小乗大乗分別抄■

〔C2・文永八年〕/夫れ小大定めなし。一寸の物を一尺の物に対しては小と云ひ、五尺の男に対しては六尺・七尺の男を大の男と云ふ。外道の法に対しては一切の大小の仏教を皆大乗と云ふ。「大法東漸通指仏教以為大法」等と釈する是れなり。仏教に入りても鹿苑十二年の説、四阿含経等の一切の小乗経をば諸大乗経に対して、小乗経と名づけたり。又諸大乗経には大乗の中にとりて劣る教を小乗と云ふ。華厳の大乗経に「其余楽小法」と申す文あり。天台大師はこの小法といふは常の小乗経にはあらず、十地の大法に対して十住・十行・十回向の大法を下して小法と名づくと釈し給へり。/又法華経第一の巻方便品に「若し小乗を以て乃至一人をも化す」と申す文あり。天台・妙楽は阿含経を小乗というのみにあらず、華厳経の別教、方等・般若の通別の大乗をも小乗と定む。又玄義の第一に「小を会して大に帰す、是れ漸頓泯合」と申す釈をば、智証大師は始め華厳経より終り般若経にいたるまでの四教・八教の権実の諸大乗経を漸頓と釈す。泯合と云ふは八教を会して一大円教に合はすとこそことはられて候へ。又法華経の寿量品に「楽於小法徳薄垢重者」と申す文あり。天台大師は此の経文に小法と云ふは小乗経にもあらず、又諸大乗経にもあらず、久遠実成を説かざる華厳経の円乃至方等・般若・法華経の迹門十四品の円頓の大法まで小乗の法なり。又華厳経等の諸大乗経の教主の法身・報身・毘盧遮那・盧舎那・大日如来等をも小仏なりと釈し給ふ。/此の心ならば涅槃経・大日経等の一切の大小・権実・顕密の諸経は皆小乗経、八宗の中に倶舎宗成実宗律宗を小乗と云ふのみならず、華厳宗法相宗三論宗真言宗等の諸大乗宗を小乗宗として、唯天台宗の一宗計り実大乗宗なるべし。彼々の大乗宗の所依の経々には絶えて二乗作仏・久遠実成の最大の法をとかせ給はず。譬へば一尺二尺の石を持つ者をば大力といはず、一丈二丈の石を持つを大力と云ふが如し。華厳経の法界円融四十一位、般若経の混同無二・十八空、乾恵地等の十地、瓔珞経の五十二位、仁王経の五十一位、薬師経の十二の大願、双観経の四十八願大日経真言印契等、此等は小乗経に対すれば大法・秘法なり。法華経の二乗作仏・久遠実成に対すれば小乗の法なり。一尺二尺を一丈二丈に対するがごとし。/又二乗作仏・久遠実成は法華経の肝用にして諸経に対すれば奇たりと云へども、法華経の中にてはいまだ奇妙ならず。一念三千と申す法門こそ、奇が中の奇、妙が中の妙にて、華厳大日経等に分絶えたるのみならず、八宗の祖師の中にも真言等の七宗の人師、名をだにもしらず、天竺の大論師竜樹菩薩・天親菩薩は内には珠を含み、外にはかきあらわし給はざりし法門なり。而るを雨衆(うず)が三徳・米斉(べいさい)が六句の先仏の教を盗みとれる様に、華厳宗の澄観・真言宗の善無畏等は天台大師の一念三千の法門を盗み取りて、我が所依の経の「心仏及衆生」の文の心とし、心実相と申す文の神(たましい)とせるなり。かくのごとく盗み取りて我が宗の規模となせるが、又還りて天台本宗をば下して、華厳宗真言宗には劣れるなりと申す。此等の人師は世間の盗人にはあらねども法の盗人なるべし。此等をよくよく尋ね明らむべし。/又世間の天台宗の学者並びに諸宗の人々の云く、法華経は但二乗作仏・久遠実成計りなり等云云。今反詰して云く、汝等が承伏に付きて、但二乗作仏と久遠実成計り法華経にかぎて諸経になくば、此れなりとも豈に奇が中の奇にあらずや。二乗作仏諸経になくば、仏の御弟子頭陀第一の迦葉、智恵第一の舎利弗、神通第一の目連等の十大弟子、千二百の羅漢、万二千の声聞、無数億の二乗界、過去遠々劫より未来無数劫にいたるまで法華経に値ひたてまつらずば、永く色心倶に滅して永不成仏の者となるべし。豈に大なる失にあらずや。又二乗界仏にならずば、迦葉等を供養せし梵天・帝釈・四衆・八部・比丘・比丘尼等の二界八番の衆はいかんがあるべき。又久遠実成が此の経に限らずんば、三世の諸仏無常遷滅の法に堕しなん。譬へば天に諸星ありとも日月ましまさずんばいかんがせん。地に草木ありとも大地なくばいかんがせん。是れは汝が承伏に付きての義なり。/実をもて勘へ申さば、二乗作仏なきならば、九界の衆生仏になるべからず。法華経の心は法爾のことはりとして一切衆生に十界を具足せり。譬へば人一人は必ず四大を以てつくれり。一大かけなば人にあらじ。一切衆生のみならず、十界の依正の二法、非情の草木一微塵にいたるまで皆十界を具足せり。二乗界仏にならずば余界の中の二乗界も仏になるべからず。又余界の中の二乗界仏にならずば、余界の八界仏になるべからず。譬へば父母ともに持ちたる者、兄弟九人あらんか、二人は凡下の者と定められば、余の七人も必ず凡下の者となるべし。仏と経とは父母の如し。九界の衆生は実子なり。声聞・縁覚の二人永不成仏の者となるならば、菩薩・六凡の七人あに得道をゆるさるべきや。「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり。乃至、唯我一人のみ能く救護を為す」の文をもて知るべし。/又菩薩と申すは必ず四弘誓願ををこす。第一衆生無辺誓願度の願成就せずば、第四の無上菩提誓願証の願は成すべからず。前四味の諸経にては菩薩・凡夫は仏になるべし、二乗は永く仏になるべからず等云云。而るをかしこげなる菩薩も、はかなげなる六凡も共に思へり、我等仏になるべし、二乗は仏にならざればかしこくして彼の道には入らざりけると思ふ。二乗はなげきをいだき、此の道には入るまじかりし者をと恐れかなしみしが、今法華経にして二乗を仏になし給へる時、二乗仏になるのみならず、かの九界の成仏をもときあらはし給へり。諸の菩薩此の法門を聞いて思はく、我等が思ひははかなかりけり。爾前の経々にして二乗仏にならずば、我等もなるまじかりける者なり。二乗を永不成仏と説き給ふは二乗一人計りなげくべきにあらざりけり。我等も同じなげきにてありけりと心うるなり。/又寿量品の久遠実成が爾前の経々になき事を以て思ふに、爾前には久遠実成なきのみならず、仏は天下第一の大妄語の人なるべし。爾前の大乗第一たる華厳経大日経等に「始成正覚」「我昔坐道場」等云云。真実甚深正直捨方便の無量義経法華経の迹門には「我先道場」、「我始坐道場」と説かれたり。此等の経文は寿量品の「然我実成仏已来無量無辺」の文より思ひ見れば、あに大妄語にあらずや。仏の一身すでに大妄語の身なり。一身に備へたる六根の諸法あに実なるべきや。大氷の上に造れる諸舎は春をむかへては破れざるべしや。水中の満月は実に体ありや。爾前の成仏・往生等は水中の星月の如し。爾前の成仏・往生等は体に随ふ影の如し。本門寿量品をもて見れば、寿量品の智恵をはなれては諸経は跨節・当分の得道共に有名無実なり。/天台大師此の法門を道場にして独り覚知し、玄義十巻・文句十巻・止観十巻等かきつけ給ふに、諸経に二乗作仏・久遠実成絶えてなき由を書きをき給ふ。是れは南北の十師が教相に迷ひて三時・四時・五時・四宗・五宗・六宗・一音・半満・三教・四教等を立てて教の浅深勝劣に迷ひし、此等の非義を破らんが為に、まづ眼前たる二乗作仏・久遠実成をもて諸経の勝劣を定め給ひしなり。然りと云ひて余界の得道をゆるすにはあらず。其の後華厳宗の五教、法相宗の三時、真言宗の顕密・五蔵・十住心、義釈の四句等は南三北七の十師の義よりも尚誤れる教相なり。此等は他師の事なればさてをきぬ。又自宗の学者、天台・妙楽・伝教大師の御釈に迷ひて、爾前の経々には二乗作仏・久遠実成計りこそ無けれども、余界の得道は有りなんど申す人々一人二人ならず日本国に弘まれり。他宗の人々是れに便りを得て弥(いよいよ)天台宗を失ふ。此等の学者は譬へば野馬(とんぼ)の蜘蛛(くも)の網にかかり、渇ける鹿の陽炎(かげろう)をおふよりもはかなし。例せば頼朝の右大将家は泰衡を討たんが為に、泰衡を誑(たぶら)かして義経を討たせ、大将の入道清盛は源氏を喪(ほろ)ぼして世をとらんが為に、我が伯父平馬介(へいまのすけ)忠正を切る。義朝はたぼらかされて慈父為義を切るが如し。此等は墓なき人々のためしなり。/天台大師法華経より外の経々には二乗作仏・久遠実成は絶えてなしなんど釈し給へば、菩薩の作仏、凡夫の往生はあるなんめりとうち思ひて、我等は二乗にもあらざれば爾前の経々にても得道なるべし。此の念(おも)ひ心中にさしはさめり。其の中にも観経の九品往生はねがひやすき事なれば、法華経をばなげすて、念仏申して浄土に生まれて、観音・勢至・阿弥陀仏に値ひたてまつりて成仏を遂ぐべしと云云。当世の天台宗の人々を始めとして諸宗の学者かくのごとし。実義をもて申さば、一切衆生の成仏のみならず、六道を出で十方の浄土に往生する事はかならず法華経の力なり。例せば日本国の人唐土の内裏に入らん事は、必ず日本の国王の勅定によるべきが如し。穢土を離れて浄土に入らん事は必ず法華経の力なるべし。例せば民の女(むすめ)乃至関白大臣の女(むすめ)に至るまで、大王の種を下(おろ)せば其の産める子王となりぬ。大王の女なれども臣下の種を懐妊せば其の子王とならざるが如し。十方の浄土に生まるる者は三乗・人・天・畜生等までも皆王の種姓と成りて生まるべし。皆仏となるべきが故なり。阿含経は民の女の民を夫とし、華厳・方等・般若等は臣の女の臣を夫とせるが如し。又華厳経・方等・般若・大日経等の円教の菩薩等は王女が臣下を夫とせるが如し。皆浄土に生まるべき法にはあらず。/又華厳・阿含・方等・般若等の経々の間に六道を出づる人あり。是れは彼々の経々の力には非ず。過去に法華経の種を殖えたりし人、現在に法華経を待たずして機すすむ故に、爾前の経々を縁として、過去の法華経の種を発得して成仏往生をとぐるなり。例せば縁覚の無仏世にして飛花落葉を観じて独覚の菩提を証し、孝養父母の者の梵天に生まるるが如し。飛花落葉・孝養父母等は独覚と梵天との修因にはあらねども、かれを縁として過去の修因を引きおこし、彼の天に生じ独覚の菩提を証す。而るに尚過去に小乗の三賢四善根にも入らず、有漏の禅定をも修せざる者は、月を観じ花を詠じ孝養父母の善を修すれども、独覚ともならず色天にも生ぜず。過去に法華経の種を殖えざる人は、華厳経の席に侍りしかども初地初住にものぼらず、鹿苑説教の砌にても見思をも断ぜず、観経等にても九品の往生をもとげず、但大小の賢位のみに入りて聖位にはのぼらずして、法華経に来たりて始めて仏種を心田に下して、一生に初地初住等に登る者もあり、又涅槃の座へさがり乃至滅後未来までゆく人もあり。/過去に法華経の種を殖えたる人々は、結縁の厚薄に随ひて、華厳経を縁として初地初住に登る人もあり、阿含経を縁として見思を断じて二乗となる者もあり、観経等の九品の行業を縁として往生する者もあり。方等・般若も此れをもて知んぬべし。此等は彼の経々の力にはあらず、偏に法華経の力なり。譬へば民の女(むすめ)に王の種を下せるを人しらずして民の子と思ひ、大臣等の女(むすめ)に王の種を下せるを人しらずして臣下の子と思へども、大王より是れを尋ぬれば皆王種となるべし。爾前にして界外へ至る人を、法華経より之れを尋ぬれば皆法華経の得道なるべし。又過去に法華経の種を殖えたる人の根鈍にして、爾前の経々に発得せざる人々は法華経にいたりて得道なる。是れは爾前の経々をばめのととして、きさき腹の太子・王子と云ふが如くなるべし。又仏の滅後にも、正法一千年が間は在世の如くこそなけれども、過去に法華経の種を殖えて法華・涅槃経にて覚りをのこせる者、現在在世にて種を下せる人々も是れ多し。又滅後なれども現に法華経ましませば、外道の法より小乗経にうつり、小乗経より権大乗にうつり、権大乗より法華経にうつる人々数をしらず。竜樹菩薩・無著菩薩・世親論師等是れなり。像法一千年には正法のほどこそ無けれども、又過去現在に法華経の種を殖えたる人々も少々之れ有り。而るを漸々に仏法澆薄になる程に、宗々も偏執石の如くかたく、我慢山の如く高し。像法の末に成りぬれば、仏法によて諍論興盛して仏法の合戦ひまなし。世間の罪よりも、仏法の失に依りて無間地獄に堕つる者数をしらず。今は又末法に入りて二百余歳、過去現在に法華経の種を殖えたりし人々もやうやくつきはてぬ。又種をうへたる人々は少々あるらめども、世間の大悪人、出生の謗法の者数をしらず国に充満せり。譬へば大火の中の小水、大水の中の小火、大海の中の水(まみず)、大地の中の金(こがね)なんどの如く、悪業とのみなりぬ。又過去の善業もなきが如く、現在の善業もしるしなし。或は弥陀の名号をもて人を狂はし、法華経をすてしむれば、背上向下のとがあり。或は禅宗を立てて教外と称し、仏教をば真の法にあらずと蔑如して増上慢を起こし、或は法相・三論・華厳宗を立てて法華経を下し、或は真言宗・大日宗と称して、法華経は釈迦如来顕教にして真言宗に及ばず等云云。而るに自然に法門に迷ふ者あり、或は師々に依りて迷ふ者もあり、或は元祖・論師・人師の迷法を年久しく真実の法ぞと伝へ来る者もあり。或は悪鬼天魔の身に入りかはりて、悪法を弘めて正法とをもう者もあり、或ははづかの小乗一途の小法をしりて、大法を行ずる人はしからずと我慢して、我が小法を行ぜんが為に大法秘法の山寺をおさへとる者もあり、或は慈悲魔と申す魔、身に入りて三衣一鉢を身に帯し小乗の一法を行ずるやからわづかの小法を持ちて、国中の棟梁たる比叡山竜象の如くなる智者どもを、一分我が教へにたがへるを見て、邪見の者悪人なんどうち思へり。此の悪見をもて国主をたぼらかし誑惑して、正法の御帰依をうすうなし、かへて破国破仏の因縁となせるなり。かの妲己・褒なんど申せし后は心もおだやかに、みめかたち人にすぐれたりき。愚王これを愛して国をほろぼす縁となる。当世の禅師・律師・念仏者なんど申す聖一・道隆・良観・道阿弥・念阿弥なんど申す法師は鳩鴿が糞を食するがごとく、西施(せいし)が呉王をたぼらかししににたり。或は我が小乗の臭糞の驢乳(ろにゅう)の戒を持ちて