立正観抄送状

〔C5・文永一一年二月二八日・最蓮房〕/今度の御使ひ誠に御志の程顕はれ候ひ了んぬ。又種々の御志慥かに給はり候ひ了んぬ。/抑承り候当世の天台宗等、止観は法華経に勝れ、禅宗は止観に勝る。又観心の大教興る時は本迹の大教を捨つと云ふ事。先づ天台一宗に於て流々各別なりと雖も、恵心檀那の両流を出でず候なり。恵心流の義に云く、止観の一部は本迹二門に亘るなり。謂く、止観の六に云く「観は仏知と名づけ、止は仏見と名づく。念々の中に於て止観現前す。乃至三乗の近執を除く」文。弘決の五に云く「十法既に是れ法華の所乗なり。是の故に還りて法華の文を用ゐて歎ず。若し迹に約して説かば、即ち大通智勝仏の時を指して以て積劫と為し、寂滅道場を以て妙悟と為す。若し本門に約せば、我本行菩薩道の時を指して以て積劫と為し、本成仏の時を以て妙悟と為す。本迹二門、只是れ此の十法を求悟す」文。始めの一文は本門に限ると見えたり。次の文は正しく本迹に亘ると見えたり。止観は本迹に亘ると云ふ事、文証此れに依るなりと云へり。次に檀那流には止観は迹門に限ると云ふ証拠は、弘決の三に云く「還りて教味を借りて以て妙円を顕はす。故に知んぬ、一部の文共に円乗の開権妙観を成ず」文。此の文に依らば、止観は法華の迹門に限ると云ふ事、文に在りて分明なり。両流の異義替はれども倶に本迹を出でず。当世の天台宗、何くより相承して止観は法華経に勝ると云ふや。/但予が所存は止観・法華の勝劣は天地雲泥なり。若し与へて之れを論ぜば、止観は法華迹門の分斉に似たり。其の故は天台大師の己証とは十徳の中の第一は自解仏乗・第九は玄悟法華円意なり。霊応伝の第四に云く「法華の行を受けて二七日境界す」文。止観の一に云く「此の止観は天台智者己心中所行の法門を説く」文。弘決の五に云く「故に止観に正しく観法を明かすに至りて、並びに三千を以て指南と為す。故に序の中に云く、説己心中所行法門」文。己心所行の法とは一念三千・一心三観なり。三諦・三観の名義は瓔珞・仁王の二経に有りと雖も、一心三観・一念三千等の己心所行の法門をば、迹門十如実相の文を依文として釈成し給ひ了んぬ。爰に知んぬ、止観一部は迹門の分斉に似たりと云ふ事を。/若し奪って之れを論ぜば、爾前・権大乗即ち別教の分斉なり。其の故は天台己証の止観とは道場所得の妙悟なり。所謂天台大師、大蘇の普賢道場に於て三昧開発し、証を以て師に白す。師の曰く、法華の前方便陀羅尼なりと。霊応伝の第四に云く「智顗師に代はりて金字経を講ず。一心具足万行の処に至りて顗、疑ひ有り。思、為に釈して曰く、汝が疑ふ所は此れ乃ち大品次第の意なるのみ。未だ是れ法華円頓の旨にあらざるなり」文。講ずる所の経既に権大乗経なり。又次第と云へり。故に別教なり。開発せし陀羅尼、又法華前方便と云へり。故に知んぬ。爾前帯権の経、別教の分斉なりと云ふ事を。己証既に前方便の陀羅尼なり。止観とは「説己心中所行法門」と云ふが故に。明らかに知んぬ、法華の迹門に及ばずと云ふ事を。何に況や本門をや。若し此の意を得ば檀那流の義尤も吉なり。/此等の趣を以て止観は法華に勝ると申す邪義をば問答有るべく候か。委細の旨は別に一巻書き進らせ候なり。又日蓮相承の法門血脈慥かに之れを注し奉る。恐々謹言。/文永十二〈乙亥〉二月二十八日日蓮花押/最蓮房御返事