滝泉寺大衆日秀日弁等陳状案

〔C0・弘安二年一〇月・得宗公文所(平頼綱)〕/〈大体此の状の様有るべきか。但し熱原の沙汰の趣に其の子細出来せるか〉/駿河の国富士下方滝泉寺の大衆、越後房日弁・下野房日秀等謹んで弁言す。/当寺院主代平左近入道行智、条々の自科を塞ぎ遮らんが為に、不実の濫訴を致す謂れ無き事。/訴状に云く、日秀・日弁日蓮房の弟子と号し、法華経より外の余経、或は真言の行人は、皆以て今世後世叶ふべからざるの由之れを申す云云〈取意〉。/此の条は日弁等の本師、日蓮聖人去ぬる正嘉以来の大仏星・大地動等を観見し、一切経を勘へて云く、当時日本国の為体(ていたらく)、権小に執著し実経を失没せるの故に、当に前代未有の二難起こるべし。所謂自界叛逆難・他国侵逼難なり。仍って治国の故を思ひ、兼日彼の大災難を対治せらるべきの由、去ぬる文応年中一巻の書を上表す〈立正安国論と号す〉。勘へ申す所皆以て符合す。既に金口の未来記に同じ。宛も声と響きとの如し。外書に云く「未萌を知るは聖人なり」。内典に云く「智人は起を知り、蛇は自ら蛇を知る」云云。之れを以て之れを思ふに、本師は豈に聖人に非ずや。巧匠内に在り、国宝外に求むべからず。外書に云く「隣国に聖人有るは敵国の憂ひなり」云云。内経に云く「国に聖人有れば、天必ず守護す」云云。外書に云く「世必ず聖智の君有り、而して復賢明の臣有り」云云。此の本文を見るに、聖人国に在るは、日本国の大喜にして蒙古国の大憂なり。諸竜を駆り催して、敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし。君既に賢人に在さば、豈に聖人を用ゐずして、徒らに他国の逼を憂へん。/抑大覚世尊、遥かに末法闘諍堅固の時を鑑み、此の如きの大難を対治すべきの秘術を、説き置かせらるるの経文明々たり。然りと雖も如来の滅後二千二百二十余年の間、身毒・尸那・扶桑等一閻浮提の内に未だ流布せず。随って四依の大士、内に鑑みて説かず、天台伝教而も演べず、時未だ至らざるの故なり。法華経に云く「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布す」云云。天台大師云く「後五百歳」。妙楽云く「五五百歳」。伝教大師云く「代を語れば則ち像の終り末の初め、地を尋ぬれば唐の東、羯の西、人を原(たず)ぬれば則ち五濁の生闘諍の時なり」云云。東勝西負の明文なり。/法主聖人時を知り、国を知り、法を知り、機を知り、君の為、民の為、神の為、仏の為、災難を対治せらるべきの由勘へ申すと雖も、御信用無きの上、剰へ謗法の人等の讒言に依りて、聖人頭に疵を負ひ左手を打ち折らるる上、両度まで遠流の責めを蒙り、門弟等所々に射殺され、切り殺され、殺害・刃傷・禁獄・流罪・打擲・擯出・罵詈等の大難、勝計すべからず。茲に因りて大日本国皆法華経の大怨敵と成り、万民悉く一闡提の人と為るの故に、天神国を捨て地神所を辞し、天下静かならざるの由、粗伝承するの間、其の仁に非ずと雖も、愚案を顧みず言上せしむる所なり。外経に云く「奸人朝に在れば賢者進まず」云云。内経に云く「法を壊る者を見て責めざる者は仏法の中の怨なり」云云。/又風聞の如くんば、高僧等を屈請して蒙古国を調伏す云云。其の状を見聞するに、去ぬる元暦承久の両帝、叡山の座主・東寺・御室・七大寺・園城寺等検校、長吏等の諸の真言師を請ひ向け、内裏の紫宸殿にして故源右将軍並びに故平右虎牙を呪咀し奉る日記なり。此の法を修するの仁は弱くして之れを行へば必ず身を滅し、強くして之れを持てば定めて主を失ふなり。然れば則ち安徳天皇は西海に沈没し、叡山の明雲は流れ矢に当り死し、後鳥羽法皇は夷島に放ち捨てられ、東寺・御室は自ら高山に死し、北嶺の座主は改易の恥辱に値ふ。現罰眼に遮れり、後賢之れを畏る。聖人山中の御悲しみは是れなり。次に阿弥陀経を以て例時の勤めと為すべきの由の事。夫れ以みれば花と月と水と火と、時に依りて之れを用ゐる。必ずしも先例を追ふべからず。仏法又是の如し。時に随ひて用捨す。其の上汝等の執する所の四枚の阿弥陀経は「四十余年未顕真実」の小経なり。一閻浮提第一の智者たる舎利弗尊者は多年の間、此の経を読誦するも終に成仏を遂げず。然る後彼の経を抛ち、法華経に来至して華光如来と為る。況や末代悪世の愚人、南無阿弥陀仏の題目計りを唱へて順次往生を遂ぐべしや。故に仏之れを誡めて言く、法華経に云く「正直に方便を捨てて但無上道を説く」云云。教主釈尊正しく阿弥陀経を抛ちたまふ云云。又涅槃経に云く「如来は虚妄の言無しと雖も、若し衆生の虚妄の説に因るを知れば」云云。正しく弥陀念仏を以て虚妄と称する文なり。法華経に云く「但楽ひて大乗経典を受持して、乃至余経の一偈をも受けざれ」云云。妙楽大師云く「況や彼の華厳は但福を以て比す。此の経の法を以て之れを化するに同じからず。故に乃至不受余経一偈と云ふ」云云。/彼の華厳経は寂滅道場の説、法界唯心の法門なり。上本は十三世界微塵品、中本は四十九万八千偈、下本は十万偈四十八品。今現に一切経蔵を観るに唯八十・六十・四十等の経なり。其の外の方等・般若・大日経金剛頂経等の諸の顕密大乗経等を、尚法華経に対当し奉りて、仏自ら或は「未顕真実」と云ひ、或は「留難多きが故に」或は「門を閉じよ」或は「抛ちて」等云云。何に況や阿弥陀経をや。唯大山と蟻岳との高下、師子王と狐兎との角力なり。今日秀等、彼等小経を抛ちて専ら法華経を読誦し、法界に勧進して南無妙法蓮華経と唱へ奉る。豈に殊忠に非ずや。此等の子細御不審を相貽(のこ)さば、高僧等を召し合はされ、是非を決せらるべきか。仏法の優劣を糺明せらるる事は、月氏・漢土・日本の先例なり。今明時に当りて何ぞ三国の旧規に背かん。/訴状に云く、今月二十一日数多の人勢を催し、弓箭を帯し、院主分の御坊内に打ち入り、下野房は乗馬相具し、熱原の百姓紀次郎男点札を立て、作毛を刈り取り、日秀の住房に取り入れ畢んぬ云云〈取意〉。/此の条跡形も無き虚誕(きょたん)なり。日秀等は行智に損亡せられて、不安堵の上は、誰の人か日秀等の点札を叙用せしむべき。将又弱(おうじゃく)なる土民の族、日秀等に雇ひ越されんや。如(も)し然らば、弓箭を帯し悪行を企つるに於ては、行智と云ひ近隣の人々と云ひ争でか弓箭を奪ひ取り、其の身を召し取りて子細を申さざらんや。矯飾の至り宜しく賢察に足るべし。日秀・日弁等当寺代々の住侶と為り、行法の薫(いさお)を積むの条、天長地久の御祈祷を致すの処、行智は当寺霊地の院主代に補し乍ら、寺家三河房頼円・並びに少輔房日禅・日秀・日弁等に仰せて、行智、法華経に於ては不信用の法なり。速やかに法華経の読誦を停止し、一向に阿弥陀経を読み念仏を申すべきの由、起請文を書けば安堵すべきの旨、下知せしむるの間、頼円は下知に随ひて起請を書きて、安堵せしむと雖も、日禅等は起請を書かざるに依りて、所職の住坊を奪ひ取るの時、日禅は即ち離散せしめ畢んぬ。日秀・日弁は無頼の身たるに依りて、所縁を相憑み猶寺中に寄宿せしむるの間、此の四箇年の程、日秀等の所職の住坊を奪ひ取り、厳重に御祈祷を打ち止むるの余り、悪行猶以て飽き足らずして、法華経の行者の跡を削らんが為に、謀案を構へて種々の不実を申し付くるの条、豈に在世の調達に非ずや。/凡そ行智の所行は、法華三昧の供僧和泉房蓮海を以て、法華経を柿紙に作り、紺形を彫る。堂舎の修治の為に、日弁に御書下(かきくだし)を給ひ構へ置く所の上葺の榑一万二千寸の内八千寸を、之れを私用せしむ。下方の政所代に勧め、去ぬる四月御神事の最中に、法華経信心の行人四郎男を刃傷せしめ、去ぬる八月弥四郎坊男の頸を切らしむ。〈日秀等の刎頭に擬する事を此の中に書き入れよ〉無智無才の盗人兵部房静印を以て過料を取りて、器量の仁と称して、当寺の供僧に補せしめ。或は寺内の百姓等を催し、鶉を取り狸を狩り狼落の鹿を殺し、別当の坊に於て之れを食ひ、或は毒物を仏前の池に入れ、若干の魚類を殺し、村里に出でて之れを売る。見聞の人耳目を驚かさざるは莫し。仏法破滅の基、悲しみても余り有り。此の如き不善の悪行日々相積むの間、日秀等愁歎の余り、依りて上聞を驚かさんと欲す。行智条々の自科を塞がんが為に、種々の秘計を廻らし、近隣の輩を相語らひ、遮りて跡形も無き不実を申し付け、日秀等を損亡せしめんと擬するの条言語道断の次第なり。冥に付け顕に付け戒めの御沙汰無からんや。/所詮仏法の権実と云ひ、沙汰の真偽と云ひ淵底を究めて御尋ね有り、且つは誠諦の金言に任せ、且つは式条の明文に准じて、禁遏(きんあつ)を加へられば、守護の善神は変を銷(け)し擁護の諸天は咲みを含まん。然れば則ち不善悪行の院主代行智を改易せられ、将又、本主此の重科を脱れ難からん。何ぞ実相寺に例如せん。誤らざるの道理に任せて、日秀・日弁等は安堵の御成敗を蒙り、堂舎を修理せしめ、天長地久御祈祷の忠勤を抽んでんと欲す。仍って状を勒し披陳す。言上件の如し。弘安二年十月日沙門日秀日弁等上/法華三昧供僧和泉房蓮海、法華経を柿紙に作り紺形に彫るは重科の上謗法なり。仙予国王は閻浮第一の持戒の仁、慈悲喜捨を具足する菩薩の位なり。而も又師範なり。然りと雖も法華経を誹謗する婆羅門五百人を刎頭す。其の功徳に依りて妙覚位に登る。歓喜仏の末、諸の小乗権大乗の者、法華経の行者覚徳比丘を殺害せんとす。有徳国王、諸の小権法師等を或は射殺し、或は切り殺し、或は打ち殺し、迦葉仏等と為る。戒日大王・宣宗皇帝・聖徳太子等、此の先証を追ひて、仏法の怨敵を討罰す。此等の大王は皆持戒の仁、善政未来に流る。今行智の重科は不可□□。然りと雖も日本一同誹謗を為すの上は、其の子細御尋ねに随ひて之れを申すべし。