実相寺御書

〔C4・建治四年一月一六日・実相寺豊前公御房〕/新春の御札の中に云く、駿河国実相寺の住侶尾張阿闍梨と申す者、玄義四の巻に涅槃経を引きて、小乗を以て大乗を破し、大乗を以て小乗を破するは、盲目の因なりと釈せらるる由、申し候なるは実にて候やらん。反詰して云く、小乗を以て大乗を破し、大乗を以て小乗を破するは盲目ならば、弘法大師・慈覚大師・智証等は、されば盲目となり給ひたりけるか。善無畏・金剛智・不空等は盲目と成り給ふと殿はの給ふかとつめよ。玄義の四に云く「問ふ、法華に麁を開するに麁をして皆妙に入る、涅槃は何の意ぞ、更に次第の五行を明かすや。答ふ、法華は仏世の人の為に、権を破して実に入る。復麁有ること無く、教意整足す。涅槃は末代の凡夫の見思の病重く、一実を定執して方便を誹謗し、甘露を服すと雖も、事に即して真なること能はず。命を傷ひ早夭するが為の故に、戒・定・恵を扶けて大涅槃を顕はす。法華の意を得る者は、涅槃に於て次第の行を用ゐざるなり」。籖の四に云く「次に料簡の中、扶戒定恵と言ふは、事戒・事定・前三教の恵並びに事法を扶くるが為の故なり。具には止観の対治助開の中に説くが如し。今時の行者、或は一向に理を尚ぶときは、則ち己聖に均しと謂ひ、及び実に執して権を謗ず。或は一向に事を尚ぶときは、則ち功を高位に推り、及び実を謗じて権を許す。既に末代に処して聖旨を思はずんば、其れ誰か斯の二の失に堕せざらん。法華の意を得るときは則ち初後倶に頓なり。請ふ、心を揣(はか)り臆を撫(な)で自ら浮沈を暁らん」等云云。此の釈に迷惑する者か。此の釈は所詮或は一向尚理とは達磨宗に等しきなり。及び執実謗権とは華厳宗真言宗なり。或は一向尚事とは浄土宗・律宗なり。及謗実許権とは法相宗なり。/夫れ法華経の妙の一字に二義有り。一は相待妙、麁を破して妙を顕はす。二は絶待妙、麁を開して妙を顕はす。爾前の諸経並びに法華已後の諸経は、破麁顕妙の一分之れを説くと雖も、開麁顕妙は全分之れ無し。爾るに諸経に依憑する人師は、彼々の経々に於て、破顕の二妙を存し、或は天台の智恵を盗み、或は民家に天下を行ふのみ。設ひ開麁を存すと雖も、破の義免れ難きか。何に況や上に挙ぐる所の一向執権、或は一向執実等の者をや。而るに彼の阿闍梨等は自科を顧みざる者にして嫉妬するの間、自眼を回転して大山を眩ると観るか。先に実を以て権を破し、権執を絶して実に入るは、釈迦・多宝・十方の諸仏の常儀なり。実を以て権を破する者を盲目と為せば、釈尊は盲目の人か、乃至、天台・伝教は盲目の人師なるか如何。笑ふべし、返す返す。/四十九院等の事。彼の別当等は無智の者たる間、日蓮に向かひて之れを恐る。小田一房等怨を為すか。弥(いよいよ)彼等が邪法滅すべき先兆なり。根露はるれば枝枯れ、源竭(つ)くれば流れ尽くると云へる本文虚しからざるか。弘法・慈覚・智証三大師の法華経誹謗の大科、四百余年の間隠せる根露はれ枝枯るるなり。今日蓮之れを糺明せり。拘留外道が石と為りて数百年、陳那菩薩に責められ、石則ち水と為る。尼が立てし塔は、馬鳴之れを頽す。臥せる師子に手を触れば瞋りを為す等是れなり。/建治四年正月十六日日蓮花押/駿河国実相寺豊前公御房御返事