九郎太郎殿御返事

〔C2・文永一一年一一月一日・九郎太郎〕/これにつけても、こうえのどの(故上野殿)の事こそ、をもひいでられ候へ。/いも(芋)一駄・くり(栗)・やきごめ(焼米)・はじかみ(生姜)給はり候ひぬ。さてはふかき山にはいも(芋)つくる人もなし。くり(栗)もならず、はじかみもをひず。まして、やきごめみへ候はず。たといくり(栗)なりたりとも、さる(猿)のこすべからず。いえのいもはつくる人なし。たといつくりたりとも人にくみてたび候はず。いかにしてか、かかるたかき山へはきたり候べき。/それ山をみ候へばたかきよりしだい(次第)にしもえくだれり。うみ(海)をみ候へば、あそきよりしだいにふかし。代をみ候へば、三十年・二十年・十年・五年・四・三・二・一、次第にをとろへたり。人の心もかくのごとし。これはよ(世)のすへになり候へば、山にはまがれるき(木)のみとどまり、の(野)にはひききくさ(草)のみをひたり。よにはかしこき人はすくなく、はかなきものはをほし。牛馬のちち(父)をしらず、兎羊の母をわきまえざるがごとし。仏御入滅ありては二千二百二十余年なり。代すへになりて智人次第にかくれて、山のくだれるごとく、くさのひききににたり。念仏を申し、かい(戒)をたもちなんどする人はををけれども、法華経をたのむ人すくなし。星は多けれども大海をてらさず。草は多けれども大内の柱とはならず。念仏は多けれども仏と成る道にはあらず。戒は持てども浄土へまひる種とは成らず。但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ。/此れを申せば人はそねみて用ゐざりしを、故上野殿信じ給ひしによりて仏に成らせ給ひぬ。各々は其の末にて此の御志をとげ給ふか。竜馬につきぬるだには千里をとぶ。松にかかれるつた(蘿)は千尋をよづと申すは是れか。各々主の御心なり。つち(土)のもちゐ(餅)を仏に供養せし人は王となりき。法華経は仏にまさらせ給ふ法なれば、供養せさせ給ひて、いかでか今生にも利生にあづかり、後生にも仏にならせ給はざるべき。その上み(身)ひんにしてげにん(下人)なし。山河わづらひあり。たとひ心ざしありともあらはしがたきに、いまいろ(色)をあらはさせ給ふにしりぬ、をぼろげならぬ事なり。さだめて法華経の十羅刹まぼらせ給ひぬらんとたのもしくこそ候へ。事つくしがたし。恐々謹言。/文永十一年十一月一日日蓮花押/九郎太郎殿御返事