其中衆生御書

〔C6・文永一〇年〕/「其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す」等云云。此の経文は釈尊は三義を備へ阿弥陀等の諸仏は三義欠けたり。此の義前々の如し。但し「唯我一人」の経文は小乗経の語にも非ず。諸大乗経の帯権赴機の説にも非ず、多宝十方の仏の証明を加へし金言なり。今の念仏者等の賢父の教言なり。明王の奉詔なり、聖師の教訓なり。三義に背き二十逆罪を犯し入阿鼻獄の人と成る事悲しむべし悲しむべし。是れは法華経の初門の法門なり。次第に深く之れを説かん云云。/迹門には三千塵点已来、娑婆世界の衆生阿弥陀等の諸仏に棄てられ了んぬ。化城喩品に云く「爾の時の聞法の者、各の諸仏の所に在り、乃至、是の本因縁を以て今法華経を説く」云云。此の如き経文は文に云く「娑婆世界の衆生は過去三千塵点已来、一人として阿弥陀等の十方の十五仏の浄土へは生まるる者之れ無し」。天台云く「旧に西方を以て、以て長者を合す。今之れを用ゐず。西方は仏別に縁異なり、仏別なる故に隠顕の義成ぜず。縁異なるが故に子父の義成ぜず。又此の経の首末に全く此の旨無し。眼を閉ぢて穿鑿(せんさく)す」。妙楽云く「西方等とは宿昔(しゅくせき)の縁別にして化道同じからず。結縁は生の如く成就は養の如し。生養の縁異なれば子父成ぜず」等云云。此の如きの文は十方の諸仏は養父、教主釈尊は親父なり。天台に多くの釈有りと雖も此の釈を以て本と為すべし。所々に弥陀を讃(ほ)むる事は且く依経による。例せば世親等の阿含経を讃めたるが如し。/本門を以て之れを論ずれば五百塵点已来釈尊の実子なり。然りと雖も或は世間に著して法華を捨て、或は小乗・権大乗経に著して法華経を捨て、或は迹門に著して本門を知らず、或は当説に著して法華を捨て、或は十方の浄土に心を懸け、或は弥陀の浄土に心を懸ける等。今七宗八宗等の悪師に遇ひて法華を捨てるの間今に五百塵点を歴たり。涅槃経の二十二に云く、天台云く「若し悪友に値へば則ち本心を失ふ」。/疑って云く、本迹二門の流通たる薬王品に弥陀の浄土を勧めたり如何。答へて云く、薬王品の弥陀は爾前迹門の弥陀に非ず。名同体異是れなり。無量義経に云く「言辞是れ一にして而も義は別異なり」云云。妙楽云く「須臾も観経等を指さざるなり」。一切之れを以て知るべし。所詮発起(ほっき)影向(ようごう)等の深位の菩薩は十方の浄土より娑婆世界へ来たり、娑婆世界より十方浄土へ往く。