船守弥三郎許御書

〔C6・弘長元年六月二七日・船守弥三郎夫妻〕/わざと使ひを以て、ちまき(粽)・さけ(酒)・ほしひ(干飯)・さんせう(山椒)・かみ(紙)しなじな給はり候ひ畢んぬ。又つかひ(使者)申され候は、御かくさせ給へと申し上げ候へと、日蓮心得申すべく候。/日蓮去ぬる五月十二日流罪の時、その津につきて候ひしに、いまだ名をもききをよびまいらせず候ところに、船よりあがりくるしみ候ひきところに、ねんごろにあたらせ給ひ候ひし事はいかなる宿習なるらん。過去に法華経の行者にてわたらせ給へるが、今末法にふなもり(船守)の弥三郎と生まれかはりて日蓮をあわれみ給ふか。たとひ男はさもあるべきに、女房の身として食をあたへ、洗足てうづ(手水)其の外さも事ねんごろなる事、日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし。ことに三十日あまりありて内心に法華経を信じ、日蓮を供養し給ふ事いかなる事のよしなるや。かかる地頭・万民、日蓮をにくみねたむ事鎌倉よりもすぎたり。見るものは目をひき、きく人はあだむ。ことに五月のころなれば米もとぼ(乏)しかるらんに、日蓮を内々にてはぐく(育)み給ひしことは、日蓮が父母の伊豆の伊東かわな(川奈)と云ふところに生まれかはり給ふか。法華経の第四に云く「及び清信士女を遣はして法師を供養せしめ」云云。法華経を行ぜん者をば、諸天善神等、或はをとこ(男)となり、或は女となり、形をかへ、さまざまに供養してたすくべしと云ふ経文なり。弥三郎殿夫婦の士女と生まれて、日蓮法師を供養する事疑ひなし。さきにまいらせし文につぶさにかきて候ひし間、今はくはしからず。/ことに当地頭の病悩について、祈せい(請)申すべきよし仰せ候ひし間、案にあつかひて候。然れども一分信仰の心を日蓮に出だし給へば、法華経へそせう(訴訟)とこそおもひ候へ。此の時は十羅刹女もいかでか力をあはせ給はざるべきと思ひ候ひて、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏並びに天照・八幡・大小の神祇等に申して候。定めて評議ありてぞしるし(験)をばあらはし給はん。よも日蓮をば捨てさせ給はじ。いた(痛)きとかゆ(痒)きとの如く、あてがはせ給はんとをもひ候ひしに、ついに病悩なをり、海中いろくづ(鱗)の中より出現の仏体を日蓮にたまはる事、此の病悩のゆへなり。さだめて十羅刹女のせめなり。此の功徳も夫婦二人の功徳となるべし。/我等衆生無始よりこのかた生死海の中にありしが、法華経の行者となりて無始色心本是理性・妙境妙智金剛不滅の仏身とならん事、あにかの仏にかはるべきや。過去久遠五百塵点のそのかみ(当初)唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり。法華経の一念三千の法門、常住此説法のふるまいなり。かかるたうとき法華経釈尊にてをはせども凡夫はしる事なし。寿量品に云く「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」とはこれなり。迷悟の不同は沙羅の四見の如し。一念三千の仏と申すは法界の成仏と云ふ事にて候ぞ。雪山童子のまへにきたりし鬼神は帝釈の変作なり。尸毘王の所へにげ入りし鳩は毘首羯摩天ぞかし。班足王の城へ入りし普明王は教主釈尊にてまします。肉眼はしらず、仏眼は此れをみる。虚空と大海とには魚鳥の飛行するあとあり。此等は経文にみえたり。木像即金色なり、金色即木像なり。あぬるだ(阿楼駄)が金はうさぎとなり死人となる。釈摩男がたなごころ(掌)にはいさご(沙)も金となる。此等は思議すべからず。凡夫即仏なり、仏即凡夫なり、一念三千我実成仏これなり。/しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生まれかわり給ひて日蓮をたすけ給ふか。伊東とかわな(川奈)のみちのほどはちかく候へども心はとをし。後のためにふみをまいらせ候ぞ。人にかたらずして心得させ給へ。すこしも人しるならば御ためあし(悪)かりぬべし。むねのうちにを(置)きて、かたり給ふ事なかれ。あなかしこあなかしこ。南無妙法蓮華経。弘長元年六月二十七日日蓮花押/船守弥三郎殿許へ之れを遣はす。