始聞仏乗義

〔C0・建治四年二月二八日・富木常忍〕/青鳧(せいふ)七結、下州より甲州に送らる。其の御志悲母の第三年に相当たる御孝養なり。/問ふ、「止観明静前代未聞」の心如何。答ふ、「円頓止観」なり。問ふ、円頓止観の意何。答ふ、法華三昧の異名なり。問ふ、法華三昧の心如何。答ふ、夫れ末代の凡夫法華経を修行する意に二有り。一には就類種の開会、二には相対種の開会なり。問ふ、此の名は何より出でたるや。答ふ、法華経の第三薬草喩品に云へる「種相体性」の四字なり。其の四字の中に、第一の種の一字に二あり。一には就類種、二には相対種なり。其の就類種とは、釈に云く「凡そ心有らん者は是れ正因の種なり。随聞一句は是れ了因の種なり。低頭挙手は是れ縁因の種なり」等云云。其の相対種とは、煩悩と業と苦との三道、其の当体を押へて法身と般若と解脱と称する是れなり。其の中に就類種の一法は、宗は法華経に有りと雖も、少分は又爾前の経々にも通ず。妙楽云く「別教には唯就類の種有りて而も相対無し」云云。此の釈の別教と云ふは、本の別教には非ず、爾前の円、或は他師の円なり。又法華経の迹門の中「供養舎利」已下二十余行の法門も大体就類種の開会なり。問ふ、其の相対種の心如何。答ふ、止観に云く「云何なるか円の法を聞く。生死即法身、煩悩即般若、結業即解脱なりと聞くなり。三の名有りと雖も而も三の体無し。是れ一体なりと雖も而も三の名を立つ。是の三即ち一相にして、其れ実には異なり有ること無し。法身究竟すれば般若解脱も亦究竟す。般若清浄なれば余も亦清浄なり。解脱自在なれば余も亦自在なり。一切の法を聞くも亦是の如し。皆仏法を具して減少する所無し。是れを聞円と名づく」等云云。此の釈は即ち相対種の手本なり。其の意如何。答ふ、生死とは我等が苦果の依身なり。所謂五陰・十二入・十八界なり。煩悩とは見思・塵沙・無明の三惑なり。結業とは五逆・十悪・四重等なり。法身とは法身如来、般若とは報身如来、解脱とは応身如来なり。我等衆生、無始曠劫より已来此の三道を具足し、今法華経に値ひて三道即三徳となるなり。/難じて云く、火より水は出でず、石より草は生ぜず。悪因は悪果を感じ、善因は善報を生ずるは仏教の定まれる習ひなり。而るに我等其の根本を尋ね究むれば、父母の精血赤白二渧和合して一身と為る。悪の根本、不浄の源なり。設ひ大海を傾けて之れを洗ふとも清浄なるべからず。又此の苦果の依身は其の根本を探り見れば、貪・瞋・痴の三毒より出づるなり。此の煩悩・苦果の二道に依りて業を構ふ。此の業道即ち是れ結縛の法なり。譬へば籠に入れる鳥の如し。如何ぞ此の三道を以て三仏因と称するや。譬へば糞を集めて栴檀を造れども終に香ばしからざるが如し。答ふ、汝が難大いに道理なり。我此の事を弁へず。但し付法蔵の第十三・天台大師の高祖・竜樹菩薩、妙法の妙の一字を釈して「譬へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」等云云。毒と云ふは何物ぞ、我等が煩悩・業・苦の三道なり。薬とは何物ぞ、法身・般若・解脱なり。「能以毒為薬」とは何物ぞ、三道を変じて三徳と為すのみ。天台云く「妙とは不可思議に名づく」等云云。又云く「夫れ一心乃至不可思議境の意此に在り」等云云。即身成仏と申すは此是(これ)なり。近代の華厳・真言等、此の義を盗み取りて我が物と為す。大偸盗、天下の盗人是れなり。/問うて云く、凡夫の位も此の秘法の心を知るべきや。答ふ、私の答へは詮無し。竜樹菩薩の大論〈九十三也〉に云く「今漏尽の阿羅漢還りて作仏すと言ふは、唯仏のみ能く知ろしめす。論議とは正しく其の事を論ずべきも測り知ること能はず。是の故に戯論すべからず。若し仏を求得する時、乃(いま)し能く了知す。余人は信ずべし。而も未だ知るべからず」等云云。此の釈は爾前の別教の十一品の断無明、円教の四十一品の断無明の大菩薩、普賢・文殊等も未だ法華経の意を知らず。何に況や蔵通二教の三乗をや。何に況や末代の凡夫をやと云ふ論文なり。之れを以て案ずるに、法華経の「唯仏与仏乃能究尽」とは、爾前の灰身滅智の二乗の煩悩・業・苦の三道を押へて、法身・般若・解脱と説くに二乗還りて作仏す。菩薩・凡夫も亦是の如しと釈するなり。故に天台の云く「二乗の根敗、之れを名づけて毒と為す。今経に記を得るは即ち是れ毒を変じて薬と為す。論に云く、余経は秘密に非ず、法華は是れ秘密なり」等云云。妙楽云く「論に云くとは大論なり」云云。/問ふ、是の如き之れを聞いて何の益有らんや。答へて云く、始めて法華経を聞くなり。妙楽云く「若し三道即ち是れ三徳と信ぜば尚能く二死の河を度(わた)る。況や三界をや」云云。末代の凡夫此の法門を聞かば、唯我一人のみ成仏するに非ず、父母も又即身成仏せん。此れ第一の孝養なり。病の身たるの故に委細ならず。又々申すべし。/建治四年〈太歳戊寅〉二月二十八日日蓮(花押)富木殿