四条金吾殿御返事2

〔C6・建治三年七月以降・四条金吾〕/御文あらあらうけ給はりて、長き夜のあけ、とをき道をかへりたるがごとし。/夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し、王をば自在となづけたり。中にも天竺をば月氏という、我が国をば日本と申す。一閻浮提八万の国の中に大なる国は天竺、小なる国は日本なり。名のめでたきは印度第二、扶桑第一なり。仏法は月の国より始めて日の国にとどまるべし。月は西より出でて東に向かひ、日は東より西へ行く事天然のことはり。磁石と鉄と、雷と象牙とのごとし。誰か此のことはりをやぶらん。/此の国に仏法わたりし由来をたづぬれば、天神七代・地神五代すぎて人王の代となりて、第一神武天皇乃至第三十代欽明天皇と申せし王をはしき。位につかせ給ひて三十二年世を治め給ひしに、第十三年〈壬申〉十月十三日〈辛酉〉に、此の国より西に百済国と申す国あり。日本国の大王の御知行の国なり。其の国の大王聖明王と申せし国王あり。年貢を日本国にまいらせしついでに、金銅の釈迦仏並びに一切経・法師・尼等をわたしたりしかば、天皇大いに喜びて群臣に仰せて云く、西蕃の仏をあがめ奉るべしやいなや。蘇我の大臣いなめ(稲目)の宿祢と申せし人の云く、西蕃の諸国みな此れを礼す、とよあきやまと(豊秋日本)あに独り背かんやと申す。物部の大むらじ(連)をこし(尾輿)・中臣のかまこ(鎌子)等奏して曰く、我が国家天下に君たる人は、つねに天地・しゃそく(社禝)・百八十神(ももやそのかみ)を春夏秋冬にさいはい(祭拝)するを事とす。しかるを今更あらためて西蕃の神を拝せば、をそらくは我が国の神いかりをなさんと云云。爾の時に天皇わかちがたくして勅宣す。此の事を只心みに蘇我の大臣につけて、一人にあがめさすべし、他人用ゐる事なかれ。蘇我の大臣うけ取りて大いに悦び給ひて、此の釈迦仏を我が居住のをはだ(小墾田)と申すところに入れまいらせて安置せり。/物部の大連不思議なりとていきどをりし程に、日本国に大疫病をこりて死せる者大半に及ぶ。すでに国民尽きぬべかりしかば、物部大連隙を得て此の仏を失ふべきよし申せしかば、勅宣なる。早く他国の仏法を棄つべし云云。物部の大連御使ひとして仏をば取りて、炭をもてをこし、つち(槌)をもて打ちくだき、仏殿をば火をかけてやきはらひ、僧尼をばむち(笞)をくわう。其の時天に雲なくして大風ふき、雨ふり、内裏天火にやけあがて、大王並びに物部の大連・蘇我の臣三人共に疫病あり。きるがごとく、やくがごとし。大連は終に寿絶えぬ。蘇我と王とはからくして蘇生す。而れども仏法を用ゐることなくして十九年すぎぬ。/第三十一代の敏達天皇は欽明第二の太子、治十四年なり。左右の両臣は、一は物部の大連が子にて、弓削の守屋、父のあとをついで大連に任ず。蘇我の宿祢の子は蘇我の馬子と云云。此の王の御代に聖徳太子生まれ給へり。用明の御子敏達のをい(甥)なり。御年二歳の二月、東に向かひて無名の指を開きて南無仏と唱へ給へば御舎利掌にあり。是れ日本国の釈迦念仏の始めなり。太子八歳なりしに八歳の太子云く、西国の聖人釈迦牟尼仏の遺像、末世に之れを尊めば則ち禍を銷し福を蒙る。之れを蔑れば則ち災を招き寿を縮む等云云。大連物部の弓削の宿祢の守屋等いかりて云く、蘇我は勅宣を背きて他国の神を礼す等云云。又疫病未だ息まず、人民すでにたえぬべし。弓削の守屋又此れを間奏す云云。勅宣に云く、蘇我の馬子仏法を興行す、宜しく仏法を却(しりぞ)くべし等云云。此に守屋と中臣の臣・勝海の大連等の両臣は寺に向かひて堂塔を切りたうし、仏像をやきやぶり、寺には火をはなち、僧尼の袈裟をはぎ、笞をもってせむ。又天皇並びに守屋・馬子等疫病す。其の言に云く、焼くがごとし、きるがごとしと。又瘡をこる、はうそう(疱瘡)といふ。馬子歎きて云く、尚三宝を仰がんと。勅宣に云く、汝独り行へ、但し余人を断てよ等云云。馬子欣悦し精舎を造りて三宝を崇めぬ。天皇は終に八月十五日崩御云云。此の年は太子は十四なり。/第三十二代用明天皇〈治二年、欽明の太子、聖徳太子の父なり〉治二年〈丁未〉四月に天皇疫病あり。皇勅して云く「三宝に帰せんと欲す」云云。蘇我の大臣、詔に随ふべしとて遂に法師を引きて内裏に入る。豊国の法師是れなり。物部の守屋の大連等大いに瞋り、横に睨みて云く、天皇を厭魅(えんみ)すと。終に皇隠れさせ給ふ。五月に物部の守屋が一族、渋河の家にひきこもり多勢をあつめぬ。太子と馬子と押し寄せてたたかう。五月・六月・七月の間に四箇度合戦す。三度は太子まけ給ふ。第四度めに太子願を立てて云く、釈迦如来の御舎利の塔を立て四天王寺を建立せんと。馬子願ひて云く、百済より渡す所の釈迦仏を寺を立てて崇重すべしと云云。弓削なの(名乗)て云く、此れは我が放つ矢にはあらず。我が先祖崇重の府都の大明神の放ち給ふ矢なりと。此の矢はるかに飛びて太子の鎧に中る。太子なのる、此れは我が放つ矢にはあらず、四天王の放ち給ふ矢なりとて、迹見赤梼(とみのいちひ)と申す舎人にいさせ給へば、矢はるかに飛びて守屋が胸に中りぬ。はたのかはかつ(秦河勝)をちあひて頸をとる。此の合戦は用明崩御、崇峻未だ位に即き給はざる其の中間なり。/第三十三崇峻天皇位につき給ふ。太子は四天王寺を建立す。此れ釈迦如来の御舎利なり。馬子は元興寺と申す寺を建立して、百済国よりわたりて候ひし教主釈尊を崇重す。今の代に世間第一の不思議は善光寺阿弥陀如来という誑惑これなり。又釈迦仏にあだをなせしゆへに、三代の天皇並びに物部の一族むなしくなりしなり。又太子、教主釈尊の像一体をつくらせ給ひて元興寺に居せしむ。今の橘寺の御本尊これなり。此れこそ日本国に釈迦仏つくりしはじめなれ。/漢土には後漢の第二の明帝、永平七年に金神の夢を見、博士蔡王遵等の十八人を月氏につかはして、仏法を尋ねさせ給ひしかば、中天竺の聖人摩騰迦・竺法蘭と申せし二人の聖人を、同じき永平十年〈丁卯〉の歳迎へ取りて崇重ありしかば、漢土にて本より皇の御いのり(祈)せし儒家道家の人々数千人、此の事をそねみてうつた(訴)へしかば、同じき永平十四年正月十五日に召し合はせられしかば、漢土の道士悦びをなして唐土の神、百霊を本尊としてありき。二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と五部の経を本尊と恃怙(たのみ)給ふ。道士は本より王の前にして習ひたりし仙経・三墳・五典・二聖三王の書を薪につみこめてやきしかば、古へはやけざりしがはい(灰)となりぬ。先には水にうかびしが水に沈みぬ。鬼神を呼びしも来たらず。あまりのはづかしさに善信・費叔才なんど申せし道士等はおもひ死(じに)ししぬ。二人の聖人の説法ありしかば、舎利は天に登りて光を放ちて日輪みゆる事なし。画像の釈迦仏は眉間より光を放ち給ふ。呂恵通(りょけいつう)等の六百余人の道士は帰伏して出家す。三十日が間に十寺立ちぬ。/されば釈迦仏は賞罰ただしき仏なり。上に挙ぐる三代の帝並びに二人の臣下、釈迦如来の敵とならせ給ひて、今生は空しく、後生は悪道に堕ちぬ。今の代も又これにかはるべからず。漢土の道士、信・費等、日本の守屋等は、漢土日本の大小の神祇を信用して、教主釈尊の御敵となりしかば、神は仏に随ひ奉り、行者は皆ほろびぬ。今の代も此の如し、上に挙ぐる所の百済国の仏は教主釈尊なり。名を阿弥陀仏と云ひて、日本国をたぼらかして釈尊を他仏にかへたり。神と仏と、仏と仏との差別こそあれども、釈尊をすつる心はただ一なり。されば今の代の滅せん事又疑ひなかるべし。是れは未だ申さざる法門なり。秘すべし秘すべし。又吾が一門の人々の中にも、信心もうすく日蓮が申す事を背き給はば蘇我が如くなるべし。其の故は仏法日本に立ちし事は、蘇我の宿祢と馬子との父子二人の故ぞかし。釈迦如来の出世の時の梵王・帝釈の如くにてこそあらましなれども、物部と守屋とを失ひし故に、只一門になりて位もあがり、国をも知行し、一門も繁昌せし故に、高挙(たかあがり)をなして崇峻天皇を失ひたてまつり、王子を多く殺し、結句は太子の御子二十三人を馬子がまご(孫)入鹿の臣下失ひまいらせし故に、皇極天皇は中臣の鎌子が計らひとして、教主釈尊を造り奉りてあながちに申せしかば、入鹿の臣並びに父等の一族一時に滅びぬ。此れをもて御推察あるべし。又我が此の一門の中にも申しとをらせ給はざらん人々は、かへりて失あるべし。日蓮をうらみさせ給ふな。少輔房・能登房等を御覧あるべし。/かまへてかまへて、此の間はよ(余)の事なりとも御起請かかせ給ふべからず。火はをびただしき様なれども暫くあればしめ(沈)る。水はのろき様なれども左右無く失ひがたし。御辺は腹あしき人なれば火の燃ゆるがごとし。一定人にすかされなん。又主のうらうらと言和らかにすか(賺)させ給ふならば、火に水をかけたる様に御わたりありぬと覚ゆ。きた(鍛)はぬかね(鉄)は、さかんなる火に入るればとく(疾)とけ候。氷をゆ(湯)に入るるがごとし。剣なんどは大火に入るれども暫くはとけず。是れきたへる故なり。まえ(前)にかう申すはきたうなるべし。仏法と申すは道理なり。道理と申すは主に勝つ物なり。/いかにいとをし、はなれじと思ふめ(妻)なれども、死しぬればかひなし。いかに所領ををししとをぼすとも、死しては他人の物。すでにさかへて年久し、すこしも惜しむ事なかれ。又さきざき申すがごとく、さきざきよりも百千万億倍御用心あるべし。日蓮は少(わか)きより今生のいのりなし。只仏にならんとをもふ計りなり。されども殿の御事をばひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり。其の故は法華経の命を継ぐ人なればと思ふなり。穴賢穴賢。あらかるべからず。/吾が家にあらずんば人に寄り合ふ事なかれ。又夜廻りの殿原はひとりもたのもしき事はなけれども、法華経の故に屋敷を取られたる人々なり。常はむつばせ給ふべし。又夜の用心の為と申し、かたがた殿の守りとなるべし。吾が方の人々をば少々の事をばみずきかずあるべし。さて又法門なんどを聞かばやと仰せ候はんに、悦びて見(まみ)え給ふべからず。いかんが候はんずらん。御弟子共に申してこそ見(まみ)え候はめと、やはやは(柔々)とあるべし。いかにもうれしさにいろに顕はれなんと覚え、聞かんと思ふ心だにも付かせ給ふならば、火をつけてもすがごとく、天より雨の下るがごとく、万事をすてられんずるなり。/又今度いかなる便りも出来せば、したため候ひし陳状を上げらるべし。大事の文なれば、ひとさはぎはかならずあるべし。穴賢穴賢/日蓮花押/四条金吾殿