波木井殿御書

〔C6・弘安五年一〇月七日・波木井実長・他人々〕/日蓮は日本国、人王八十五代後堀河院の御宇、貞応元年〈壬午〉、安房の国長狭の郡東条郷の生まれなり。仏の滅後二千百七十一年に当たるなり。八十六代四条院の天福元年〈癸巳〉十二歳にして清澄寺に登り、道善御房の坊に居して学文す。時に延応元年已亥十八歳にして出家し、其の後十五年が間、一代聖教総じて内典外典に亘りて残り無く見定め、生年三十二歳にして建長五年〈癸丑〉三月二十八日、念仏は無間の業なりと見出しけるこそ時の不祥なれ。/如何せん、此の法門を申さば誰か用ゐるべき、返りて怨をなすべし。人を恐れて申さずんば仏法の怨となりて大阿鼻地獄に堕つべし。経文には、末法法華経を弘むる行者あらば上行菩薩の示現なりと思ふべし。言わざる者は仏法の怨なりと仏説き給へり。経文に任せて云ふならば、日本国は皆一同に日蓮が敵と成るべし。釈迦仏は娑婆に八千度生まれ給ひしに、尸毘王とありし時は鳩の命にかはり、薩王子とありし時は飢ゑたる虎に身を与へ、雪山童子たりし時は半偈の為に身を投げ、堅誓獅子とありし時は猟師に殺され、千頭の鹿王と成りては我が身をれふし(猟師)に射させて妊胎の鹿を助け、三千大千世界に我が身命を捨て置き給はざる処なし。此の功徳は皆一切衆生の中には法華経を信ずる人々に与へんと誓ひ給ひき。我不愛身命の法門なれば、命を捨てて此の法華経を弘めて日本国の衆生を成仏せしめん。わずかの小島の主君に恐れて是れをいはずんば、地獄に堕ちて閻魔の責めをば如何せん。国主の用ゐ給ふ禅は天魔なる由、鎌倉殿の用ゐ給ふ真言の法は亡国の由、極楽寺の良観房は国賊なる由、浄土宗の無間大阿鼻獄に堕つべき由、其の外余宗皆地獄に堕つべき由一々に記し、立正安国論を作り、宿谷の禅門を使ひとして最明寺殿の見参に入れ奉る。此れは生年三十九の文応元年〈庚申〉歳なり。/日蓮が立て申す法門を一偈一句も答ふる人一人もなし。上下一同に悪くみ嫉みて讒奏申すに依りて、生年四十、弘長元年〈辛酉〉五月十二日には、伊豆の国伊東の荘へ配流し、伊東八郎左衛門の尉の預かりにて三箇年なり。同じき三年〈癸亥〉二月二十二日赦免せらる。「如来現在猶多怨嫉況滅度後」の法門なれば、日蓮此の法門の故に怨まれて死なんことは決定なり。今一度旧里へ下りて親しき人々をも見ばやと思ひて、文永元年〈甲子〉十月三日に安房の国に下りて三十余日なり。同じき十一月十一日には安房の国東条の松原と申す大道にて、申酉の時計りにて候ひしが、数百人の念仏者の中に取り籠められ、日蓮は但一人、物の用にあふべき者はわずかに三四人候ひしかども、射る箭は雨のふるが如く、打つ太刀は雷光の如し。弟子一人当座に打ち殺され候。又二人は大事の手を負ひ候ひぬ。自身ばかりは射られ打たれ切られ候ひしかども如何に候ひけん打ち漏らされてかまくらに登る。/文永五年〈戊辰〉後正月、蒙古国より日本国を襲ふべき由、牒状これを渡たす。同じき十月に訴状を書きて重ねて法光寺殿の見参に入れ奉りしに、御祈祷申すべき由有りしかども、日蓮が云く、建長寺極楽寺等の念仏者禅宗等が堂塔を焼き払ひ、彼等が頸を由井が浜にて悉く切り失はるべく候。然らずんば只今此の日本国の人々他国より責められ、同士打ちして自界叛逆の難あるべし。かまくら中の持斎の僧を御供養候事は但牛を飼はせ給ふにてこそ候へと申したりしかば、日蓮房は鎌倉殿を牛飼ひと申し候と讒奏申すに依りて、文永八年〈辛未〉九月十二日には頸の座に登り、相模の竜口へ遣はさる。/今は最後と思ひしかば御霊の宮の前にて馬をひかへ、熊王丸を使ひとして四条左衛門の尉に知らせしかば、かちはだしにて馬の口に取り付きて路すがら啼き悲しみて、事実にならば腹を切らんとせし志をば何の世にか忘るべく候。法華経に命を進らせ、日蓮より前に腹を切らんと思ひきりし事をば、釈迦仏先づ知ろし食して候なり。既に頸切られんとせしが、其の夜は延び候ひて相模の依智へわたされ、本間の六郎左衛門が預かりおきぬ。明十三日の夜ふけ方に不思議現ず。大星下りて庭の梅の枝に懸りき。爾る故にや死罪を留められ、流罪に行はれ、佐渡の国へ遣はさる。/十月十日に相模の依智を立ちて、同じき二十八日に佐渡の国へ着きぬ。本間六郎左衛門の尉が後ろ見の家より北に、塚原と申して洛陽の蓮台野の様に、死人を送る三昧原ののべにかき(垣)もなき草堂に落ち着きぬ。夜は雪ふり風はげし。きれたる蓑を著て夜を明かす。北国の習ひなれば、北山の嶺の山をろしのはげしき風、身にしむ事をば但思ひやらせ給へ。彼の国の守護も、国主の御計らひなれば日蓮を怨む。其の外万民も皆其の命に従ふ。/かまくらにては、念仏者・禅・律・真言等が一同にそしょう(訴訟)申して、何れにも日蓮を鎌倉へかへさぬ様にと計らひ、極楽寺の良観房も武蔵の前司殿の私の御教書を申し下して、弟子に持たせて佐渡国へ渡して怨をなす。其れに随ひて地頭並びに念仏者等が日蓮が居たるあたりに、夜も昼も立ち副ひて通ふ人を強ちにあやまたんとすれば、叶ふべき様もなし。何れより問ふべき人一人もなし。/天の御計らひにてや候ひけん。阿仏房の日蓮を扶持せし事は、偏へに悲母の佐渡の国に生まれ替はらせ給ひて、日蓮が命を助け給ふか。漢土に沛公と申せし者あり。王此の者を相辱めて重ねて勅宣を下して、沛公をうって進らせたらん者には捕忠の賞を給ふべき宣旨ありしかば、沛公山辺に隠居して、命助かりがたかりしに、沛が妻、山辺に尋ね行きて時々助け候ひき。彼れは夫妻なれば、年来の情捨てがたければ尋ねけん。此れは他人なれども人目を隠れ忍びて日蓮を憐愍し、或は処をおはれ、或は過代を引きなんどせしかば、内々志ありし人も何にとも申す人一人もなし。/さすがに凡夫なれば他国に住みぬれば、故郷の恋しき事申す計りなし。日蓮謬り無し。日本国の一切衆生を仏に成さんと思ふ志こそなからめ。日本国の一切の男女等はさて置きぬ。禅僧・律僧・真言宗・浄土宗の人々日蓮を見たりしは、夜討ち・強盗・謀叛・殺害の人を見るよりも猶怖ろしげなり。されども法華経の正理なれば別の謬りなくて、佐渡の国にて四箇年と申せし同じき十一年〈甲戊〉二月十四日に赦免せられ、同じき三月二十六日にかまくらへ上りぬ。/同じき四月八日に平左衛門の尉が云く、御房は法華経の法門には今はこり(懲)させ給ふやと云ひしかば、日蓮云く、王地に生まれたれば、身は随へられ奉る様なれども、心は随ひ奉るべからず。念仏は無間地獄、禅は天魔の所為なる事は疑ひ無し。殊に真言宗が此の国の大なる禍ひなり。末法法華経の行者は人に怨まれてかかる難有るべし、と仏説き給ひて候へば、偏へに釈迦如来の御神の我が身に入らせ給ひてこそ候へ。されば我が身ながら悦び身に余れり。日蓮は日本の大難を払ひ、国を持つべき日本国の柱なり。余を失ふならば日本国の柱を倒すなり。但今此の国に大悪魔入り満ちて国土ほろびん時にこそ、日蓮が立て申す法華経の法門正義とは見え候べけれ。経文限りあれば力無し。其の時こそ人々は思ひ知り給ふらめと云ひしかば、日本国を呪咀申す者なりとて法華経の第五の巻を以て日蓮がつら(面)をうちしなり。此の事は梵天・帝釈も御覧あり、かまくら八幡大菩薩も見させ給ひき。如何にも今は叶ふまじき世なり。国の恩を報ぜんがために国に留まり三度は諫むべし。用ゐずんば山林に身を隠せと云ふ本文ありと本より存知せり。何なる山中にも籠りて命の程は法華経を読誦し奉らばや、と思ふより外は他事なし。/時に五十三、同じき五月十二日かまくらを立ちて甲斐の国へ分け入る。路次のいぶせさ、峰に登れば日月をいただくが如し。谷に下れば穴に入るが如し。河たけ(猛)くして船渡らず。大石流れて箭をつくが如し。道は狭くして縄の如し。草木しげりて路みえず。かかる所へ尋ね入る事浅からざる宿習なり。かかる道なれども釈迦仏は手をひき、帝釈は馬となり、梵王は身に立ちそひ、日月は眼に入りかはらせ給ふ故にや。同じき十七日甲斐の国波木井の郷へ着きぬ。波木井殿に対面有りしかば大いに悦び、今生は実長が身に及ばん程は見つぎ奉るべし。後生をば聖人助け給へと契りし事は、ただごととも覚えず。偏へに慈父悲母の波木井殿の身に入りかはり、日蓮をば哀れみ給ふか。/其の後身延山へ分け入りて山中に居し、法華経を昼夜読誦し奉り候へば、三世の諸仏・十方の諸仏・菩薩も此の砌りにおはすらん。釈迦仏は霊山に居して八箇年、法華経を説き給ふ。日蓮身延山に居して九箇年の読誦なり。伝教大師比叡山に居して三十余年の法華経の行者なり。然りと雖も彼の山は濁れる山なり。我が此の山は天竺の霊山にも勝れ、日域の比叡山にも勝れたり。然れば吹く風も、ゆるぐ木草も、流るる水の音までも、此の山には妙法の五字を唱へずと云ふことなし。日蓮が弟子檀那等は此の山を本として参るべし。此れ則ち霊山の契りなり。此の山に入りて九箇年なり。仏滅後二千二百三十余年なり。/日蓮ひとつ志あり。一七日にして返る様に、安房の国にやりて旧里を見せばやと思ひて、時に六十一と申す弘安五年〈壬午〉九月八日、身延山を立ちて武蔵の国千束の郷池上へ着きぬ。釈迦仏は天竺の霊山に居して八箇年法華経を説かせ給ふ。御入滅は霊山より艮に当たれる、東天竺・倶尸那城・跋提河の純陀が家に居して入滅なりしかども、八箇年法華経を説かせ給ふ山なればとて御墓をば霊山に建てさせ給ひき。されば日蓮も是の如く、身延山より艮に当たりて、武蔵の国池上右衛門の大夫宗長が家にして死すべく候か。縦ひいづくにて死に候とも、九箇年の間心安く法華経を読誦し奉り候山なれば、墓をば身延山に立てさせ給へ。未来際までも心は身延山に住むべく候。日蓮は日本六十六箇国島二つの内に、五尺に足らざる身を一つ置く処なく候ひしが、波木井殿の御育みにて九箇年の間、身延山にして心安く法華経を読誦し奉り候つる志をば、いつの世にかは思ひ忘れ候べき。しらずや、此の人無辺行菩薩の再誕にてや御座すらむ。/日蓮は日本第一の法華経の行者なり。日蓮が弟子檀那の中に日蓮より後に来たり給ひ候はば、梵天・帝釈・四大天王・閻魔法皇の御前にても、日本第一の法華経の行者、日蓮房が弟子檀那なりと名乗りて通り給ふべし。此の法華経は三途の河にては船となり、死出の山にては大白牛車となり、冥途にては灯となり、霊山へ参る橋なり。霊山へましまして艮の廊にて尋ねさせ給へ、必ず待ち奉るべく候。/但し各々の信心に依るべく候。信心だも弱くば、いかに日蓮が弟子檀那と名乗らせ給ふともよも御用ゐは候はじ。心に二つましまして、信心だに弱く候はば、峰の石の谷へころび、空の雨の大地へ落つると思し食せ。大阿鼻地獄疑ひあるべからず。其の時日蓮を恨みさせ給ふな。返す返すも各信心に依るべく候。大通結縁の者は地獄に堕ちて三千塵点劫を経候き。久遠下種の輩は地獄に堕ちて五百塵点劫を経たる事、大悪知識にあふて法華経をおろそかに信ぜし故なり。返す返すも能く能く信心候ひて、事故なく霊山へましまして日蓮を尋ねさせ給へ。其の時委しく申すべく候。南無妙法蓮華経。/弘安五年〈壬午〉十月七日日蓮花押/波木井殿其の外人々