椎地四郎殿御書

〔C6・四月二八日・椎地四郎〕/先日御物語の事について彼の人の方へ相尋ね候ひし処、仰せ候ひしが如く少しもちがはず候ひき。/これにつけても、いよいよはげまして法華経の功徳を得給ふべし。師曠が耳・離婁が眼のやうに聞き見させ給へ。末法には法華経の行者必ず出来すべし。但し大難来たりなば強盛の信心弥々悦びをなすべし。火に薪をくわへんにさかんなる事なかるべしや。大海へ衆流入る、されども大海は河の水を返す事ありや。法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども、かへす事とがむる事なし。諸河の水入る事なくば大海あるべからず。大難なくば法華経の行者にはあらじ。天台の云く「衆流海に入り薪火を熾んにす」等云云。/法華経の法門を一文一句なりとも人にかたらんは過去の宿縁ふかしとおぼしめすべし。経に云く「亦正法を聞かず是の如き人は度し難し」云云。此の文の意は、正法とは法華経なり。此の経をきかざる人は度しがたしと云ふ文なり。法師品には「若是善男子善女人乃至則如来使」と説かせ給ひて、僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使ひと見えたり。貴辺すでに俗なり、善男子の人なるべし。此の経を一文一句なりとも聴聞して神(たましい)にそめん人は、生死の大海を渡るべき船なるべし。妙楽大師の云く「一句も神に染めぬれば咸く彼岸を資(たす)く、思惟修習永く舟航に用ゐる」云云。生死の大海を渡らんことは、妙法蓮華経の船にあらずんばかなふべからず。/抑法華経の如渡得船の船と申す事は、教主大覚世尊、巧智無辺の番匠として四味八教の材木を取り集め、正直捨権とけづりなして、邪正一如ときり合はせ、醍醐一実のくぎを丁とうちて、生死の大海へをしうかべ、中道一実のほばしらに界如三千の帆をあげて、諸法実相のおひて(追風)をえて、以信得入の一切衆生を取りのせて、釈迦如来はかぢ(楫)を取り、多宝如来はつなで(綱手)を取り給へば、上行等の四菩薩は函蓋相応して、きりきりとこぎ給ふ所の船を如渡得船の船とは申すなり。是れにのるべき者は日蓮が弟子檀那等なり。能く能く信じさせ給へ。四条金吾殿に見参候はば能く能く語り給ひ候へ。委しくは又々申すべく候。恐々謹言。/四月二十八日日蓮花押/椎地四郎殿え。