大田殿許御書

〔C0・文永一二年一月二四日・大田乗明〕/新春の御慶賀自他幸甚幸甚。/抑俗諦・真諦の中には勝負を以て詮と為し、世間・出世とも甲乙を以て先と為すか。而るに諸経諸宗の勝劣は三国の聖人共に之れを存し、両朝の群賢同じく之れを知るか。法華経大日経天台宗真言宗との勝劣は月支・日本未だ之れを弁ぜず、西天・東土にも明らめざる物か。所詮天台・伝教の如き聖人、公場に於て是非を決せず、明帝・桓武の如き国主之れを聞かざる故か。/所謂善無畏三蔵等は法華経大日経とは理同事勝等と、慈覚・智証等も此の義を存するか。弘法大師法華経華厳経より下す等、此等の二義共に経文に非ず、同じく自義を存するか。将又慈覚・智証等表を作りて之れを奏す。申すに随ひて勅宣有り。聞くが如くんば真言・止観両教の宗をば同じく醍醐と号し倶に深秘と称す。乃至譬へて猶人の両目、鳥の双翼の如き者なり等云云。又重誡の勅宣有り。聞くが如くんば山上の僧等専ら先師の義に違して偏執の心を成ず、殆ど以て余風を扇揚し旧業を興隆することを顧みず等云云、余生まれて末の初めに居し学を諸賢の終りを稟く。慈覚・智証の正義の上に勅宣方々これ有り、疑ひ有るべからず、一言をも出だすべからず。然りと雖も円仁・円珍の両大師、先師伝教大師の正義を劫略して勅宣を申し下すの疑ひ之れ有る上、仏誡遁れ難し。随って又亡国の因縁、謗法の源初これに始まるか。故に世の謗りを憚からず、用・不用を知らず、身命を捨てて之れを申すなり。/疑って云く「善無畏・金剛智・不空の三三蔵、弘法・慈覚・智証の三大師、二経に相対して勝劣を判ずるの時、或は理同事勝或は華厳経より下る」等云云。随って又聖賢の鳳文これ有り、諸徳之れを用ゐて年久し。此の外に汝一義を存して諸人を迷惑せしむ。剰へ天下の耳目を驚かす。豈に増上慢の者に非ずや如何。答へて曰く、汝等が不審尤最(もっとも)なり。如意論師の提婆菩薩を炳誡せる言は是れなり。彼の状に云く「党援の衆と大義を競ふこと無く、群迷の中に正論を弁ずること無かれと言ひ畢りて死す」云云。御不審之れに当たるか。然りと雖も仏世尊は法華経を演説するに一経の内に二度の流通これ有り、重ねて一経を説いて法華経を流通す。涅槃経に云く「若し善比丘ありて法を壊る者を見て、置きて呵責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり」等云云。善無畏・金剛智の両三蔵、慈覚・智証の二大師、大日の権経を以て法華の実経を破壊せり。而るに日蓮世を恐れて之れを言はずんば仏敵と為らんか。随って章安大師末代の学者を諫暁して云く「仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり、慈無くして詐り親しむは是れ彼の人の怨なり、能く糾治する者は即ち是れ彼れが親なり」等云云。余は此の釈を見て肝に染むるが故に身命を捨てて之れを糾明するなり。提婆菩薩は付法蔵の第十四、師子尊者は二十五に当たる。或は命を失ひ或は頭を刎ねらる等是れなり。/疑って云く、経々の自讃は諸経常の習ひなり。所謂金光明経に云く「諸経の王」。密厳経の「一切経中の勝」。蘇悉地経に云く「三部の中に於て此の経を王と為す」。法華経に云く「是れ諸経の王」等云云。随って四依の菩薩両国の三蔵も是の如し如何。答へて曰く、大国小国・大王小王・大家小家・尊主高貴各々分斉有り。然りと雖も国々の万民皆大王と号し同じく天子と称す。詮を以て之れを論ぜば梵王を大王と為し、法華経を以て天子と称するなり。求めて云く、其の証如何。答へて曰く、金光明経の「是諸経之王」の文は梵釈の諸経に相対し、密厳経の「一切経中勝」の文は次上に十地経・華厳経勝鬘経等を挙げて彼々の経々に相対して一切経の中に勝ると云云。蘇悉地経の文は現文之れを見るに三部の中に於て王と為す等云云。蘇悉地経大日経金剛頂経に相対して王と云云。而るに善無畏等或は理同事勝或は華厳より下る等云云。此等の僻見は蛍火を日月に同じ大海を江河に入るるか。/疑って云く、経々の勝劣之れを論じて何か為ん。答へて曰く、法華経の第七に云く「能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。此の経の薬王品に十喩を挙げて已今当の一切経に超過すと云云。第八の譬へ、兼ねて上の文に有り。所詮仏の意の如くならば経の勝劣を詮とするに非ず。法華経の行者は一切の諸人に勝れたるの由之れを説く。大日経等の行者は諸山・衆星・江河・諸民なり。法華経の行者は須弥山・日月・大海等なり。而るに今の世は法華経を軽蔑すること土の如く民の如し。真言の僻人等を重崇して国師と為ること金の如く王の如し。之れに依りて増上慢の者国中に充満す。青天瞋りを為し黄地夭を致す。涓聚まりて溝塹を破るが如く、民の愁ひ積りて国を亡ぼす等是れなり。/問うて云く、内外の所釈の中に是の如きの例これ有りや。答へて曰く、史臣呉競が太宗に上る表に云く「窃かに惟れば太宗・文武皇帝の政化、曠古よりこのかた未だ是の如くの盛んなる者有らず。唐の尭、虞の舜、夏の禹、殷の湯、周の文・武、漢の文・景と雖も皆未だ逮ばざる所なり」云云。今此の表を見れば太宗を慢ぜる王と云ふべきか。政道の至妙、先聖に超えて讃むる所なり。章安大師天台を讃めて云く「天竺の大論すら尚其の類に非ず。真丹の人師何ぞ労はしく語るに及ばん。此れ誇耀に非ず、法相の然らしむるのみ」等云云。従義法師重ねて讃めて云く「竜樹・天親未だ天台に若かず」。伝教大師自讃して云く「天台法華宗の諸宗に勝れたるは、所依の経に拠るが故なり。自讃毀他ならず。庶(こいねが)はくは有智の君子、経を尋ねて宗を定めよ」云云。又云く「能く法華を持つ者は亦衆生の中の第一なり、已に仏説に拠る、豈に自讃ならんや」云云。今愚見を以て之れを勘ふるに、善無畏・弘法・慈覚・智証等は皆仏意に違ふのみに非ず、或は法の盗人或は伝教大師に逆へる僻人なり。故に或は閻魔王の責めを蒙り、或は墓墳無く、或は事を入定に寄せ、或は度々大火・大兵に値へり。権者は恥辱を死骸に与へずといへる本文に違するか。/疑って云く、六宗の如く真言の一宗も天台に落ちたる状これ有りや。答ふ、記の十の末に之れを載せたり。随って伝教大師、依憑集を造りて之れを集む。眼有らん者は開きて之れを見よ。冀はしきかな末代の学者、妙楽・伝教の聖言に随ひて、善無畏・慈覚の凡言を用ゐること勿れ。予が門家等深く此の由を存ぜよ。今生に人を恐れて後生に悪果を招くこと勿れ。恐惶謹言。/正月二十四日日蓮(花押)/大田金吾入道殿