聖愚問答抄2

〔C6・文永四年以降〕/爰に愚人聊か和らぎて云く、経文は明鏡なり、疑慮をいたすに及ばず。但し法華経は三説に秀で一代に超ゆるといへども、言説に拘はらず経文に留まらざる我等が心の本分の禅の一法にはしくべからず。凡そ万法を払遣(ほっけん)して言語の及ばざる処を禅法とは名づけたり。されば跋提河の辺り沙羅林の下にして、釈尊金棺より御足を出だし拈華微笑して、此の法門を迦葉に付属ありしより已来、天竺二十八祖系も乱れず、唐土には六祖次第に弘通せり。達磨は西天にしては二十八祖の終り、東土にしては六祖の始めなり。相伝をうしなはず教網に滞るべからず。爰を以て大梵天王問仏決疑経に云く「吾に正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相・微妙の法門有り、教外に別に伝ふ。文字を立てず摩訶迦葉に付属す」とて、迦葉に此の禅の一法をば教外に伝ふと見えたり。都て修多羅の経教は月をさす指、月を見て後は指何かはせん。心の本分禅の一理を知りて後は仏教に心を留むべしや。されば古人の云く、十二部経は総て是れ閑文字と云云。仍って此の宗の六祖恵能の壇経を披見するに実に以て然なり。言下に契会(けいえ)して後は教は何かせん。此の理如何が弁へんや。聖人示して云く、汝先づ法門を置きて道理を案ぜよ。抑我一代の大途を伺はず十宗の淵底を究めずして、国を諫め人を教ふべきか。汝が談ずる所の禅は我最前に習ひ極めて、其の至極を見るに甚だ以て僻事なり。禅に三種あり。所謂如来禅と教禅と祖師禅となり。汝が言ふ所の祖師禅等の一端之れを示さん。聞いて其の旨を知れ。若し教を離れて之れを伝ふといはば、教を離れて理無く、理を離れて教無し。理全く教、教全く理と云ふ道理、汝之れを知らざるや。拈華微笑して迦葉に付属し給ふと云ふも是れ教なり。不立文字と云ふ四字も即ち教なり、文字なり。此の事和漢両国に事旧りぬ。今いへば事新しきに似たれども、一両の文を勘へて汝が迷ひを払はしめん。補注十一に云く「又復若し言説に滞ると謂はば、且く娑婆世界には何を将(もっ)て仏事と為るや。禅徒豈に言説をもて人に示さざらんや。文字を離れて解脱の義を談ずること無し、豈に聞かざらんや」。乃至次下に云く「豈に達磨西来して直指人心・見性成仏すと。而るに華厳等の諸大乗経に此の事無からんや。嗚呼(ああ)世人何ぞ其れ愚かなるや。汝等当に仏の所説を信ずべし。諸仏如来は言虚妄無し」。此の文の意は、若し教文にとどこほり言説にかかはるとて、教の外に修行すといはば、此の娑婆国にはさて如何がして仏事善根を作(な)すべき。さやうに云ふところの禅人も、人に教ふる時は言を以て云はざるべしや。其の上仏道の解了を云ふ時、文字を離れて義なし。又達磨西より来たりて直に人心を指して仏なりと云ふ。是れ程の理は華厳・大集・大般若等の法華已前の権大乗経にも在々処々に之れを談ぜり。是れをいみじき事とせんは無下に云ひがひ(甲斐)なき事なり。嗚呼(ああ)今世の人何ぞ甚だひがめるや。只中道実相の理に契当せる妙覚果満の如来の誠諦の言を信ずべきなり。又妙楽大師の弘決の一に此の理を釈して云く「世人教を蔑ろにして理観を尚ぶは誤れるかな、誤れるかな」。此の文の意は、今の世の人々は観心観法を先として経教を尋ね学ばず、還りて教をあなづり経をかろしむる、是れ誤れりと云ふ文なり。/其の上当世の禅人自宗に迷へり。続高僧伝を披見するに、習禅の初祖達磨大師の伝に云く「教に籍(よ)りて宗を悟る」。如来一代の聖教の道理を習学し、法門の旨、宗々の沙汰を知るべきなり。又達磨の弟子六祖の第二祖恵可の伝に云く「達磨禅師四巻の楞伽を以て可に授けて云く、我漢の地を観るに唯此の経のみ有り。仁者(きみ)依行せば自ら世を度することを得ん」。此の文の意は、達磨大師天竺より唐土に来たりて、四巻の楞伽経をもて恵可に授けて云く、我此の国を見るに是の経殊に勝れたり、汝持ち修行して仏に成れとなり。此等の祖師既に経文を前とす。若し之れに依りて経に依ると云はば大乗か小乗か、権教か実教か、能く能く弁ふべし。或は経を用ゐるには禅宗も楞伽経・首楞厳経・金剛般若経等による。是れ皆法華已前の権教覆蔵の説なり。只諸経に是心即仏・即心是仏等の理の方を説ける一両の文と句とに迷ひて、大小・権実・顕露・覆蔵をも尋ねず、只不二を立てて而二を知らず。謂己均仏の大慢を成せり。彼の月氏の大慢が迹をつぎ、此の尸那の三階禅師が古風を追ふ。然りと雖も大慢は生きながら無間に入り、三階は死して大蛇と成りぬ、をそろしをそろし。釈尊は三世了達の解了朗らかに、妙覚果満の智月潔くして未来を鑑みたまひ像法決疑経に記して云く「諸の悪比丘、或は禅を修すること有るとも経論に依らず。自ら己見を逐ひて非を以て是と為し、是れ邪、是れ正と分別すること能はず。遍く道俗に向かひて是の如き言を作さく、我能く是れを知り、我能く是れを見ると。当に知るべし、此の人は速やかに我が法を滅す」。此の文の意は、諸の悪比丘あて禅を信仰して経論をも尋ねず、邪見を本として、法門の是非をば弁へずして、而も男女・尼法師等に向かひて、我よく法門を知れり、人はしらずと云ひて此の禅を弘むべし。当に知るべし、此の人は我が正法を滅すべしとなり。此の文をもて当世を見るに宛も符契の如し。汝慎むべし汝畏るべし。/先に談ずる所の天竺に二十八祖有りて、此の法門を口伝すと云ふ事、其の証拠何れに出でたるや。仏法を相伝する人二十四人、或は二十三人と見えたり。然るを二十八祖と立つる事所出の翻訳何れにかある。全く見えざるところなり。此の付法蔵の人の事、私に書くべきにあらず、如来の記文分明なり。其の付法蔵伝に云く「復比丘有り名を師子と曰ふ。賓国(けいひんこく)に於て大いに仏事を作す。時に彼の国王をば弥羅掘(みらくつ)と名づけ、邪見熾盛にして心に敬信無く、賓国に於て塔寺を毀壊し衆僧を殺害す。即ち利剣を以て用ゐて師子を斬る。頸の中血無く唯乳のみ流出す。法を相付する人是れに於て便ち絶えん」。此の文の意は、仏我が入涅槃の後に我が法を相伝する人二十四人あるべし。其の中に最後弘通の人に当たるをば師子比丘と云はん。賓国(けいひんこく)と云ふ国にて我が法を弘むべし。彼の国の王をば檀弥羅王と云ふべし。邪見放逸にして仏法を信ぜず、衆僧を敬はず、堂塔を破り失ひ、剣をもて諸僧の頸を切るべし。即ち師子比丘の頸をきらん時に、頸の中に血無く、只乳のみ出づべし。是の時に仏法を相伝せん人絶ゆべしと定められたり。/案の如く仏の御言違はず師子尊者頸をきられ給ふ事、実に以て爾なり。王のかいな共につれて落ち畢んぬ。二十八祖を立つる事、甚だ以て僻見なり。禅の僻事是れより興るなるべし。今恵能が壇経に二十八祖を立つる事は、達磨を高祖と定むる時、師子と達磨との年紀遥かなる間、三人の禅師を私に作り入れて、天竺より来たれる付法蔵系乱れずと云ひて、人に重んぜさせん為の僻事なり。此の事異朝にして事旧りぬ。補注の十一に云く「今家は二十三祖を承用す。豈に誤り有らんや。若し二十八祖を立つるは未だ所出の翻訳を見ざるなり。近来更に石に刻み版に鏤(ちりば)め、七仏二十八祖を図状し、各一偈を以て伝授相付すること有り。嗚呼(ああ)仮託何ぞ其れ甚だしきや。識者力有らば宜しく斯の弊を革むべし」。是れも二十八祖を立て、石にきざみ版にちりばめて伝ふる事、甚だ以て誤れり。此の事を知る人あらば此の誤りをあらためなをせとなり。祖師禅甚だ僻事なる事是れにあり。先に引く所の大梵天王問仏決疑経の文を教外別伝の証拠に汝之れを引く、既に自語相違せり。其の上此の経は説相権教なり、又開元・貞元の再度の目録にも全く載せず、是れ録外の経なる上権教と見えたり。然れば世間の学者用ゐざるところなり、証拠とするにたらず。/抑今の法華経を説かるる時益をうる輩、迹門界如三千の時敗種の二乗仏種を萌す。四十二年の間は永不成仏と嫌はれて、在々処々の集会にして罵詈誹謗の音をのみ聞き、人天大会に思ひうとまれて既に飢ゑ死ぬべかりし人々も、今の経に来たりて舎利弗は華光如来、目連は多摩羅跋栴檀香如来、阿難は山海恵自在通王仏、羅羅は踏七宝華如来、五百の羅漢は普明如来、二千の声聞は宝相如来の記別に預かる。顕本遠寿の日は微塵数の菩薩、増道損生して位大覚に隣る。されば天台大師の釈を披見するに、他経には菩薩は仏になると云ひて、二乗の得道は永く之れ無し。善人は仏になると云ひて、悪人の成仏を明かさず。男子は仏になると説いて、女人は地獄の使ひと定む。人天は仏になると云ひて、畜類は仏になるといはず。然るを今の経は是等が皆仏になると説く、たのもしきかな。末代濁世に生を受くといへども提婆が如くに五逆をも造らず三逆をも犯さず。而るに提婆猶天王如来の記別を得たり。況や犯さざる我等が身をや。八歳の竜女既に蛇身を改めずして南方に妙果を証す。況や人界に生を受けたる女人をや。只得難きは人身、値ひ難きは正法なり。汝早く邪を翻し正に付き、凡を転じて聖を証せんと思はば、念仏・真言・禅・律を捨てて此の一乗妙典を受持すべし。若し爾らば妄染の塵穢を払ひて、清浄の覚体を証せん事、疑ひなかるべし。/爰に愚人云く、今聖人の教誡を聴聞するに、日来の矇昧忽ちに開けぬ。天真発明とも云ひつべし。理非顕然なれば誰か信仰せざらんや。但し世上を見るに上一人より下万民に至るまで、念仏・真言・禅・律を深く信受し御座す。さる前には国土に生を受けながら争でか王命を背かんや。其の上我が親と云ひ祖と云ひ旁(かたがた)念仏等の法理を信じて他界の雲に交はり畢んぬ。又日本には上下の人数幾か有る。然りと雖も権教権宗の者は多く、此の法門を信ずる人は未だ其の名をも聞かず。仍って善処悪処をいはず、邪法正法を簡ばず、内典五千七千の多きも、外典三千余巻の広きも、只主君の命に随ひ、父母の義に叶ふが肝心なり。されば教主釈尊は天竺にして孝養報恩の理を説き、孔子は大唐にして忠功孝高の道を示す。師の恩を報ずる人は肉をさき身をなぐ。主の恩をしる人は弘演は腹をさき、予譲は剣をのむ。親の恩を思ひし人は丁蘭は木をきざみ、伯瑜は杖になく。儒・外・内、道は異なりといへども報恩謝徳の教は替る事なし。然れば主師親のいまだ信ぜざる法理を、我始めて信ぜん事、既に違背の過(とが)に沈みなん。法門の道理は経文明白なれば疑網都て尽きぬ。後生を願はずば来世苦に沈むべし。進退惟谷(これきわま)れり、我如何がせんや。/聖人云く、汝此の理を知りながら猶是の語をなす。理の通ぜざるか、意の及ばざるか。我釈尊の遺法をまなび、仏法に肩を入れしより已来、知恩をもて最とし報恩をもて前とす。世に四恩あり、之れを知るを人倫となづけ、知らざるを畜生とす。予父母の後世を助け、国家の恩徳を報ぜんと思ふが故に、身命を捨つる事敢へて他事にあらず、唯知恩を旨とする計りなり。先づ汝目をふさぎ心を静めて道理を思へ。我は善道を知りながら親と主との悪道にかからんを諫めざらんや。又愚人の狂ひ酔ひて毒を服せんを我知りながら是れをいましめざらんや。其の如く法門の道理を存じて火・血・刀の苦を知りながら、争でか恩を蒙る人の悪道におちん事を歎かざらんや。身をもなげ命をも捨つべし。諫めてもあきたらず歎きても限りなし。今生に眼を合はする苦しみ猶是れを悲しむ。況や悠々たる冥途の悲しみ、豈に痛まざらんや。恐れても恐るべきは後世、慎みても慎むべきは来世なり。而るを是非を論ぜず親の命に随ひ、邪正を簡ばず主の仰せに順はんと云ふ事、愚痴の前には忠孝に似たれども、賢人の意には不忠不孝是れに過ぐべからず。/されば教主釈尊は転輪聖王の末、師子頬王の孫、浄飯王の嫡子として五天竺の大王たるべしといへども、生死無常の理をさとり出離解脱の道を願ひて世を厭ひ給ひしかば、浄飯大王是れを歎き、四方に四季の色を顕はして太子の御意を留め奉らんと巧(たくら)み給ふ。先づ東には霞たなびくたえまより、かりがねこしぢに帰り、窓の梅の香玉簾(たますだれ)の中にかよひ、でうでうたる花の色、ももさへづりの鴬、春の気色を顕はせり。南には泉の色白たへにして、かの玉川の卯の華、信太の森のほととぎす、夏のすがたを顕はせり。西には紅葉常葉(ときわ)に交はればさながら錦をおり交へ、荻ふく風閑かにして松の嵐ものすごし。過ぎにし夏のなごりには、沢辺にみゆる蛍の光、あまつ空なる星かと誤り、松虫・鈴虫の声々涙を催せり。北には枯野の色いつしかものうく、池の汀につららゐて、谷の小川もをとさびぬ。かかるありさまを造りて御意をなぐさめ給ふのみならず、四門に五百人づつの兵を置きて守護し給ひしかども、終に太子の御年十九と申せし二月八日の夜半の比(ころ)、車匿を召して金泥駒(こんでいく)に鞍置かせ、伽耶城を出でて檀特山に入り十二年、高山に薪をとり深谷に水を結びて難行苦行し給ひ、三十成道の妙果を感得して、三界の独尊一代の教主と成りて、父母を救ひ群生を導き給ひしをば、さて不孝の人と申すべきか。/仏を不孝の人と云ひしは九十五種の外道なり。父母の命に背きて無為に入り、還りて父母を導くは孝の手本なる事、仏其の証拠なるべし。彼の浄蔵・浄眼は父の妙荘厳王、外道の法に著して仏法に背き給ひしかども、二人の太子は父の命に背きて雲雷音王仏の御弟子となり、終に父を導きて沙羅樹王仏と申す仏になし申されけるは不孝の人と云ふべきか。経文には「棄恩入無為真実報恩者」と説いて、今生の恩愛をば皆すてて仏法の実の道に入る、是れ実に恩をしれる人なりと見えたり。又主君の恩の深き事汝よりも能くしれり。汝若し知恩の望みあらば深く諫め強ひて奏せよ。非道にも主命に随はんと云ふ事、佞臣の至り不忠の極まりなり。殷の紂王は悪王、比干は忠臣なり。政事理に違ひしを見て、強ひて諫めしかば即ち比干は胸を割かる。紂王は比干死して後、周の王に打たれぬ。今の世までも比干は忠臣といはれ、紂王は悪王といはる。夏の桀王を諫めし竜蓬は頭をきられぬ。されども桀王は悪王、竜蓬は忠臣ぞと云ふ。主君を三度諫むるに用ゐずば山林に交はれとこそ教へたれ。何ぞ其の非を見ながら黙せんと云ふや。古への賢人世を遁れて山林に交はりし先蹤を集めて、聊か汝が愚耳に聞かしめん。殷の代の太公望は渓(はんけい)と云ふ谷に隠る。周の代の伯夷・叔斉(しゅくせい)は首陽山と云ふ山に籠る。秦の綺里季は商洛山(しょうらくさん)に入り、漢の厳光は孤亭に居し、晋の介子綏(かいしすい)は綿上山(めんじょうさん)に隠れぬ。此等をば不忠と云ふべきか。愚かなり、汝忠を存ぜば諫むべし、孝を思はば言ふべきなり。/先づ汝権教権宗の人は多く此の宗の人は少なし、何ぞ多きを捨て少なきに付くと云ふ事、必ず多きが尊くして少なきが卑しきにあらず。賢善の人は希に愚悪の者は多し。麒麟・鸞鳳は禽獣の奇秀(きしゅう)なり。然れども是れは甚だ少なし。牛羊烏鴿(うごう)は畜鳥の拙卑なり。されども是れは転(うたた)多し。必ず多きがたつとくして少なきがいやしくば、麒麟をすてて牛羊をとり、鸞鳳を閣きて烏鴿をとるべきか。摩尼金剛は金石の霊異なり。此の宝は乏しく、瓦礫土石は徒ら物の至り、是れは又巨多(こた)なり。汝が言の如くならば、玉なんどをば捨てて瓦礫を用ゐるべきか。はかなしはかなし。聖君は希(まれ)にして千年に一たび出で、賢佐は五百年に一たび顕はる。摩尼は空しく名のみ聞く、麟鳳誰か実を見たるや。世間出世善き者は乏しく悪き者は多き事眼前なり。然れば何ぞ強(あなが)ちに少なきをおろかにして多きを詮とするや。土沙は多けれども米穀は希なり。木皮は充満すれども布絹は些少なり。汝只正理を以て前とすべし。別して人の多きを以て本とすることなかれ。/爰に愚人席をさり袂をかいつくろひて云く、誠に聖教の理をきくに、人身は得難く、天上の糸筋の海底の針に貫けるよりも希に、仏法は聞き難くして、一眼の亀の浮木に遇ふよりも難し。今既に得難き人界に生をうけ、値ひ難き仏教を見聞しつ、今生をもだしては又何れの世にか生死を離れ菩提を証すべき。夫れ一劫受生の骨は山よりも高けれども、仏法の為にはいまだ一骨をもすてず。多生恩愛の涙は海よりも深けれども、尚後世の為には一滴をも落さず。拙きが中に拙く、愚かなるが中に愚かなり。設ひ命をすて身をやぶるとも、生を軽くして仏道に入り、父母の菩提を資(たす)け、愚身が獄縛をも免るべし。能く能く教を示し給へ。抑法華経を信ずる其の行相如何。五種の行の中には先づ何れの行をか修すべき。丁寧に尊教を聞かん事を願ふ。聖人示して云く、汝蘭室の友に交はりて麻畝の性と成る。誠に禿樹禿(かぶろ)に非ず春に遇ひて栄え華さく。枯草枯るに非ず、夏に入りて鮮やかに注ふ。若し先非を悔いて正理に入らば、湛寂の潭(ふち)に遊泳して無為の宮に優遊せん事疑ひなかるべし。抑仏法を弘通し群生を利益せんには、先づ教・機・時・国・教法流布の前後を弁ふべきものなり。所以は時に正像末あり、法に大小乗あり、修行に摂折あり。摂受の時折伏を行ずるも非なり。折伏の時摂受を行ずるも失(とが)なり。然るに今世は摂受の時か折伏の時か先づ是れを知るべし。摂受の行は此の国に法華一純に弘まりて、邪法邪師一人もなしといはん、此の時は山林に交はりて観法を修し、五種六種乃至十種等を行ずべきなり。折伏の時はかくの如くならず。経教のおきて蘭菊に、諸宗のおぎろ誉れを擅(ほしいまま)にし、邪正肩を並べ大小先を争はん時は、万事を閣きて謗法を責むべし、是れ折伏の修行なり。此の旨を知らずして摂折途に違はば、得道は思ひもよらず、悪道に堕つべしと云ふ事、法華・涅槃に定め置き、天台・妙楽の解釈にも分明なり。是れ仏法修行の大事なるべし。譬へば文武両道を以て天下を治るに、武を先とすべき時もあり、文を旨とすべき時もあり。天下無為にして国土静かならん時は文を先とすべし。東夷・南蛮・西戎北狄(ほくてき)蜂起して、野心をさしはさまんには武を先とすべきなり。文武のよき事計りを心えて時をもしらず、万邦安堵の思ひをなして世間無為ならん時、甲冑をよろひ兵杖をもたん事も非なり。又王敵起こらん時、戦場にして武具をば閣きて筆硯(ひっけん)を提ん事、是れも亦時に相応せず。摂受折伏の法門も亦是の如し。正法のみ弘まて邪法邪師無からん時は、深谷にも入り、閑静にも居して、読誦書写をもし、観念工夫をも凝らすべし。是れ天下の静なる時筆硯を用ゐるが如し。権宗謗法国にあらん時は、諸事を閣きて謗法を責むべし。是れ合戦の場に兵杖を用ゐるが如し。/然れば章安大師涅槃の疏に釈して云く「昔は時平かにして法弘まる、戒を持すべし杖を持すること勿れ。今は時嶮(さか)しくして法翳る。杖を持すべし戒を持すること勿れ。今昔倶に嶮しくば倶に杖を持すべし、今昔倶に平かならば倶に戒を持すべし。取捨宜しきを得て一向にすべからず」。此の釈の意分明なり。昔は世もすなをに人もただしくして邪法邪義無かりき。されば威儀をただし、穏便に行業を積みて、杖をもて人を責めず、邪法をとがむる事無かりき。今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり。取捨其の旨を得て一向に執する事なかれと書けり。今の世を見るに正法一純に弘まる国か、邪法の興盛する国か、勘ふべし。然るを浄土宗の法然は念仏に対して法華経を捨閉閣抛とよみ、善導は法華経を雑行と名づけ、剰へ千中無一とて千人信ずとも一人得道の者あるべからずと書けり。真言宗の弘法は法華経を華厳にも劣り、大日経には三重の劣と書き、戯論の法と定めたり。正覚房は法華経大日経のはきものとりにも及ばずと云ひ、釈尊をば大日如来の牛飼ひにもたらずと判ぜり。禅宗法華経は吐きたるつばき、月をさす指、教網なんど下す。小乗律等は法華経は邪教、天魔の所説と名づけたり。此等豈に謗法にあらずや。責めても猶あまりあり、禁めても亦たらず。/愚人云く、日本六十余州人替はり法異なりといへども、或は念仏者或は真言師或は禅或は律、誠に一人として謗法ならざる人はなし。然りと雖も人の上沙汰してなにかせん。只我が心中に深く信受して、人の誤りをば余所の事にせんと思ふ。聖人示して云く、汝が言ふ所実にしかなり。我も其の義を存ぜし処に、経文には或は不惜身命とも或は寧喪身命とも説く。何故にかやうには説かるるやと存ずるに、只人をはばからず経文のままに法理を弘通せば、謗法の者多からん世には必ず三類の敵人有りて命にも及ぶべしと見えたり。其の仏法の違目を見ながら我もせめず国主にも訴へずば、教へに背きて仏弟子にはあらずと説かれたり。涅槃経第三に云く「若し善比丘ありて法を壊らん者を見て置きて呵責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし是の人は仏法中の怨なり。若し能く駆遣し呵責し挙処せば、是れ我が弟子真の声聞なり」。此の文の意は、仏の正法を弘めん者、経教の義を悪しく説かんを聞き見ながら我もせめず、我が身及ばずば国主に申し上げても是れを対治せずば、仏法の中の敵なり。若し経文の如くに、人をもはばからず、我もせめ、国主にも申さん人は、仏弟子にして真の僧なりと説かれて候。されば「仏法中怨」の責めを免れんとて、かやうに諸人に悪(にく)まるれども命を釈尊法華経に奉り、慈悲を一切衆生に与へて謗法を責むるを心えぬ人は口をすくめ眼を瞋らす。汝実に後世を恐れば身を軽しめ法を重んぜよ。是れを以て章安大師云く「寧ろ身命を喪ふとも教を匿さざれとは、身は軽く法は重し身を死して法を弘めよ」。此の文の意は、身命をばほろぼすとも正法をかくさざれ。其の故は身はかろく法はおもし、身をばころすとも法をば弘めよとなり。/悲しきかな、生者必滅の習ひなれば、設ひ長寿を得たりとも終には無常をのがるべからず。今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢なり。非想の八万歳未だ無常を免れず。利の一千年も猶退没の風に破らる。況や人間閻浮の習ひは露よりもあやうく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもあだなり。水中に宿る月のあるかなきかの如く、草葉にをく露のをくれさきだつ身なり。若し此の道理を得ば後世を一大事とせよ。歓喜仏の末の世の覚徳比丘正法を弘めしに、無量の破戒の此の行者を怨(あだ)みて責めしかば、有徳国王正法を守る故に、謗法を責めて終に命終して阿仏(あしゅくぶつ)の国に生まれて彼の仏の第一の弟子となる。大乗を重んじて五百人の婆羅門の謗法を誡めし仙予国王は不退の位に登る。憑もしきかな、正法の僧を重んじて邪悪の侶を誡むる人、かくの如くの徳あり。されば今の世に摂受を行ぜん人は、謗人と倶に悪道に堕ちん事疑ひ無し。南岳大師の四安楽行に云く「若し菩薩有りて悪人を将護し治罰すること能はず。乃至、其の人命終して諸の悪人と倶に地獄に堕ちなん」。此の文の意は、若し仏法を行ずる人有りて、謗法の悪人を治罰せずして観念思惟を専らにして、邪正権実をも簡ばず、詐(いつわ)りて慈悲の姿を現ぜん人は諸の悪人と倶に悪道に堕つべしと云ふ文なり。今真言・念仏・禅・律の謗人をたださず、いつはて慈悲を現ずる人此の文の如くなるべし。/爰に愚人意を窃かにし言を顕にして云く、誠に君を諫めて家を正しくする事先賢の教へ本文に明白なり。外典此の如し、内典是れに違ふべからず。悪を見ていましめず謗を知りてせめずば、経文に背き祖師に違せん。其の禁め殊に重し。今より信心を至すべし。但し此の経を修行し奉らん事叶ひがたし。若し其の最要あらば証拠を聞かんと思ふ。聖人示して云く、今汝の道意を見るに鄭重慇懃なり。所謂諸仏の誠諦得道の最要は只是れ妙法蓮華経の五字なり。檀王の宝位を退き、竜女が蛇身を改めしも只此の五字の致す所なり。夫れ以みれば今の経は受持の多少をば一偈一句と宣べ、修行の時刻をば一念随喜と定めたり。凡そ八万法蔵の広きも一部八巻の多きも、只是の五字を説かんためなり。霊山の雲の上、鷲峰の霞の中に、釈尊要を結び地涌付属を得ることありしも法体は何事ぞ、只此の要法に在り。天台・妙楽の六千張の疏玉を連ぬるも、道邃・行満の数軸の釈金を並ぶるも、併しながら此の義趣を出でず。誠に生死を恐れ涅槃を欣ひ信心を運び渇仰を至さば、遷滅無常は昨日の夢、菩提の覚悟は今日のうつつなるべし。只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来らぬ福や有るべき。真実なり甚深なり。是れを信受すべし。/愚人掌を合はせ膝を折りて云く、貴命肝に染み、教訓意を動かせり。然りと雖も上能兼下の理なれば、広きは狭きを括り多は少を兼ぬ。然る処に五字は少なく文言は多し、首題は狭く八軸は広し。如何ぞ功徳斉等ならんや。聖人云く、汝愚かなり。捨少取多の執須弥よりも高く、軽狭重広の情溟海よりも深し。今の文の初後は必ず多きが尊く、少なきが卑しきにあらざる事、前に示すが如し。爰に又小が大を兼ね、一が多に勝ると云ふ事之れを談ぜん。彼の尼拘類樹の実は芥子三分が一のせいなり。されども五百輛の車を隠す徳あり。是れ小が大を含めるにあらずや。又如意宝珠は一あれども万宝を雨(ふら)して欠くる処之れ無し。是れ又少が多を兼ねたるにあらずや。世間のことわざにも一は万が母といへり、此等の道理を知らずや。所詮実相の理の背契を論ぜよ。強(あなが)ちに多少を執する事なかれ。汝至りて愚かなり、今一の譬へを仮らん。夫れ妙法蓮華経とは一切衆生の仏性なり。仏性とは法性なり。法性とは菩提なり。所謂釈迦・多宝・十方の諸仏、上行・無辺行等、普賢・文殊舎利弗・目連等、大梵天王・釈提桓因・日月・明星・北斗七星・二十八宿・無量の諸星・天衆・地類・竜神八部・人天大会・閻魔法王、上は非想の雲の上、下は那落の炎の底まで、所有一切衆生の備ふる所の仏性を妙法蓮華経とは名づくるなり。されば一遍此の首題を唱へ奉れば、一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時、我が身の法性の法報応の三身ともにひかれて顕はれ出づる。是れを成仏とは申すなり。例せば籠の内にある鳥の鳴く時、空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる、是れを見て籠の内の鳥も出でんとするが如し。/爰に愚人云く、首題の功徳、妙法の義趣今聞く所詳かなり。但し此の旨趣正しく経文に是れをのせたりや如何。聖人云く、其の理詳らかならん上は文を尋ぬるに及ばざるか。然れども請ひに随ひて之れを示さん。法華経第八陀羅尼品に云く「汝等但能く法華の名を受持せん者を擁護せんすら福量るべからず」。此の文の意は、仏、鬼子母神十羅刹女法華経の行者を守らんと誓ひ給ふを讃むるとして、汝等法華の首題を持つ人を守るべしと誓ふ、其の功徳は三世了達の仏の智恵も尚及びがたしと説かれたり。仏智の及ばぬ事何かあるべき、なれども法華の題名受持の功徳ばかりは是れを知らずと宣べたり。法華一部の功徳は只妙法等の五字の内に籠れり。一部八巻文々ごとに、二十八品生起かはれども首題の五字は同等なり。譬へば日本の二字の中に六十余州島二つ入らぬ国やあるべき、籠らぬ郡やあるべき。飛鳥とよべば空をかける者と知り、走獣といへば地をはしる者と心うる。一切名の大切なる事蓋し以て是の如し。天台は名詮自性・句詮差別とも、名者大綱とも判ずる此の謂はれなり。又名は物をめす徳あり、物は名に応ずる用あり。法華題名の功徳も亦以て此の如し。/愚人云く、聖人の言の如くば実に首題の功莫大なり。但知ると知らざるとの不同あり。我は弓箭に携はり、兵杖をむねとして未だ仏法の真味を知らず。若し然れば得る所の功徳何ぞ其れ深からんや。聖人云く、円頓の教理は初後全く不二にして初位に後位の徳あり。一行一切行にして功徳備はらざるは之れ無し。若し汝が言の如くば、功徳を知りて植ゑずんば、上は等覚より下は名字に至るまで得益更にあるべからず。今の経は唯仏与仏と談ずるが故なり。譬喩品に云く「汝舎利弗尚此の経に於ては信を以て入ることを得たり。況や余の声聞をや」。文の心は大智舎利弗法華経には信を以て入る、其の智分の力にはあらず。況や自余の声聞をやとなり。されば法華経に来たりて信ぜしかば、永不成仏の名を削りて華光如来となり。嬰児に乳をふくむるに、其の味をしらずといへども自然に其の身を生長す。医師(くすし)が病者に薬を与ふるに、病者薬の根源をしらずといへども服すれば任運と病愈ゆ。若し薬の源をしらずと云ひて、医師の与ふる薬を服せずば其の病愈ゆべしや。薬を知るも知らざるも、服すれば病の愈ゆる事以て是れ同じ。既に仏を良医と号し法を良薬に譬へ衆生を病人に譬ふ。されば如来一代の教法を擣和合して妙法一粒の良薬に丸せり。豈に知るも知らざるも服せん者煩悩の病愈えざるべしや。病者は薬をもしらず病をも弁へずといへども服すれば必ず愈ゆ。行者も亦然なり。法理をもしらず煩悩をもしらずといへども、只信すれば見思・塵沙・無明の三惑の病を同時に断じて、実報寂光の台(うてな)にのぼり、本有三身の膚を磨かん事疑ひあるべからず。/されば伝教大師云く「能化所化倶に歴劫無く、妙法経力即身成仏す」。法華経の法理を教へん師匠も、又習はん弟子も、久しからずして法華経の力をもて倶に仏になるべしと云ふ文なり。天台大師も法華経に付きて玄義・文句・止観の三十巻の釈を造り給ふ。妙楽大師は又釈籤・疏記・輔行の三十巻の末文を重ねて消釈す。天台六十巻とは是れなり。玄義には、名体宗用教の五重玄を建立して妙法蓮華経の五字の功能を判釈す。五重玄を釈する中の宗の釈に云く「綱維を提ぐるに目として動かざること無く、衣の一角を牽くに縷として来たらざること無きが如し」。意は此の妙法蓮華経を信仰し奉る一行に、功徳として来たらざる事なく、善根として動かざる事なし。譬へば網の目無量なれども、一つの大綱を引くに動かざる目もなく、衣の糸筋巨多なれども、一角を取るに糸筋として来たらざることなきが如しと云ふ義なり。さて文句には、如是我聞より作礼而去まで文々句々に因縁・約教・本迹・観心の四種の釈を設けたり。次に止観には、妙解の上に立てる所の観不思議境の一念三千、是れ本覚の立行本具の理心なり、今爰に委しくせず。悦ばしきかな、生を五濁悪世に受くといへども、一乗の真文を見聞する事を得たり。熈連恒沙(きれんごうじゃ)の善根を致せる者、此の経にあひ奉りて信を取ると見えたり。汝今一念随喜の信を致す、函蓋相応感応道交疑ひ無し。/愚人頭を低れ手を挙げて云く、我今よりは一実の経王を受持し、三界の独尊を本師として、今身より仏身に至るまで此の信心敢へて退転無けん。設ひ五逆の雲厚くとも、乞ふ、提婆達多が成仏を続ぎ、十悪の波あらくとも、願はくは王子覆講の結縁に同じからん。聖人云く、人の心は水の器にしたがふが如く、物の性は月の波に動くに似たり。故に汝当座は信ずといふとも後日は必ず翻へさん。魔来たり鬼来たるとも騒乱する事なかれ。夫れ天魔は仏法をにくむ、外道は内道をきらふ。されば猪の金山を摺り、衆流の海に入り、薪の火を盛んになし、風の求羅をますが如くせば、豈に好き事にあらずや。