像法決疑経等要文

〔C1・正元二年・文永元年〕/像法決疑経に云く「像法の中に諸の悪比丘、我が意を解せず、己が所見に執して十二部経を宣説し、文に随ひて義を取り決定の説と作す。当に知るべし、此の人は三世諸仏の怨なり、速やかに法を滅せん。乃至、是の諸の比丘、亦復我は是れ法師、我は是れ律師、我は是れ禅師と称せん。此の三種の学人、能く我が法を滅す。更に余人無し。乃至、此の三種の人、地獄に入ること猶箭を射るが如し」。籖の三に云く「今家の章疏は理に附し教に憑る。凡そ所立の義は、他人の其の弘むる所に随ひて偏に己が典を讃するに同じからず。若し法華を弘むるは偏に讃むる尚失す。況や復余をや」。/授決集〈山王院・円珍大師・智証大師〉下に云く「別を未了と為し、円を了義と為す。○初時に二教あり。一は了、一は未。漸の初めの一教は総じて未了義。方等は四教、三は未、一は了。般若は三教、二は未、一は了。法華は一教、純一の了義なり。涅槃は四教権門の故に、三は未了なれども、終に常住の実門に帰すれば了と為す。所以に初門を未了と為し、皆後門を了義と為すなり。○四中時に随ひて円を了義と為す。○五時の中、三箇の円は猶是れ未了義なり。未開麁の故に」。涅槃経第六に云く「了義経に依りて不了義経に依らざれ。不了義経とは声聞乗を謂ふ。○了義とは名づけて菩薩真実智恵と為す。蔵通菩薩実には見思を断ぜざる人」。/円頓止観の二に云く「実には三蔵通教等の仏無し。正習を断じ灰身滅智し入寂沈空す」〈秘文なり〉。/別時意。/摂論に云く「二に別時意。譬へば若し人多宝仏の名を誦持して決定する故に無上菩提更に退堕せずと説くこと有り、復唯発願に由りて安楽仏土を得、彼れに往きて受生するを得と説くこと有るが如し」文。/摂論師の図/華厳─┐┌─経なり/阿含─┤素怛覧は意趣に対す/方等─┼─皆別時意/般若─┤┌─論なり/法華─┤阿毘達磨は性相を決す/涅槃─┘/┌─仏説は皆了義。菩薩説は皆不了義と云ふ/善導等の図華厳─┐/阿含─┤/方等─┼─成仏は別時意。往生は別時意に非ず/般若─┤/法華─┤/涅槃─┘/天台の図/四十余年は別時意〈不了義〉。法華経は別時意に非ず〈了義経〉。/天台大師の文句三に云く「随情は理を翳ふ故に難解と言ふ。了義の故に意顕はるる故に易知と言ふ。摂大乗に云く、了義経は文に依りて義を判じ、不了義経は義に依りて文を判ず、即ち斯の義なり」。/記の三に云く「法華已前は不了義の故に、故に難解と云ふ。即ち今教を指すに咸く皆実に入る、故に易知と云ふ。若し爾らば入者の当たらざるに由りて故に難解と云ふのみ。若し今経に至れば更に当たらざる無し。○摂大乗を引くは今の文は即ち了なり。但文に依りて判ず。○一四句偈を持つに功量るべからず。○若し全く意趣を以て経文を消せば、此の経全く不了義の説と成る。並びに須く義を以て文を判ずべき故なり。故に前の諸経、何れの部の意に随ふも文義兼含す。○咸く須く義をもって定めて方に文旨を了すべし。部含し教共するを以て、言に依るべからず。須く義に従ひて判じて乃ち部意に称ふべし」。/籖の十に云く〈妙楽〉「唯法華に至りて前教の意を説いて、今教の意を顕はす」。籖の一に云く「大師の浄名の疏の中に云く、世人多く経を以て論を釈して、人をして論は富み経は貧なりと謂はしむ。今論を以て経を釈して経は富み論は貧しと知らしむ」文。/授決集の下に云く「五時の中に三箇の円は猶是れ未了義なり。未開麁の故にと。華厳・大集・般若・大円覚・瓔珞・勝鬘・首楞厳経等、皆各々の経々に了義経と云ふ。仏性論に云く、有る経に闡提の衆生は決して般涅槃無しと説く。若し爾らば二経は便ち自ら相違す。此の二説を会するに、一は了、一は不了なり。故に相違せず。有性と言ふは是れ了説と名づく。無性を言ふは是れ不了の説なり」文。止の四に云く「観行を衣と為るは、大経に云く、汝等比丘、袈裟を服すと雖も、心猶未だ大乗の法服に染まらず。法華に云ふが如き、如来の衣を着よ。如来の衣とは柔和忍辱の心是れなりと。此れ即ち寂滅忍なり。生死涅槃の二辺の麁獷、中道の理と二ならず異ならず。故に柔和と名づく。心を中道に安んず、故に名づけて忍と為す。二喧を離る、故に寂と名づく。二死を過ぐ、故に滅と名づく。寂滅忍の心、二辺の悪を覆ふを、醜を遮る衣と名づく。五住を除くを、熱を障ぐと名づけ、無明の見を破するを、名づけて寒を遮すると為す。生死の動無く、亦空乱の意無し。二の覚観を捨つるを、蚊虻を遮すと名づく」文。/弘の四に云く「止観四に云く、二十五法を歴て事に約して観を為す」。弘の四に云く「約事為観等とは釈する中、二十五法一々皆悉く事に託して観を為し、以て円解を生ず」。/弘の二に云く「止観とは、此れより去りて乃至非行非坐、並びに粗本経に准じて観門の語を示す。縦ひ十観の相有るに似たるも、而も文並びに約略す。未だ以て観法の始終を弁ずべからず。初めの発大心及び下の三略、亦復是の如し。故に此の五章、但大意と名づく。此の文謹んで両経に依りて粗列す。語簡に意遠し。謬判すべからず。若し消釈せんと欲せば、必ず下文の十乗観法を善くして、方に謬りを離るべし。若し下文の四の行相無きに拠らば、則ち下の文略を成す。今、観法十乗未だ周からざるに拠れば、則ち此の中略を成す。是の故に五略は観略の辺に従ひて、事に従はず。此の文の中に於て、然も義を以て推すに大乗略(ほぼ)足る。法界等の名は即ち妙境なり。衆生を化せんが為とは即ち是れ発心なり。繋縁一念は即ち是れ止観なり。三道を観するを破法遍と名づく。一切の法に歴るは即ち是れ通塞。而も仏道を修するは即ち是れ道品。業苦を観ずるは即ち是れ助道。観を識りて濫ならずは即ち是れ次位。次位の中余の二を兼ぬ。下の三々昧意、止観の文、事に附して略なりと雖も、若し義を以て説くこと、此れに准じて知るべし」文。/弘の二に云く「然るに歴事の観法、経論皆爾り。独り今文のみに非ず。大経に頭を殿堂と為す等と云ひ、法華に忍辱衣等と云ひ、浄名の中の法喜の妻等、大論の中の獅子吼等の如し。何ぞ但釈教のみならん。俗典も亦然り。東阿王の子花に問ひて曰へるが如し。君子も亦芸有るや。子花曰く、藜莠を抜きて家苗を養ふ者農人の耘なり。正性を修めて悪行を改むるは君子の耘なり。盤特の掃箒、支仏の飛花、並びに是れ事に託して理を見るの明文なり。人之れを見ずして但大師内合すと謂ふのみ」。/記の一に云く「又観心の一文は、安楽行の中の修摂其心等を除きて、余は皆義立なり。又本門は本と雖も但寿量の一文のみ正しく本迹を明かす。余は亦義立なり。又前の迹門、部に准ずるに、有るが故に是の故に義立す。後の本門の中、寿量を除き已りて理有るべきが故に、是の故に義立す。又観心の文、序及び流通は正宗に准望して理須く義立すべし。正宗の中に於て唯安楽行、理を定めて須ゐるが故に、余は皆義立なり。迹門の正説既に開会を云ふ」。文句の一に云く「観心釈とは、王は即ち心王。舎は即ち五陰。心王此の舎を造る。観心の山とは、若し色陰を観ぜば知無きこと山の如し。識陰は霊の如く三陰は鷲の如し」文。/記の一に云く「観に約する中、先に王舎を解する中、初めに観境を立つ。心王造舎と言ふは識陰を王と為す。造業の諸心必ず心所有れども、今王を消せんと欲して且く善悪の心王を以て、以て無記の舎に対す。故に王造と云ふ」。/文句の一に云く「観をいはば、十二入を観ずるに一入に十法界を具す。一界に又十界あり。界々に各々十如是あれば即ち是れ一千。一入に既に一あれば千十二入、即ち是れ万二千の法門なり」。/記の一に云く「一心一切心と言ふは心境倶に心にして各一切を摂す。一切三千を出でざる故なり。具には止観第五の文の如し。若し三千に非ざれば摂すること則ち遍からず。若し円心に非ざれば三千を摂せず。故に三千総別咸く空仮中なり」。文句の一に云く「鏡の団円を観じて背面を観ぜず○而も不生に非ざらんや。此れ則ち円無生の観智なり云云。○衆生若し能く円の不生に会すれば則ち阿若に同じ。本に非ず迹に非ず、生に非ず不生に非ず、大事の因縁茲に於て畢る」矣。記の一に云く「云云と言ふは、応に具に十乗十境及び方便等を須ゐるべし。全く止観一部の文を指すなり。故に止観の破遍の中、亦無生を以て首と為す」。/籖の六に云く「観心は乃ち是れ教行の枢機。仍って且く略して点じて諸説に寄在す。或は存じ或は没す、部の正意に非ざるが故なり。縦ひ施設すること有るも、事に託し法に付す。或は十観を弁ずれども名を列ぬるのみ」。/玄の一に云く「妙は不可思議に名づく。法は謂く十界十如権実の法なり」。/籖の一に云く「略して界如を挙ぐるに具に三千を摂す」文。/玄の二に云く「又一法界に九法界を具すれば則ち百法界千如是有り」。/止観の五に云く「第七に正修止観をいはば、前の六重は修多羅に依りて以て妙解を開き、今は妙解に依りて以て正行を立つ」文。弘の五に云く「初めに正観を釈する中、先づ来意を明かす。亦結前生後と名づく。○問ふ、前の五略の中、行有り解有り、因有り果有り。何が故ぞ但六重是解と云ふや。答ふ、大意と言ふは行解自他因果に冠して、意既に顕はれ難ければ、還りて行解因果等と作して釈す。已に行果等有りと謂ふに非ず。故に大意は是れ総、余の八は是れ別。別は是れ別して行解因果を釈す。釈禅波羅蜜の如き、十章の初めは亦是れ大意なり。総別等の意、意亦是の如し。若し復人有りて、前の五略に依りて行を修し果を証す。能く他を利する等は自ら是れ一途なり。即ち第三巻の初めに記するが如し。若し文の意を論ぜば但解に属す。中に恐らくは解周からざらん。故に須く委しく名体及び摂法等を明かして、方に下の十境十乗を成ずるに堪ゆべし。大意の中の如き、発心十種の同じからず、及び四三昧に行の差別を明かすと云ふと雖も、但頭を数ふることを列ねて、相を弁ずること未だ足らず。是の故に都て未だ十境十観に渉らず。方便を五に望むるに稍行の始めに似たり。若し正観に望むれば全く未だ行を論ぜず。亦二十五法に歴て、事に約して解を生ず。方に乃ち正修の方便と為すに堪えたり。是の故に前の六は皆解に属す」。/弘の五に云く「故に大師、覚意三昧・観心食法及び誦経法・小止観等の諸の心観の文に於て、但自他等の観を以て三仮を推す。並びに未だ一念三千具足を云はず。乃至観心論の中、亦只三十六の問ひを以て四心を責む。亦一念三千に渉らず。唯四念処の中に略して観心十界を云ふのみ。故に止観に至りて正しく観法を明かすに、並びに三千を以て指南と為す。乃ち是れ終窮究竟の極説なり。故に序の中に説己心中所行法門と云ふ。良に以(ゆえ)有るなり。請ふ尋ね読まん者、心に異縁無かれ」文。/弘の一に云く「止観の二字、摩訶に非ざること無し。即ち是れ一心の三止、三観の止観なり。故に知んぬ。総じて一部を攬りて以て首題と為す。始め大意より旨帰に終るまで、摩訶の止観に非ざること無し。是れ則ち題名は是れ総、十章は別と為す」。/弘の一に云く「若し大師の正説の文の中に就きて、義をもって三段を開せば、則ち前六重を以て序分と為し、正観果報を以て正宗と為し、起教化他を流通分と為す。旨帰は既に是れ化息して寂に帰す。三の摂する所に非ざれども、義は流通に似たり」。/弘の一に云く「則ち通じて一部を指して以て所聞と為す。妙法経の本門迹門、妙法にして体咸く真実なるに非ざること無きが如し。前代未聞等とは○漢の明、夜夢みしより陳朝にんで、凡そ諸の著述当代盛んに行はるる者目に溢れ、預め禅門に廁(まじは)りて衣鉢伝授する者耳に盈つ。豈に止観の二字を聞かざる有らんや。但未だ天台此の一部を説くに、定恵兼ねて美しく義観双べ明らかに、一代の教門を撮り法華の経旨を攅じて、不思議の十乗十境・待絶滅絶・寂照の行を成ずるに若かず。前代未聞、斯の言在ること有り」。/弘の三に云く「前の分別の中、名づけて広略と為し、亦総別とす。総別の二文、互ひに相映顕す。故に前の文に五略を生起して十広を顕はすと云ふ。又略を前にし広を後にするは、解義の為の故なり。広を前にし略を後にするは、摂持の為の故なり。今前の略を演べて義をして了し易からしむ。若し利鈍の為にせば二人同じからず」。