白米一俵御書

〔C0・弘安二年〕/白米一俵・けいもひとたわら・こふのりひとかご・御つかいをもってわざわざをくられて候。/人にも二つの財あり。一には衣、二には食なり。経に云く「有情は食に依りて住す」云云。文の心は、生ある者は衣と食とによって世にすむと申す心なり。魚は水にすむ、水を宅とす。木は地の上にをいて候、地を財とす。人は食によって生あり、食を財とす。/いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり。遍満三千界無有直身命ととかれて、三千大千世界にみてて候財もいのちにはかへぬ事に候なり。さればいのちはともしびのごとし。食はあぶらのごとし。あぶらつくればともしびきへぬ。食なければいのちたへぬ。一切のかみ仏をうやまいたてまつる始めの句には、南無と申す文字ををき候なり。南無と申すはいかなる事ぞと申すに、南無と申すは天竺のことばにて候。漢土・日本には帰命と申す。帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり。我が身には分に随ひて妻子・眷属・所領・金銀等もてる人々もあり、又財なき人々もあり。財あるも財なきも命と申す財にすぎて候財は候はず。さればいにしへの聖人賢人と申すは、命を仏にまいらせて仏にはなり候なり。いわゆる雪山童子と申せし人は、身を鬼にまかせて八字をならへり。薬王菩薩と申せし人は、臂をやいて法華経に奉る。我が朝にも聖徳太子と申せし人は、手の皮をはいで法華経をかき奉り、天智天皇と申せし国王は、無名指と申すゆびをたいて釈迦仏に奉る。此等は賢人聖人の事なれば我等は叶ひがたき事にて候。/ただし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。志ざしと申すはなに事ぞと、委細にかんがへて候へば、観心の法門なり。観心の法門と申すはなに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわをはぐにて候ぞ。うへたるよに、これはなしては、けうの命をつぐべき物もなきに、ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。これは薬王のひぢをやき、雪山童子の身を鬼にたびて候にもあいをとらぬ功徳にて候へば、聖人の御ためには事供やう、凡夫のためには理くやう、止観の第七の観心の檀はら蜜と申す法門なり。/まことのみちは世間の事法にて候。金光明経には「若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」ととかれ、涅槃経には「一切世間の外道の経書は、皆是れ仏説にして外道の説に非ず」と仰せられて候も、妙楽大師法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」の経文に引き合はせて心をあらわされて候には、彼々の二経は深心の経々なれども、彼の経々はいまだ心あさくして法華経に及ばざれば、世間の法を仏法に依せてしらせて候。法華経はしからず。やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。爾前の経々の心は、心より万法を生ず。譬へば心は大地のごとし、草木は万法のごとしと申す。法華経はしからず。心すなはち大地、大地則ち草木なり。爾前の経々の心は、心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし。法華経はしからず、月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり。此れをもってしろしめせ。白米は白米にはあらず。すなはち命なり。