秋元殿御返事

〔C6・文永八年一月一一日・秋元殿〕/御文委しく承り候ひ畢んぬ。御文に云く、末法の始め五百年にはいかなる法を弘むべしと、思ひまいらせ候ひしに、聖人の仰せを承り候に、法華経の題目に限りて弘むべき由聴聞申して御弟子の一分に定まり候。殊に五節供はいかなる由来、何なる所表、何を以て正意としてまつり候べく候や云云。/夫れ此の事は日蓮委しく知る事なし。然りと雖も粗意得て候。根本大師の御相承ありげに候。総じて真言天台両宗の習ひなり。委しくは曾谷殿へ申し候。次での御時は御談合あるべきか。先づ五節供の次第を案ずるに、妙法蓮華経の五字の次第の祭りなり。正月は妙の一字のまつり、天照太神を歳の神とす。三月三日は法の一字のまつりなり、辰を以て神とす。五月五日は蓮の一字のまつりなり、午を以て神とす。七月七日は華の一字の祭りなり、申を以て神とす。九月九日は経の一字のまつり、戌を以て神とす。此の如く心得て、南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ。「現世安穏後生善処」疑ひなかるべし。法華経の行者をば一切の諸天、不退に守護すべき経文分明なり。経の第五に云く「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之れを衛護す」云云。又云く「天の諸の童子、以て給使を為さん。刀杖も加へず毒も害すること能はず」云云。諸天とは梵天・帝釈・日月・四大天王等なり。法とは法華経なり。童子とは七曜・二十八宿・摩利支天等なり。「臨兵闘者皆陳列在前」、是れ又「刀杖不加」の四字なり。此等は随分の相伝なり。能く能く案じ給ふべし。第六に云く「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」云云。五節供の時も唯南無妙法蓮華経と唱へて悉地成就せしめ給へ。委細は又々申すべく候。/次に法華経末法の始め五百年に弘まり給ふべきと聴聞仕り、御弟子となると仰せ候事。師檀となる事は三世の契り種熟脱の三益、別に人を求めんや。「在々諸仏の土に常に師と倶に生まれん」、「若し法師に親近せば速やかに菩提の道を得ん。是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」との金言違ふべきや。提婆品に云ふ「所生の処には常に此の経を聞かん」の人はあに貴辺にあらずや。其の故は次上に「未来世中、若有善男子善女人」と見えたり。善男子とは法華経を持つ俗の事なり。弥(いよいよ)信心をいたし給ふべし、信心をいたし給ふべし。恐々謹言。正月十一日日蓮花押/秋元殿御返事、安房の国ほた(保田)より出だす。

 

 

 

善無畏抄〔C2・文永七年・豆子尼御前〕/善無畏三蔵は月氏烏萇奈(うちょうな)国の仏種王の太子なり。七歳にして位に即き、十三にして国を兄に譲り出家遁世し、五天竺を修行して五乗の道を極め三学を兼ね給ひき。達磨掬多と申す聖人に値ひ奉りて真言の諸印契一時に頓受し、即日に御潅頂なし人天の師と定まり給ひき。鶏足山に入りては迦葉尊者の髪をそり、王城に於て雨を祈り給ひしかば、観音日輪の中より出でて水瓶を以て水を潅ぎ、北天竺の金粟(こんぞく)王の塔の下にして仏法を祈請せしかば、文殊師利菩薩、大日経の胎蔵の曼荼羅を現はして授け給ふ。其の後開元四年〈丙辰〉に漢土に渡る。玄宗皇帝之れを尊むこと日月の如し。又大旱魃あり。皇帝勅宣を下す。三蔵、一鉢に水を入れ暫く加持し給ひしに、水の中に指許りの物有り変じて竜と成る。其の色赤色なり。白気立ち昇り、鉢より竜出でて虚空に昇り、忽ちに雨を降らす。此の如くいみじき人なれども、一時に頓死して有りき。蘇生りて語りて云く、我死につる時獄卒来たりて鉄の縄七筋付け、鉄杖を以て散々にさいなみ、閻魔宮に到りにき。八万聖教一字一句も覚えず、唯法華経の題名許り忘れず。題名を思ひしに鉄の縄少しき許りぬ。息続いで高声に唱へて云く「今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子而今此処多諸患難唯我一人能為救護」等云云。七つの鉄の縄切れ砕け十方に散ず。閻魔冠を傾けて南庭に下り向かひ給ひき。今度は命尽きずとて帰されたるなりと語り給ひき。/今日蓮不審して云く、善無畏三蔵は先生に十善の戒力あり。五百の仏陀に仕へたり。今生には捨てがたき王位をつばき(唾)をすつるがごとくこれをすて、幼少十三にして御出家ならせ給ひて、月支国をめぐりて諸宗を習ひ極め、天の感を蒙り、化導の心深くして震旦国に渡りて、真言の大法を弘めたり。一印一真言を結び誦すれば、過去現在の無量の罪滅しぬらん。何の科(とが)に依りて閻魔の責めをば蒙り給ひけるやらん、不審極まり無し。善無畏三蔵真言の力を以て閻魔の責めを脱れずば天竺・震旦・日本等の諸国の真言師、地獄の苦を脱るべきや。委細に此の事を勘へたるに、此の三蔵は世間の軽罪は身に御せず、諸宗並びに真言の力にて滅しぬらん。此の責めは別の故無し、法華経誹謗の罪なり。大日経の義釈を見るに、「此の経は是れ法王の秘宝なり、妄りに卑賤の人に示さず。釈迦出世の四十余年に舎利弗慇懃の三請に因りて方に為に略して妙法蓮華の義を説くが如し。今此の本地の身は又是れ妙法蓮華最深秘処なり。故に寿量品に云く「常に霊鷲山及び余の諸の住処に在り。乃至我が浄土は毀れざるに而も衆は焼き尽くと見る」、即ち此の宗瑜伽の意なるのみ。又補処の菩薩の慇懃三請に因りて方に為に之れを説く」等云云。此の釈の心は大日経に本迹二門、開三顕一・開近顕遠の法門有り。法華経の本迹二門の如し。此の法門は法華経に同じけれども、此の大日経に印と真言と相加はりて三密相応せり。法華経は但意密許りにて身口の二密欠けたれば、法華経をば略説と云ひ、大日経をば広説と申すべきなりと書かれたり。/此の法門第一の誤り、謗法の根本なり。此の文に二つの誤り有り。又義釈に云く「此の経横に一切の仏教を統ぶ」等云云。大日経は当分随他意の経なるを誤りて随自意跨節の経と思えり。かたがた誤りたるを実義と思し食(め)せし故に、閻魔の責めをば蒙りたりしか。智者にて御座せし故に、此の謗法を悔い還して法華経に翻りし故に、此の責めを免がるるか。天台大師釈して云く「法華は衆経を総括す。乃至軽慢止まざれば舌、口中に爛る」等云云。妙楽大師云く「已今当の妙、此に於て固く迷へり。舌爛れて止まざるは猶華報と為す。謗法の罪苦長劫に流る」等云云。天台妙楽の心は、法華経に勝れたる経有りと云はむ人は無間地獄に堕つべしと書かれたり。善無畏三蔵は、法華経大日経とは理は同じけれども事の印真言は勝れたりと書かれたり。然るに二人の中に一人は必ず悪道に堕つべしとをぼふる処に、天台の釈は経文に分明なり、善無畏の釈は経文に其の証拠見えず。其の上閻魔王の責めの時我が内証の肝心とをぼしめす大日経等の三部経の内の文を誦せず。法華経の文を誦して此の責めを免れぬ。疑ひなく法華経真言まさりとをもふ誤りを翻したるなり。/其の上善無畏三蔵の御弟子不空三蔵の法華経の儀軌には、大日経金剛頂経の両部の大日をば左右に立て、法華経多宝仏をば不二の大日と定めて、両部の大日をば左右の臣下の如くせり。伝教大師延暦二十三年の御入唐、霊感寺の順暁和尚に真言三部の秘法を伝はり、仏滝寺の行満座主に天台止観の宝聚をうけとり、顕密二道の奥旨を極め給ひたる人。華厳・三論・法相・律宗の人々の自宗我慢の辺執を倒して、天台大師に帰入せる由を書かせ給ひて候。依憑集・守護章・秀句なむど申す書の中に、善無畏・金剛智・不空等は天台宗に帰入して智者大師を本師と仰ぐ由のせられたり。各々思へらく、宗を立つる法は自宗をほめて他宗を嫌ふは常の習ひなりと思えり。法然なむどは又此の例を引きて、曇鸞の難易・道綽の聖道浄土・善導が正雑二行の名目を引きて、天台・真言等の大法を念仏の方便と成せり。此等は牛跡(ごしゃく)に大海を入れ、県の額を州に打つ者なり。世間の法には下剋上・背上向下は国土亡乱の因縁なり。仏法には権小の経々を本として実経をあなづる、大謗法の因縁なり。恐るべし恐るべし。/嘉祥寺の吉蔵大師は三論宗の元祖、或時は一代聖教を五時に分け、或時は二蔵と判ぜり。然りと雖も竜樹菩薩造の百論・中論・十二門論・大論を尊みて般若経を依憑と定め給ひ、天台大師を辺執して過ぎ給ひし程に、智者大師の梵網等の疏を見て少し心とけ、やうやう近づきて法門を聴聞せし程に、結句は一百余人の弟子を捨て、般若経並びに法華経をも講ぜず、七年に至りて天台大師に仕へさせ給ひき。高僧伝には「衆を散じ身を肉橋と成す」と書かれたり。天台大師高座に登り給えば寄りて肩を足に備え、路を行き給えば負ひ奉り給ひて堀を越え給ひき。吉蔵大師ほどの人だにも謗法ををそれてかくこそつかえ給ひしか。/而るを真言・三論・法相等の宗々の人々、今すえずえに成りて辺執せさせ給ふは自業自得果なるべし。今の世に浄土宗・禅宗なんど申す宗々は、天台宗にをとされし真言・華厳等に及ぶべからず。依経既に楞伽経・観経等なり。此等の経々は仏の出世の本意にも非ず、一時一会の小経なり。一代の聖教を判ずるに及ばず。而るを彼の経々を依経として一代の聖教を聖道浄土・難行易行・雑行正行に分け、教外別伝なむどののしる。譬へば民が王をしえたげ、小河の大海を納むるが如し。かかる謗法の人師どもを信じて後生を願ふ人々は無間地獄脱るべきや。/然れば当世の愚者は仏には釈迦牟尼仏を本尊と定めぬれば自然に不孝の罪脱れ、法華経を信じぬれば不慮に謗法の科を脱れたり。其の上女人は五障三従と申して、世間出世に嫌はれ一代の聖教に捨てられ畢んぬ。唯法華経計りにこそ竜女が仏に成り、諸の尼の記別はさづけられて候ひぬれば、一切の女人は此の経を捨てさせ給ひては何れの経をか持たせ給ふべき。/天台大師は震旦国の人、仏滅後一千五百余年に仏の御使ひとして世に出でさせ給ひき。法華経に三十巻の文を注し給ひ、文句と申す文の第七の巻には「他経に但男に記して女に記せず」等云云。男子も余経にては仏に成らざれども且く与へて其れをば許してむ。女人に於ては一向諸経に於ては叶ふべからずと書かれて候。縦令(たとい)千万の経々に女人成るべしと許され為りと雖も法華経に嫌はれなば何の憑みか有るべきや。教主釈尊、我が諸経四十余年の経々を未顕真実と悔い返し、涅槃経等をば当説と嫌ひ給ひ、無量義経をば今説と定め置き、三説にひで(秀)たる法華経に、「正直に方便を捨てて但無上道を説く、世尊は法久しくして後、要(かなら)ず当に真実を説きたまふべし」と釈尊宣べ給ひしかば、宝浄世界の多宝仏は大地より出でさせ給ひて真実なる由の証明を加へ、十方分身の諸仏は広長舌を梵天に付け給ふ。十方世界微塵数の諸仏の御舌は不妄語戒の力に酬いて、八葉の赤蓮華にをいいでさせ給ひき。一仏二仏三仏乃至十仏百仏千万億仏の、四百万億那由他の世界に充満せりし仏の御舌をもって定め置き給える女人成仏の義なり。/謗法無くして此の経を持つ女人は十方虚空に充満せる慳貪・嫉妬・瞋恚・十悪・五逆なりとも、草木の露の大風にあえるなるべし。三冬の氷の夏の日に滅するが如し。但滅し難き者は法華経謗法の罪なり。譬へば三千大千世界の草木を薪と為すとも、須弥山は一分も損じ難し。縦令(たとい)七つの日出でて百千日照らすとも、大海の中をばかわかしがたし。設ひ八万聖教を読み大地微塵の塔婆を立て、大小乗の戒行を尽くし、十方世界の衆生を一子の如くに為すとも、法華経謗法の罪はきゆべからず。我等過去・現在・未来の三世の間に仏に成らずして六道の苦を受くるは偏に法華経誹謗の罪なるべし。女人と生まれて百悪身に備ふるも、根本此の経誹謗の罪より起これり。然れば此の経に値ひ奉らむ女人は皮をはいで紙と為し、血を切りて墨とし、骨を折りて筆とし、血のなんだを硯の水として書き奉るともあ(飽)くご(期)あるべからず。何に況や衣服・金銀・牛馬・田畠等の布施を以て供養せむはもののかずにてかずならず。