瑞相御書

〔C3・文永一二年〕/夫れ天変は衆人のおどろかし、地夭は諸人をうごかす。仏、法華経をとかんとし給ふ時、五瑞六瑞をげんじ給ふ。其の中に地動瑞と申すは大地六種に震動す。六種と申すは天台大師文句の三に釈して云く「東涌西没とは、東方は青・肝を主る、肝は眼を主る、西方は白・肺を主る、肺は鼻を主る。此れ眼根の功徳生じて鼻根の煩悩互ひに滅するを表するなり。鼻根の功徳生じて眼の中の煩悩互ひに滅す。余方の涌没して余根の生滅を表するも亦復」云云。妙楽大師之れを承けて云く「表根と言ふは、眼鼻已に東西を表はす。耳舌理として南北に対す。中央は心なり。四方は身なり。身四根を具す、心遍く四を縁す。故に心を以て身に対して涌没を為す」云云。夫れ十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし。又正報をば依報をもて此れをつくる。眼根をば東方をもってこれをつくる。舌は南方、鼻は西方、耳は北方、身は四方、心は中央等、これをもってしんぬべし。かるがゆへに衆生の五根やぶれんとせば、四方中央をどろうべし。されば国土やぶれんとするしるし(兆)には、まづ山くづれ、草木かれ、江河つくるしるしあり。人の眼耳等驚そうすれば天変あり。人の心をうごかせば地動す。/抑何れの経々にか六種動これなき。一切経を仏とかせ給ひしにみなこれあり。しかれども、仏法華経をとかせ給はんとて六種震動ありしかば、衆もことにをどろき、弥勒菩薩も疑ひ、文殊師利菩薩もこたへしは、諸経よりも瑞も大いに久しくありしかば、疑ひも大いに決しがたかりしなり。故に妙楽の云く「何れの大乗経にか集衆・放光・雨花・動地あらざらん。但大疑を生ずること無し」等云云。此の釈の心はいかなる経々にも、序は候へども此れほど大なるはなしとなり。されば天台大師の云く「世人以えらく、蜘蛛掛かれば喜び来たり、鵲鳴けば行人至ると。小すら尚徴有り、大焉ぞ瑞無からん。近きを以て遠きを表はす」等云云。夫れ一代四十余年が間なかりし大瑞を現じて、法華経の迹門をとかせ給ひぬ。/其の上本門と申すは、又爾前の経々の瑞に迹門を対するよりも大いなる大瑞なり。大宝塔の地よりをどりいでし、地涌千界大地よりならび出でし大震動は、大風の大海を吹けば、大山のごとくなる大波の、あし(芦)のは(葉)のごとくなる小船のをひほ(追帆)につくがごとくなりしなり。されば序品の瑞をば弥勒文殊に問ひ、涌出品の大瑞をば慈氏は仏に問ひたてまつる。これを妙楽釈して云く「迹事は浅近、文殊に寄すべし。本地は裁り難し、故に唯仏に託す」云云。迹門のことは仏説き給はざりしかども文殊ほぼこれをしれり。本門の事は妙徳すこしもはからず。此の大瑞は在世の事にて候。/仏、神力品にいたて十神力を現ず。此れは又さきの二瑞にはにるべくもなき神力なり。序品の放光は東方万八千土、神力品の大放光は十方世界。序品の地動は但三千界、神力品の大地動は諸仏の世界、地皆六種に震動す。此の瑞も又々かくのごとし。此の神力品の大瑞は仏の滅後正像二千年すぎて末法に入りて、法華経の肝要のひろまらせ給ふべき大瑞なり。経文に云く「仏滅度の後に能く是の経を持たんを以ての故に、諸仏皆歓喜して無量の神力を現じたまふ」等云云。又云く「悪世末法の時」等云云。/疑って云く、夫れ瑞は吉凶につけて或は一時・二時、或は一日・二日、或は一年・二年、或は七年十二年か。如何ぞ二千余年已後の瑞あるべきや。答へて云く、周の昭王の瑞は一千十五年に始めてあえり。訖利季王の夢は二万二千年に始めてあいぬ。豈に二千余年の事の前にあらはるるを疑ふべきや。問うて云く、在世よりも滅後の瑞大なる如何。答へて云く、大地の動ずる事は人の六根の動くによる。人の六根の動きの大小によて大地の六種も高下あり。爾前の経々には一切衆生煩悩をやぶるやうなれども実にはやぶらず。今法華経は元品の無明をやぶるゆへに大動あり。末代は又在世よりも悪人多々なり。かるがゆへに在世の瑞にもすぐれてあるべきよしを示現し給ふ。疑って云く、証文如何。答へて云く「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」等云云。/去ぬる正嘉・文永の大地震・大天変は天神七代・地神五代はさておきぬ。人王九十代、二千余年が間、日本国にいまだなき天変地夭なり。人の悦び多々なれば、天に吉瑞をあらはし、地に帝釈の動あり。人の悪心盛んなれば、天に凶変、地に凶夭出来す。瞋恚の大小に随ひて天変の大小あり。地夭も又かくのごとし。今日本国、上一人より下万民にいたるまで大悪心の衆生充満せり。此の悪心の根本は日蓮によりて起これるところなり。/守護国界経と申す経あり、法華以後の経なり。阿闍世王、仏にまいりて云く、我が国に大旱魃・大風・大水・飢饉・疫病、年々に起こる上、他国より我が国をせむ。而るに仏の出現し給へる国なり、いかん、と問ひまいらせ候ひしかば仏答へて云く、善き哉善き哉、大王能く此の問ひをなせり。汝には多くの逆罪あり。其の中に父を殺し、提婆を師として我を害せしむ。この二罪大なる故、かかる大難来たることかくのごとく無量なり。其の中に我が滅後に末法に入りて、提婆がやうなる僧国中に充満せば、正法の僧一人あるべし。彼の悪僧等、正法の人を流罪死罪に行ひて、王の后乃至万民の女を犯して謗法者の種子の国に充満せば、国中に種々の大難をこり、後には他国にせめらるべしととかれて候。/今の世の念仏者かくのごとく候上、真言師等が大慢、提婆達多に百千万億倍すぎて候。真言宗の不思議あらあら申すべし。胎蔵界の八葉の九尊を画にかきて、其の上にのぼりて諸仏の御面をふみて潅頂と申す事を行ふなり。父母の面をふみ、天子の頂をふむがごとくなる者、国中に充満して上下の師となれり。いかでか国ほろびざるべき。此の事余が一大事の法門なり。又々申すべし。さきにすこしかきて候。いたう人におほせあるべからず。びん(便)ごとの心ざし、一度二度ならねばいかにとも。