三種教相

〔C6・文永六年〕/文句の九に云く「随他意の語は是れ他身を説くなり。随自意の語は是れ己身を説くなり」文。方便・譬喩等の五品の意なり。寂滅道場を以て元始と為す。/第一根性の融不融。華厳・阿含・方等・般若・法華各々得道有り。種熟脱を論ぜず。迹門。「初後仏恵円頓義斉」等の釈、「此の妙と彼の妙、妙の義殊なること無し」等の釈は、爾前得道なり。籤の十〈八紙〉に云く「当に知るべし、法華は部に約す時は則ち尚華厳般若を破し、教に約す時は則ち尚別教の後心を破す」。/玄の一〈十九〉に云く〈第二教相の下〉「余教は当機益物にして、如来施化の意を説かず」文。籤の一に云く「漸及び不定に寄すと雖も、余教を以て種と為さず」文。三の巻化城喩品の意なり。大通を以て元始となし、余教を以て種と為さず。/第二化導の始終不始終。爾前の得道を許さざるなり。種熟脱を論ず。迹門。種は大通、熟は中間と今日の四味、脱は法華なり。/寿量品の意なり。五百塵点、久遠を以て元始と為すなり。世々番々の成道なり。/第三師弟の遠近不遠近。種熟脱を論ず。本門。種は久遠、熟は中間大通と今日の四味、脱は法華なり。玄の十〈初紙〉に云く「若し余経を弘むるには、教相を明かさざれども義に於て傷むこと無し。若し法華を弘むには、教相を明かさざれば文義欠くること有り」文。籤の三〈五紙〉に云く「若し法華に依らば凡そ一義を消するに、皆一代を混じて其の始末を窮む」文。玄の一〈十四〉に云く「教相を三と為す。一に根性の融不融の相、二に化導の始終不始終の相、三に師弟の遠近不遠近の相なり。教とは聖人下に被らしむるの言なり。相とは同異を分別するなり。一には声聞の聖人、二には縁覚の聖人、三には菩薩の聖人、四には仏果の聖人。前の三人の聖人は分証の聖人、後の一は極果の聖人なり」。籤の一〈本四十四〉に云く「前の両意は迹門に約し、後の一意は本門に約す」。/華厳─┐/寂滅道場を以て元始と為すなり阿含│/第一根性の融不融の相方等├─各々得道有り/種熟脱を論ぜず般若│/法華─┘/籤の一〈本四十五〉に云く「初めの根性の中に二と為す。初めには八教を明かして以て昔を弁じ、次には今経を明かして以て妙を顕はす」文。弘の三〈上五〉に云く「此の文既に法華経の意に依れり。而して釈名等大概彼れに準ず。相待は是れ麁なり。義、麁に待して妙を論ずるに当たれり。絶待は是れ妙なり。義、麁を開して妙を論ずるに当たれり。此の二を亦廃麁とも開麁とも名づく」文。/華厳の円〈別は麁、円は妙〉/〈相待妙。麁妙を判ず〉/方等の円〈前三を麁と為し、後一を妙と為す〉/〈相待妙。麁妙を判ず〉/般若の円〈前二を麁と為し、後一を妙と為す〉/〈相待妙。麁妙を判ず〉/法華の円〈相待妙。麁妙を判ず〉─┬─〈約教。前三を麁と為し、後一を妙と為す〉/〈絶待妙。麁妙を開す〉└─〈約部。前四味を麁と為し、後一を妙と為す〉/相待妙〈約教。前三教を麁と為す。横に待す。後一を妙と為す〉/〈約部。前四味を麁と為す。竪に待す。醍醐を妙と為す〉/籤の六に云く〈唐本は七。正直捨方便は相待。開方便は絶待の意なり〉。玄の五に云く「破三顕一は相待の意なり。即三是一は絶待の意なり」文。籤の一〈本五十一〉に云く「又今文の諸義は、凡そ一々の科、皆先づ四教に約して以て麁妙を判ずるときは、則ち前三を麁と為し、後一を妙と為す。次に五味に約して以て麁妙を判ずるときは、則ち前四味を麁と為し、醍醐を妙と為す。全く上下の文意を推求せずして、直に一語を指して便ち法華は華厳より劣れりと謂へるは、幾許の誤りぞや、幾許の誤りぞや」。/当分は相待妙〈煩悩に待して菩提を論じ、生死に待して涅槃を論じ、相待して説く。故に相待と名づく〉。/跨節は絶待妙〈煩悩即菩提なれば麁妙に非ず。生死即涅槃なれば更に相隔てず。法は無相無名更に不可説なり。故に絶待と名づくるなり〉。/玄の二〈三十三〉に云く「此の経は唯二妙を論ず。更に非絶非待の文無し」文。籤の二〈六紙〉に云く「当分は一代に通じ、今に於ては便ち相待を成す。跨節は唯今経に在り。仏意は今に適(はじ)めたるに非ざるなり」。又〈六十四張〉に云く「若し相待の中には展転して妙を明かせるも、前の麁猶存せり。今絶待を論ずるに、前の諸麁を絶して形待すべき無し」。記の一〈本四十〉に云く「具に玄文に先に相待に約して以て麁を判じ、次に絶待に約して以て妙を弁ずるが如し」文。/┌─心法妙相待妙/華厳の円─┼─衆生法妙相待妙/└─仏法妙相待妙/┌─心法妙相待妙/方等の円─┼─衆生法妙相待妙/└─仏法妙相待妙/┌─心法妙相待妙/般若の円─┼─衆生法妙相待妙/└─仏法妙相待妙/┌─心法妙相待妙絶待妙/法華の円─┼─衆生法妙相待妙絶待妙/└─仏法妙相待妙絶待妙/玄の二〈三十八紙〉に云く「是の両妙を用ゐて上の三法を妙ならしむ。衆生の法に亦二妙を具す。これを称して妙と為す。仏法・心法に亦二妙を具す。これを称して妙と為す」文。籤の二〈六十八紙〉に云く「二妙々上三法とは、三の妙、法華に在りて方(はじ)めて妙と称するを得ることを明かさんと欲す。故に二妙を須ひて以て三法を妙ならしむ。故に諸味の中に円融有りと雖も、全く二妙無し」文。華厳の円〈仏恵〉方等の円〈仏恵〉般若の円〈仏恵〉法華の円〈仏恵開会〉/記の一〈本四〉に云く「円実には異ならず、但未だ開顕せず。初心の人は円・偏を隔つと謂へり」文。籤の一〈本二十三〉に云く「故に始終を挙ぐるに、意仏恵に在り」文。玄の二〈三十四〉に云く「此の妙と彼の妙、妙の義殊なること無し。但し方便を帯し、方便を帯せざるを以て異と為るのみ」文。玄の十〈四十八〉に云く「初後の仏恵、円頓の義斉し」文。文句の五〈三紙〉に云く「今の如きは始めの如く、始めの如きは今の如し。二無く異無し」文。籤の一〈本四十七〉に云く「仏の本意は大に在り。故に本を遂げて初めに居す」文。弘の五〈上八十八〉に云く「惑者は未だ見ず、とは尚華厳を指す。唯華厳円頓の名を知りて、彼の部の兼帯の説に昧し。全く法華絶待の意を失ひ、妙教独顕の能を貶挫す。迹本二文を験して、五時の説を検ふるに円極謬らず。何ぞ須く疑ひを致すべき」文。/〈一には爾前の円は法華の円と同じ〉/爾前の円〈二には爾前の円は別教に摂す〉/法華の円〈三には爾前の円は法華の相待妙に同じ〉〈四には爾前迹門の円は本門の円に対せば別教に摂す〉/記の一〈本四〉に云く「円実には異ならず、但未だ開顕せず。初心の人は円・偏を隔つと謂へり。須く開顕の諸法実相を聞くべし。若し已に実に入るは但増進を論ず。権人の此に至るをば、一向に須く開すべし」文。籤の三〈十六〉に云く「若し祇但(ただ)四教の中の円を判じて、之れを名づけて妙と為せば、諸経に皆是の如き円の義有り。何ぞ妙と称せざらん。故に須く復更に部に約し味に約して、方に今経の教円部円を顕はすべし。是の故に判の中に又分かちて二と為す。先に四教に約して判じ、次に五味に約して判ぜり。若し教に約せずんば、則ち教の妙を知らず。若し味に約せずんば、則ち部の妙を知らず」文。玄の三〈五六〉に云く「当に知るべし、勝鬘の所説は次第を説いて浅きより深きに至れり。歴別して未だ融せず。乃ち是れ無量の四諦の中の無作なり。是れ発心畢竟二不別の無作には非ず」云云。籤の三〈三張〉に云く「此れは是れ別教の教道の説、初発心畢竟不別に非ず」文。/┌─十住は入空位。生滅〈三蔵教〉無生〈通教〉別教の四教─┼─十行は出仮位。無量〈別教〉/├─十回向は修中位。無作〈円教〉/└─十地は証中位。但中無作〈円教〉/┌─生滅四門三蔵教─┐/├─無生四門通教│四四十六門なり/├─無量四門別教│/└─無作四門円教──┘/第二化導の始終不始終の相〈大通を以て元始と為す、三千塵点なり〉、種熟脱を論ず〈中間。霊山の初住〉玄の一に云く「大通を以て種と為し、中間乃至今日の四味を以て熟と為し、今日第五時の法華を以て脱と為す」文。玄の一〈十九〉に云く「又異をいはば、余教は当機益物にして、如来施化の意を説かず。此の経は仏、教を設けたまふ元始、巧みに衆生の為に頓漸不定顕密の種子を作し、中間に頓漸五味を以て、調伏し長養してこれを成熟し、又頓漸五味を以てこれを度脱することを明かす。並びに脱し並びに熟し並びに種すること、番々息まず。大勢威猛三世に物を益す。具に信解品の中に説くが如し。余経と異なるなり」。籤〈一末九紙〉に云く「次に此経の下は正しく今経の意を明かす。且く迹中の大通を指して首(はじめ)と為す。漸及び不定に寄すと雖も、余教を以て種と為さず。故に巧為と云ふ。結縁已後、退大して初めに迷ふ。故に復(また)更に七教の中に於て調停の種を下すを復巧為と云ふ。所以に中間に七教を受くることを得て長養調伏す」。又云く「又以の下は今世に復七教を以て調伏し、法華に至りて得度せしむることを明かす。故に度脱と云ふなり。並脱等とは、多人に約して説く。彼れに於ては是れ種、此れに於ては是れ熟、互ひに説くこと知んぬべし。是の故に並及番々不息と云ふ。此れ即ち初め及以(および)中間今日等の相を結す。故に更に涌出を引きて迹の文を助顕す。故に大勢威猛等と云ふなり」。又〈十紙〉云く「次に信解を指すとは、即ち信解の中に又以他日於窓中と云へり。即ち法身地にして機を鑑みること久しきことを指す。故に此の一語に即ち三世益物の相を兼ねたり」文。籤の一〈本四十四〉に云く「垂迹より已来、化を受くる者漸く広し。久近の益を得るは功法華に在り」。止の三〈終〉に云く「若し初業に常を知ることを作さずんば、三蔵の帰戒羯磨悉く成就せず。若し此の釈を作すときは、大小の両経に於て義相違無し」。又〈八十三〉云く「遠く根本を尋ぬれば、三乗の初業法に愚かならず。若し四念処の聞恵を取りて初めと為さば、此の初めより真諦の常住を知る」文。弘の三〈下七十二〉に云く「初文は且く久遠の初業を標す。故に根本と云ふ。十六王子に結縁せざること莫し。且く迹の化を指す。故に遠尋と曰ふ。若取の下は、近く此の生に初めて四諦滅理の真常を聞くことを指す」。又云く「今日の声聞の禁戒を具することは、良に久遠の初業に常を聞きしに由りてなり。若し昔聞かずんば、小尚(なお)具せず。況や復大をや。若し全く未だ曾て大乗の常を聞かず、既に小果無し。誰か禁戒の具不具を論ぜんや」。又〈七十四〉云く「羯磨不成と言ふは、所謂久遠に必ず大無くんば、則ち小乗の秉法をして成ぜざらしむ。本無きを以ての故に諸行成ぜず。樹に根無ければ華果を成ぜざるが如し。時機未だ熟せざれば権(かり)に小の名を立つ。汝等が所行は是れ菩薩の道なり。始めて記を得て方に大人と名づくるに非ず。故に知んぬ、心、宝渚に趣くことなくんば、化城の路一歩も成ぜず。豈に能く城に入りて安穏の想ひを生ぜんや。常住を信ぜずんば、声聞の禁戒皆具足せずといふ。斯の言徴(しるし)有り。此れは都て未だ大心を発せざる者は、則ち本無きことを成ずと斥ふ。復本なしと雖も、受者の心に拠り、仏の本懐の已に大化を施すに拠りて、有無の意須く審かにこれを思ふべし」文。又〈七十五〉云く「四念の初業は小に違はず、久遠の初業は大に違はず」。籤の十〈五張〉に云く「迹門には大通を以て元始と為し、本門には本因を以て元始と為し、今日は初成を以て元始と為す。大通已後、本成已来、是の如き中間節々の施化、皆漸頓を以て物の機情に適ふ。若しは大、若しは小、皆物の機を取らんが為にして、而も法を与ふること差別あり」文。玄の十〈四〉に云く「是の如き等の意、皆法身地にして寂にして常に照らす。始めて道樹にして大に逗し小に逗ずるに非ず。仏智機を照らすこと其の来たるや久し」。籤の十〈八紙〉に云く「法身地等と言ふは、本地の真因初住より已来、遠く今日乃至未来の大小の衆機を鑑みたまふ。故に本行菩薩道時、所成寿命、今猶未尽と云ふ。豈に今日迹中の草座木樹にして、方(はじ)めて今日の大小の機を鑑みたまはんや」文。又〈九紙〉云く「一代始成四十余年にして、豈に能く彼の世界塵数の菩薩、万億の諸大声聞をして、便ち大道を悟らしめ、現に無生を獲せしめんや。色声の益略して称紀し難し。故に知んぬ、今日の逗会は昔成熟の機に赴く。況や若しは種、若しは脱、言の尽くすべきに非ざるをや」文。玄の一〈四紙〉に云く「夫れ理は偏円を絶すれども、円珠に寄せて理を談ず。極は遠近に非ざれども、宝所に託して極を論ず。極会し円冥して、事理倶に寂なり」文。籤の一〈本十八〉に云く「理絶等とは、既に開顕し已れば偏円の名を絶す。華厳・方等・般若の偏円に対し明かすに形(あらは)さんと為す。往法華絶待の縁を結び、今円珠に寄せて絶理を談ず」文。又云く「法譬二周の得益の徒は、往日結縁の輩に非ざること莫し」文。/第三師弟の遠近不遠近の相。五百塵点、久遠を以て元始と為す。種熟脱を論ず。番々の成道なり。籤の一〈末十二〉に云く「近く迹門を以て尚昔と為すことを得。況や伽耶已前をや」文。玄の二〈三十九〉に云く「迹中の大教既に起これば、本地の大教興ることを得ず」文。玄の七〈十三〉に云く「迹の因に執して本の因と為すは、天月を識らずして但池月を観るが如し」文。玄の一〈十九〉に云く「又衆経には咸く道樹にして師の実智始めて満じ、道樹を起ちて始めて権智を施すと云へり。今の経には師の権実道樹の前に在りて、久々に已に満ぜりと明かす。諸経には二乗の弟子、実智に入ることを得ず、亦権智を施すこと能はずと明かす。今の経には弟子実に入ること甚だ久しく、亦先より解して権を行ぜしことを明かす。又衆経には尚道樹の前の師と弟子との近々の権実を論ぜず。況や復遠々をや。今の経には道樹の前の権実長遠なることを明かす。補処、世界を数ふるに知らず。況や其の塵数をや。経に云く、昔未だ曾て説かざる所、今皆当に聞くことを得べし、慇懃に称歎すること良に所以有るなり。当に知るべし、此の経は諸教に異なるなり」。籤の一〈末十一〉に云く「次に今経の下は、今経の一体の権実久々に已に満ずることを明かす。迹中の三千界の墨点尚已に久しと為す。況や今の本の中の五百億の塵界をや。故に久々と云ふ。又一節已に久し。況や節々相望するをや。故に久々と云ふ」。又云く「道樹の前の一節両節を説かず。故に近々と云ふ。爾前の一節両節、今に望むに尚近し。況や中間の遠が中の近無きをや。故に近々と云ふ。次に今経を況出す。遠々と言ふは、只是れ久々なり」。籤の二〈三十四〉に云く「聞法を種と為し、発心を芽と為す。賢に在るは熟の如く、聖に入るは脱の如し」文。弘の二〈末九十八〉に云く「運像末に居して此の真文を矚(み)る。宿(むかし)妙因を植ゑるに非ざるよりは、誠に遇ひ難しと為す」。記の七〈八十一〉に云く「故に知んぬ、末代に一時も聞くことを得、聞いて信を生ずる事は、須く宿種なるべし」。玄の二〈五十七〉に云く「此の経には仏種は縁によって起こる。是の故に一乗を説く。亦最実事と名づく。豈に妙に非ずや。前の三は是れ権なり、故に麁と為す。後の一は是れ実なり、故に妙と為す」。記の九〈末九〉に云く「末代未だ曾て発心せざるも亦聞く、況や発心をや。問ふ、末代には咸く聞く、仏世には安んぞ簡ぶ。答ふ、仏世は当機の故に簡ぶ。末代は結縁の故に聞く」。記の一〈本三十七〉に云く、一時一説一念の中に、「三世九世、種熟脱の三あり」。籤の一に云く「垂迹より已来、化を受くる者漸く広し。久近の益を得るは功法華に在り」文。弘の七〈末六十七〉に云く「過去に種を下せるは、現在に重ねて聞いて成熟の益を得。未だ曾て種を下さず、現在に種を成して、未来に方に益す。故に三世の益皆法輪に因る」。弘の五〈上三〉に云く「借使(たとひ)未だ悟らざるも妙因と為るべし」。大論〈九十三の十九〉に云く「一切の菩薩乃至初発心、皆必定す。法華経の中に説くが如し」文。玄の一〈八紙〉に云く「随他意の語にして仏の本懐に非ず、故に不務速説と言ふなり。今経は正直に不融を捨て、但融を説き、一座席をして同一道味ならしむ。乃ち如来出世の本懐を暢ぶ。故に此の経を建立して、これを名づけて妙と為す」。籤の一〈本二十九〉に云く「法華より已前をば皆随他と曰ふ。故に前教の中に並びに融有りと雖も、兼帯を以ての故に並びに随他に属す。未だ開顕に堪えず、不務速と名づく。務は事の速やかなるなり。唯今経に至りて、諸の不融を開して、唯独一の融なり。前の諸部をして同一の妙法ならしむ。出世の意足りぬ」文。秀句の下〈十一〉に云く「当に知るべし、兼但対帯の随他意の経は未だ最照有らず」文。玄の六〈六十〉に云く「本(もと)此の仏に従ひて初めて道心を発し、亦此の仏に従ひて不退の地に住す」文。記の九〈本五〉に云く「初めて此の仏菩薩に従ひて結縁し、還りて此の仏菩薩に於て成就す」文。/┌─蔵─────────────────────────┐/┌化法四教─┼─通化法所被の機なり〈八教は般若に畢ると云ふ釈あり〉│/│├─別八教化儀前四味化法四教│/└──┐└─円│/○八教─┤├─顕露の七教/┌──┘┌─頓〈華厳経は別円なり〉│/│├─漸〈阿含経は単に三蔵なり。方等経は四教を並びに説く。般若経は後三教なり〉│└化儀四教─┼─顕露不定〈互相知。化儀化巧なり。或時深く説き、或時浅く説く等〉┘/└─秘密不定〈互不相知。此座十方相対。一人多人相対。説黙相対。彼れに於て是れ顕、此れに於て是れ密。此れに於て是れ顕、彼れに於て是れ密〉/┌─華厳乳別円/├─阿含酪三蔵随自意/├─方等生四教約部大綱/└─般若熟後三教/籤の一の本〈五十一〉に云く「前四味を麁と為し、醍醐を妙と為す」。/┌─蔵/├─通随他意/├─別約教網目/└─円/籤の一に云く「前の三を麁と為し、後の一を妙と為す」。記の一〈本五十五〉に云く「頓等は是れ此の宗の判教の大綱、蔵等は是れ一家釈義の網目なり」文。/玄の七〈四十四〉に云く「余経は通じて論ずれば、理に約して大妙殊ならず。而も別しては方便を帯せり。此の経は方便を帯せず。故に別して妙と称す。小乗入ることを得て発迹顕本す。故に別して妙と称す」。玄の一〈十七〉に云く「若し不定を論ずれば、義則ち然らず。高山に頓説すと雖も、寂場を動ぜずして、而も鹿苑に遊化し、四諦生滅を転ずと雖も、而も不生不滅を妨げず。菩薩の為に仏の境界を説くと雖も、而も二乗の智断有り。五人証果すと雖も、八万の諸天無生忍を獲ることを妨げず。当に知るべし、頓に即して漸、漸に即して頓なり。大経に云く、或時は深を説き、或時は浅を説く。開すべきをも即ち遮し、遮すべきをも即ち開す。一時一説、一念の中に備さに不定有り」。籤の一〈末初〉に云く「初めの文は、此れは華厳を指す。動ぜず離せずして而昇而遊とは、此れは頓の後漸の初め、頓を動ぜずして而も漸化を施すことを指す」。又〈二紙〉云く「雖転四諦とは鹿苑を指す。此れ漸化を施すと雖も、頓を起こさざることを指す。此の二味既に然なり」。又〈四紙〉云く「或時説深或時説浅等を不定と名づくとは、彼れ此れ互ひに相知るに由るを以ての故なり。若し秘密とは、即ち下の文の如し。互ひに相知らず。是の故に密と名づく。不定と秘密と並びに皆同聴異聞を出でず」。又云く「一時等とは、広より狭に之(い)く。時は謂く五味の一、亦是れ一部一会なり。説は謂く一句一言。念は謂く一刹那頃なり」。玄の一〈十八〉に云く「秘密不定は其の義然らず。如来は法に於て最も自在を得たまへり。若しは智、若しは機、若しは時、若しは処、三密四門妨げ無く碍り無し。此の座には頓を説き、十方には漸を説き、不定を説く。頓の座には十方を聞かず、十方には頓の座を聞かず。或は十方には頓を説き、不定を説き、此の座には漸を説き、各々相知聞せず。此れに於ては是れ顕、彼れに於ては是れ密なり。或は一人の為に頓を説き、或は多人の為に漸を説き、不定を説く。或は一人の為に漸を説き、多人の為に頓を説く。各々相知らず、互ひに顕密を為す」。又云く「今の法華は是れ顕露にして秘密に非ず。是れ漸頓にして漸々に非ず。是れ合にして不合に非ず。是れ醍醐にして四味に非ず。是れ定にして不定に非ず。此の如く分別するに、此の経と衆経の相とは異なるなり」。籤の一〈末七〉に云く「初めの文に、今法華是顕露等と云ふは、秘密に対非す。故に顕露と云ふ。顕露の七が中に於て、通じて奪ってこれを言へば並びに七に非ざるなり。別して与へてこれを言はば、但前の六に非ず。何となれば、七の中に円教有りと雖も、兼帯を以ての故に、是の故に同じからず。此れは部に約して説くなり。彼の七が中の円と法華の円と其の体別ならず。故に但六を簡ぶ。此れは教に約して説くなり。次に是れ漸頓非漸々と言ふは、具に前に判ずるが如し。今の法華経は是れ漸後の頓なり。謂く漸を開して頓を顕はす。故に漸頓と云ふ。法華の前の漸の中の漸に非ず。何となれば、前は生熟二蘇を判じて、同じく名づけて漸と為す。此の二経の中に亦円頓あり。今の法華の円と彼の二経の円頓と殊ならず。但彼の方等の中の三、般若の中の二に同じからず。此の二・三を漸の中の漸と名づく。法華は彼れに異なり。故に非漸々と云ふのみ。人これを見ずして、便ち法華を漸頓と為し、華厳を頓々と為すと謂へり。恐らくは未だ可ならざるなり。是合等とは、是れ開権の円なり。故に是れ合と云ふ。諸部の中の円に同じからず。故に非不合と云ふ。合とは只是れ会の別名なり」文。籤の一〈末五紙〉に云く「今家義を判ずるに、味々の中に皆不定あり。故に旧が専ら二経を指すに同じからず」。記の一〈本五十五〉に云く「比(このごろ)窃かに読む者、尚天台は唯蔵等の四なりと云ふ。一に何ぞ昧きや、一に何ぞ昧きや。是の故に須く経を消する方軌を知るべし。頓等は是れ此の宗の判教の大綱、蔵等は是れ一家釈義の網目なり。若し諸教を消するには、但蔵等を用ゐれば其の文稍通ず。若し法華を釈するには、頓等の八なくんば、挙止措を失ふ」。授決集〈上五〉に云く「四教と言ふは、漸の中より出でたれば、本大綱に非ず。此れ網目なり。須く知るべし、天台は三教を以て大綱と為す。一には非頓非漸、二には頓、三には漸なり。初めをば亦円とも名づく、と。浄名広疏に云く、円頓漸の三教なり」。文句三〈二十一〉に云く「当に知るべし、此の土も一より無量を出だして、頓に非ずして而も頓、漸に非ずして而も漸。其の事已に竟れば、必ず当に無量の法を収めて還りて一法に入れ、権を開し実を顕はし、化を息め真に帰する彼の土と同じかるべきなり」。記の三〈上五十五〉に云く「従一出無量と言ふは、始め華厳より般若に至る来(このかた)皆一法より開出す。般若に至る時、頓漸已に竟んぬ。而るを人、法華は頓漸の外に出でたりと知らず。請ふ、竟の字を観よ。法華は但是れ無量を収めて以て一に帰す」。又云く「非頓而頓等とは、法華の一乗は頓漸の摂に非ず。一に於て開出すれば乃ち頓漸生ず。是の故に今、非頓而頓と云ふ。非漸而漸、此れに準じて知るべし」。注釈〈中二十九〉に云く「法華の前四十余年、四時の所説は四教八教なり。結成已に竟る」。弘の九〈末四十二〉に云く「初めの華厳は是れ頓なり。次に若鹿苑の下は是れ漸なり。法華・涅槃は頓漸の摂に非ず。但是れ漸を会して頓に帰す」。守護章〈上の上四十二〉に云く「其の八教とは、但前の四味に立つ。第五時に渉らず。法華・涅槃は第五時に摂す。何ぞ八教に摂せんや。八教を狭と為し、五味を広と為す。法華・涅槃を八教に相摂するに、両の義門あり。約教の辺は小分相摂し、約部の辺は都て相摂せず」。玄の十〈二紙〉に云く「凡そ此の諸経は皆是れ他意に逗会して、他をして益を得しむ。仏意は意趣何れにか之(い)くといふを談ぜず。今経は爾らず。是れ法門の網目、大小の観法、十力無畏、種々の規矩、皆論ぜざる所なり。前の経に已に説くを為(もっ)ての故なり。但如来布教の元始、中間の取与、漸頓時に適ひ、大事の因縁、究竟の終訖を論ず。設教の綱格、大化の筌蹄なり」。止の一に云く「界内は随他意なるが故に拙と為し、界外は随自意なるが故に巧と為す」。又云く「界内は能所あるが故に麁と為し、界外は能所なきが故に細と為す」文。玄の十〈初〉に云く「略して教を明かすに五と為す。一には大意、二には異を出だし、三には難を明かし、四には去取し、五には教を判ず」文。/┌─本門本因を以て元始と為す/大意─┼─迹門大通を以て元始と為す/└─今日初成を以て元始と為す┌─頓教他宗の義法界性論に破する所/判教─┼─漸教初後の仏恵、円頓の義斉し/└─不定/三方便とは、文句の三〈五十八〉に云く「方とは法なり、便とは用なり。法に方円有り、用に差会有り。三権は是れ矩、是れ方、一実は是れ規、是れ円。若し智、矩に詣るときは、則ち善く偏の法を用ゐて衆生に逗会す。若し智、規に詣るときは、則ち善く円の法を用ゐて衆生に逗会す」文。方便品を釈するに三の方便有り。文句の三・四に釈せり。法用方便〈随他意の方便。体外の方便。他経〉能通方便〈随他意の方便。体外の方便。他経〉秘妙方便〈随自の方便。法華の方便〉、亦体内の方便と云ふ。籤の十〈五紙〉に云く「諸部の中に権有り実有りと雖も、而して並びに権実本迹、物に被るの意を明かさず。故に大綱に非ず。故に法華を説くには唯大綱を存して網目を事とせず」。又〈六紙〉云く「始め華厳より般若に至る来(このかた)は、皆設教の意を説かずと云ふ。唯法華に至りて、前教の意を説き、今教の意を顕はす」。玄の十〈三紙〉に云く「当に知るべし、此の経は唯如来設教の大綱を論じて網目を委細にせず」。止の五〈六十二〉に云く「一目の羅(あみ)は鳥を得ること能はず。鳥を得るは羅の一目なるのみ。衆生の心行各々不同なり。或は多人に同一の心行あり。或は一人に多種の心行あり。一人の為にするが如く、衆多にも亦然なり。多人の為にするが如く、一人にも亦然なり。須く広く法網の目を施して、心行の鳥を捕ふべきのみ」。弘の五〈中八十一〉に云く「一目の下は譬へを挙ぐるなり。多人或は一人の初後に逗せんが為の故に、須く広く設くべし。若し随って其れ入ることを得ば、則ち多を須ひず。故に得鳥羅之一目と云ふ。一目と言ふは、乃ち最後入法の言に拠る。一生にこれを行ぜば豈に唯一目のみならん。是の故に或は一人に多を用ゐ、或は多人に一を用ゐる。況や一人の始末一もて弁ふべきに非ず。故に下に合するに、如為衆多一人亦爾と云ふ。羅とは、爾雅に云く、鳥の罟(あみ)を羅と曰ひ、兎の罟を(てい)と曰ふ、亦名づけて(しや)と曰ふ。衆生の下は合す。捕とは、陸(くが)の猟なり、逐なり」。智証の釈に曰く「千目を備へずんば奚(いずく)んぞ一魚を得ん。諸宗を尋ぬるに非ずんば、寧ろ真味を知らんや」文。玄の六〈八十九〉に云く「若し相似の益は隔生すれども忘れず、名字観行の益は隔生すれば則ち忘る。或は忘れざるも有り。忘者は、若し知識に値へば宿善還りて生ず。若し悪友に値へば則ち本心を失ふ」文。涅槃経二十二に云く「悪象等に於ては心に恐怖すること無かれ」文。涅槃経十に云く「唯一人」文。守護章〈中の上九紙〉に云く「都て正義ならず、一切の学人」文。此等の文は、爾前今経・実不実・高下・浅深・本迹大事の証拠なり。玄の十〈四〉に云く「已今当説最為難信難解。前の経は是れ已説、随他意なり。彼れには此の意を明かさず。故に信じ易く解し易し。無量義は是れ今説、亦是れ随他意なれば、亦信じ易く解し易し。涅槃は是れ当説、先に已に聞くが故に、亦信じ易く解し易し。将に此の教を説かんとするに疑請重畳せり。具に迹本二文の如し。請ひを受けて説く時、只是れ教意を説く。教意は是れ仏意なり、仏意は即ち是れ仏智なり。仏智至りて深し。是の故に三止四請す。此の如き艱難を余経に比ぶるに、余経は則ち易し」。籤の十〈十五〉に云く「此の法華経の開権顕実、開迹顕本、斯の如き両意、永く余経に異なり。請ひの倍し、疑ひの多きこと復諸教に異なり。故に迹門には三止四請し、本門には四請三誡す」文。爾前法華対判なり。文句の八〈十四〉に云く「今初めに、已と言ふは大品已上漸頓の諸説なり。今とは同一座席、謂く無量義経なり。当とは謂く涅槃なり。大品等の漸頓は皆方便を帯すれば、信を取ること為れ易し。今無量義は一より無量を生ずるとも、無量未だ一に還らず。是れ亦信じ易し。今法華は、法を論ずれば一切の差別融通して一法に帰す。人を論ずれば則ち師弟の本迹倶に皆久遠なり。二門悉く昔と反すれば、信じ難く解し難し。鋒さきに当たる難事は法華に已に説く。涅槃は後に在れば則ち信ずべきこと易し」。記の八〈本十四〉に云く「当鋒とは、法華は前に在り、大陣の破り難きが如し。涅槃は後に在り、余党の難からざるが如し。初めに先鋒に当たる、斯れは為れ易からず」。玄の十に云く「已今当説最為難信難解。前の経は是れ已説、随他意なり。彼れには此の意を明かさず。故に信じ易く解し易し」。「余経に比するに則ち易し」等と。秀句〈下八〉に云く「当に知るべし、已説の四時の経、今説の無量義経、当説の涅槃経は易信易解なり、随他意の故に。此の法華経は最も為れ難信難解なり、随自意の故に。随自意の説は随他意に勝る。但し無量義の随他意とは、未合の一辺を指す。余部の随他意に同じからざるなり」。文句の九〈六十一〉に云く「邪師の法を信受するを名づけて飲毒と為す」文。弘の九〈本七〉に云く「法華已前は猶是れ外道の弟子」文。諸論の教道は此の実を見ずと。玄の三〈二十三〉に云く「法華は衆経を総括して、事此に極まる。仏出世の本意、諸教法の指帰なり。人此の理を見ず、是れ因縁の事相なりと謂ひて、軽慢して止まざれば、舌口中に爛れんとす」。籤の三〈五十三〉に云く「已今当の妙、茲に於て固く迷へり。舌爛れて止まざるは猶華報と為す。謗法の罪苦長劫に流る。具に止観第四の逆流の十心の中に説くが如し」。籤の十〈七〉に云く「一代の教法を収め、法華の文心を出だして、諸教の所以を弁ず。請ふ、眼有らん者、委悉にこれを尋ねよ。法華は漸円にして華厳の頓極に及ばずと云ふこと勿れ。当に知るべし、法華は部に約するときも、則ち尚華厳・般若を破す。教に約するときは則ち尚別教の後心を破す」。記の六〈六十四〉に云く「諸の小王を廃して唯一の主を立つ。是の故に法華を王中の王と名づく」。記の一〈本四〉に云く「本地の総別は諸説に超過し、迹中の三一は功一期に高し」。輔正〈一の三〉に云く「超過諸説とは、一は則ち前十四品に超え、二は則ち一代教門に超ゆ。一々の句並びに諸経に異なり。故に已今当説最為第一と云ふ」。論記〈智証〉に云く「八教の頂に居す。故に最在其上と云ふ」。文句の八〈十四〉に云く「爾時仏復告より下は、第二に所持の法及び弘経の方法を歎ず。所持の法は是れ自軌の法なり。弘経の法は是れ軌他の法なり。法妙なるが故に人貴く、人貴きが故に処尊く、処尊きが故に因円なり、因円なるが故に果極なりと。経に難解難入といふ」。記の六〈三十六〉に云く「縦ひ経有りて諸経の王と云ふとも、已今当説最為第一と云はず。兼但対帯其の義知んぬべし」文。/一に法妙〈麁〉法妙なる故、爾時仏復告より況滅度後に至る/二に人貴〈賤〉人貴き故、薬王当知より手摩其頭に至る/三に処尊〈卑〉処尊き故、薬王在処より三菩提に至る/四に因円因円なる故、薬王多有人より菩薩の道に至る/五に果満果満なり、薬王其有衆生より三菩提に至る/文句の四〈十一〉に云く「二乗作仏は今の教より始まれり」。記の四に云く「円乗の外を名づけて外道と為す」。立世阿毘曇論に云く「閻浮提より梵天に至るの量は、譬へば九月十五日、若し人一人有り、彼の梵天に在りて百丈の石を放ちて下界に墜ち向かひ、中間碍り無し。後の歳九月十五日に至りて、閻浮提に当たるが如し」文。宝積経に云く「若しは四十里の磐石を以て色究竟天より下すに、一万八千三百八十三年を経て、此の地に到ることを致す」文。文句の十〈二十一〉に云く「福徳の人は舌、鼻に至る。三蔵の仏は髪際に至る。今梵天に至るは、凡聖の外に出過し、浄天の頂を極む。相既に常に殊なり、説弥(いよいよ)信ずべし」文。以て円経の殊勝を顕はす者なり。経に云く「是れ諸の如来第一の説、諸経の中に於て最も其の上に在り」。薬王品には、今経の一代に勝ることを十喩を挙げて称歎し、天台は六喩を以て釈し、妙楽は十双を以て釈し、伝教は十勝を以て釈す。此の中に即身成仏は今経に限ると見えたり。/┌─一に海は川流江河の中の第一なり/├─二に須弥山は土山・黒山・小大鉄囲・十宝山の中の第一なり/├─三に月天子は衆星の中の第一なり/├─四に日天子は三光天子の中の第一なり/十喩─┼─五に転輪王は小王の中の第一なり├─六に帝釈は三十三天の王なり/├─七に梵王は一切衆生の父なり/├─八に五仏子は四果支仏第一なり/├─九に菩薩は三乗の中の第一なり/└─十に仏は諸法の王なり/┌─一に海は深大なり/├─二に山は高中の高/六喩─┼─三に月は円中の円/├─四に日は照中の照/├─五に梵王は自在の中の自在/└─六に仏は極中の極/玄の一〈二十二〉に云く「薬王品に十譬を挙げて教を歎ず。今其の六を引かん。大なること海の如く、高きこと山の如く、円なること月の如く、照らすこと日の如く、自在なること梵王の如く、極なること仏の如し。海は是れ坎の徳なり。万流帰するが故に、同一鹹なるが故に。法華も亦爾なり。仏の証得したまふ所なり。万善同じく帰し、同じく仏乗に乗ず。江河川流は此の大徳無し。余経も亦爾なり。故に法華最大なり。山王は最も高し。四宝の所成なるが故に、純ら諸天のみ居するが故に。法華も亦爾なり。四味の教の頂に在りて、四誹謗を離れ、開示悟入す。純ら一根一縁同一の道味なれば、純ら是れ菩薩にして、声聞の弟子無きが故に。月は能く虧盈あるが故に、月は漸く円なるが故に。法華も亦爾なり。同体の権実なるが故に、漸を会して頓に入るが故に。灯炬星月は闇と共に住す。諸経の二乗の道果を存して小と並立するに譬ふるが故に。日は能く闇を破する故に、法華は化城を破し、草庵を除くが故に。又日は星月を映奪して現ぜざらしむるが故に、法華は迹を払い、方便を除くが故に」。籤〈一末十七〉に云く「薬王を引く中に二と為す。初めには正しく引証し、次に引諸の下は四を以て教に例す。初めの文に二。先は引、次に釈。初めに又二。先は総じて数を挙げて去取し、次には列。初めの文をいはば、薬王品に仏、宿王華の為に十喩を説きたまふ。今但六を引くことは、余の四を六に望むに猶分喩を成す。是の故に四を合して此の六の中に在り。次に月の譬へをいはば、実は盈つるが如く、権は虧くるが如く、同体の権実は、月輪欠くること無きが如く、漸を会して頓に入るは、明相漸く円なるが如し。故に知んぬ、前の教相の中に是れ漸頓と云ふは、月の譬へと意同じ。経の中に星を以て月天子に比べて、天子を挙ぐると雖も、経に合して既に此れ法華経、最為照明と云ふ。故に今但円を取り、亦兼ねて明を以て譬へと為す。次に日の譬への中に復灯炬星月を加ふ。今、日の譬へに合する中に、但破化城故と云ふは、但日の明能く諸明を映ずるを取るが故なるのみ。若し更に合はせば、亦灯等の四を以て、二乗及び通別の菩薩に譬ふべし。並びに無明と共に住するが故なり。故に次に重ねて引く中には、略して星月を挙げて方便を除くといへり。故に知んぬ、方便の所収復広し」。秀句〈下十一〉に云く「又云く、衆星の中に月天子最も為れ第一なるが如く、此の法華経も亦復是の如し。千万億種の諸の経法の中に於て、最も為れ照明なり〈以上経文〉。天台法華玄に云く「月は能く虧盈あるが故に、月は漸く円なるが故に。法華も亦爾なり。同体の権実なるが故に、漸を会して頓に入るが故に。灯炬星月は能く闇と共に住す。諸経の二乗の道果を存して小と並立するに譬ふ〈以上玄文〉。当に知るべし、兼但対帯の随他意の経は未だ最照有らず。他宗所依の経は、但照明の徳のみ有りて最明の徳有ること無し。天台法華宗は最照明の徳有りて、無余果の已死の人を照らせり。仏種を滅せずして成仏せしむるが故に〈第三の譬へ竟る〉」。又云く「又日天子の能く諸の闇を除くが如く、此の経も亦復是の如し。能く一切不善の闇を破す〈以上経文〉。当に知るべし、他宗所依の経は破闇の義、未だ円満せず。故に日高山を照らして、未だ幽谷を照らさず。幽谷を照らすと雖も、未だ平地を照らさず。天台法華宗は已に平地を照らし、山谷倶に照らす。故に能く不善の闇を破る。深く以(ゆえ)有るなり〈第四の譬へ竟る〉」。又〈十三〉云く「当に知るべし、他宗所依の経は未だ最為第一ならず。其の能く経を持つ者も亦未だ第一ならず。天台法華宗の所持の法華経は最為第一なるが故に。能く法華を持つ者も亦衆生の中に第一なり。已に仏説に拠る。豈に自歎ならんや〈第八の譬へ竟る〉」。籤の一〈末十五〉に云く「若し尽くして経を消せば、応に土等の四山を以て四味の如く、須弥は十山の内に在りて而も最も高きは、仏界の十界の内に在りて而も最勝なるが如くなるべし」。秀句〈下二十四〉に云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり」。又〈十〉云く「経を尋ねて宗を定めよ」。又〈四〉云く「法華を訳する三蔵」。又云く「法に依りて人に依らざれ、義に依りて語に依らざれ」文。/┌─一双〈二乗に近記を与え、如来の遠本を開く〉。/├─二双〈随喜は第五十の人を歎じ、聞益は一生補処に至る〉。/├─三双〈釈迦は三逆の調達を指して本師と為し、文殊は八歳の竜女を以て所化と為す〉。/├─四双〈凡そ一句を聞くにも咸く授記を与ふ、経名を守護するに功量るべからず〉。疏記〈四本五十〉十双─┼─五双〈品を聞き受持するに永く女質を辞す、若し聞いて読誦せば不老不死ならん〉。/├─六双〈五種法師は現に相似を獲、四安楽行は夢に銅輪に入る〉。/├─七双〈若し悩乱する者は頭七分に破れ、供養すること有らん者は福十号に過ぎたり〉。/├─八双〈況や已今当は一代に絶えたる所、其の教法を歎ずるに十喩をもて称揚す〉。/├─九双〈地より涌出せるを阿逸多一人をも識らず、東方の蓮華は竜尊王未だ相本を知らず〉。/└─十双〈迹化には三千の塵点を挙げ、本成をば五百の微塵に喩ふ〉。/記の四に云く「今義に依り文に附するに略して十双有り、以て異相を弁ず。二乗に近記を与へ、如来の遠本を開く。随喜は第五十の人を歎じ、聞益は一生補処に至る。釈迦は三逆の調達を指して本師と為し、文殊は八歳の竜女を以て所化と為す。凡そ一句を聞くにも咸く授記を与ふ。経名を守護するに功量るべからず。品を聞いて受持するは永く女質を辞(はな)れ、若し聞いて読誦するは老いず死なず。五種法師は現に相似を獲、四安楽行は夢に銅輪に入る。若し悩乱する者は頭七分に破れ、供養すること有る者は福十号に過ぎたり。況や已今当は一代に絶えたる所、其の教法を歎ずるに十喩をもて称揚す。地より涌出せるをば阿逸多、一人をも識らず、東方の蓮華は竜尊王未だ相本を知らず。況や迹化には三千の塵点を挙げ、本成をば五百の微塵に喩へたり。本迹の事の希なる諸教に説かず」文。秀句の中〈下十九〉に云く「能化所化倶に歴劫無く、妙法経力即身成仏す〈竜女即身成仏文〉」。同じく上〈本初〉に云く「未顕已顕、肩を比べ実を諍ひ、三乗一乗、権を訴へて是非す。現在の麁食者、偽章数巻を造りて法を謗り亦人を謗る」。/┌─一に仏説已顕真実勝/├─二に仏説経名示義勝/├─三に無問自説果分勝/秀句上中下、伝教の疏なり。├─四に五仏道同帰一勝弘仁十二年、此の十勝を造り├─五に仏説諸経校量勝/嵯峨天皇に奏す。├─六に仏説十喩校量勝/├─七に即身六根互用勝/├─八に即身成仏化道勝/├─九に多宝分身付属勝/└─十に普賢菩薩勧発勝/記の六〈三十五六〉に云く「諸経多名経王等とは、重ねて教に約して釈す。諸経に法身の義を明かすこと有る者を即ち経王と名づけ、智の法に契ひて相称ふを等と名づく。故に機の中に法に対し智に対するに約して王々等と名づく。即ち諸部の大乗、小と相対するを世人了せずして、諸大乗に皆経王と称するを見て、乃ち法華と諸経と等しと謂へり。今謂く、乳及び二蘇に皆法報を談ず。倶に王と称すと雖も、諸経の王には非ず。縦ひ経有りて諸経の王と云ふとも、已今当説最為第一と云はず。兼但対帯、其の義知んぬべし」。又〈六十四〉云く「諸部を諸王と為す。興廃と言ふは、委しく興廃を論ずること、具に玄文の第五巻に明かすが如し。今略論して部に対して説かんと欲せば、則ち華厳には二は興、二は廃、乃至法華には一は興、三は廃なり。今は乃ち諸の小王を廃して、唯一主を立つ。是の故に法華を王中の王と名づく。次に又此経の下は、此の経の教を会するに約す。今の経の中には部に余教無きを以て、部は即ち部中の尊極なるを王と為す。教は即ち部内の教の主なるを王と為す。既に教に大小を分かつ、王亦尊卑あり。国界に寛狭あり、民に多少有り、資産各異にして所出不同なり。故に部内の教に通別の二轍あり。別は則ち当界に恩を施し、通は乃ち須く大国に帰すべし。故に知んぬ、部・教倶に須く会通すべし。故に前には部と云ひ、後には乃ち教と云ふ。昔に在りては未だ会せず。一国の内の二三の小王の各々蒼品を理(おさ)めて未だ大国に帰せざるが如し。故に方便の教主に王の名無きにあらず。但し兼部の中の円極の主弱し。若し会せられ已りて後は、同じく一化に沾ふ。民に二主無く、国に二王無し。爾れより已前は、或は帰し帰せず。帰せざれば仍(なお)是れ小王輔せられて已むを獲ずしてこれを統ぶ。小王は本より長に背くこと無けれども、良に民心未だ帰せざるに由る。民若し帰従すれば、王は本より一統なり。此れを以て法に会する義比知すべし」。弘の五〈上七〉に云く「大経に云ふが如く、衆流海に入りて本の名字を失ひ、万流咸く会して体増損無し」。文句の十〈三十三〉に云く「此の経の所説、実相を以て真に入るは、声聞の法を決了するに是れ諸経の王なり。実相をもって俗に入るは、一切の治生産業は相違背せず。実相をもって中に入るは、諸法は仏法に非ざること無し」。止の三〈七十一〉に云く「未だ会せられざる時は、尚円を知らず、何に況や円に入らんや。仏若し宗を会して、漸を開し頓を顕はせば、悉く皆通じて入る。即頓に非ずと雖も、而も是れ漸頓なり。故に法華に云く、汝等の所行は是れ菩薩の道なり。各々宝車に乗りて子の本願に適ふ。声聞の法を決了するに、是れ諸経の王なり。漸法を開通して悉く入るを得しむ〈文〉。仏世尚四十余年を経て真実を顕はさず」文。玄の一〈二十二〉に云く「万流帰するが故に、同一鹹なるが故に、法華も亦爾なり」と〈十喩釈なり〉。玄の三〈十四〉に云く「百川の海に会して其の味別ならざるが如し」〈通教の釈なり。分の開会なり〉。又云く「釈論に云く、諸水海に入りて同一鹹味なり。諸智、如実智に入りて本の名字を失ふ。故に衆水を総て倶に一鹹と成る」。籤の一〈末十八〉に云く「海に徳と言ふは、徳は得なり。衆水を得るが故に。万善は万流に合し、仏乗は一鹹に合す」。止観の三〈三十〉に云く「諸法の中に於て皆実相を見る、衆流海に入りて本の名字を失ふが如し」。守護章〈下の上二十二〉に云く「実経の文を会して権の義に順ぜしむ」。県の額を州に打ち、牛迹に大海を入るるが如し。法華論に十七名を列ぬ〈天親菩薩の論〉「一に無量義経、二に最勝修多羅、三に大方広経、四に教菩薩法、五に仏所護念、六に一切諸仏秘密法、七に一切諸仏之蔵、八に一切諸仏秘密処、九に能生一切諸仏経、十に一切諸仏道場、十一に一切諸仏所転法輪、十二に一切諸仏堅固舎利、十三に一切諸仏大巧方便経、十四に説一乗、十五に第一義住、十六に妙法蓮華経、十七に最勝法門なり」。籤の七〈四十二〉に云く「法華論の十七名の中の意は、第十六を既に妙法蓮華と名づく。当に知るべし、諸名並びに是れ法華の異名なるのみ」。末法灯明記〈九〉に云く「破戒の僧を供すれば国に三災起こる。何に況や無戒をや」。又〈七〉云く「末法持戒有らば怪異なり。市に虎あるが如し。此れ誰か信ずべけん」。顕戒論縁起に云く「今より已後、声聞の利益を受けず。自ら誓願して二百五十戒忽ちに捨て畢んぬ」文。文句の十〈三十八〉に云く「色身変現を三昧と名づけ、音声弁説を陀羅尼と名づく」文。