上野殿御返事

〔C0・弘安二年一一月六日・南条時光〕/唐土に竜門と申すたき(滝)あり。たかき事十丈、水の下ること、かんひやう(強兵)がや(矢)をいをとすよりもはやし。このたき(滝)に、ををくのふな(鮒)あつまりてのぼらむと申す。ふなと申すいを(魚)ののぼりぬれば、りう(竜)となり候。百に一つ、千に一つ、万に一つ、十年二十年に一ものぼる事なし。或ははやきせ(瀬)にかへり、或ははし(鷲)・たか(鷹)・とび(鴟)・ふくろう(梟)にくらわれ、或は十丁のたき(滝)の左右に漁人(いをとるもの)どもつらなりゐて、或はあみ(網)をかけ、或はくみとり、或はいてとるものもあり。いを(魚)のりう(竜)となる事かくのごとし。/日本国の武士の中に源平二家と申して、王の門守りの犬二疋候。二家ともに王を守りたてまつる事、やまがつ(山人)が八月十五夜のみね(峰)よりいづるをあいするがごとし。てんじやう(殿上)のなんによ(男女)のあそぶをみては、月と星とのひかり(光)をあわせたるを、木の上にてさる(猿)のあいするがごとし。かかる身にてはあれども、いかんがして我等てんじやう(殿上)のまじわりをなさんとねがいし程に、平氏の中に貞盛と申せし者、将門を打ちてありしかども、昇でんをゆるされず。其の子正盛又かなわず。其の子忠盛が時、始めて昇でんをゆるさる。其の後清盛・重盛等てんじやう(殿上)にあそぶのみならず、月をうみ、日をいだくみ(身)となりにき。/仏になるみち(道)これにをとるべからず。いをの竜門をのぼり、地下の者のてんじやう(殿上)へまいるがごとし。身子と申せし人は、仏にならむとて六十劫が間、菩薩の行をみてしかども、こらへかねて二乗の道に入りにき。大通結縁の者は三千塵点劫、久遠下種の人の五百塵点劫生死にしづみし。此等は法華経を行ぜし程に、第六天の魔王国主等の身に入りてとかうわづらわせしかば、たいしてすてしゆへに、そこばくの劫に六道にはめぐりしぞかし。/かれは人の上とこそみしかども、今は我等がみ(身)にかかれり。願はくは我が弟子等、大願ををこせ。去年(こぞ)去々年(おととし)のやくびやう(疫病)に死にし人々のかずにも入らず。又当時蒙古のせめにまぬかるべしともみへず。とにかくに死は一定なり。其の時のなげきはたうじ(当時)のごとし。をなじくはかりにも法華経のゆへに命をすてよ。つゆ(露)を大海にあつらへ、ちり(塵)を大地にうづむとをもへ。法華経の第三に云く「願はくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云。恐々謹言。十一月六日日蓮(花押)/上野賢人殿御返事/此れはあつわら(熱原)の事のありがたさに申す御返事なり。