浄蔵浄眼御消息

〔C6・弘安三年七月七日・松野殿及びその女房〕/きごめ(生米)の俵一・瓜籠一・根芋、品々の物給はり候ひ畢んぬ。/楽徳と名付けける長者に身を入れて我が身も妻も子も、夜も昼も責め遣はれける者が、余りに責められ堪えがたさに、隠れて他国に行きて其の国の大王に宮仕へける程に、きりもの(権家)に成りて関白と成りぬ。後に其の国を力として我が本主の国を打ち取りぬ。其の時、本主、此の関白を見て大いに怖れ、前に悪しく当たりぬるを悔いかへして宮仕へ、様々の財を引きける。前に負けぬる物の事は思ひもよらず、今は只命のいきん事をはげむ。/法華経も又斯の如く、法華経は東方の薬師仏の主、南方西方北方上下の一切の仏の主なり。釈迦仏等の仏の法華経の文字を敬ひ給ふことは、民の王を恐れ、星の月を敬ふが如し。然るに我等衆生は第六天の魔王の相伝の者、地獄・餓鬼・畜生等に押し籠められて気もつかず、朝夕獄卒を付けて責むる程に、兎角して法華経に懸かり付きぬれば、釈迦仏等の十方の仏の御子とせさせ給へば、梵王・帝釈だにも恐れて寄り付かず、何に況や第六天の魔王をや。魔王は前には主なりしかども、今は敬ひ畏れて、あ(悪)しうせば法華経十方の諸仏の御見参にあしうや入らんずらんと、恐れ畏みて供養をなすなり。何にしても、六道の一切衆生をば法華経へつけじとはげむなり。/然るに何なる事にやをはすらん、皆人の憎み候日蓮を不便とおぼして、かく遥々と山中へ種々の物送りたび候事、一度二度ならず。ただごとにあらず。偏へに釈迦仏の入り替はらせ給へるか。又をくれさせ給ひける御君達の御仏にならせ給ひて、父母を導かんために御心に入り替はらせ給へるか。妙荘厳王と申せし王は悪王なりしかども、御太子浄蔵・浄眼の導かせ給ひしかば、父母二人共に法華経を御信用有りて、仏にならせ給ひしぞかし。是れもさにてや候らん。あやしく覚え候。/甲斐公が語りしは、常の人よりもみめ形も勝れて候ひし上、心も直しくて智恵賢く、何事に付けてもゆゆ(由由)しかりし人の、疾くはかなく成りし事の哀れさよと思ひ候ひしが、又倩(つらつら)思へば、此の子なき故に母も道心者となり、父も後世者に成りて候は、只とも覚え候はぬに、又皆人の悪み候法華経に付かせ給へば、偏へに是れなき人の二人の御身に添ひて勧め進らせられ候にや、と申せしがさもやと覚え候。前々は只荒増の事かと思ひて候へば、是れ程御志の深く候ひける事は始めて知りて候。又若しやの事候はば、くらき闇に月の出づるが如く、妙法蓮華経の五字、月と露はれさせ給ふべし。其の月の中には釈迦仏・十方の諸仏、乃至前に立たせ給ひし御子息の露はれさせ給ふべしと思し召せ。委しくは又々申すべし。恐々謹言。/七月七日日蓮花押