兵衛志殿御返事

〔C0・弘安元年五月頃・池上宗長〕/御ふみにかかれて候上、大にのあざり(阿闍梨)のかたり候は、ぜに十余れん並びにやうやうの物ども候ひしかども、たうじはのうどき(農時)にて□□□□人もひきたらぬよし□□□も及び候はざりけ□□□□兵衛志殿の御との□□□□御夫馬にても□□□□て候よし申し候。/夫れ百済国より日本国に仏法のわたり候ひしは、大船にのせて此れをわたす。今のよど河よりあをみの水海につけて候ものは、車にて洛陽へははこび候。それがごとく、たとい、かまくらにいかなる物を人たびて候とも、夫と馬となくばいかでか日蓮が命はたすかり候べき。昔徳勝童子は土餅を仏に□□□□□阿育大王と□□□□□□□□□くやうしまいらせ候ひしゆへに、阿育大王の第一の大臣羅提吉(らだいきち)となりて一閻浮提の御うしろめ、所謂ををい殿の御時の権大夫殿のごとし。此れは彼等にはにるべくもなき大功徳。此の歩馬はこんでいこま(金泥駒)となり、此の御との人はしやのくとねり(舎人)となりて、仏になり給ふべしとをぼしめすべし。抑すぎし事なれども、あまりにたうとくうれしき事なれば申す。/昔波羅捺国に摩訶羅王と申す大王をはしき。彼の大王に二の太子あり。所謂善友太子・悪友太子なり。善友太子の如意宝珠を持ちてをはせしかば、此れをとらむがために、をとの悪友太子は兄の善友太子の眼をぬき給ひき。昔の大王は今の浄飯王、善友太子は今の釈迦仏、悪友太子は今の提婆達多此れなり。兄弟なれども、たからをあらそいて、世々生々にかたきとなりて、一人は仏なり、一人は無間地獄にあり。此れは過去の事、他国の事なり。我が朝には一院、さぬきの院は兄弟なりしかども、位をあらそいて、ついにかたきとなり給ひて、今に地獄にやをはすらむ。当世めにあたりて、此の代のあやをきも兄弟のあらそいよりをこる。大将殿と申せし賢人も九郎判官等の舎弟等をほろぼし給ひて、かへりて我が子ども皆所従等に失はれ給ふ。眼前の事ぞかし。/とのばら(殿原)二人は上下こそありとも、とのだにもよくふかく、心まがり、道理をだにもしらせ給はずば、ゑもん(衛門)の大夫志殿はいかなる事ありとも、をやのかんだう(勘当)ゆるべからず。ゑもんのたいうは法華経を信じて仏になるとも、をやは法華経の行者なる子をかんだうして地獄に堕つべし。とのはあにとをやとをそんずる人になりて、提婆達多がやうにをはすべかりしが、末代なれども、かしこき上、欲なき身と生まれて、三人ともに仏になり給ひ、ちちかた、ははかたのるい(類)をもすくい給ふ人となり候ひぬ。又とのの御子息等もすへの代はさかうべしとをぼしめせ。此の事は一代聖教をも引きて百千まいにかくとも、つくべしとはをもわねども、やせやまいと申し、身もくるしく候へば、事々申さず。あわれあわれ、いつかげざん(見参)に入りて申し候はん。又むかいまいらせ候ひぬれば、あまりのうれしさに、かたられ候はず候へば、あらあら申す。よろづは心にすいしはからせ給へ。女房の御事、同じくよろこぶと申させ給へ。恐々謹言。