四条金吾殿御書

〔C6・建治四年一月二五日・四条金吾〕/鷹取のたけ(岳)・身延のたけ・なないた(七面)がれのたけ・いいだに(飯谷)と申し、木のもと、かや(萱)のね、いわの上、土の上、いかにたづね候へどもをひて候ところなし。されば海にあらざればわかめなし、山にあらざればくさびら(茸)なし。法華経にあらざれば仏になる道なかりけるか。/これはさてをき候ひぬ。なによりも承りて、すずしく候事は、いくばくの御にくまれの人の御出仕に、人かずにめしぐ(召具)せられさせ給ひて、一日二日ならず御ひまもなきよし、うれしさ申すばかりなし。えもんのたいう(右衛門大夫)のをや(親)に立ちあひて、上の御一言にてかへりてゆ(許)りたると、殿のすねん(数年)が間のにくまれ、去年のふゆ(冬)はかうとき(聞)きしに、かへりて日々の御出仕の御とも、いかなる事ぞ。ひとへに天の御計らひ、法華経の御力にあらずや。/其の上、円教房の来たりて候ひしが申し候は、えま(江馬)の四郎殿の御出仕に、御とものさぶらひ二十四五き(騎)、其の中にしう(主)はさてをきたてまつりぬ。ぬし(主)のせい(身長)といひ、かを(面)・たましひ(魂)・むま(馬)・下人までも、中務の左衛門尉第一なり。あはれ(天晴)をとこ(男)やをとこやと、かまくら(鎌倉)わらはべ(童)はつじ(辻)にて申しあひて候ひしとかたり候。これにつけてもあまりにあやしく候。孔子は九思一言、周公旦は浴する時は三度にぎり、食する時は三度はかせ給ふ。古への賢人なり、今の人のかがみなり。されば今度はことに身をつつしませ給ふべし。よる(夜)はいかなる事ありとも、一人そと(外)へ出でさせ給ふべからず。たとひ上の御めし有りとも、まづ下人をごそ(御所)へつかわして、なひなひ(内々)一定をききさだめて、はらまき(腹巻)をきてはちまき(鉢巻)し、前後左右に人をたてて出仕し、御所のかたわらに心よせのやかたか、又我がやかたかにぬ(脱)ぎをきてまいらせ給ふべし。家へかへらんには、さきに人を入れて、と(戸)のわき・はし(端)のした・むまや(廐)のしり・たかど(高処)の一切くらきところをみせて入るべし。せうまう(焼亡)には、我が家よりも人の家よりもあれ、たから(財)ををしみて、あわてて火をけすところへつっとよるべからず。まして走り出づる事なかれ。出仕より主の御ともして御かへりの時は、みかど(御門)より馬よりをりて、いとまのさしあうよし、はうくわんに申していそぎかへるべし。上のををせなりとも、よ(夜)に入りて御ともして御所にひさしかるべからず。かへらむには第一心にふかきえうじん(用心)あるべし。ここをばかならずかたきのうかがうところなり。人のさけ(酒)たば(賜)んと申すともあやしみて、あるひは言をいだし、あるひは用ゐることなかれ。/又御をとど(舎弟)どもには常はふびんのよしあるべし。つねにゆぜに(湯銭)ざうり(草履)のあたい(価)なんど心あるべし。もしやの事のあらむには、かたきはゆるさじ。我がためにいのち(命)をうしなはんずる者ぞかしとをぼして、とがありともせうせうの失をばしらぬやうにてあるべし。又女るひはいかなる失ありとも、一向に御けうくん(教訓)までもあるべからず。ましていさかうことなかれ。涅槃経に云く「罪極めて重しと雖も女人に及ぼさず」等云云。文の心は、いかなる失ありとも女のとがををこなはざれ。此れ賢人なり、此れ仏弟子なりと申す文なり。此の文は阿闍世王の父を殺すのみならず、母をあやまたむとせし時、耆婆・月光の両臣がいさめたる経文なり。我がはは(母)の心ぐるしくをもひて、臨終までも心にかけしいもうと(妹)どもなれば、失をめんじて、不便というならば、母の心やすみて孝養となるべしとふかくをぼすべし。他人をも不便というぞかし。いわうや、をとをと(舎弟)どもをや。もしやの事の有るには一所にていかにもなるべし。此等こそとどまりゐてなげ(歎)かんずれば、をもひで(思ひ出)にとふかくをぼすべし。かやう申すは他事はさてをきぬ。双六は二つある石はかけられず、鳥は一つの羽にてとぶことなし。将門・貞任がやうなりしいふしやう(勇将)も一人にては叶はず。されば舎弟等を子とも郎等ともうちたのみてをはせば、もしや法華経もひろまらせ給ひて世にもあらせ給わば、一方のかたうど(方人)たるべし。/すでにきゃう(京)のだいり(内裏)院のごそ(御所)、かまくら(鎌倉)の御所、並びに御うしろみ(後見)の御所、一年が内に二度正月と十二月とにやけ候ひぬ。これ只事にはあらず。謗法の真言師等を御師とたのませ給ふ上、かれら法華経をあだみ候ゆへに、天のせめ、法華経十羅刹の御いさめあるなり。かへりて大さんげ(懺悔)あるならばたすかるへんもやあらんずらん。いたう天の此の国ををしませ給ふゆへに、大いなる御いさめあるか。すでに他国が此の国をう(打)ちま(捲)きて国主国民を失はん上、仏神の寺社百千万がほろびんずるを、天眼をもって見下ろしてなげかせ給ふなり。又法華経の御名をいういう(優々)たるものどもの唱ふるを、誹謗正法の者どもがをどし候を、天のにくませ給ふ故なり。あなかしこあなかしこ、今年かしこ(賢)くして物を御らんぜよ。山海空市まぬかるるところあらばゆきて今年はすぎぬべし。阿志陀仙人が仏の生まれ給ひしを見て、いのちををしみしがごとし、をしみしがごとし。恐々謹言。/正月二十五日日蓮花押/中務左衛門尉殿