阿仏房尼御前御返事

〔C6・建治二年九月三日・阿仏房尼御前〕/御文に云く「謗法の浅深軽重に於ては罪報如何なるや」云云。夫れ法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり。然りといへども、信ずる者は成仏をとぐ、謗ずる者は無間大城に堕つ。「若し人信ぜずして斯の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」とは是れなり。/謗法の者にも浅深軽重の異なりあり。法華経を持ち信ずれども、誠に色心相応の信者、能持此経の行者はまれなり。此等の人は介爾ばかりの謗法はあれども、深重の罪を受くる事はなし。信心はつよく謗法はよはき故なり。大水を以て小火をけすが如し。涅槃経に云く「若し善比丘ありて法を壊る者を見て、置きて呵責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駆遣し呵責し挙処せば、是れ我が弟子真の声聞なり」云云。此の経文にせめられ奉りて、日蓮は種々の大難に値ふといへども「仏法中怨」のいましめを免れんために申すなり。/但し謗法に至りて浅深あるべし。偽り愚かにしてせめざる時もあるべし。真言天台宗等は法華誹謗の者、いたう呵責すべし。然れども大智恵の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし。然る間、まづまづさしをく事あるなり。立正安国論の如し。いふといはざるとの重罪免れ難し。云ひて罪のまぬかるべきを、見ながら聞きながら置きていましめざる事、眼耳の二徳忽ちに破れて大無慈悲なり。章安の云く「慈無くして詐り親しむは、即ち是れ彼れが怨なり」等云云。重罪消滅しがたし。弥(いよいよ)利益の心尤も然るべきなり。軽罪の者をばせむる時もあるべし。又せめずしてをくも候べし。自然になをる辺あるべし。せめて自他の罪を脱れて、さてゆるすべし。其の故は一向謗法になれば、まされる大重罪を受くるなり。「彼れが為に悪を除くは即ち是れ彼れが親なり」とは是れなり。日蓮が弟子檀那の中にも多く此の如き事共候。さだめて尼御前もきこしめして候らん。一谷の入道の事、日蓮が檀那と内には候へども外は念仏者にて候ぞ。後生はいかんとすべき。然れども法華経十巻渡して候ひしなり。弥(いよいよ)信心をはげみ給ふべし。/仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにくむべし。よし、にくまばにくめ、法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし。如説修行の人とは是れなり。法華経に云く「恐畏の世に於て能く須臾も説く」云云。悪世末法の時、三毒強盛の悪人等集まりて候時、正法を暫時も信じ持ちたらん者をば天人供養あるべしと云ふ経文なり。此の度大願を立て、後生を願はせ給へ。少しも謗法不信のとが候はば、無間大城疑ひなかるべし。譬へば海上を船にのるに、船おろそかにあらざれども、あか入りぬれば、必ず船中の人々一時に死するなり。なはて堅固なれども、蟻の穴あれば必ず終に湛へたる水のたまらざるが如し。謗法不信のあかをとり、信心のなはてをかたむべきなり。浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし。重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし。/尼御前の御身として謗法の罪の浅深軽重の義をとはせ給ふ事、まことにありがたき女人にておはすなり。竜女にあにをとるべきや。「我大乗の教を闡(ひら)きて苦の衆生を度脱せん」とは是れなり。「其の義趣を問ふは是れ則ち難しとす」と云ひて、法華経の義理を問ふ人はかたしと説かれて候。相構へて相構へて、力あらん程は謗法をばせめさせ給ふべし。日蓮が義を助け給ふ事、不思議に覚え候ぞ、不思議に覚え候ぞ。穴賢穴賢。/九月三日日蓮花押阿仏房尼御前御返事