両人御中御書

〔C0・弘安元年一〇月二〇日・日朗・池上宗仲〕/ゆづり状をたがうべからず。/大国阿闍梨・ゑもん(衛門)のたいう(大夫)志殿等に申す。故大進阿闍梨の坊は各々の御計らひに有るべきかと存じ候に、今に人も住せずなんど候なるは、いかなる事ぞ。ゆづり状のなくばこそ、人々も計らひ候はめ。くはしくうけ給はり候へば、べん(弁)の阿闍梨にゆづられて候よしうけ給はり候ひき。又いぎ(違義)あるべしともをぼへず候。それに御用ゐなきは別の子細の候か。其の子細なくば大国阿闍梨・大夫殿の御計らひとして弁阿闍梨の坊へこぼ(毀)ちわたさせ給ひ候へ。心けん(賢)なる人に候へば、いかんがとこそをもい候らめ。弁の阿闍梨の坊をすり(修理)して、ひろく、もら(漏)ずば、諸人の御ために御たからにてこそ候はんずらむめ。ふゆ(冬)はせうまう(焼亡)しげし。もしやけ(焼)なばそむ(損)と申し、人もわらいなん。このふみ(文書)ついて両三日が内に事切りて、各々御返事給はり候はん。恐々謹言。/十月二十日日蓮(花押)/両人御中