二乗作仏事

〔C6・文永八年頃か〕/爾前得道の旨たる文。経に云く「見諸菩薩」等云云。又云く「始見我身」等。此等の文の如きは、菩薩初地初住に叶ふ事有ると見えたるなり。故に「見諸菩薩」の文の下には「而我等不預斯事」。又「始見」の文の下には「除先修習」等云云。此れは爾前に二乗作仏無しと見えたる文なり。/問ふ、顕露定教には二乗作仏を許すや。顕露不定教には之れを許すか。秘密には之れを許すか。爾前の円には二乗作仏を許すや。別教には之れを許すか。答ふ、所詮は重々の問答有りと雖も皆之れを許さざるなり。所詮は二乗界の作仏を許さずんば菩薩界の作仏も許されざるか。衆生無辺誓願度の願の欠くるが故なり。釈は菩薩の得道と見えたる経文を消する許りなり。所詮華・方・般若の円の菩薩も初住に登らず。又凡夫二乗は勿論なり。「一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」の文の下にて此の事は意得べきなり。/問ふ、円の菩薩に向かひては二乗作仏を説くか。答ふ、説かざるなり。「未だ曾て、人に向かひて此の如き事を説かず」の釈に明らかなり。問ふ、華厳経の三無差別の文は十界互具の正証なりや。答ふ、次下の経に云く〈二十五〉「如来智恵の大薬王樹は唯二所を除き生長することを得ず。所謂声聞・縁覚なり」等云云。二乗作仏を許さずと云ふ事分明なり。若し爾らば本文は十界互具と見えたれども、実には二乗作仏無ければ十界互具を許さざるか。其の上爾前の経は法華経を以て定むべし。既に「除先修習」等云云と云ふ。華厳は菩薩に向かひて二乗作仏無しと云ふ事分明なり。方等般若も又以て此の如し。総じて爾前の円に意得べき様二有り。一には阿難結集の已前に仏は、一音に必ず別円二教の義を含ませ、一々の音に必ず四教三教を含ませ給へるなり。故に純円の円は爾前経には無きなり。故に円と云へども今の法華経に対すれば別に摂すと云ふなり。籤の十に「又一々の位に皆普賢行布の二門有り、故に知んぬ、兼ねて円門を用ゐて別に摂す」と釈するなり。此の意にて爾前に得道無しと云ふなり。二には阿難結集の時多羅葉に注す、一段は純別・一段は純円に書けるなり。方等般若も此の如し。此の時は爾前の純円に書ける処は粗法華に似たり。「住の中には多く円融の相を明かす」等と釈するは此の意なり。天台智者大師は此の道理を得給ひし故に他師の華厳など総じて爾前の経を心得しには、たがひ給へるなり。此の二の法門をば如何として天台大師は心得給ひしぞとさぐれば、法華経の信解品等を以て一々の文字、別円の菩薩及び四教三教なりけりとは心得給ひしなり。又此の智恵を得るの後、彼等の経に向かひて見る時は、一向に別、一向に円等と見えたる処あり。阿難結集後のしはざなりけりと見給へるなり。/天台一宗の学者の中に此の道理を得ざるは、爾前の円と法華の円と始終同義と思ふ故に、一処のみ円教の経を見て一巻二巻等純円の義を存す故に、彼の経等に於て成仏往生の義理を許す人々是れ多きなり。華厳・方等・般若・観経等の本文に於て、阿難円教の巻を書くの日に即身成仏云云、即得往生等とあるを見て、一生乃至順次生に往生成仏を遂げんと思ひたり。阿難結集已前の仏口より出だす所の説教にて意を案ずれば、即身成仏・即得往生の裏に歴劫修行・永不往生の心を含めり。句の三に云く摂論を引きて云く「了義経は文に依りて義を判ず」等と云ふ意なり。爾前の経を文の如く判ぜば仏意に乖くべしと云ふ事は是れなり。記の三に云く「法華已前は不了義の故」と云へり、此の心を釈せるなり。籤の十に云く「唯此の法華のみ前教の意を説き今経の意を顕はす」。釈の意は是れなり。/抑他師と天台との意の殊なる様は如何と云ふに、他師は一々の経々に向かひて彼の経々の意を得たりと謂へり。天台大師は法華経に仏四十余年の経々を説き給へる意をもって諸経を釈する故に、阿難尊者の書きし所の諸経の本文にたがひたる様なれども仏意に相叶ひたるなり。且く観経の疏の如き経説には見えざれども一字に於て四教を釈す。本文は一処は別教、一処は円教、一処は通教に似たり。釈の四教に亘るは法華の意を以て仏意を知りたまふ故なり。阿難尊者の結集する経にては一処は純別、一処は純円に書き、別円を一字に含する義をば法華にて書きけり。法華にして爾前の経の意を知らしむるなり。若し爾らば一代聖教は反覆すと雖も法華経無くんば一字も諸経の心を知るべからざるなり。又法華経を読誦する行者も此の意を知らずんば法華経を読むにては有るべからず。爾前の経は深経なればと云ひて浅経の意をば顕はさず、浅経なればと云ひて又深義を含まざるにも非ず。法華経の意は一々の文字は皆爾前経の意を顕はし、法華経の意をも顕はす。故に一字を読めば一切経を読むなり。一字を読まざるは一切経を読まざるなり。若し爾らば法華経無き国には諸経有りと雖も得道は難かるべし。滅後に一切経を読むべき様は華厳経にも必ず法華経を列ねて彼の経の意を顕はし、観経にも必ず法華経を列ねて其の意を顕はすべし。諸経も又以て此の如し。而るに月支の末の論師及び震旦の人師此の意を弁へず、一経を講じて各我得たりと謂ひ、又超過諸経の謂ひを成せるは曾て一経の意を得ざるのみに非ず、謗法の罪に堕するか。/問ふ、天竺の論師・震旦の人師の中に天台の如く阿難結集已前の仏口の諸経を此の如く意得たる論師人師之れ有るか。答ふ、無著菩薩の摂論には四意趣を以て諸経を釈し、竜樹菩薩の大論には四悉檀を以て一代を得たり。此等は粗此の意を釈すとは見えたれども天台の如く分明には見えず。天親菩薩の法華論又以て此の如し。震旦国に於ては天台以前の五百年の間には一向に此の義無し。玄の三に云く「天竺の大論すら尚其の類に非ず」云云。籤の三に云く「一家の章疏は理に附し教に憑り、凡そ立つる所の義、他人の其の所弘に随ひ偏に己が典を讃するに同じからず。若し法華を弘むるに偏に讃せば尚失なり。況や復余をや文。何となれば既に開権顕実と言ふ、何ぞ一向に権を毀るべきや」。華厳経の「心仏及衆生是三無差別」の文は、華厳の人師此の文に於て一心覚不覚の三義を立つるは、源(もと)起信論の名目を借りて此の文を釈するなり。南岳大師は妙法の二字を釈するに此の文を借りて三法妙の義を存せり。天台智者大師は之れを依用す。此に於て天台宗の人は華厳・法華同等の義を存するか。又澄観「心仏及衆生」の文に於て一心覚不覚の義を存するのみに非ず、性悪の義を存して云く、澄観の釈に「彼の宗には此れを謂ひて実と為す、此の宗の立義理通ぜざる無し」等云云。此等の法門許すべきや不や。答へて云く、弘の一に云く「若し今家の諸の円文の意無くんば彼の経の偈の旨理実に消し難し」。同五に云く「今文を解せずんば如何ぞ心造一切三無差別を消解せん」文。記の七に云く「忽ち都て未だ性悪の名を聞かず」と云へり。此等の文の如くんば、天台の意を得ずんば彼の経の偈の意知り難きか。又震旦の人師の中には天台の外には性悪の名目あらざりけるか。又法華経に非ずんば一念三千の法門談ずべからざるか。天台已後の華厳の末師並びに真言宗の人、性悪を以て自宗の依経の詮と為すは、天竺より伝はりたりけるか、祖師より伝はるか。又天台の名目を偸みて自宗の内証と為すと云へるか。能く能く之れを験すべし。/問ふ、性悪の名目は天台一家に限るべし。諸宗には之れ無し。若し性悪を立てずんば、九界の因果を如何が仏界の上に現ぜん。答ふ、義例に云く「性悪若し断ずれば」等云云。問ふ、円頓止観の証拠と一念三千の証拠に華厳経の「心仏及衆生是三無差別」の文を引くは彼の経に円頓止観及び一念三千を説くというか。答へて云く、天台宗の人の中には爾前の円と法華の円と同の義を存す。/問ふ、六十巻の中に前三教の文を引きて円義を釈せるは文を借ると心得、爾前の円の文を引きて法華の円の義を釈するをば借らずと存ぜんや。若し爾らば三種の止観の証文に爾前の諸経を引く中に円頓止観の証拠に華厳の「菩薩於生死」等の文を引けるをば、妙楽釈して云く「還りて教味を借りて以て妙円を顕はす」。此の文は諸経の円の文を借ると釈するに非ずや。若し爾らば「心仏及衆生」の文を一念三千の証拠に引く事は之れを借れるにて有るべし。答ふ、当世の天台宗華厳宗の見を出でざる事を云ふか。華厳宗の心は法華と華厳とに於て同勝の二義を存す。同は法華・華厳の所詮の法門之れ同じとす。勝は二義あり。古への華厳宗は教主と対菩薩衆等の勝の義を談ず。近代の華厳宗は華厳と法華とに於て同勝の二義有りと云云。其の勝に於て又二義ありといふ。迹門は華厳と同勝の二義あり。華厳の円と法華迹門の相待妙の円とは同なり。彼の円も判麁此の円も判麁の故なり。籤の二に云く「故に二妙を須ひて以て三法を妙ならしむ。故に諸味の中に円融有りと雖も全く二妙無きなり」。私志記に云く「昔の八の中の円は今の相待の円と同じ」と云へり。是れは同なり。記の四に云く「法界を以て之れを論ずれば華厳に非ざる無し。仏恵を以て之れを論ずれば法華に非ざる無し」云云。又云く「応に知るべし、華厳の尽未来際は即ち是れ此の経の常在霊山なり」云云。此等の釈は、爾前の円と法華の相待妙と同ずる釈なり。/迹門の絶待開会は永く爾前の円と異なり。籤の十に云く「此の法華経は開権顕実開迹顕本す。此の両意は永く余経に異なれり」と云へり。記の四に云く「若し仏恵を以て法華と為さば即ち」等云云。此の釈は仏恵を明かすは爾前法華に亘り、開会は唯法華に限ると見えたり。是れは勝なり。爾前の無得道なる事は分明なり。其の故は二妙を以て一法を妙ならしむるなり。既に爾前の円には絶待の一妙を欠く、衆生も妙の仏と成るべからざる故に。籤の三に云く「妙変じて麁と為る」等の釈是れなり。華厳の円が変じて別と成ると云ふ意なり。本門は相待絶待の二妙倶に爾前に分無し、又迹門にも之れ無し。爾前迹門は異なれども、二乗は見思を断じ菩薩は無明を断ずと申すことは一往之れを許して再往は之れを許さず。本門寿量品の意は爾前迹門に於て一向に三乗倶に三惑を断ぜずと意得べきなり。/此の道理を弁へざるの間、天台の学者は爾前法華の一往同の釈を見て永異の釈を忘れ、結句名は天台宗にて其の義分は華厳宗に堕ちたり。華厳宗に堕ちるが故に方等般若の円に堕ちぬ。結句は善導等の釈の見を出でず。結句後には謗法の法然に同じて「師子身中の虫の自ら師子を食らふが如し」文。〈仁王経の下に〉「大王、我が滅度の後未来世の中に四部の弟子・諸の小国の王・太子・王子乃ち是れ三宝を任持し護れば、転(うたた)更に三宝を滅破すること師子の身中の虫の自ら師子を食らふが如し、外道には非ず多く我が仏法を壊りて大罪過を得ん」云云。籤の十に云く「始め住前より登住に至る来(このかた)全く是れ円の義。第二住より次の第七住に至る文相次第して又別の義に似たり。七住の中に於て又一多相即自在を弁ず。次の行向地又是れ次第差別の義なり。又一々の位に皆普賢行布の二門有り。故に知んぬ、兼ねて円門を用ゐて別に摂す」。