法華宗内証仏法血脈

〔C6・文永一〇年二月一五日〕/夫れ妙法蓮華経宗とは、久遠実成三身即一の釈迦大牟尼尊、常寂光土霊山浄土唯一教主の所立なり。所謂妙法蓮華経第七に仏説いて言く「諸経の中の王なり」〈已上経文〉。霊山の聴衆たる天台大師の云く「今経は則ち諸経の法王と成る、最も為れ第一なり」文。妙楽大師の云く「法華の外に勝法無し。故に云く法華は無上の法王なり」。伝教大師の云く「仏の諸法の王為るが如く、此の経も亦復是の如し。諸経の中の王なり〈已上経文〉。/当に知るべし仏は無上の法王なり。法華は無上の妙典なり。明らかに知んぬ他宗の所依の経は諸王所喩の教なり。天台法華宗の所依の経は王中の王の所喩の教なり。他宗には都て此の十喩無し。唯法華のみ此の十喩有り。若し他宗の経に此の十喩有りと雖も、当分跨節を分別すべきのみ。釈尊の宗を立つる、法華を極と為す。本法の故に、時を待ち機を待つ。論師の宗を立つる、自見を極と為す。随宜の故に」文。又或処に云く「当に知るべし、他宗は権教権宗、当分の宗なり。天台法華宗は実教実宗、跨節の宗なり。天台法華宗の諸宗に勝るることは、所依の経に依るが故なり。自讃毀他にあらず。庶はくは有智の君子、経を尋ねて宗を定めよ」〈已上取意〉。若し法華宗の外に宗有りと言はば、国に二主有り、一世界に二仏出世の道理有り。若し爾らざれば、法華真実宗の外に全く権教方便の権宗有るべからざる者なり。当に知るべし、今の法華宗とは諸経中王の文に依りて之れを建立す。仏立宗とは釈迦独尊の所立の宗なる故なり。/妙法蓮華経結要付属血脈相承の譜。久遠実成大覚世尊常寂光土霊山会上多宝塔中三身即一の釈迦牟尼如来。謹んで法華経神力・属累の両品を案ずるに云く「属累の為めの故に此の経の功徳を説くとも猶尽くすこと能はじ。要を以て之れを言はば、如来一切の所有の法、如来一切の自在の神力、如来一切の秘要の蔵、如来一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す〈已上結要五字なり〉。是の故に汝等、如来の滅後に於て当に一心に受持読誦すべし。所以は何ん。当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり。諸仏此に於て三菩提を得、諸仏此に於て法輪を転じ、諸仏此に於て般涅槃したまふ」文。属累品に云く「今以て汝等に付属す。当に一心に此の法を流布して広く増益せしむべし。是の如く三たび諸の菩薩摩訶薩の頂を摩でて、一切衆生をして普く聞知することを得しむ」文。又云く「是の語を説きたまふ時、十方無量の分身の諸仏皆大いに歓喜す」〈已上経文〉。両品の文分明なり。妙法五字を以て上行菩薩に付属したまふと云ふ事。問ふ、何れの土に於て誰人を証人と為して、上行等の本眷属に於て妙法の五字を付属するや。答ふ、寂光土に於て多宝仏と十方分身の諸仏とを上首と為して、自界他方の一切諸仏菩薩・声聞・縁覚・釈梵諸王・人天等を証拠と為して、之れを付属したまふなり。/問ふ、証人は経文分明なり。寂光土とは証拠如何。答へて云く、妙楽大師の疏記の五に云く「今日の前には寂光の本より三土の迹を垂る。法華の会に至りて三土の迹を摂して寂光の本に帰す」文。難じて云く、霊山は娑婆世界なり。何ぞ寂光土と云ふや。答へて云く、釈に云く「豈に伽耶を離れて別に常寂を求めんや。寂光の外に別に娑婆有るに非ず」文。但し正しき証文は経論分明なり。所謂法華の寿量品と結経の普賢経と法華論と等なり。而るに日蓮一人之れを感得するに非ず。天台・妙楽等、此等の経論の文を引きて常寂光土を釈成し給ふなり。就中本朝第一日本国の天台法華宗の高祖伝教大師の釈の内証仏法血脈に云く「天台法華宗相承師師血脈譜一首。常寂光土第一義諦霊山浄土久遠実成多宝塔中大牟尼尊。謹んで観普賢経を案ずるに云く、時に空中に声ありて則ち是の語を説く。釈迦牟尼仏をば毘盧遮那遍一切処と名づけ、其の仏の住所を常寂光と名づく。又法華論を案ずるに云く、我浄土不毀而衆見焼尽とは、報仏如来、真実の浄土第一義諦の所摂なるが故に。又法華経如来寿量品を案ずるに云く、然我実成仏已来久遠若斯。又云く、於阿僧祇劫常在霊鷲山。又法華論を案ずるに云く、八には同一塔坐とは、化仏・非化仏・法仏・報仏等を示現するは、皆大事を成ぜんが為めの故なり」〈文已上〉。謹んで此等の文意を案ずるに、釈迦如来霊山事相の常寂光土に於て、本眷属上行等の菩薩を召し出だして付属の弟子と定め、宝塔の中の多宝如来の前に我が十方分身の諸仏を集め、上の証人と為して結要の五字を以て之れを付属す。三世の諸仏之れを諍ふべからず。何に況や菩薩・二乗・人天等をや。/問ふ、本眷属地涌の大士、親しく霊山寂光土に於て結要の付属を受けて、末代弘経の時何れの土に於て付属を宣ぶるや。答ふ、付属の法は即ち妙法なれば、付属の土も又寂光土なり。爰に知んぬ、末法の弘経妙法の者の其の土、豈に寂光ならざらんや。神力品に末法弘経の国土の相を説いて、園中樹下乃至山谷曠野等を挙げ畢りて「当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり。諸仏此に於て阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏此に於て法輪を転じ、諸仏此に於て般涅槃したまふ」文。「即是道場」とは常寂光土の宝処なり。「得三菩提」とは諸仏成正覚の処なり。「転於法輪」とは諸仏不退の説法の処。「而般涅槃」とは諸仏不生不滅の理を顕はす処なり。是れ則ち内証外用、事理の寂光を説くなり。故に知んぬ、末法今の時、法華経所坐の処、行者所住の処、道俗・男女・貴賤・上下所住の処、併しながら皆是れ寂光なり。所居既に浄土なり。能居の人豈に仏に非ずや。「法妙なる故に人貴し、人貴き故に処尊し」とは此の意なり。/本眷属上行等の地涌の菩薩。謹んで法華経の意を案ずるに云く「迹化の衆は、末法の弘経に堪へざれば、結要の付属を授けざるなり。所以は何ん。迹化は三類の強敵を忍ぶ能はざる故なり。本眷属に之れを付属したまふ事は、能く此の土に堪へ、能く三類の強敵を忍ぶ故に、教主釈尊、三たび上行等の菩薩の頂を摩でて、結要を以て之れを付属したまふなり」。/問ふ、何を以て迹化の弟子は此の土の弘経に堪へず、と云ふ事を知ることを得ん。答ふ、迹化の菩薩等は本化の衆に対すれば、未断惑なるが故なり。難じて云く、今迹化の菩薩とは、華厳・方等・般若・法華迹門の坐席に列なる所の、住行向地等覚の大菩薩なり。本門寿量の説を聞いて、長遠果地の実益を得べき大菩薩なり。地涌の菩薩、仮使(たとい)位高しと雖も等覚無垢に過ぐべからず。何ぞ迹化を本化に対して未断惑の菩薩と言ふや。答ふ、華厳・方等・般若得道の菩薩は、其の位地住已上乃至等覚に居すと雖も、爾前方便の円果なるが故に、法華迹門の円果に対すれば、未顕真実の権果なり。故に実の断惑の果に非ず。故に伝教大師の釈に云く「円教の即是の菩薩等は、是れ直道なりと雖も大直道ならず。今是の一の法門は既に先説に異なる。故に下の経文に四十余年未顕真実と云ふ」文。又云く「平等の直道・捨権の一乗を捨つ。是の故に説いて四十余年未顕真実と言ふなり」文。四味三教の席に於ては極果の菩薩と雖も、迹門の円に対すれば当分方便の権果にして実道の益に非ず。何に況や本門の円に対する時は一毫未断惑の凡夫なり。/問ふ、爾前迹門の菩薩を本門に対して未断惑の菩薩なりと言ふ証拠如何。答ふ、経文既に迹化の補処、本化の衆を見るに「不識一人」と云ふ。若し同位等行の菩薩ならば何ぞ「不識一人」と云わんや。地涌は已に破無明の菩薩、其の数無量無辺なり。其の中に一人をも識らずとは、迹化は未断惑なるが故なり。迹化補処の智力、未断惑の位なる故に尚之れを知らず。何に況や爾前頓大の菩薩等をや。但爾前迹門の菩薩を本門の本眷属に対して未断惑の菩薩と云ふ事、日蓮一人の言に非ず。霊山の聴衆天台・妙楽等の釈分明なり。所謂涌出品の「五十小劫仏神力故令諸大衆謂如半日」の文を釈して云く「解者は短に即して長なれば、五十小劫と見る。惑者は長に即して短なれば、半日の如しと謂へり」云云。妙楽大師之れを受けて釈して云く「菩薩已に無明を破す、之れを称して解と為す。大衆仍(なお)賢位に居す、之れを名づけて惑と為す」云云。此等の文証分明なり。/故に知んぬ、迹化の衆、此土の弘経に堪へざる事は、未断惑の故なり。未断惑なる故に、能く三類の敵を忍ばず。此れを以ての故に、仏、本眷属已断惑の菩薩を召し出だし、多宝分身の諸仏の前(みまえ)に於て、妙法の五字を付属したまふなり。/大師天竺須利耶蘇摩。謹んで翻経の記を案ずるに云く「大師須利耶蘇摩、左の手に法華経を持ち、右の手に鳩摩羅什の頂を摩でて、三蔵に授与して云く、仏日西に入りて遺耀将に東北に及ばんとす。此の典は東北の諸国に縁有り。汝謹んで之れを伝弘せよ」云云。又開元釈教の録を案ずるに云く「什公又須利耶蘇摩に従ひて大乗を諮稟す。以て知んぬ羅什天竺に帰詫して蘇摩を師と為すことを」云云。羅什三蔵。謹んで開元釈教の録を案ずるに曰く「沙門鳩摩羅什、妙法華経を訳し此に至りて乃ち言く、此の語は梵本と義同じ。若し伝ふる所謬り無くんば身を焚くの後に舌爛せざらしめんと。秦の弘始年中を以て卒す。即ち逍遥園に於て外国の法に依りて尸を焚く。薪滅して形化するに唯舌のみ変せず。弘法の徴有り」。問ふ、此の二師を列ぬる事は結要付属の師資の故に挙ぐるか。答ふ、天竺の妙法華経を東土に将来せし訳者なる故に、法華経に遇ふ手次の為に之れを列ねたるのみ。/妙法蓮華経一部八巻。謹んで開元釈教の録を案ずるに云く「什の所訳妙法蓮華経八巻」云云。/末法法華一乗の行者、法華宗の沙門日蓮。謹んで法華経の法師品を案ずるに云く「当に知るべし、此の人は是れ大菩薩の阿耨多羅三藐三菩提を成就して、衆生を哀愍して願ひて此の間に生まれ、広く妙法華経を演べ分別するなり」。又云く「我が滅度の後に於て衆生を愍れむが故に、悪世に生まれて広く此の経を演ぶるなり」。又云く「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し」。又云く「我が滅度の後に、能く窃かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん。当に知るべし、是の人は則ち如来の使ひなり。如来の所遣として如来の事を行ずるなり。何に況や大衆の中に於て広く人の為に説かんをや」文。問ふ、血脈相承とは仏法の流水断絶せざるの名にして三世常恒なり。而るに今列ぬる所の次第の如きは中絶之れ多し如何。答ふ、今列ぬる所の血脈相承の次第とは内証の次第を列ぬ。何ぞ難を致すや。内証を以て本と為る事は当家に限らず、他家にも例有り。謂ゆる天台・禅宗・浄土宗等の師資相承も、必ず所難の如くならず。皆悉く内証を以て本と為すなり。先づ天台宗相承の中絶を者(いはば)、此の宗竜樹を高祖と為すなり。而るに竜樹と恵文と其の中間断絶して人無し。所以に天台相承の血脈に云く「今天台承る所は、自ら第十三竜樹を高祖と為す由(ゆへ)は、竜樹は無畏中観論を造る。高斉の沙門恵文禅師、中観論に依りて得道し、南岳の思禅師に授く。南岳・天台智者に伝ふ」云云。同書の注に云く「師久しく大乗の法要を思ふに師と為るに人無し。乃ち大経蔵の前に於て発願して云く、若し抽んでて経を得ば仏を礼して師と為ん。抽んでて論を得ば菩薩を礼して師と為さん」。故らに焼香背手し、大経蔵の中に於て抽んでて中観論を得たり。是れ竜樹の造る所。読みて「因縁所生法即空即仮即中」の文に至り此れに因りて悟道す。故に竜樹を稟けて始祖と為すなり。此の文は、竜樹と恵文と其の中間に人無しと雖も、中論の「因縁所生法」等の文に依りて竜樹を高祖と為すなり。今日蓮が相承も亦復是の如し。法華経の「能窃為一人説法華経乃至一句当知是人則如来使」等の文に依りて釈迦如来を本師と為し、結要の付属を勘へ、上行菩薩の流れを汲みて、師資相承の血脈を列ぬるなり。/問ふ、法華宗の名言之れ同じ。何ぞ天台を高祖と為ざるや。答ふ、今外相は天台宗に依るが故に天台を高祖と為し、内証は独り法華経に依るが故に釈尊上行菩薩を直師と為るなり。難じて云く、汝偏執なり。答へて云く、日蓮一人に限らず。天台大師も外相は恵文・南岳に依ると雖も、内証は道場所証の妙悟に依り、釈迦を本師と為すなり。所謂「稟承南岳証不由他」の釈是れなり。天台相承の血脈に云く「智者兼ねて法華三昧旃陀羅尼を用ゐて、一家教観の戸(とぼそ)を開拓(ひらく)。偏に他に同ぜず。已に永平第九に至りて荊渓の記主なり。今備さに祖図を列ぬることは、伝ふる所自ら金口なることを顕はさん為の故に、一家の祖竜樹を示さんと為るなり」。又天台大師の玄義の序に云く「曾て講を聴かずして自ら仏乗を解す」。又云く「玄(ふか)く法華の円意を悟る」云云。又天台内証仏法の血脈相承の義記に云く「内証仏法の伝は、天台大師、大蘇山普賢道場に於て三昧開発の時、霊山一会儼然として未だ散せず。時に釈尊より天台に面授口決したまふ」云云。天台内証仏法の血脈に云く「古僧来たりて四教を授く」云云。同義記に云く「古僧とは霊山の釈迦なり」云云。/日蓮が相承も是の如く、法華経に依りて開悟し法華宗の血脈を列ぬるなり。次に禅宗血脈相承の断絶を者(いはば)、師子尊者よりなり云云。次に浄土宗血脈の断絶を無畏論に云く「善導経蔵に入り、目を閉じ手に任せ之れを取るに、浄土の三部経を得たり。其れより已来阿弥陀を高祖と為す。阿弥陀垂迹は善導なり」と云ふなり。此の外諸宗の相承一々皆中絶す。委しく之れを記せず。故に知んぬ、諸宗皆内証を以て師資相承の血脈を建立す。今当家の相承大旨は天台の相承に付順すべしと雖も、内証真実を以て釈尊上行菩薩を高祖と為し奉るのみ。/干時文永十年二月十五日法華宗比丘日蓮