兵衛志殿御書

〔C2・弘安元年九月九日・池上宗長〕/久しくうけ給はり候はねばよにおぼつかなく候。何よりもあはれにふしぎなる事は大夫志殿と、との(殿)との御事ふしぎに候。つねざまには代すえになり候へば、聖人賢人もみなかくれ、ただざんじん(讒人)・ねいじん(佞人)・わざん(和讒)・きょくり(曲理)の者のみこそ国には充満すべきと見えて候へば、喩へば水すくなくなれば池さはがしく風ふけば大海しづかならず。代の末になり候へば・かんばち(旱魃)・えきれい(疫癘)・大雨・大風ふきかさなり候へば、広き心もせばくなり、道心ある人も邪見になるとこそ見えて候へ。されば他人はさてをきぬ。父母と夫妻と兄弟と諍ふ事、れつし(猟師)としか(鹿)と、ねこ(猫)とねずみ(鼠)と、たか(鷹)ときじ(雉)との如しと見えて候。/良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすかし、わどのばら(和殿原)二人を失はんとせしに、殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへに、二つのわ(輪)の車をたすけ二つの足の人をになへるが如く、二つの羽のとぶが如く、日月の一切衆生を助くるが如く、兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給ひぬる御計らひ、偏に貴辺の御身にあり。又真実の経の御ことはりを代末になりて仏法あながちにみだれば大聖人世に出づべしと見えて候。喩へば松のしも(霜)の後に木の王と見え、菊は草の後に仙草と見えて候。代のおさまれるには賢人見えず。代の乱れたるにこそ聖人・愚人は顕はれ候へ。/あはれ平左衛門殿・さがみ(相模)殿の日蓮をだに用ゐられて候ひしかば、すぎにし蒙古国の朝使のくびはよも切らせまいらせ候はじ。くやしくおはすなん。人王八十一代安徳天皇と申す大王は天台の座主明雲等の真言師等数百人かたらひて、源右将軍頼朝を調伏せしかば、還著於本人とて明雲は義仲に切られぬ。安徳天皇は西海に沈み給ふ。人王八十二・三・四、隠岐法皇・阿波院・佐渡院・当今已上四人、座主慈円僧正・御室・三井等の四十余人の高僧等をもて、平の将軍義時を調伏し給ふ程に、又還著於本人とて上の四王島々に放たれ給ひき。此の大悪法は弘法・慈覚・智証の三大師、法華経最第一の釈尊の金言を破りて、法華最第二最第三、大日経最第一と読み給ひし僻見を御信用有りて、今生には国と身とをほろぼし、後生には無間地獄に堕ち給ひぬ。/今度は又此の調伏三度なり。今我が弟子等死したらん人々は仏眼をもて是れを見給ふらん。命つれなくて生きたらん眼に見よ。国主等は他国へ責めわたされ、調伏の人々は或は狂死、或は他国或は山林にかくるべし。教主釈尊の御使ひを二度までこうぢ(街路)をわたし、弟子等をろう(牢)に入れ、或は殺し或は害し、或は所国をおひし故に、其の科必ず国々万民の身に一々にかかるべし。或は又白癩・黒癩・諸悪重病の人々おほかるべし。我が弟子等此の由を存ぜさせ給へ。恐々謹言。/九月九日日蓮花押/此の文は別しては兵衛の志殿へ、総じては我が一門の人々御覧有るべし。他人に聞かせ給ふな。