如説修行抄

〔C5・文永一〇年五月・特定者なし〕/夫れ以みれば、末法流布の時生を此の土に受け此の経を信ぜん人は、如来の在世より猶多怨嫉の難甚だしかるべしと見えて候なり。其の故は在世は能化の主は仏なり。弟子又大菩薩・阿羅漢なり。人天・四衆・八部・人非人等なりといへども、調機調養して法華経を聞かしめ給ふ、尚猶怨嫉多なり。何に況や末法今の時は教機時刻当来すといへども、其の師を尋ぬれば凡師なり。弟子又闘諍堅固・白法隠没・三毒強盛の悪人等なり。故に善師をば遠離し、悪師には親近す。其の上真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには、三類の敵人決定せり。されば此の経を聴聞し始めん日より思ひ定むべし、況滅度後の大難の三類甚だしかるべしと。然るに我が弟子等の中にも、兼ねて聴聞せしかども、大小の難来たる時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ。兼ねて申さざりけるか。経文を先として猶多怨嫉況滅度後と朝夕教へし事は是れなり。予が或は所ををわれ、或は疵を蒙り、或は両度の御勘気を蒙りて遠国に流罪せらるるを見聞くとも、今始めて驚くべきにあらざる物をや。/問うて云く、如説修行の行者は現世安穏なるべし。何が故ぞ三類の強敵盛んなるや。答へて云く、釈尊法華経の御為に今度九横の大難に値ひ給ふ。過去の不軽菩薩は法華経の故に杖木瓦石を蒙り、竺の道生は蘇山に流され、法道三蔵は面に火印をあてられ、師子尊者は頭をはねられ、天台大師は南三北七にあたまれ、伝教大師は六宗ににくまれ給へり。此等の仏・菩薩・大聖等は法華経の行者として而も大難にあひ給へり。此等の人々を如説修行の人と云はずんばいづくにか如説修行の人を尋ねん。然るに今の世は闘諍堅固・白法隠没なる上、悪国・悪王・悪臣・悪民のみ有りて正法を背きて邪法・邪師を崇重すれば、国土に悪鬼乱れ入りて三災七難盛んに起これり。/かかる時刻に日蓮仏勅を蒙りて此の土に生まれけるこそ時の不祥なれども、法王の宣旨背きがたければ、経文に任せて権実二教のいくさを起こし、忍辱の鎧を著て妙教の剣を提げ、一部八巻の肝心妙法五字の旗を指し上げて、未顕真実の弓をはり正直捨権の箭をはげて、大白牛車に打ち乗りて権門をかつぱと破り、かしこへおしかけ、ここへおしよせ、念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の敵人をせむるに、或はにげ、或はひきしりぞき、或は生け取りにせられし者は我が弟子となる。或はせめ返し、せめをとしすれども、かたきは多勢なり、法王の一人は無勢なり。今に至るまで軍やむ事なし。法華折伏破権門理の金言なれば、終に権教権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし、天下万民諸乗一仏乗と成りて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨壌(つちくれ)を砕かず。代は羲農の世となりて、今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕はれん時を各々御覧ぜよ。現世安穏の証文疑ひ有るべからざる者なり。/問うて云く、如説修行の行者と申し候は何様に信ずるを申し候べきや。答へて云く、当世日本国中の諸人一同に如説修行の人と申し候は、諸乗一仏乗と開会しぬれば、何れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし。念仏を申すも、真言を持つも、禅を修行するも、総じて一切の諸経並びに仏菩薩の御名を持ちて唱ふるも、皆法華経なりと信ずるが如説修行の人とは云はれ候なり等云云。/予が云く、然らず。所詮仏法を修行せんには人の言を用ゐるべからず。只仰ぎて仏の金言をまぼるべきなり。我等が本師釈迦如来は初成道の始めより、法華を説かんと思し食ししかども、衆生の機根未熟なりしかば、先づ権教たる方便を四十余年が間説いて、後に真実たる法華経を説かせ給ひしなり。此の経の序分無量義経にして、権実のはうじ(榜示)を指して方便真実を分け給へり。所謂「以方便力四十余年未顕真実」是れなり。大荘厳等の八万の大士、施権・開権・廃権等のいはれを心得分け給ひて、領解して言く、法華已前の歴劫修行等の諸経は「終不得成無上菩提」と申しきり給ひぬ。然して後正宗の法華に至りて「世尊法久後要当説真実」と説き給ひしを始めとして「無二亦無三除仏方便説」、「正直捨方便」、「乃至不受余経一偈」と禁め給へり。是れより已後は「唯有一仏乗」の妙法のみ一切衆生を仏になす大法にて、法華経より外の諸経は一分の得益もあるまじきを、末代の学者、何れも如来の説教なれば皆得道あるべしと思ひて、或は真言或は念仏、或は禅宗・三論・法相・倶舎・成実・律等の諸宗・諸経を取り取りに信ずるなり。是の如き人をば「若人不信毀謗此経即断一切世間仏種乃至其人命終入阿鼻獄」と定め給へり。此等の明鏡を本として一分もたがえず、唯有一乗法と信ずるを如説修行の人とは仏は定めさせ給へり。/難じて云く、左様に方便権教たる諸経諸仏を信ずるを法華経と云はばこそ、只一経に限りて経文の如く五種の修行をこらし、安楽行品の如く修行せんは如説修行の者とは云はれ候まじきか如何。答へて云く、凡そ仏法を修行せん者は摂折二門を知るべきなり。一切の経論此の二を出でざるなり。されば国中の諸学者等、仏法をあらあらまなぶと云へども、時刻相応の道理を知らず。四節四季取り取りに替はれり。夏はあたたかに冬はつめたく、春は花さき秋は菓成る。春種子を下して秋菓を取るべし。秋種子を下して春菓実を取らんに豈に取らるべけんや。極寒の時は厚き衣は用なり。極熱の夏はなにかせん。涼風は夏の用なり。冬はなにかせん。/仏法も亦是の如し。小乗の流布して得益あるべき時もあり。権大乗の流布して得益あるべき時もあり。実教の流布して仏果を得べき時もあり。然るに正像二千年は小乗・権大乗の流布の時なり。末法の始めの五百歳には純円一実の法華経のみ広宣流布の時なり。此の時は闘諍堅固・白法隠没の時と定めて、権実雑乱の砌なり。敵有る時は刀杖弓箭を持つべし。敵無き時は弓箭兵杖なにかせん。今の時は権教即実教の敵と成る。一乗流布の代の時は権教有りて敵と成る。まぎらはしくば実教より之れを責むべし。是れを摂折二門の修行の中には法華折伏と申すなり。天台云く「法華折伏破権門理」、まことに故あるかな。然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば、冬種子を下して益を求むる者にあらずや。鶏の暁に鳴くは用なり。宵に鳴くは物怪なり。権実雑乱の時、法華経の御敵を責めずして山林に閉じ籠りて、摂受の修行をせんは豈に法華経修行の時を失ふ物怪にあらずや。されば末法今の時、法華経折伏の修行をば誰か経文の如くし給ひし。誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと、音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ。三類の強敵来たらん事は疑ひ無し。/本師釈迦如来は在世八年の間折伏し給ひ、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年。今日蓮は二十余年の間権理を破るに其の間の大難数を知らず。仏の九横の難に及ぶか及ばざるかは知らず。恐らくは天台・伝教も法華経の故に日蓮が如く大難に値ひ給ひし事なし。彼れは只悪口怨嫉計りなり。是れは両度の御勘気、遠国の流罪、竜口の頸の座、頭の疵等、其の外悪口せられ、弟子等を流罪せられ、籠に入れられ、檀那の所領を取られ、御内を出だされし、是等の大難には竜樹・天台・伝教も争でか及び給ふべき。されば如説修行の法華経の行者には三類の強敵の杖定めて有るべしと知り給へ。されば釈尊御入滅の後二千余年が間に如説修行の行人は、釈尊・天台・伝教の三人はさてをきぬ。末法に入りては日蓮並びに弟子檀那等是れなり。我等を如説修行の者といはずば、釈尊・天台・伝教等の三人も如説修行の人なるべからず。提婆・瞿伽利・善星・弘法・慈覚・智証・善導・法然・良観房等は即ち法華経の行者と云はれ候べきか、釈尊・天台・伝教・日蓮並びに弟子檀那は念仏・真言・禅・律等と成るべきか。法華経は方便権教と云はれ、念仏等の諸経は還りて法華経となるべきか。東は西となり、西は東となるとも、大地所持の草木共に飛び上りて天となり、天の日月星宿は共に落ち下りて大地となるためしはありとも、いかでか此の理あるべき。/哀れなるかな今日本国の万人、日蓮並びに弟子檀那等が三類の強敵に責められ大苦に値ふを見て悦び笑ふとも、昨日は人の上、今日は身の上なれば、日蓮並びに弟子檀那共に霜露の命の日影を待つ計りぞかし。只今仏果に叶ひて寂光の本土に居住して自受法楽せん時、汝等が阿鼻大城の底に沈みて大苦に値はん時、我等何計りむざんと思はんずらん。汝等何計りうらやましく思はんずらん。一期過ぎなん事は程無ければ、いかに強敵重なるとも、ゆめゆめ退する心なかれ、恐るる心なかれ。縦ひ頸をばのこぎりにて引き切り、どうをばひしほこを以てつつき、足にはほだしを打ちてきりを以てもむとも、命のかよはんきはは南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へて、唱へ死ににし(死)ぬるならば、釈迦・多宝・十方の諸仏、霊山会上にして御契りの約束なれば、須臾の程に飛び来たりて手を取り肩に引き懸けて霊山へはしり給はば、二聖・二天・十羅刹女・受持者をうご(擁護)の諸天善神は、天蓋を指し旛を上げて、我等を守護して、慥かに寂光の宝刹へ送り給ふべきなり。あらうれしや、あらうれしや。/文永十年〈癸酉〉五月日日蓮花押/人々御中へ/此の書御身を離さず常に御覧有るべく候。