上行等の四菩薩は手を取り給ふべし。日蓮さきに立ち候はば、御迎へにまいり候事もやあらんずらん。又さきに行かせ給はば、日蓮必ず閻魔法王にも委しく申すべく候。此の事少しもそら事あるべからず。日蓮法華経の文の如くならば通塞の案内者なり。只一心に信心おはして霊山を期し給へ。ぜに(銭)と云ふものは用にしたがつて変ずるなり。法華経も亦復是の如し。やみには灯となり、渡りには舟となり、或は水ともなり、或は火ともなり給ふなり。若し然らば法華経は「現世安穏後生善処」の御経なり。/其の上、日蓮は日本国の中には安州のものなり。総じて彼の国は天照太神のすみそめ(住初)給ひし国なりといへり。かしこにして日本国をさぐり出だし給ふ。あは(安房)の国御くりや(厨)なり。しかも此の国の一切衆生の慈父悲母なり。かかるいみじき国ならん。いかなる宿習にてや候らん。日蓮又彼の国に生まれたり、第一の果報なるなり。此の消息の詮にあらざれば委しくはかかず、但おしはかり給ふべし。能く能く諸天にいのり申すべし。信心にあか(倦)なくして所願を成就し給へ。女房にもよくよくかたらせ給へ。恐々謹言。/二月二十一日日蓮花押/弥源太殿御返事