法華初心成仏抄

〔C6・不明〕/問うて云く、八宗九宗十宗の中に何れか釈迦仏の立て給へる宗なるや。答へて云く、法華宗は釈迦所立の宗なり。其の故は、已説・今説・当説の中には法華経第一なりと説き給ふ。是れ釈迦仏の立て給ふ処の御語なり。故に法華経をば仏立宗と云ひ、又は法華宗と云ふ。又天台宗とも云ふなり。故に伝教大師の釈に云く「天台所釈の法華の宗は釈迦世尊所立の宗」と云へり。法華より外の経には全く已今当の文なきなり。已説とは法華より已前の四十余年の諸経を云ひ、今説とは無量義経を云ひ。当説とは涅槃経を云ふ。此の三説の外に法華経計り成仏する宗なりと仏定め給へり。/余宗は、仏涅槃し給ひて後、或は菩薩、或は人師達の建立する宗なり。仏の御定を背きて、菩薩・人師の立てたる宗を用ゐるべきか。菩薩・人師の語を背きて、仏の立て給へる宗を用ゐるべきか。又何れをも思ひ思ひに我が心に任せて、志あらん経法を持つべきかと思ふ処に、仏是れを兼ねて知ろし召して、末法濁悪の世に真実の道心あらん人々の持つべき経を定め給へり。経に云く「法に依りて人に依らざれ、義に依りて語に依らざれ、知に依りて識に依らざれ、了義経に依りて不了義経に依らざれ」文。此の文の心は、菩薩・人師の言には依るべからず、仏の御定を用ゐよ、華厳・阿含・方等・般若経等、真言禅宗・念仏等の法には依らざれ、了義経を持つべし、了義経と云ふは法華経を持つべしと云ふ文なり。/問うて云く、今日本国を見るに、当時五濁の障り重く、闘諍堅固にして瞋恚の心猛く、嫉妬の思ひ甚だし。かかる国、かかる時には、何れの経を弘むべきや。答へて云く、法華経を弘むべき国なり。其の故は、法華経に云く「閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」等云云。瑜伽論には、丑寅の隅に大乗妙法蓮華経の流布すべき小国ありと見えたり。安然和尚云く「我が日本国」等云云。天竺よりは丑寅の角に此の日本国は当たるなり。又恵心僧都の一乗要決に云く「日本一州円機純一にして、朝野遠近同じく一乗に帰し、緇素貴賤悉く成仏を期す」云云。此の文の心は、日本国は京・鎌倉・筑紫・鎮西・みちをく(陸奥)、遠きも近きも法華一乗の機のみ有りて、上も下も、貴きも賤しきも、持戒も破戒も、男も女も、皆おしなべて法華経にて成仏すべき国なりと云ふ文なり。譬へば崑崙山に石なく蓬莱山に毒なきが如く、日本国は純らに法華経の国なり。/而るに法華経は元よりめでたき御経なれば、誰か信ぜざると語には云ひて、而も昼夜朝暮に弥陀念仏を申す人は、薬はめでたしとほめて朝夕毒を服する者の如し。或は念仏も法華経も一つなりと云はん人は、石も玉も上臈も下臈も毒も薬も一つなりと云はん者の如し。其の上、法華経を怨み嫉み悪み毀り軽しめ賤しむ族のみ多し。経に云く「一切世間多怨難信」。又云く「如来現在猶多怨嫉況滅度後」の経文少しも違はず当たれり。されば伝教大師の釈に云く「代を語れば則ち像の終り末の初め、地を尋ぬれば唐の東、羯の西、人を原(たず)ぬれば則ち五濁の生闘諍の時なり。経に云く、猶多怨嫉況滅度後と。此の言良に以(ゆえ)有るなり」。此等の文釈をもって知んぬべし。日本国に法華経より外の真言・禅・律宗念仏宗等の経教、山々・寺々・朝野遠近に弘まるといへども、正しく国に相応して、仏の御本意に相叶ひ、生死を離るべき法にはあらざるなり。/問うて云く、華厳宗には五教を立て、余の一切の経は劣れり、華厳経は勝ると云ひ、真言宗には十住心を立て、余の一切経は顕経なれば劣るなり、真言宗密教なれば勝れたりと云ふ。禅宗には余の一切経をば教内と簡びて、教外別伝不立文字と立て、壁に向かひて悟れば禅宗独り勝れたりと云ふ。浄土宗には正雑二行を立て、法華経等の一切の経をば捨閉閣抛し雑行と簡ひ、浄土の三部経を機に叶ひめでたき正行なりと云ふ。各々我慢を立て、互ひに偏執を作す。何れか釈迦仏の御本意なるや。答へて云く、宗々各別に我が経こそすぐれたれ、余経は劣れりと云ひて、我が宗吉しと云ふ事は唯是れ人師の言にて仏説にあらず。但し法華経計りこそ、仏五味の譬へを説いて五時の教に当たりてて、此の経の勝れたる由を説き、或は又已今当の三説の中に、仏になる道は法華経に及ぶ経なし、と云ふ事は正しき仏の金言なり。然るに我が経は法華経に勝れたり、我が宗は法華宗に勝れたり、と云はん人は、下臈が上臈を凡下と下し、相伝の従者が主に敵対して我が下人なりと云はんが如し。何ぞ大罪に行はれざらんや。法華経より余経を下す事は人師の言にあらず。経文分明なり。譬へば国王の万人に勝れたりと名乗り、侍の凡下を下臈と云はんに、何の禍かあるべきや。此の経は是れ仏の御本意なり。天台・妙楽の正意なり。/問うて云く、釈迦一期の説法は皆衆生のためなり。衆生の根性万差なれば説法も種々なり。何れも皆得道なるを本意とす。然れば我が有縁の経は人の為には無縁なり。人の有縁の経は我が為には無縁なり。故に余経の念仏によりて得道なるべき者の為には、観経等はめでたし、法華経等は無用なり。法華によりて成仏得道なるべき者の為には、余経は無用なり、法華経はめでたし。「四十余年未顕真実」と説くも、「雖示種々道其実為仏乗」と云ふも、「正直捨方便但説無上道」と云ふも、法華得道の機の前の事なりと云ふ事、世こぞって、あはれ然るべき道理かな、なんど思へり。如何心うべきや。若し爾らば大乗小乗の差別もなく、権教実教の不同もなきなり。何れをか仏の本意と説き、何れをか成仏の法と説き給へるや。甚だいぶかし、いぶかし。/答へて云く、凡そ仏の出世は始めより妙法を説かんと思し食ししかども、衆生の機縁万差にしてととのをらざりしかば、三七日の間思惟し、四十余年の程こしらへおおせて、最後に此の妙法を説き給ふ。故に「若し但仏乗を讃せば、衆生苦に没在して、是の法を信ずること能はず。法を破して信ぜざるが故に、三悪道に墜ちなん」と説き、「世尊は法久しくして後、要(かなら)ず当に真実を説きたまふべし」とも云へり。此の文の意は、始めより此の仏乗を説かんと思し食ししかども、仏法の気分もなき衆生は、信ぜずして定めて謗りを致さん。故に機をひとしなに誘(いざな)へ給ふほどに、初めに華厳・阿含・方等・般若等の経を四十余年の間とき、最後に法華経をとき給ふ時、四十余年の座席にありし身子・目連等の万二千の声聞、文殊弥勒等の八万の菩薩、万億の輪王等、梵王・帝釈等の無量の天人、各爾前に聞きし処の法をば「如来の無量の知見を失へり」云云。法華経を聞いては「無上の宝聚求めざるに自ら得たり」と悦び給ふ。されば「我等昔より来、数(しばしば)世尊の説を聞きたてまつるに、未だ曾て是の如き深妙の上法を聞かず」とも、「仏希有の法を説きたまふ、昔より未だ曾て聞かざる所なり」とも説き給ふ。/此等の文の心は、四十余年の程、若干の説法を聴聞せしかども、法華経の様なる法をば総てきかず、又仏も終に説かせ給はず、と法華経を讃めたる文なり。四十二年の聴きと今経の聴きとをば、わけたくらぶべからず。然るにそれ今経を法華経得道の人の為にして、爾前得道の者の為には無用なりと云ふ事、大なる誤りなり。をのづから四十二年の経の内には、一機一縁の為にしつらう処の方便なれば、設ひ有縁無縁の沙汰はありとも、法華経は爾前の経々の座にして得益しつる機どもを、押しふさね(聚束)て一純に調へて説き給ひし間、有縁無縁の沙汰あるべからざるなり。悲しきかな、大小権実みだりがはしく、仏の本懐を失ひて、爾前得道の者のためには法華経無用なりと云へる事を、能く能く慎むべし恐るべし。古への徳一大師と云ひし人、此の義を人にも教へ、我が心にも存じて、さて法華経を読み給ひしを、伝教大師此の人を破し給ふ言に「法華経を讃むと雖も還りて法華の心を死す」と責め給ひしかば、徳一大師は舌八つにさけて失せ給ひき。/問うて云く、天台の釈の中に「菩薩処々得入」と云ふ文は、法華経は但二乗の為にして菩薩の為ならず、菩薩は爾前の経の中にしても得道なると見えたり。若し爾らば、「未顕真実」も「正直捨方便」等も、総じて法華経八巻の内、皆以て二乗の為にして、菩薩は一人も有るまじきと意うべきか如何。/答へて云く、法華経は但二乗の為にして菩薩の為ならずと云ふ事は、天台より已前唐土に南三北七と申して十人の学匠の義なり。天台は其の義を破し失(う)せて今は弘まらず。若し菩薩なしと云はば、「菩薩是の法を聞いて疑網皆已に除こる」と云へる、豈に是れ菩薩の得益なしと云はんや。それに尚鈍根の菩薩は二乗とつれて得益あれども、利根の菩薩は爾前の経にて得益すと云はば、「利根鈍根等しく法雨を雨らす」と説き、「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は皆此の経に属せり」と説くは何に。此等の文の心は、利根にてもあれ鈍根にてもあれ、持戒にてもあれ破戒にてもあれ、貴きもあれ賤しきもあれ、一切の菩薩・凡夫・二乗は法華経にて成仏得道なるべしと云ふ文なるをや。又法華得益の菩薩は皆鈍根なりと云はば、普賢・文殊弥勒・薬王等の八万の菩薩をば鈍根なりと云ふべきか。其の外に爾前の経にて得道する利根の菩薩と云ふは何様なる菩薩ぞや。抑爾前に菩薩の得道と云ふは法華経の如き得道にて候か。其れならば法華経の得道にて、爾前の得分にあらず。又法華経より外の得道ならば、已今当の中には何れぞや。いかさまにも法華経ならぬ得道は、当分の得道にて真実の得道にあらず。故に無量義経には「是の故に衆生の得道差別せり」と云ひ、又「終に無上菩提を成ずることを得ず」と云へり。文の心は、爾前の経々には得道の差別を説くと云へども、終に無上菩提の法華経の得道はなしとこそ仏は説き給ひて候へ。/問うて云く、当時は釈尊入滅の後今に二千二百三十余年なり。一切経の中に何れの経か時に相応して弘まり利生も有るべきや。大集経の五箇の五百歳の中の、第五の五百歳に当時はあたれり。其の第五の五百歳をば闘諍堅固・白法隠没と云ひて、人の心たけく腹あしく、貪欲瞋恚強盛なれば軍合戦のみ盛んにして、仏法の中に先き先き弘まりし所の真言禅宗・念仏・持戒等の白法は隠没すべしと仏説き給へり。第一の五百歳、第二の五百歳、第三の五百歳、第四の五百歳を見るに、成仏の道こそ未顕真実なれ、世間の事法は仏の御言一分も違はず。是れを以て之れを思ふに当時の闘諍堅固・白法隠没の金言も違ふ事あらじ。若し爾らば末法には何れの法も得益あるべからず、何れの仏菩薩も利生あるべからずと見えたり如何。さて、もだし(黙止)て、何れの仏菩薩にもつかへ奉らず、何れの法をも行ぜず、憑む方なくして候べきか。後世をば如何が思ひ定め候べきや。/答へて云く、末法当時は久遠実成の釈迦仏・上行菩薩無辺行菩薩等の弘めさせ給ふべき法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字計り此の国に弘まりて利生得益もあり、上行菩薩の御利生盛んなるべき時なり。其の故は経文明白なり。道心堅固にして志あらん人は委しく是れを尋ね聞くべきなり。浄土宗の人々は、末法万年には余経悉く滅し、弥陀一教のみと云ひ、又当今末法は是れ五濁悪世、唯浄土の一門のみ有りて、通入すべき路なりと云ひて、虚言して大集経に云くと引けども、彼の経に都て此の文なし。其の上あるべき様もなし。仏の在世の御言に、当今末法五濁悪世には但浄土の一門のみ入るべき道なりとは、説き給ふべからざる道理顕然なり。本経には「当来の世に経道滅尽せんに、特(ひと)り此の経を留めて止住すること百歳ならん」と説けり。末法一万年の百歳とは全く見えず。然るに平等覚経・大阿弥陀経を見るに、仏滅後一千年の後の百歳とこそ意えられたれ。然るに善導が惑へる釈をば尤も道理と人皆思へり。是れは諸(これ)僻案の者なり。但し心あらん人は世間のことはりをもって推察せよ。大旱魃のあらん時は大海が先にひ(干)るべきか、小河が先にひるべきか。仏是れを説き給ふには法華経は大海なり、観経・阿弥陀経等は小河なり。されば念仏等の小河の白法こそ先にひるべしと経文にも説き給ひて候ひぬれ。大集経の五箇の五百歳の中の第五の五百歳白法隠没と云へると、双観経に経道滅尽と云へるとは但一つ心なり。されば末法には始めより双観経等の経道滅尽すと聞こえたり。経道滅尽と云へるは経の利生の滅すと云ふ事なり。色の経巻あるにはよるべからず。/されば当時は経道滅尽の時に至りて二百歳に余れり。此の時は但法華経のみ利生得益あるべし。されば此の経を受持して南無妙法蓮華経と唱へ奉るべしと見えたり。薬王品には「後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」と説き給ひ、天台大師は「後の五百歳遠く妙道に沾はん」と釈し、妙楽大師は「且く大教の流行すべき時に拠る」と釈して、後の五百歳の間に法華経弘まりて、其の後は閻浮提の内に絶え失せる事有るべからずと見えたり。安楽行品に云く「後の末世の法滅せんと欲する時に於て、斯の経典を受持し読誦せん者」文。神力品に云く「爾の時に仏、上行等の菩薩大衆に告げたまはく、属累の為の故に此の経の功徳を説くとも猶尽くすこと能はじ。要を以て之れを言はば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す」云云。此等の文の心は、釈尊入滅の後第五の五百歳と説くも、末世と云ふも、濁悪世と説くも、正像二千年過ぎて末法の始め二百余歳の今時は唯法華経計り弘まるべしと云ふ文なり。/其の故は人既にひがみ、法も実にしるしなく、仏神の威験もましまさず、今生後生の祈りも叶はず、かからん時はたよりを得て天魔波旬乱れ入り、国土常に飢渇して天下も疫癘し、他国侵逼難・自界叛逆難とて我が国に軍合戦常にありて、後には他国より兵どもをそひ来たりて此の国を責むべしと見えたり。此の如き闘諍堅固の時は余経の白法は験(しるし)失せて、法華経の大良薬を以て此の大難をば治すべしと見えたり。法華経を以て国土を祈らば、上一人より下万民に至るまで悉く悦び栄へ給ふべき鎮護国家の大白法なり。但し阿闍世王・阿育大王は始めは悪王なりしかども、耆婆大臣の語を用ゐ、夜叉尊者を信じ給ひて後にこそ賢王の名をば留め給ひしか。南三北七を捨てて智顗法師を用ゐ給ひし陳主、六宗の碩徳を捨てて最澄法師を用ゐ給ひし桓武天皇は、今に賢王の名を留め給へり。智顗法師と云ふは後には天台大師と号し奉る。最澄法師は後には伝教大師と云ふ是れなり。今の国主も又是の如し。現世安穏後生善処なるべき此の大白法を信じて国土に弘め給はば、万国に其の身を仰がれ、後代に賢人の名を留め給ふべし。知らず、又無辺行菩薩の化身にてやましますらん。/又妙法の五字を弘め給はん智者をば、いかに賤しくとも上行菩薩の化身か、又釈迦如来の御使ひかと思ふべし。又薬王菩薩・薬上菩薩・観音・勢至等の菩薩は正像二千年の御使ひなり。此等の菩薩達の御番は早過ぎたれば、上古の様に利生あるまじきなり。されば当世の祈りを御覧ぜよ、一切叶はざる者なり。末法今の世の番衆は上行・無辺行等にてをはしますなり。此等を能く能く明らめ信じてこそ、法の験も仏菩薩の利生も有るべしとは見えたれ。譬へば、よき火打とよき石のかどとよきほくち(火口)と、此の三つ寄り合ひて火を用ゐるなり。祈りも又是の如し。よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり。よき師とは、指したる世間の失無くして、聊かのへつらふことなく、少欲知足にして慈悲あらん僧の、経文に任せて法華経を読み持ちて人をも勧めて持たせん僧をば、仏は一切の僧の中に吉き第一の法師なりと讃められたり。吉き檀那とは、貴人にもよらず賤人をもにくまず、上にもよらず下をもいやしまず、一切人をば用ゐずして、一切経の中に法華経を持たん人をば、一切の人の中に吉き人なりと仏は説き給へり。吉き法とは、此の法華経を最為第一の法と説かれたり。已説の経の中にも、今説の経の中にも、当説の経の中にも、此の経第一と見えて候へば吉き法なり。禅宗真言宗等の経法は第二第三なり。殊に取り分けて申せば真言の法は第七重の劣なり。然るに日本国には第二第三、乃至、第七重の劣の法をもって御祈祷あれども、未だ其の証拠をみず。最上第一の妙法をもって御祈祷あるべきか。是れを「正直捨方便但説無上道」、「唯此一事実」と云へり。誰か疑ひをなすべきや。/問うて云く、無智の人来たりて生死を離るべき道を問はん時は何れの経の意をか説くべき、仏如何が教へ給へるや。答へて云く、法華経を説くべきなり。所以に法師品に云く「若し人ありて何等の衆生か未来世に於て当に作仏することを得べきと問はば応に示すべし、是の諸人等未来世に於て必ず作仏することを得ん」云云。安楽行品に云く「難問する所あらば小乗の法を以て答へざれ、但大乗を以て而も為に解説せよ」云云。此等の文の心は、何なる衆生か仏になるべきと問はば、法華経を受持し奉らん人必ず仏になるべしと答ふべきなり。是れ仏の御本意なり。之れに付きて不審あり。衆生の根性区にして、念仏を聞かんと願ふ人もあり、法華経を聞かんと願ふ人もあり。念仏を聞かんと願ふ人に、法華経を説いて聞かせんは何の得益かあるべき。又念仏を聞かんが為に請じたらん時にも、強ひて法華経を説くべきか。仏の説法も機に随ひて得益あるをこそ本意とし給ふらんと、不審する人あらば云ふべし。元より末法の世には、無智の人に機に叶ひ叶はざるを顧みず、但強ひて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり。其の故は釈迦仏、昔不軽菩薩と云はれて法華経を弘め給ひしには、男・女・尼・法師がおしなべて用ゐざりき。或は罵られ毀られ、或は打たれ追はれ、一しなならず、或は怨まれ嫉まれ給ひしかども、少しもこりもなくして強ひて法華経を説き給ひし故に、今の釈迦仏となり給ひしなり。不軽菩薩を罵りまいらせし人は口もゆがまず、打ち奉りしかいな(腕)もすくまず。付法蔵の師子尊者も外道に殺されぬ、又法道三蔵も火印を面にあてられて江南に流され給ひしぞかし。まして末法にかひなき僧の法華経を弘めんには、かかる難あるべしと経文に正しく見えたり。されば人是れを用ゐず、機に叶はずと云へども、強ひて法華経の五字の題名を聞かすべきなり。是れならでは仏になる道はなきが故なり。/又或人不審して云く、機に叶はざる法華経を強ひて説いて謗ぜさせて悪道に人を堕とさんよりは、機に叶へる念仏を説いて発心せしむべし。利益もなく謗ぜさせて返りて地獄に堕とさんは、法華経の行者にもあらず、邪見の人にてこそ有るらめと不審せば云ふべし、経文には何体にもあれ末法には強ひて法華経を説くべしと仏の説き給へるをば、さていかが心うべく候や。釈迦仏・不軽菩薩・天台・妙楽・伝教等は、さて邪見の人・外道にておはしまし候べきか。又悪道にも堕ちず三界の生を離れたる二乗と云ふ者をば仏のの給はく、設ひ犬野干の心をば発すとも、二乗の心をもつべからず、五逆十悪を作りて地獄には堕つとも、二乗の心をばもつべからず、なんどと禁められしぞかし。悪道におちざる程の利益は争でか有るべきなれども、其れをば仏の御本意とも思し食さず、地獄には堕つるとも、仏になる法華経を耳にふれぬれば、是れを種として必ず仏になるなり。されば天台・妙楽も此の心を以て、強ひて法華経を説くべしとは釈し給へり。譬へば人の地に依りて倒れたる者の、返りて地をおさへて起(た)つが如し。地獄には堕つれども、疾く浮かんで仏になるなり。当世の人何となくとも法華経に背く失に依りて、地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。何にとしても仏の種は法華経より外になきなり。権教をもて仏になる由だにあらば、なにしにか仏は強ひて法華経を説いて、謗ずるも信ずるも利益あるべしと説き、我不愛身命とは仰せらるべきや。よくよく此等を道心ましまさん人は御心得あるべきなり。/問うて云く、無智の人も法華経を信じたらば即身成仏すべきか。又何れの浄土に往生すべきぞや。答へて云く、法華経を持つにおいては、深く法華経の心を知り、止観の坐禅をし一念三千・十境・十乗の観法をこらさん人は、実に即身成仏し解(さと)りを開く事も有るべし。其の外に法華経の心をもしらず、無智にしてひら(但)信心の人は、浄土に必ず生まるべしと見えたり。されば生十方仏前と説き、或は即往安楽世界と説きき。是れ法華経を信ずる者の往生すと云ふ明文なり。/之れに付きて不審あり。其の故は我が身は一にして、十方の仏前に生まるべしと云ふ事心得られず。何れにてもあれ一方に限るべし。正に何れの方をか信じて往生すべきや。答へて云く、一方にさだめずして十方と説くは最もいはれあるなり。所以に法華経を信ずる人の一期終る時には、十方世界の中に法華経を説かん仏のみもとに生まるべきなり。余の華厳・阿含・方等・般若経を説く浄土へは生まるべからず。浄土十方に多くして、声聞の法を説く浄土もあり、辟支仏の法を説く浄土もあり、或は菩薩の法を説く浄土もあり。法華経を信ずる者は此等の浄土には一向に生まれずして、法華経を説き給ふ浄土へ直に往生して、座席に列なりて法華経聴聞して、やがてに仏になるべきなり。然るに今世にして法華経は機に叶はずと云ひうと(疎)めて、西方浄土にて法華経をさとるべしと云はん者は、阿弥陀の浄土にても法華経をさとるべからず、十方の浄土にも生まるべからず。法華経に背く咎重きが故に、永く地獄に堕つべしと見えたり。其人命終入阿鼻獄と云へる是れなり。問うて云く、即往安楽世界阿弥陀仏と云云。此の文の心は、法華経を受持し奉らん女人は阿弥陀仏の浄土に生まるべしと説き給へり。念仏を申しても阿弥陀の浄土に生まるべしと云ふ。浄土既に同じ、念仏も法華経も等しと心え候べきか如何。答へて云く、観経は権教なり、法華経は実教なり、全く等しかるべからず。其の故は仏世に出でさせ給ひて四十余年の間多くの法を説き給ひしかども、二乗と悪人と女人とをば簡ひはてられて、成仏すべしとは一言も仰せられざりしに、此の経にこそ敗種の二乗も三逆の調達も五障の女人も仏になるとは説き給ひ候ひつれ。其の旨経文に見えたり。華厳経には「女人は地獄の使ひなり、能く仏の種子を断ず。外面は菩薩に似て内心は夜叉の如し」と云へり。銀色女経には「三世の諸仏の眼は抜けて大地に落つるとも、法界の女人は永く仏になるべからず」と見えたり。又経に云く「女人は大鬼神なり、能く一切の人を喰らふ」。竜樹菩薩の大論には「一度女人を見れば永く地獄の業を結ぶ」と見えたり。されば実にてや有りけん、善導和尚は謗法なれども女人をみずして一期生と云はれたり。/又業平が歌にも、葎(むぐら)を(生)いてあれたるやどのうれ(憂)たきはか(仮)りにも鬼のすだく(集)なりけりと云ふも、女人をば鬼とよめるにこそ侍れ。又女人には五障三従と云ふ事有るが故に、罪深しと見えたり。五障とは、一には梵天王、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏にならずと見えたり。又三従とは、女人は幼き時は親に従ひて心にまかせず、人となりては男に従ひて心にまかせず、年よりぬれば子に従ひて心にまかせず、加様に幼き時より老耄に至るまで三人に従ひて心にまかせず、思ふ事をもいはず、見たき事をもみず、聴聞したき事をもきかず、是れを三従とは説くなり。されば栄啓期が三楽を立てたるにも、女人の身と生まれざるを一の楽しみといへり。加様に内典外典にも嫌はれたる女人の身なれども、此の経を読まねどもかかねども身と口と意とにうけ持ちて、殊に口に南無妙法蓮華経と唱へ奉る女人は、在世の竜女・曇弥・耶輸陀羅女の如くに、やすやすと仏になるべしと云ふ経文なり。/又安楽世界と云ふは一切の浄土をば皆安楽と説くなり。又阿弥陀と云ふも観経の阿弥陀にはあらず。所以に観経の阿弥陀仏は法蔵比丘の阿弥陀四十八願の主、十劫成道の仏なり。法華経にも迹門の阿弥陀は大通智勝仏の十六王子の中の第九の阿弥陀にて、法華経大願の主の仏なり。本門の阿弥陀は釈迦分身の阿弥陀なり。随って釈にも「須く更に観経等を指すべからざるなり」と釈し給へり。/問うて云く、経に「難解難入」と云へり。世間の人此の文を引きて、法華経は機に叶はずと申し候は、道理と覚え候は如何。答へて云く、謂れなき事なり。其の故は此の経を能くも心えぬ人の云ふ事なり。法華より已前の経は解り難く入り難し、法華の座に来たりては解り易く入り易しと云ふ事なり。されば妙楽大師の御釈に云く「法華已前は不了義の故に、故に難解と云ふ。即ち今教を指すに咸く皆実に入る。故に易知と云ふ」文。此の文の心は、法華より已前の経にては機つたなくして解り難く入り難し、今の経に来たりては機賢く成りて解り易く入り易しと釈し給へり。其の上難解難入と説かれたる経が機に叶はずば、先づ念仏を捨てさせ給ふべきなり。其の故は双観経に「難きが中の難き、此の難きに過ぎたるは無し」と説き、阿弥陀経には「難信の法」と云へり。文の心は、此の経を受け持たん事は難きが中の難きなり、此れに過ぎたる難きはなし、難信の法なりと見えたり。/問うて云く、経文に「四十余年未だ真実を顕はさず」と云ひ、又「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも、終に無上菩提を成ずることを得ず」と云へり。此の文は何体の事にて候や。答へて云く、此の文の心は釈迦仏一期五十年の説法の中に始めの華厳経にも真実をとかず、中の方等般若にも真実をとかず。此の故に禅宗・念仏・戒等を行ずる人は無量無辺劫をば過ぐとも仏にならじと云ふ文なり。仏四十二年の歳月を経て後、法華経を説き給ふ文には「世尊は法久しくして後、要(かなら)ず当に真実を説きたまふべし」と仰せられしかば、舎利弗等の千二百の羅漢、万二千の声聞、弥勒等の八万人の菩薩、梵王・帝釈等の万億の天人、阿闍世王等の無量無辺の国王、仏の御言を領解する文には「我等昔より来、数(しばしば)世尊の説を聞きたてまつるに、未だ曾て是の如き深妙の上法を聞かず」と云ひて、我等仏に離れ奉らずして四十二年若干の説法を聴聞しつれども、いまだ是の如き貴き法華経をばきかずと云へる。此等の明文をばいかが心えて、世間の人は法華経と余経と等しく思ひ、剰へ機に叶はねば闇の夜の錦、こぞ(去年)の暦なんど云ひて、適(たまたま)持つ人を見ては賤しみ軽しめ悪み嫉み口をすくめなんどする、是れ併しながら謗法なり。争でか往生成仏もあるべきや。必ず無間地獄に堕つべき者と見えたり。/問うて云く、凡そ仏法を能く心得て仏意に叶へる人をば、世間に是れを重んじ一切是れを貴む。然るに当世法華経を持つ人々をば、世こぞって悪み嫉み軽しめ賤しみ、或は所を追ひ出だし、或は流罪し、供養をなすまでは思ひもよらず、怨敵の様ににくまるるは、いかさまにも心わろくして、仏意にもかなはず、ひが(僻)さまに法を心得たるなるべし。経文には如何が説きたるや。答へて云く、経文の如くならば、末法法華経の行者は人に悪まるる程に持つを実の大乗の僧とす。又経を弘めて人を利益する法師なり。人に吉しと思はれ、人の心に随ひて貴しと思はれん僧をば、法華経のかたき世間の悪知識なりと思ふべし。此の人を経文には、猟師の目を細めにして鹿をねらひ、猫の爪を隠して鼠をねらふが如くにして、在家の俗男俗女の檀那をへつらい、いつわり、たぼらかすべしと説き給へり。其の上勧持品には法華経の敵人三類を挙げられたるに、一には在家の俗男俗女なり。此の俗男俗女は法華経の行者を憎み罵り、打ちはり、きり殺し、所を追ひ出だし、或は上へ讒奏して遠流し、なさけなくあだむ者なり。二には出家の人なり。此の人は慢心高くして内心には物も知らざれども智者げにもてなして世間の人に学匠と思はれて、法華経の行者を見ては怨み嫉み軽しめ賤しみ、犬野干よりもわろきやうを人に云ひうとめ、法華経をば我一人心得たりと思ふ者なり。三には阿練若の僧なり。此の僧は極めて貴き相を形に顕はし、三衣一鉢を帯して山林の閑かなる所に籠り居て、在世の羅漢の如く諸人に貴まれ、仏の如く万人に仰がれて、法華経を説の如くに読み持ち奉らん僧を見ては憎み嫉みて云く、大愚痴の者大邪見の者なり、総じて慈悲なき者の外道の法を説くなんど云はん。上一人より仰ぎて信を取らせ給はば、其の已下万人も仏の如くに供養をなすべし。法華経を説の如くよみ持たん人は必ず此の三類の敵人に怨まるべきなりと仏説き給へり。/問うて云く、仏の名号を持つ様に、法華経の名号を取り分けて持つべき証拠ありや如何。答へて云く、経に云く「仏諸の羅刹女に告げたまはく、善きかな善きかな、汝等但能く法華の名を受持する者を擁護せん福量るべからず」云云。此の文の意は、十羅刹の法華の名を持つ人を護らんと誓言を立て給へるを、大覚世尊讃めて言く、善きかな善きかな、汝等南無妙法蓮華経と受け持たん人を守らん功徳、いくら程とも計りがたくめでたき功徳なり、神妙なり、と仰せられたる文なり。是れ我等衆生の行住坐臥に南無妙法蓮華経と唱ふべしと云ふ文なり。凡そ妙法蓮華経とは、我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊弥勒等の仏性と、三世の諸仏の解りの妙法と、一体不二なる理を妙法蓮華経と名づけたるなり。故に一度妙法蓮華経と唱ふれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞、一切の梵王・帝釈・閻魔法王・日月・衆星・天神・地神、乃至、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を、唯一音に喚び顕はし奉る功徳無量無辺なり。我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経とよびよばれて顕はれ給ふ処を仏とは云ふなり。譬へば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し。空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し。口に妙法をよび奉れば、我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ。梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ。仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ。されば「若し暫くも持つ者は、我則ち歓喜す、諸仏も亦然なり」と説き給ふは此の心なり。されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給ひしなり。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法と云ふは是れなり。是等の趣を能く能く心得て、仏になる道には我慢偏執の心なく、南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり。/日蓮花押