今此三界合文

〔C6・文応元年〕/経に云く「我も亦為(こ)れ世の父」。経に云く「今此の三界は皆是れ我が有なり〈国主なり、報身なり〉。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり〈親父なり、法身なり〉。而も今此の処は諸の患難多し、唯我一人のみ能く救護を為す〈導師なり応身なり〉」。今此三界の事。文句の五に云く「一には等子、二には等車、子等しきを以ての故に則ち心等し。一切衆生等しく仏性有るに譬ふ。仏性同じきが故に等しく是れ子なり」。記の五に云く「子等しきを以ての故に則ち心等しと言ふは、先づ子等しきを明かさば、子に非ざること無きが故に。故に心必ず等し。其の心若し等しければ其の子必ず等し。心は即ち心性なり。故に仏性等し。皆是れ子なるに由るが故に心偏すること無し。財法復多し。是の故に心等し」。又云く「是の故に今経一実の外、更に余法無く、一切衆生皆是れ吾が子なり。縁因は尚散善を収む」。又云く「経に一切衆生皆是れ吾が子と云ふは、大経の中に一切衆生皆大般涅槃に至らずといふこと無きが如し。子の義は因に在り、涅槃は果に在り、大乗の宗要、此の二を逾ゆること莫し。皆悉く有りと云ふ。安んぞ権教に順じて一分無しと云はんや」。文句の九に云く「是れ我が弟子なり。我が法を弘むべし」。記の九に云く「子、父の法を弘むるに世界の益有り」。/主師親の事。涅槃経第一に云く「今日、如来・応供・正遍知、衆生を憐愍し衆生を覆護す。等しく衆生を視ること羅羅の如く、為に帰依の屋舎室宅と作る」。涅槃の疏一に云く「但三号を歎ずることは、三事を明かさんと欲す。初めに如来を歎ず。允に諸仏に同じて其の尊仰を生ず。是れを世の父と為す。応供とは、是れ上福田にして能く善業を生ず。是れを世の主と為す。正遍知とは、能く疑滞を破し其の智解を生ず。是れを世の師と為す」。故に下の文に云く「我等今より主無く、親無く、宗仰する所無し」云云。経に云く「世間空虚に、衆生福尽き、不善の諸業増長す。○我等今より救護有ること無く、宗仰する所無く、貧窮孤露なり。一旦無上世尊に遠離したてまつらば、設ひ疑惑有りとも、当に復誰にか問ふべし」。又云く「無救無護無所宗仰とは、此れは無主の苦を釈す。貧窮孤露一旦遠離無上世尊とは、無親の苦を釈す。設有疑惑当復問誰とは、無師の苦を釈す」。経の第二に云く「我等今より主無く、親無く、救無く、護無く、帰無く、趣無くして、貧窮飢困なり」。涅槃の疏第二に云く「無主は是れ仏を失ひ、無親は是れ法を失ひ、無救は是れ僧を失ふ。若し主無ければ忠護する所無く、若し親無ければ孝帰する所無く、若し師無ければ学趣く所無からん。既に主の為に護られず、又主として護るべき無きは、即ち栄無く禄無きなり。是の故に貧と言ふ。既に親として帰すべき無く、又親去りて帰せざれば、即ち生無く陰無きなり。是の故に窮と言ふ。既に師として趣くべき無く、又師として趣くを示さざれば、即ち訓無く成無し。是の故に困と言ふ」。又云く「主無く親無ければ、家を亡ぼし国を亡ぼす」。又云く「一体の仏を主師親と作す」。又云く「世尊を挙げて主と為すことを許し、種智を挙げて師と為すことを許し、調御を挙げて親と為すことを許す。既に主と為すことを許せば即ち其の貧を断じ、既に親と為すことを許せば即ち其の窮を(のぞ)き、既に師と為すことを許せば即ち其の困を除く」。/今此三界皆是我有/主─┬─外道天尊色界の頂に居る三目八臂の摩醯首羅天・毘紐天・大梵天王/└─儒家世尊三皇・五帝・三王/竜蓬・比干は主恩を報ずる者唯我一人能為救護/師─┬─儒家四聖等/└─外道三仙・六師/釈迦菩薩・常啼菩薩は師恩を報ずる者/其中衆生悉是吾子/親─┬─儒家父母六親父方の伯父・伯母・母方の伯父・伯母・兄姉/└─外道一切衆生の父母たる大梵天・毘紐天/重華・西伯・丁蘭は孝養の者。三皇已前は父母を知らず人皆禽獣に同ず/経に云く「唯我一人のみ能く救護を為す」。何ぞ二人救護すと云はざるや。二人なれば必ず成弁するなり。二人同心の利、金を断つ。鳥の二羽・車の両輪・日月・父母・福智・止観・日雨・両目・仏弟子の二人・阿闍世の月光・耆婆・妙荘厳王の二子、二法更互(たがい)に相依る。転次に左右の仏二人与力して救わざらんや。然りと雖も釈尊は敵対無きなり。十方三世の諸仏の神通・利生・慈悲・済度を合して対論すとも、釈迦一仏に及ぶべからず。例せば等荷担の如き者、諸蓋の中の無明、中に於て荷ふ所、偏に重しと云ふがごとくなるべしと云云。宝積経十五に云く「生死険難の悪道に往来し、愚痴無智にして常に盲にして目無し。誰か能く示導し、誰か能く救護せん。唯我一人のみ示すべく救ふべし」。涅槃経三十五巻迦葉菩薩品に云く「我、処々の経中に於て説いて言く、一人出世すれば多人利益す。一国土の中に二の転輪王あり、一世界の中に二仏出世すといはば、是の処(ことわり)有ること無けん」。大論の九に云く「十方恒河沙の三千大千世界を名づけて一仏国土と為す。是の中に更に余仏無し。実に一の釈迦牟尼仏のみなり」。籤の七に云く「十方に各々釈迦の浄土有り」。大集経に云く「一切衆生受くる所の苦は、皆是れ如来一人の苦なり」。涅槃経に云く「一切衆生の異の苦を受くるは、悉く是れ如来一人の苦なり」文。大論三十八に云く「仏国とは、恒沙等の如き諸の三千大千世界、是れを一仏土と名づく。諸仏の神力、能く普遍自在にして碍り無しと雖も、衆生度する者局り有り」文。化城喩品に云く「第十六は我、釈迦牟尼仏なり。娑婆国土に於て阿耨多羅三藐三菩提を成ず」文。寿量品に云く「我、常に此の娑婆世界に在りて説法教化す」文。提婆品に云く「我、釈迦如来を見たてまつるに、無量劫に於て難行苦行し、功を積み徳を累ねて、未だ曾て止息したまはず。三千大千世界を観るに、乃至芥子の如き許(ばか)りも是れ菩薩にして、身命を捨てたまふ処に非ざること有ること無し」文。斎法功徳経に云く「復仏の言く、尸毘王と為りては鳩に代はりて鷹に身を施し○是の如く無量劫に於て難行苦行して、功を積み徳を累ねて仏道を求め、未だ曾て止息せず。三千大千世界を観るに、乃至芥子の如き許りも、我、身命を捨てし処に非ざること有ること無し。此れ衆生の為の故なり。然して後に乃ち菩提の道を成ずることを得て、釈迦牟尼如来と名づく」文。懐中に云く「法華経二十八品に付きて、前の十四品は是れ迹、後の十四品は是れ本なり。前の十四品の中には、但釈迦如来は釈氏の宮を出でて伽耶城を去りて始めて正覚を成ずることを明かす。四十余年諸の衆生の為に三乗の法を説く。人・天・修羅は皆釈迦如来は浄飯宮に於て始めて菩提を得たまへりと謂へり」文。又云く「後の十四品は正しく如来久遠の成道を明かす。地涌の菩薩涌出し、先づ久成の相を顕はし、寿量品に正しく久遠の成道を説く」文。又云く「本門に於て亦二種有り。一には随他の本門、二には随自の本門なり。初めに随他の本門とは、五百塵点の本初の実成は正しく本行菩薩道所修の行に由る。久遠を説くと雖も其の時分を定め、遠本を明かすと雖も因に由りて果を得るの義は始成の説に順ず。具に寿量品の中に説く所の五百塵点等の如し」文。又云く「次に随自の本門真実の本とは、釈迦如来は是れ三千世間の総体、無始より来(このかた)、本来自証無作の三身、法々皆具足して欠減有ること無し。文に云く、如来秘密神通之力」。観普賢経に云く「釈迦牟尼仏を毘盧遮那遍一切処と名づけ、其の仏の住処を常寂光と名づく」文。