三世諸仏総勘文教相廃立

〔C6・弘安二年一〇月〕/日蓮之れを撰す/夫れ一代聖教とは総て五十年の説教なり。是れを一切経とは言ふなり。此れを分かちて二と為す。一には化他、二には自行なり。/一に化他の経とは、法華経より前の四十二年の間説き給へる諸の経教なり。此れを権教と云ひ、亦は方便と名づく。此れは四教の中には三蔵教と通教と別教との三教なり。五時の中には華厳と阿含と方等と般若となり。法華より前の四時の経教なり。又十界の中には、前の九法界なり。/又夢と寤(うつつ)との中には夢中の善悪なり。又夢をば権と云ひ、寤をば実と云ふなり。是の故に夢は仮に有りて体性無し。故に名づけて権と云ふなり。寤は常住にして、不変の心の体なるが故に、此れを名づけて実と為す。故に四十二年の諸の経教は、生死の夢の中の善悪の事を説く、故に権教と言ふ。夢中の衆生を誘引し、驚覚して法華経の寤と成さんと思し食しての支度方便の経教なり。故に権教と言ふ。/斯れに由りて文字の読みを糾して、心得べきなり。故に権(ごん)をば権(かり)と読む。権なる事の手本には夢を以て本と為す。又実(じつ)をば実(まこと)と読む。実事の手本は寤なり。故に生死の夢は権にして、性体無ければ権なる事の手本なり。故に妄想と云ふ。本覚の寤は実にして、生滅を離れたる心なれば真実の手本なり。故に実相と云ふ。是れを以て権実の二字を糾して、一代聖教の化他の権と、自行の実との差別を知るべきなり。故に四教の中には前の三教と、五時の中には前の四時と、十法界の中には前の九法界は、同じく皆夢中の善悪の事を説くなり。故に権教と云ふ。/此の教相をば無量義経に「四十余年未顕真実」と説きたまふ已上。未顕真実の諸経は、夢中の権教なり。故に釈籤に云く「性殊なること無しと雖も、必ず幻に藉りて幻の機と幻の感と幻の応と幻の赴とを発す。能応と所化と並びに権実に非ず」已上。此れ皆夢幻の中の方便の教なり。「性雖無殊」等とは、夢見る心性と寤の時の心性とは、只一の心性にして、総て異なること無しと雖も、夢の中の虚事と寤の時の実事と、二事一の心法なるを以て、見ると思ふも我が心なりと云ふ釈なり。故に止観に云く「前の三教の四弘・能も所も泯す」已上。四弘とは、衆生の無辺なるを度せんと誓願し、煩悩の無辺なるを断ぜんと誓願し、法門の無尽なるを知らんと誓願し、無上菩提を証せんと誓願す。此れを四弘と云ふ。能とは如来なり。所とは衆生なり。此の四弘は能の仏も所の衆生も、前三教は皆夢中の是非なりと釈し給へるなり。/然れば法華以前の四十二年の間の説教たる諸経は、未顕真実の権教なり方便なり。法華に取り寄るべき方便なるが故に真実には非ず。此れは仏自ら四十二年の間、説き集め給ひて後に、今法華経を説かんと欲して、先づ序分の開経の無量義経の時、仏自ら勘文し給へる教相なれば、人の語も入るべからず、不審をも生(な)すべからず。/故に玄義に云く「九界を権と為し、仏界を実と為す」已上。九法界の権は四十二年の説教なり。仏法界の実は八箇年の説、法華経是れなり。故に法華経をば仏乗と云ふ。九界の生死は夢の理なれば権教と云ひ、仏界の常住は寤の理なれば実教と云ふ。故に五十年の説教、一代の聖教、一切の諸経は、化他の四十二年の権教と、自行の八箇年の実教と合して五十年なれば、権と実との二の文字を以て、鏡に懸けて陰無し。/故に三蔵教を修行すること、三僧祇百大劫を歴て終りに仏に成らんと思へば、我が身より火を出だして灰身入滅とて灰と成りて失せるなり。通教を修行すること七阿僧祇百大劫を満てて仏に成らんと思へば、前の如く同様に灰身入滅して跡形も無く失せぬるなり。/別教を修行すること二十二大阿僧祇百千万劫を尽くして終りに仏に成りぬと思へば、生死の夢の中の権教の成仏なれば、本覚の寤の法華経の時には、別教には実仏無し、夢中の果なり。故に別教の教道には実の仏無しと云ふなり。別教の証道には、初地に始めて一分の無明を断じて、一分の中道の理を顕はし、始めて之れを見れば別教は隔歴不融の教と知りて、円教に移り入りて円人と成り已りて、別教には留まらざるなり。上中下の三根の不同有るが故に、初地・二地・三地、乃至等覚までも円人と成る。故に別教の面に仏無きなり。故に有教無人と云ふなり。/故に守護国界章に云く「有為の報仏は夢中の権果〈前三教の修行の仏〉、無作の三身は覚前の実仏なり〈後の円教の観心の仏〉」。又云く「権教の三身は未だ無常を免れず〈前三教の修行の仏〉、実教の三身は倶体倶用なり〈後の円教の観心の仏〉」。此の釈を能く能く意得べきなり。権教は難行苦行す。適(たまたま)仏に成りぬと思へば、夢中の権の仏なれば、本覚の寤の時には実の仏無きなり。極果の仏無ければ有教無人なり。況や教法実ならんや。之れを取りて修行せんは、聖教に迷へるなり。此の前三教には仏に成らざる証拠を説き置き給ひて、末代の衆生に恵解を開かしむるなり。/九界の衆生は、一念の無明の眠りの中に於て、生死の夢に溺れて、本覚の寤を忘れ、夢の是非に執して冥(くら)きより冥きに入る。是の故に如来は、我等が生死の夢の中に入りて、顛倒の衆生に同じて、夢中の語を以て夢中の衆生を誘い、夢中の善悪の差別の事を説いて漸々に誘引し給ふ。夢中の善悪の事、重畳して様々に無量無辺なれば、先づ善事に付きて上中下を立つ。三乗の法是れなり。三々九品なり。此の如く説き已りて、後に又上々品の根本善を立て、上中下三々九品の善と云ふ。皆悉く九界生死の夢の中の善悪の是非なり。今是れをば総じて邪見外道と為す〈捜要記の意〉。此の上に又上々品の善心は、本覚の寤の理なれば、此れを善の本と云ふと説き聞かせ給ひし時に、夢中の善悪の悟りの力を以ての故に、寤の本心の実相の理を始めて聞知せられし事なり。是の時に仏説いて言く、夢と寤との二は虚事と実事との二の事なれども、心法は只一なり。眠りの縁に値ひぬれば夢なり。眠り去りぬれば寤の心なり。心法は只一なりと開会せらるべき下地を造り置かれし方便なり〈此れは別教の中道の理なり〉。是の故に未だ十界互具・円融相即を顕はさざれば、成仏の人無し。故に三蔵教より別教に至るまで四十二年の間の八教は、皆悉く方便、夢中の善悪なり。只暫く之れを用ゐて衆生を誘引し給ふ支度方便なり。此の権教の中には、分々に皆悉く方便と真実と有りて、権実の法欠けざるなり。四教一々に各四門有りて、差別有ること無し。語も只同じ語なり。文字も異なること無し。斯れに由りて語に迷ひて権実の差別を分別せざる時を仏法滅すと云ふ。/是の方便の教は、唯穢土に有りて、総じて浄土には無きなり。法華経に云く「十方の仏土の中には唯一乗の法のみ有りて、二も無く亦三も無し、仏の方便の説をば除く」已上。故に知んぬ、十方の仏土に無き方便の教を取りて、往生の行と為し、十方の浄土に有る一乗の法をば之れを嫌ひて、取らずして成仏すべき道理有るべしや否や。一代の教主釈迦如来一切経を説き勘文し給ひて言く、三世の諸仏同様に、一つ語一つ心に勘文し給へる説法の儀式なれば、我も是の如く一言も違はざる説教の次第なり云云。/方便品に云く「三世の諸仏の説法の儀式の如く、我も今亦是の如く無分別の法を説く」已上。無分別の法とは一乗の妙法なり。善悪を簡ぶこと無く、草木・樹林・山河・大地にも、一微塵の中にも互ひに各十法界の法を具足す。我が心の妙法蓮華経の一乗は、十方の浄土に周遍して欠くること無し。十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は、我が心の中に有りて片時も離るること無き三身即一の本覚の如来なり。是の外には法無し。此の一法計り十方の浄土に有りて、余法有ること無し。故に無分別法と云ふは是れなり。此の一乗妙法の行をば取らずして、全く浄土にも無き方便の教を取りて成仏の行と為さんは、迷ひの中の迷ひなり。我仏に成りて後に、穢土に立ち還りて、穢土の衆生を仏法界に入らしめんが為に、次第に誘ひ入れて方便の教を説くを、化他の教とは云ふなり。故に権教と言ひ、又方便とも云ふ。化他の法門の有様、大体略を存して斯の如し。/二に自行の法とは、是れ法華経八箇年の説なり。是の経は寤の本心を説きたまふ。唯衆生の思ひ習はせる夢中の心地なるが故に、夢中の言語を借りて寤の本心を訓ふるなり。故に語は夢中の言語なれども、意は寤の本心を訓ふ。法華経の文と釈との意此の如し。之れを明らめ知らずんば経の文と釈の文とに必ず迷ふべきなり。/但し此の化他の夢中の法門も、寤の本心に備はれる徳用の法門なれば、夢中の教を取りて寤の心に摂むるが故に、四十二年の夢中の化他・方便の法門も、妙法蓮華経の寤の心に摂まりて、心の外には法無きなり。此れを法華経の開会とは云ふなり。譬へば衆流を大海に納むるが如きなり。/仏の心法妙と衆生の心法妙と、此の二妙を取りて己心に摂むるが故に、心の外に法無きなり。己心と心性と心体との三は、己身の本覚の三身如来なり。是れを経に説いて云く「如是相〈応身如来〉、如是性〈報身如来〉、如是体〈法身如来〉」此れを三如是と云ふ。此の三如是の本覚の如来は、十方法界を身体と為し、十方法界を心性と為し、十方法界を相好と為す。是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり。法界に周遍して一仏の徳用なれば、一切の法は皆是れ仏法なりと説き給ひし時、其の座席に列なりし諸の四衆八部も畜生も外道等も、一人も漏れず皆悉く妄想の僻目(ひがめ)僻思(ひがおも)ひ立ち所に散止して、本覚の寤に還りて皆仏道を成ず。/仏は寤の人の如く、衆生は夢見る人の如し。故に生死の虚夢を醒して本覚の寤に還るを、即身成仏とも、平等大恵とも、無分別法とも、皆成仏道とも云ふ。只一つの法門なり。十方の仏土は区(まちまち)に分かれたりと雖も、通じて法は一乗なり。方便無きが故に無分別法なり。十界の衆生は品々異なりと雖も、実相の理は一なるが故に無分別なり。百界千如・三千世間の法門殊なりと雖も、十界互ひに具するが故に無分別なり。夢と寤と虚と実と各別異なりと雖も、一心の中の法なるが故に無分別なり。過去と未来と現在とは三なりと雖も、一念の心中の理なれば無分別なり。/一切経の語は夢中の語とは、譬へば扇と樹との如し。法華経の寤の心を顕はす言とは、譬へば月と風との如し。故に本覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照らし、実相般若の智恵の風は妄想の塵を払ふ。故に夢の語の扇と樹とを以て、寤の心の月と風とを知らしむ。是の故に夢の余波を散じて、寤の本心に帰せしむるなり。/故に止観に云く「月重山に隠るれば扇を挙げて之れに類し、風大虚に息みぬれば樹を動かして之れを訓ふるが如し」文。弘決に云く「真常性の月煩悩の山に隠る。煩悩一に非ず、故に名づけて重と為す。円音教の風は化を息めて寂に帰す。寂理無碍なること猶大虚の如し。四依の弘教は扇と樹との如し。乃至月と風とを知らしむるなり」已上。/夢中の煩悩の雲重畳せること山の如し。其の数八万四千の塵労にて、心性本覚の月輪を隠す。扇と樹との如くなる経論の文字言語の教を以て、月と風との如くなる本覚の理を覚知せしむる聖教なり。故に文と語とは扇と樹との如し文。上の釈は一往の釈とて実義に非ざるなり。月の如くなる妙法の心性の月輪と、風の如くなる我が心の般若の恵解とを、訓へ知らしむるを妙法蓮華経と名づく。/故に釈籤に云く「声色の近名を尋ねて無相の極理に至る」已上。声色の近名とは、扇と樹との如くなる夢中の一切の経論の言説なり。無相の極理とは、月と風との如くなる寤の我が身の心性の寂光の極楽なり。此の極楽とは、十方法界の正報の有情と、十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり。四土不二にして法身の一仏なり。十界を身と為すは法身なり。十界を心と為すは報身なり。十界を形と為すは応身なり。十界の外に仏無し。仏の外に十界無く、依正不二なり、身土不二なり。一仏の身体なるを以て寂光土と云ふ。是の故に無相の極理と云ふなり。生滅無常の相を離るるが故に無相と云ふなり。法性の淵底・玄宗の極地なり。故に極理と云ふ。此の無相の極理なる寂光の極楽は、一切有情の心性の中に有りて清浄無漏なり。之れを名づけて妙法の心蓮台と云ふなり。/是の故に心外無別法と云ふ。此れを一切法は皆是れ仏法なりと通達解了すと云ふなり。生と死と二つの理は生死の夢の理なり。妄想なり顛倒なり。本覚の寤を以て我が心性を糾せば、生ずべき始めも無きが故に、死すべき終りも無し。既に生死を離れたる心法に非ずや。劫火にも焼けず、水災にも朽ちず、剣刀にも切られず、弓箭にも射られず。芥子の中に入れども芥子も広からず、心法も縮まらず。虚空の中に満つれども虚空も広からず、心法も狭からず。善に背くを悪と云ひ、悪に背くを善と云ふ。故に心の外に善無く悪無し。此の善と悪とを離るるを無記と云ふなり。善悪無記、此の外には心無く、心の外には法無きなり。/故に善悪も浄穢も、凡夫聖人も、天地も大小も、東西も南北も、四維も上下も、言語道断し心行所滅す。心に分別して思ひ言ひ顕はす言語なれば、心の外には分別も無し。分別も無ければ言と云ふは、心の思ひを響かして声に顕はすを云ふなり。凡夫は我が心に迷ひて、知らず覚らざるなり。仏は之れを悟り顕はして神通と名づくるなり。神通とは、神(たましい)の一切の法に通じて碍り無きなり。此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり。故に狐狸も分々に通を現ずること、皆心の神の分々の悟りなり。此の心の一法より、国土世間も出来する事なり。一代聖教とは此の事を説きたるなり。此れを八万四千の法蔵とは云ふなり。是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり。然れば八万四千の法蔵は、我が身一人の日記文書なり。此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり。我が身中の心を以て、仏と法と浄土とを我が身より外に思ひ願ひ求むるを迷ひとは云ふなり。此の心が善悪の縁に値ひて善悪の法をば造り出だせるなり。/華厳経に云く「心は工みなる画師の如く種々の五陰を造る、一切世間の中に法として造らざること無し。心の如く仏も亦爾なり。仏の如く衆生も然なり。三界唯一心なり。心の外に別の法無し。心・仏及び衆生、是の三差別無し」已上。無量義経に云く「無相不相の一法より無量義を出生す」已上。無相不相の一法とは、一切衆生の一念の心是れなり。文句に釈して云く「生滅無常の相無きが故に無相と云ふなり。二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云ふなり」云云。心の不思議を以て経論の詮要と為るなり。/此の心を悟り知るを名づけて如来と云ふ。之れを悟り知りて後は十界は我が身なり、我が心なり、我が形なり。本覚の如来は我が身心なるが故なり。之れを知らざる時を名づけて無明と為す。無明は明らかなること無しと読むなり。我が心の有様を明らかに覚らざるなり。之れを悟り知る時を名づけて法性と云ふ。故に無明と法性とは一心の異名なり。名と言とは二なりと雖も、心は只一つ心なり。斯れに由りて無明をば断ずべからざるなり。夢の心の無明なるを断ぜば、寤の心を失ふべきが故に。総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず。故に一切の法は皆是れ仏法なりと云ふなり。/法華経に云く「如是相〈一切衆生の相好。本覚の応身如来〉、如是性〈一切衆生の心性。本覚の報身如来〉、如是体〈一切衆生の身体。本覚の法身如来〉」。此の三如是より後の七如是出生して、合して十如是と成るなり。此の十如是は十法界なり。此の十法界は一人の心より出で、八万四千の法門と成るなり。一人を手本として一切衆生平等なること是の如し。三世の諸仏の総勘文にして、御判慥かに印(おし)たる正本の文書なり。仏の御判とは、実相の一印なり。印とは判の異名なり。余の一切の経には実相の印無ければ、正本の文書に非ず。全く実の仏無し。実の仏無きが故に夢中の文書なり。浄土に無きが故なり。/十法界は十なれども十如是は一なり。譬へば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し。九法界の十如是は、夢中の十如是なるが故に、水中の月の如し。仏法界の十如是は、本覚の寤の十如是なれば、虚空の月の如し。是の故に仏界の一つの十如是顕はれぬれば、九法界の十如是の水中の月の如きも、一も欠減無く同時に皆顕はれて、体と用と一具にして一体の仏と成る。十法界を互ひに具足して平等なる十界の衆生なれば、虚空の本月も水中の末月も、一人の身中に具足して欠くること無し。故に十如是は本末究竟して等しく差別無し。本とは衆生の十如是なり。末とは諸仏の十如是なり。諸仏は衆生の一念の心より顕はれ給へば衆生は是れ本なり。諸仏は是れ末なり。/然るを経に云く「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」已上。仏成道の後に化他の為の故に、迹の成道を唱へて生死の夢中にして本覚の寤を説きたまふなり。智恵を父に譬へ、愚痴を子に譬へて、是の如く説き給へるなり。衆生は本覚の十如是なりと雖も、一念の無明眠りの如く心を覆ひ、生死の夢に入りて本覚の理を忘る。髪筋を切る程に、過去・現在・未来の三世の虚夢を見るなり。仏は寤の人の如くなれば、生死の夢に入りて衆生を驚かし給へる智恵は、夢の中にて父母の如く、夢の中なる我等は子息の如くなり。/此の道理を以て悉是吾子と言ひたまふなり。此の理を思ひ解けば、諸仏と我等とは本の故にも父子なり、末の故にも父子なり。父子の天性は本末是れ同じ。斯れに由りて己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に、生死の夢を覚まして本覚の寤に還るを即身成仏と云ふなり。即身成仏は今我が身の上の天性・地体なり。煩ひも無く障りも無き衆生の運命なり。果報なり、冥加なり。/夫れ以みれば、夢の時の心を迷ひに譬へ、寤の時の心を悟りに譬ふ。之れを以て一代聖教を覚悟するに、跡形も無き虚夢を見て、心を苦しめ汗水と成りて驚きぬれば、我が身も家も臥所(ふしど)も一所にて異ならず。夢の虚と寤の実との二事を目にも見、心にも思へども、所は只一所なり、身も只一身にて、二の虚と実との事有り。之れを以て知るべし。九界の生死の夢見る我が心も、仏界常住の寤の心も異ならず。九界生死の夢見る所が仏界常住の寤の所にて変らず、心法も替はらず在所も差はざれども、夢は皆虚事なり、寤は皆実事なり。/止観に云く「昔荘周と云ふもの有り。夢に胡蝶と成りて一百年を経たり。苦は多く楽は少なく、汗水と成りて驚きぬれば、胡蝶にも成らず、百年をも経ず、苦も無く、楽も無く、皆虚事なり、皆妄想なり」〈已上取意〉。弘決に云く「無明は夢の蝶の如く、三千は百年の如し。一念実無きは猶蝶に非ざるが如く、三千も亦無きこと、年を積むに非ざるが如し」已上。此の釈は即身成仏の証拠なり。夢に蝶と成る時も荘周は異ならず。寤に蝶と成らずと思ふ時も別の荘周無し。我が身を生死の凡夫なりと思ふ時は、夢に蝶と成るが如く僻目僻思ひなり。我が身は本覚の如来なりと思ふ時は、本の荘周なるが如し。即身成仏なり。蝶の身を以て成仏すと云ふに非ざるなり。蝶と思ふは虚事なれば、成仏の言は無し。沙汰の外の事なり。無明は夢の蝶の如しと判ずれば、我等が僻思ひは猶昨日の夢の如く、性体無き妄想なり。誰の人か虚夢の生死を信受して、疑ひを常住涅槃の仏性に生ぜんや。/止観に云く「無明の痴惑は本是れ法性なり。痴迷を以ての故に法性変じて無明と作り、諸の顛倒の善不善等を起こす。寒来たりて水を結べば変じて堅氷と作るが如く、又眠り来たりて心を変じて種々の夢有るが如し。今当に諸の顛倒は即ち是れ法性なり、一ならず異ならずと体すべし。顛倒起滅すること旋火輪の如しと雖も、顛倒の起滅を信ぜずして、唯此の心但是れ法性なりと信ず。起は是れ法性の起、滅は是れ法性の滅なり。其れを体するに実に起滅せざるを妄りに起滅すと謂へり。只妄想を指すに悉く是れ法性なり。法性を以て法性に繋け、法性を以て法性を念ず。常に是れ法性なり。法性ならざる時無し」已上。是の如く法性ならざる時の隙も無き理の法性に、夢の蝶の如くなる無明に於て実有の思ひを生じて之れに迷ふなり。止観の九に云く「譬へば眠りの法心を覆ひて、一念の中に無量世の事を夢みるが如し。乃至寂滅真如に何の次位か有らん。乃至一切衆生即大涅槃なり、復滅すべからず。何の次位の高下・大小有らんや。不生不生にして不可説なれども、因縁有るが故に亦説くことを得べし。十因縁の法は生の為に因と作る。虚空に画き、方便して樹を種ゆるが如し。一切の位を説くのみ」已上。十法界の依報・正報は法身の仏、一体三身の徳なりと知りて、一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する、是れを名字即と為(な)づく。名字即の位にて即身成仏する故に円頓の教には次位の次第無し。故に玄義に云く「末代の学者多く経論の方便の断伏を執して諍闘す。水の性の冷かなるが如きも、飲まずんば安んぞ知らん」已上。天台の判に云く「次位の綱目は仁王・瓔珞に依り、断伏の高下は大品・智論に依る」已上。仁王・瓔珞・大品・大智度論、是の経論は皆法華已前の八教の経論なり。権教の行は無量劫を経て昇進する次位なれば、位の次第を説けり。/今法華は八教に超えたる円なれば、速疾頓成にして、心と仏と衆生と此の三は我が一念の心中に摂めて、心の外に無しと観ずれば下根の行者すら尚一生の中に妙覚の位に入る。一と多と相即すれば、一位に一切の位皆是れ具足せり。故に一生に入るなり。下根すら是の如し。況や中根の者をや。何に況や上根をや。実相の外に更に別の法無し。実相には次第無きが故に位無し。総じて一代の聖教は一人の法なれば、我が身の本体を能く能く知るべし。之れを悟るを仏と云ひ、之れに迷ふは衆生なり。此れは華厳経の文の意なり。/弘決の六に云く「此の身の中に具に天地に倣ふことを知る。頭の円かなるは天に象(かたど)り、足の方なるは地に象ると知り。身の内の空種なるは即ち是れ虚空なり。腹の温かなるは春夏に法(のっ)とり、背の剛きは秋冬に法とり、四体は四時に法とり、大節の十二は十二月に法とり、小節の三百六十は三百六十日に法とり、鼻の息の出入は山沢渓谷の中の風に法とり、口の息の出入は虚空の中の風に法とり、眼は日月に法とり、開閉は昼夜に法とり、髪は星辰に法とり、眉は北斗に法とり、脈は江河に法とり、骨は玉石に法とり、皮肉は地土に法とり、毛は叢林に法とり、五臓は天に在りては五星に法とり、地に在りては五岳に法とり、陰陽に在りては五行に法とり、世に在りては五常に法とり、内に在りては五神に法とり、行を修するには五徳に法とり、罪を治むるには五刑に法とる。謂く墨・・・宮・大辟〈此の五刑は人を様々に之れを傷ましむ、其の数三千の罰有り、此れを五刑と云ふ〉。主領には五官と為す。五官は下の第八の巻に博物誌を引くが如し。謂く苟萌(こうぼう)等なり。天に昇りては五雲と曰ひ、化して五竜と為る。心を朱雀と為し、腎を玄武と為し、肝を青竜と為し、肺を白虎と為し、脾を勾陳と為す」。又云く「五音・五明・六芸皆此れより起こる。亦復当に内治の法を識るべし。覚心内に大王と為りては百重の内に居り、出でては則ち五官に侍衛せ為(ら)る。肺をば司馬と為し、肝をば司徒と為し、脾をば司空と為し、四支をば民子と為し、左をば司命と為し、右をば司録と為し、人命を主司す。乃至臍をば太一君等と為すと。禅門の中に広く其の相を明かす」已上。人身の本体委しく検すれば是の如し。/然るに此の金剛不壊の身を以て、生滅無常の身なりと思ふ僻思ひは、譬へば荘周が夢の蝶の如しと釈し給へるなり。五行とは、地水火風空なり。五大種とも、五薀とも、五戒とも、五常とも、五方とも、五智とも、五時ともいふ。只一物にて経々の異説なり。内典・外典の名目の異名なり。今経に之れを開して、一切衆生の心中の五仏性、五智の如来の種子と説けり。是れ則ち妙法蓮華経の五字なり。此の五字を以て人身の体を造るなり。本有常住なり。本覚の如来なり。是れを十如是と云ふ。此れを「唯仏与仏乃能究尽」と云ふ。不退の菩薩と極果の二乗と少分も知らざる法門なり。然るを円頓の凡夫は初心より之れを知る。故に即身成仏するなり。金剛不壊の体なり。/是れを以て明らかに知るべし。天崩れば我が身も崩るべし。地裂けば我が身も裂くべし。地水火風滅亡せば我が身も亦滅亡すべし。然るに此の五大種は過去・現在・未来の三世は替はると雖も、五大種は替ること無し。正法と像法と末法との三時殊なりと雖も、五大種は是れ一にして盛衰転変無し。/薬草喩品の疏には、円教の理は大地なり。円頓の教は空の雨なり。亦三蔵教・通教・別教の三教は三草と二木となり。其の故は此の草木は円理の大地より生じて、円教の空の雨に養はれて、五乗の草木は栄ふれども、天地に依りて我栄へたりと思ひ知らざるに由るが故に、三教の人天・二乗・菩薩をば草木に譬へて説きたり。不知恩の故に草木の名を得。今法華に始めて五乗の草木は円理の母と円教の父とを知るなり。一地の所生なれば母の恩を知るが如く、一雨の所潤なれば父の恩を知るが如し。薬草喩品の意是の如くなり。釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして、即座に悟りを開きたまひき。後に化他の為に、世々番々に出世成道し、在々処々に八相作仏し、王宮に誕生し、樹下に成道して、始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ、四十余年に方便の教を儲け衆生を誘引す。其の後方便の諸の経教を捨てて、正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕はして、其の中に四十二年の方便の諸経を丸かし納れて、一仏乗と丸し人一の法と名づく。一人が上の法なり。/多人の綺えざる正しき文書を造る慥かなる御判の印あり。三世諸仏の手継ぎの文書を釈迦仏より相伝せられし時に、三千三百万億那由他の国土の上の虚空の中に満ち塞がれる若干の菩薩達の頂を摩で尽くして、時を指して末法近来の我等衆生の為に、慥かに此の由を説き聞かせて、仏の譲状を以て末代の衆生に慥かに授与すべしと、慇懃に三度まで同じ御語に説き給ひしかば、若干の菩薩達各数を尽くして躬を曲げ頭を低れ、三度まで同じ言に各我も劣らじと事請を申し給ひしかば、仏心安く思し食して本覚の都に還りたまふ。三世の諸仏の説法の儀式・作法には、只同じ御言に時を指したる末代の譲状なれば、只一向に後五百歳を指して此の妙法蓮華経を以て成仏すべき時なりと、譲状の面に載せたる手継ぎ証文なり。/安楽行品には、末法に入りて近来、初心の凡夫法華経を修行して、成仏すべき様を説き置かれしなり。身も安楽行、口も安楽行、意も安楽行なる自行の三業も、誓願安楽の化他の行も、同じく後の末世に於て法の滅せんと欲する時となり云云。此れは近来の時なり。已上四所に有り。薬王品には二所に説かれ、勧発品には三所に説かれたり。/皆近来を指して譲り置かれたる正しき文書を用ゐずして、凡夫の言に付き、愚痴の心に任せて三世諸仏の譲状に背き奉り、永く仏法に背かば、三世の諸仏何に本意無く口惜しく心憂く歎き悲しみ思し食すらん。涅槃経に云く「法に依りて人に依らざれ」云云。痛ましきかな悲しきかな、末代の学者仏法を習学して還りて仏法を滅す。/弘決に之れを悲しみて曰く「此の円頓を聞いて崇重せざることは、良に近代大乗を習ふ者の雑濫に由るが故なり。況や像末に情(こころ)澆(にご)り信心寡薄、円頓の教法蔵に溢れ函に盈つれども、暫くも思惟せず、便ち瞑目(めいもく)に至る。徒らに生じ徒らに死す、一に何ぞ痛ましきや」已上。同四に云く「然も円頓の教は本と凡夫に被らしむ。若し凡を益するに擬せずんば、仏何ぞ自ら法性の土に住して、法性の身を以て、諸の菩薩の為に、此の円頓を説かずして、何ぞ諸の法身の菩薩の与(ため)に、凡身を示し、此の三界に現じたまふことを須ひんや。乃至一心凡に在れば即ち修習すべし」已上。所詮己心と仏身と一なりと観ずれば速やかに仏に成るなり。故に弘決に又云く「一切の諸仏、己心は仏心に異ならずと観(み)たまふに由るが故に、仏に成ることを得」已上。此れを観心と云ふ。実に己心と仏心と一心なりと悟れば、臨終を碍ふべき悪業も有るまじ、生死に留まるべき妄念も有るまじ。一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば、教訓すべき善知識も入るべからず。思ふと思ひ言ふと言ひ、為すと為し儀(ふるま)ひと儀ふ、行住坐臥の四威儀の所作は、皆仏の御心と和合して一体なれば、過も無く障りも無き自在の身と成る。此れを自行と云ふ。/此の如く自在なる自行の行を捨て、跡形も有らざる無明妄想なる僻思ひの心に住して、三世の諸仏の教訓に背き奉れば、冥きより冥きに入り、永く仏法に背くこと悲しむべく悲しむべし。只今こそ打ち返し思ひ直し、悟り返さば、即身成仏は我が身の外には無しと知りぬ。/我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も、我等は裏に向かひて、我が性の理を見ず。故に無明と云ふ。如来は面に向かひて我が性の理を見たまへり。故に明と無明とは其の体只一なり。鏡は一の鏡なりと雖も、向かひ様に依りて、明昧の差別有り。鏡に裏有りと雖も、面の障りと成らず。只向かひ様に依りて、得失の二つ有り。相即融通して一法の二義なり。化他の法門は鏡の裏に向かふが如く、自行の観心は鏡の面に向かふが如し。化他の時の鏡も、自行の時の鏡も、我が心性の鏡は只一にして替はること無し。鏡を即身に譬へ、面に向かふを成仏に譬へ、裏に向かふをば衆生に譬へ、鏡に裏有るをば性悪を断ぜざるに譬へ、裏に向かふ時面の徳無きをば化他の功徳に譬ふるなり。衆生の仏性の顕はれざるに譬ふるなり。/自行と化他とは得失の力用なり。玄義の一に云く「薩婆悉達(さるばしつた)、祖王の弓を彎(ひい)て満てるを名づけて力と為し、七つの鉄鼓を中(やぶ)り、一つの鉄囲山を貫き、地を洞(とお)し水輪に徹(いた)るが如きを、名づけて用と為す〈自行の力用なり〉。諸の方便教は力用の微弱なること凡夫の弓箭の如し。何となれば、昔の縁は化他の二智を禀けて、理を照らすこと遍からず、信を生ずること深からず、疑ひを除くこと尽くさず〈已上化他〉。今の縁は自行の二智を禀けて仏の境界を極め、法界の信を起こし円妙の道を増し、根本の惑を断じ変易の生を損す。但生身及び生身得忍の両種の菩薩のみ倶に益するのみに非ず。法身法身の後心との両種の菩薩も亦以て倶に益す。化の功広大に、利潤弘深なる、蓋し茲の経の力用なり〈已上自行〉」自行と化他との力用、勝劣分明なること勿論なり。能く能く之れを見よ。一代聖教を鏡に懸けたる教相なり。/極仏境界とは十如是の法門なり。十界互ひに具足して、十界十如の因果、権実の二智二境は我が身の中に有りて、一人も漏るること無しと通達し解了して、仏語を悟り極むるなり。起法界信とは、十法界を体と為し、十法界を心と為し、十法界を形と為したまへる本覚の如来は我が身の中に有りけりと信ず。増円妙道とは、自行と化他との二は相即円融の法なれば、珠と光と宝との三徳は只一の珠の徳なるが如し。片時も相離れず、仏法に不足無し、一生の中に仏に成るべしと、慶喜の念を増すなり。断根本惑とは、一念無明の眠りを覚まして本覚の寤に還れば、生死も涅槃も倶に昨日の夢の如く、跡形も無きなり。損変易生とは、同居土の極楽と、方便土の極楽と、実報土の極楽との三土に往生する人、彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間、因は移り果は易(かわ)りて、次第に進み昇り劫数を経て、成仏の遠きを待つを、変易の生死と云ふなり。下位を捨つるを死と云ひ、上位に進むを生と云ふ。是の如く変易する生死は浄土の苦悩にて有るなり。/爰に凡夫の我等が此の穢土に於て法華を修行すれば、十界互具・法界一如なれば、浄土の菩薩の変易の生は損し、仏道の行は増して、変易の生死を一生の中に促(つづ)めて仏道を成ず。故に生身及び生身得忍の両種の菩薩の増道損生するなり。法身の菩薩とは生身を捨てて実報土に居するなり。後心の菩薩とは等覚の菩薩なり。但し迹門には生身及び生身得忍の菩薩を利益するなり。本門には法身と後身との菩薩を利益す。但し今は迹門を開して本門に摂めて一の妙法と成す。故に凡夫の我等穢土の修行の行の力を以て、浄土の十地・等覚の菩薩を利益する行なるが故に、化の功広大なり〈化他の徳用〉。利潤弘深とは〈自行の徳用〉、円頓の行者は自行と化他と一法をも漏さず一念に具足して、横に十方法界に遍するが故に弘なり。竪には三世に亘りて法性の淵底を極むるが故に深なり。此の経の自行の力用此の如し。化他の諸経は自行を具せざれば、鳥の片翼を以て空を飛ばざるが如し。故に成仏の人も無し。今法華経は自行・化他の二行を開会して不足無きが故に、鳥の二翼を以て飛ぶに障り無きが如く、成仏滞り無し。薬王品には十喩を以て自行と化他との力用の勝劣を判ぜり。第一の譬に云く「諸経は諸水の如し、法華は大海の如し」云云〈取意〉。実に自行の法華経の大海には、化他の諸経の衆水を入ること昼夜に絶えず。入ると雖も増ぜず減ぜず。不可思議の徳用を顕はす。諸経の衆水は片時の程も法華経の大海を納むること無し。自行と化他との勝劣是の如し。一を以て諸を例せよ。上来の譬喩は皆仏の所説なり。人の語を入れず。此の旨を意得れば一代聖教鏡に懸けて陰り無し。此の文釈を見て誰の人か迷惑せんや。三世の諸仏の総勘文なり。敢へて人の会釈を引き入るべからず。三世諸仏の出世の本懐なり。一切衆生成仏の直道なり。/四十二年の化他の経を以て立つる所の宗々は、華厳・真言・達磨・浄土・法相・三論・律宗・倶舎・成実等の諸宗なり。此等は皆悉く法華より已前の八教の中の教なり。皆是れ方便なり。兼但対帯の方便誘引なり。三世諸仏の説教の次第なり。此の次第を糾して法門を談ず。若し次第に違はば仏法に非ざるなり。一代教主の釈迦如来も三世諸仏の説教の次第を糾して一字も違へず。我も亦是の如しとて、経に云く「三世諸仏の説法の儀式の如く、我も今亦是の如く無分別の法を説く」已上。若し之れに違へば永く三世の諸仏の本意に背く。他宗の祖師各我が宗を立て、法華宗と諍ふこと、誤りの中の誤り、迷ひの中の迷ひなり。/徴他学(ちょうたがく)の決に之れを破して云く〈山王院〉「凡そ八万法蔵其の行相を統ぶるに四教を出でず。頭辺(はじめ)に示すが如く、蔵通別円は即ち声聞・縁覚・菩薩・仏乗なり。真言・禅門・華厳・三論・唯識・律業・成・倶の二論等の能と所と、教と理と、争でか此の四を過ぎん。若し過ぐると言はば豈に外邪に非ずや。若し出でずと言はば便ち他の所期を問ひ得よ〈即ち四乗の果なり〉。然して後に答へに随ひて推徴して理を極めよ。我が四教の行相を以て並べ検へて、彼の所期の果を決定せよ。若し我と違はば随って即ち之れを詰めよ。且く華厳の如きは、五教に各々に修因向果有り。初・中・後の行一ならず。一教一果是れ所期なるべし。若し蔵通別円の因と果とに非ざれば、是れ仏教ならざるのみ。三種の法輪・三時の教等、中に就きて定むべし。汝何者を以て所期の乗と為すや。若し仏乗なりと言はば未だ成仏の観行を見ず。若し菩薩と言はば、此れ亦即離の中道の異あるなり。汝正しく何れを取るや。設(も)し離の辺を取らば、果として成ずべき無し。如(も)し即是を要とせば、仏に例して之れを難ぜよ。謬りて真言を誦すとも、三観一心の妙趣を会せずんば、恐らくは別人に同じて妙理を証せじ。所以に他の所期の極に逐(したが)ひて、理に準じて〈我が宗の理なり〉徴(せ)むべし。因明の道理は外道と対す。多くは小乗及以(および)別教に在り。若し法華・華厳・涅槃等の経に望むれば摂引門なり。権(かり)に機に対して設けたり。終に以て引進するなり。邪小の徒をして会して真理に至らしむるなり。所以に論ずる時は、四依撃目の志を存して、之れを執着すること莫れ。又須く他の義を将(も)って、自義に対検して、随って是非を決すべし。執して之れを怨むこと莫れ〈大底他は多く三教に在り。円旨至りて少なきのみ〉」。先徳・大師の所判是の如し。諸宗の所立鏡に懸けて陰り無し。末代の学者何ぞ之れを見ずして妄りに教門を判ぜんや。/大綱の三教を能く能く学すべし。頓と漸と円とは三教なり。是れ一代聖教の総の三諦なり。頓・漸の二は四十二年の説なり。円教の一は八箇年の説なり。合して五十年なり。此の外に法無し。何に由りてか之れに迷はん。衆生に有る時には此れを三諦と云ひ、仏果を成ずる時には此れを三身と云ふ。一物の異名なり。之れを説き顕はすを一代聖教と云ふ。之れを開会して只一の総の三諦と成す時に成仏す。此れを開会と云ひ、此れを自行と云ふ。又他宗所立の宗々は、此の総の三諦を分別して八と為す。各々に宗を立つるに依りて、円満の理を欠きて成仏の理無し。是の故に余宗には実の仏無きなり。故に之れを嫌ふ意は不足なりと嫌ふなり。/円教を取りて一切諸法を観ずれば、円融・円満して十五夜の月の如く、不足無く満足し究竟すれば善悪をも嫌はず、折節をも撰ばず、静処をも求めず、人品をも択ばず。一切諸法は皆是れ仏法なりと知れば諸法を通達す。即ち非道を行ふとも、仏道を成ずるが故なり。天・地・水・火・風は是れ五智の如来なり。一切衆生の身心の中に住在して片時も離るること無きが故に、世間と出世と和合して心中に有りて、心外には全く別の法無きなり。故に之れを聞く時、立ち所に速やかに仏果を成ずること滞り無き道理至極なり。/総の三諦とは、譬へば珠と光と宝との如し。此の三徳有るに由りて如意宝珠と云ふ。故に総の三諦に譬ふ。若し亦珠の三徳を別々に取り放さば、何の用にも叶ふべからず。隔別の方便教の宗々も亦是の如し。珠を法身に譬へ、光を報身に譬へ、宝を応身に譬ふ。此の総の三徳を分別して宗を立つるを不足と嫌ふなり。之れを丸めて一と為すを総の三諦と云ふ。此の総の三諦は三身即一の本覚の如来なり。/又寂光をば鏡に譬へ、同居と方便と実報の三土をば鏡に遷る像(かたち)に譬ふ。四土も一土なり。三身も一仏なり。今は此の三身と四土と和合して仏の一体の徳なるを寂光の仏と云ふ。寂光の仏を以て円教の仏と為し、円教の仏を以て寤の実仏と為す。余の三土の仏は夢中の権仏なり。此れは三世の諸仏の只同じ語に勘文し給へる総の教相なれば、人の語も入らず、会釈も有らず。若し之れに違はば、三世の諸仏に背き奉る大罪人なり。天魔・外道なり。永く仏法に背くが故に。/之れを秘蔵して他人には見せざれ。若し秘蔵せずして妄りに之れを披露せば、仏法に証理無くして、二世に冥加無からん。謗ずる人出来せば三世の諸仏に背くが故に、二人乍ら倶に悪道に堕せんと識るが故に之れを誡むるなり。能く能く秘蔵して深く此の理を証し、三世の諸仏の御本意に相叶ひ、二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙り、滞り無く上々品の寂光の往生を遂げ、須臾の間に九界生死の夢の中に還り来て、身を十方法界の国土に遍じ、心を一切有情の身中に入れて、内よりは勧発し、外よりは引導し、内外相応し、因縁和合して、自在神通の慈悲の力を施し、広く衆生を利益すること滞り有るべからず。/三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思し食して世間に出現し給へり。一とは〈中道なり、法華なり〉、大とは〈空諦なり、華厳なり〉、事とは〈仮諦なり、阿含と方等と般若となり〉已上一代の総の三諦なり。之れを悟り知る時仏果を成ずるが故に、出世の本懐、成仏の直道なり。因とは、一切衆生の身中に総の三諦有りて常住不変なり。此れを総じて因と云ふなり。縁とは三因仏性は有りと雖も、善知識の縁に値はざれば、悟らず知らず顕はれず。善知識の縁に値へば必ず顕はるるが故に縁と云ふなり。/然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して、値ひ難き善知識の縁に値ひて五仏性を顕はさんこと、何の滞りか有らんや。春の時来たりて風雨の縁に値ひぬれば、無心の草木も皆悉く萌え出で生華敷(さ)き栄へて世に値ふ気色なり。秋の時に至りて月光の縁に値ひぬれば、草木皆悉く実(み)成熟して一切の有情を養育し、寿命を続き長養し、終に成仏の徳用を顕はす。之れを疑ひ之れを信ぜざる人有るべきや。無心の草木すら猶以て是の如し。何に況や人倫に於てをや。/我等は迷ふ凡夫なりと雖も一分の心も有り解も有り、善悪も分別し折節を思ひ知る。然るに宿縁に催されて、生を仏法流布の国土に受けたり。善知識の縁に値ひなば因果を分別して成仏すべき身を以て、善知識に値ふと雖も猶草木にも劣りて身中の三因仏性を顕はさずして黙止(もだ)せる謂れ有るべきや。此の度必ず必ず生死の夢を覚まし、本覚の寤に還りて生死の紲(きずな)を切るべし。/今より已後は夢中の法門を心に懸くべからざるなり。三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し、障り無く開悟すべし。自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰り無し。三世諸仏の勘文是の如し。秘すべし秘すべし。/弘安二年〈己卯〉十月日日蓮花押