王舎城事(■四条金吾)

〔C3・文永一二年四月一二日・四条金吾〕/銭一貫五百文給はり候ひ了んぬ。/焼亡の事、委しく承り候事悦び入りて候。大火の事は仁王経の七難の中の第三の火難、法華経の七難の中には第一の火難なり。夫れ虚空をば剣にてきることなし。水をば火焼くことなし。聖人・賢人・福人・智者をば火やくことなし。例せば月氏王舎城と申す大城は在家九億万家なり。七度まで大火をこりてやけほろびき。万民なげきて逃亡せんとせしに、大王なげかせ給ふ事かぎりなし。其の時賢人ありて云く、七難の大火と申す事は聖人のさり、王の福の尽くる時をこり候なり。然るに此の大火万民をばやくといえども、内裏には火ちかづくことなし。知んぬ、王のとがにはあらず、万民の失なり。されば万民の家を王舎と号せば、火神、名にをそれてやくべからずと申せしかば、さるへんもとて王舎城とぞなづけられしかば、それより火災とどまりぬ。されば大果報の人をば大火はやかざるなり。/これは国王已にやけぬ。知んぬ、日本国の果報のつくるしるし(兆)なり。然るに此の国は、大謗法の僧等が強盛にいのりをなして日蓮を降伏せんとする故に、弥々わざはひ来たるにや。其の上、名と申す事は体を顕はし候に、両火房と申す謗法の聖人鎌倉中の上下の師なり。一火は身に留まりて極楽寺焼けて地獄寺となりぬ。又一火は鎌倉にはなちて御所やけ候ひぬ。又一火は現世の国をやきぬる上に、日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて、阿鼻の炎にもえ候べき先表なり。愚痴の法師等が智恵ある者の申す事を用ゐ候はぬは是体(これてい)に候なり。不便不便。/先々御文まいらせ候ひしなり。御馬のがい(野飼)て候へば、又ともびきしてくり(栗)毛なる馬をこそまうけて候へ。あはれあはれ見せまいらせ候はばや。名越の事は是れにこそ多くの子細どもをば聞きて候へ。ある人のゆきあひて、理具の法門自讃しけるを、さむざむにせめて候ひけると、承り候。/又女房の御いのりの事。法華経をば疑ひまいらせ候はねども、御信心やよはくわたらせ給はんずらん。如法に信じたる様なる人々も、実にはさもなき事とも是れにて見て候。それにも知ろしめされて候。まして女人の御心、風をばつなぐともとりがたし。御いのりの叶ひ候はざらんは、弓のつよくしてつる(絃)よはく、太刀つるぎ(剣)にてつかう人の臆病なるやうにて候べし。あへて法華経の御とがにては候べからず。よくよく念仏と持斎とを我もすて、人をも力のあらん程はせかせ給へ。譬へば左衛門殿の人ににくまるるがごとしと、こまごまと御物語り候へ。/いかに法華経を御信用ありとも、法華経のかたきをとわり(遊女)ほどにはよもおぼさじとなり。一切の事は父母にそむき、国王にしたがはざれば、不孝の者にして天のせめをかうふる。ただし法華経のかたきになりぬれば、父母国主の事をも用ゐざるが孝養ともなり、国の恩を報ずるにて候。されば、日蓮は此の経文を見候ひしかば、父母手をすりてせいせしかども、師にて候ひし人かんだう(勘当)せしかども、鎌倉殿の御勘気を二度までかほり、すでに頸となりしかども、ついにをそれずして候へば、今は日本国の人々も道理かと申すへんもあるやらん。日本国に国主・父母・師匠の申す事を用ゐずして、ついに天のたすけをかほる人は、日蓮より外は出だしがたくや候はんずらん。是れより後も御覧あれ。日蓮をそしる法師原が日本国を祈らば弥々国亡ぶべし。結句せめの重からん時、上一人より下万民まで、もとどり(髻)をわかつやっこ(奴僕)となり、ほぞ(臍)をくうためし(例)あるべし。/後生はさてをきぬ。今生に法華経の敵となりし人をば、梵天・帝釈・日月・四天・罰し給ひて、皆人にみこり(見懲)させ給へと申しつけて候。日蓮法華経の行者にてあるなしは是れにて御覧あるべし。かう申せば国主等は此の法師のをどすと思へるか。あへてにくみては申さず。大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生にけさしめんとなり。章安大師云く「彼れが為に悪を除くは即ち是れ彼れが親なり」等云云。かう申すは国主の父母、一切衆生の師匠なり。事々多く候へども留め候ひぬ。又麦の白米一だ(駄)・はじかみ(薑)送り給び候ひ了んぬ。/卯月十二日日蓮花押/四条金吾殿御返事