御輿振御書

〔C2・文永六年三月一日・三位房か〕/御文並びに御輿振(みこしふり)の日記給はり候ひぬ。悦び入りて候。中堂炎上の事其の義に候か。山門破滅の期其の節に候か。此等も其の故無きに非ず。天竺には祇園精舎・鶏頭摩寺(けいずまじ)、漢土には天台山、正像二千年の内に以て滅尽せり。今末法に当たりて日本国計りに叡山有り。三千界の中に但此の処のみ有るか。定めて悪魔一跡に嫉みを留むるか。小乗権教の輩も之れを妬むか。随って禅僧・律僧・念仏者王臣に之れを訴へ、三千人の大衆は我が山破滅の根源とも知らず、師檀共に破国・破仏の因縁に迷へり。但恃む所は妙法蓮華経第七の巻の「後五百歳閻浮提に於て広宣流布せん」の文か。又伝教大師の「正像稍過ぎ已りて末法太だ近きに有り。法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」の釈なり。滅するは生ぜんが為、下るは登らんが為なり。山門繁昌の為是の如き留難を起こすか。事々紙上に尽くし難し。早々見参を期す。謹言。/三月一日日蓮(花押)/御返事