一代聖教大意

〔C5・正嘉二年二月一四日〕/四教。一には三蔵教、二には通教、三には別教、四には円教なり。/始めに三蔵とは阿含経の意なり。此の経の意は六道より外を明かさず。但六道〈地・餓・畜・修・人・天〉の内の因果の道理を明かす。但し正報は十界を明かすなり。地・餓・畜・修・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏なり。依報が六にて有れば六界と申すなり。此の教の意は六道より外を明かさざれば三界より外に浄土と申す生処ありと云はず。又三世に仏は次第次第に出世すとは云へども、横に十方に並べて仏有りとも云はず。三蔵とは、一には経蔵〈亦定蔵とも云ふ〉二には律蔵〈亦戒蔵とも云ふ〉三には論蔵〈亦恵蔵とも云ふ〉。但し経律論の定戒恵・戒定恵・恵定戒と云ふ事あるなり。戒蔵とは五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒なり。定蔵とは味禅〈定とも名づく〉浄禅・無漏禅なり。恵蔵とは苦・空・無常・無我の智恵なり。戒定恵の勝劣と云ふは、但上の戒計りを持つ者は三界の内の欲界の人天に生を受くる凡夫なり。但し上の定計りを修する人は戒を持たずとも定の力に依りて上の戒を具するなり。此の定の内に味禅・浄禅は三界の内の色界無色界へ生ず。無漏禅は声聞・縁覚と成りて見思を断じ尽くし灰身滅智するなり。恵は又苦・空・無常・無我と我が色心を観すれば、上の戒定を自然に具足して声聞縁覚とも成るなり。故に戒より定勝れ、定より恵勝れたり。而れども此の三蔵教の意は戒が本体にてあるなり。されば阿含経を総結する遺教経には戒を説けるなり。此の教の意は依報には六界、正報には十界を明かせども、依報に随ひて六界を明かす経と名づくるなり。又正報に十界を明かせども縁覚・菩薩・仏も声聞の覚りを過ぎざれば但声聞教と申す。されば仏も菩薩も縁覚も灰身滅智する教なり。/声聞に付きて七賢七聖の位あり。六道は凡夫なり。/┌─一、五停心/┌─三賢──┼─二、別想念処/〈智と云ふことなり〉│└─三、総想念処/七賢──────────┤┌─一、軟法/│├─二、頂法/└─四善根─┼─三、忍法└─四、世第一法/此の七賢の位は六道の凡夫より賢く、生死を厭ひ、煩悩を具しながら煩悩を発さざる賢人なり。例せば外典の許由・巣父が如し。/┌─一、数息──息を数へて散乱を治す。/├─二、不浄──身の不浄を観じて貪欲を治す。/五停心──┼─三、慈悲──慈悲を観じて嫉妬を治す。/├─四、因縁──十二因縁を観じて愚痴を治す。/└─五、界方便─〈亦は念仏と云ふ〉地水火風空識の六界を観じて障道を治す。/┌─一、身──外道は身を浄と云ひ、仏は不浄と説く。/別想念処─┼─二、受──外道は三界を楽と云ひ、仏は苦と説く。/├─三、心──外道は心を常と云ひ、仏は無常と説く。└─四、法──外道は一切衆生に我有りと云ひ、仏は無我と説く。/外道は常〈心〉楽〈受〉我〈法〉浄〈身〉、仏は苦・不浄・無常・無我と説く。/総想念処─先の苦・不浄・無常・無我を調練して観ずるなり。/軟法───智恵の火、煩悩の薪を蒸せば煙の立つなり。故に軟法と云ふ。/頂法───山の頂に登りて四方を見るに雲(くもり)無きが如し。世間出世間の因果の道理を委しく知りて闇(くもり)無き事に譬へたるなり。始め五停心より此の頂法に至るまでは、退位と申して悪縁に値へば悪道に堕つ。而れども此の頂法の善根は失せずと習ふなり。/忍法───此の位に入る人は永く悪道に堕ちず。/世第一法─此の位に至るまでは賢人なり。但し今に聖人と成るべし。/┌─随信行─鈍根/┌─一、見道──二─┤/│└─随法行─利根〈正と云ふ事なり〉│┌─一、信解──鈍根/七聖三──────┼─二、修道──三─┼─二、見得──利根/│└─三、身証──利鈍に亘る/│〈阿羅漢〉┌─恵解脱─鈍根/└─三、無学道─二─┤/└─倶解脱─利根/見思の煩悩を断ずる者を聖と云ふ。此の聖人に三道あり。見道とは見思の内の見惑を断じ尽くす。此の見惑を尽くす人をば初果の聖者と申す。此の人は欲界の人天には生ずれども、永く地・餓・畜・修の四悪趣には堕ちず。天台云く「見惑を破するが故に四悪趣を離る」文。此の人は未だ思惑を断ぜざれば貪・瞋・痴身に有り。貪欲ある故に妻を帯す。而れども他人の妻を犯さず。瞋恚あれども物を殺さず。鋤を以て地をすけば虫自然に四寸去る。愚痴なる故に我が身初果の聖者と知らず。婆沙論に云く「初果の聖者は妻を八十一度一夜に犯す」取意。天台の解釈に云く「初果、地を耕すに虫四寸を離るるは道共の力なりと。第四果の聖者阿羅漢を無学と云ひ、亦不生と云ふ。永く見思を断じ尽くして三界六道に此の生の尽きて後は生ずべからず。見思の煩悩の無き故なり」。又此の教の意は三界六道より外に処を明かさざれば、外の生処有りと知らず。身に煩悩有りとも知らず。又生因無く但灰身滅智と申して身も心もうせ虚空の如く成るべしと習ふ。法華経にあらずば永く仏になるべからずと云ふは二乗是れなり。此の教の修行の時節は、声聞は三生〈鈍根〉六十劫〈利根〉。又一類の最上利根の声聞の一生の内に阿羅漢の位に登る事有り。縁覚は四生〈鈍根〉百劫〈利根〉。菩薩は一向凡夫にて見思を断ぜず。而も四弘誓願を発し、六度万行を修し、三僧祇百大劫を経て三蔵教の仏と成る。仏と成る時始めて見思を断尽するなり。見惑とは一には身見〈亦我見と云ふ〉・二には辺見〈亦断見常見と云ふ〉・三には邪見〈亦撥無見と云ふ〉・四には見取見〈亦劣謂勝見と云ふ〉・五には戒禁取見〈亦非因計因非道計道見と云ふ〉。見惑は八十八有れども此の五が本にて有るなり。思惑とは一には貪、二には瞋、三には痴、四には慢なり。思惑は八十一有れども此の四が本にて有るなり。此の法門は阿含経四十巻・婆沙論二百巻・正理論・顕宗論・倶舎論に具に明かせり。別して倶舎宗と申す宗有り。又諸の大乗に此の法門少々明らめる事あり。謂く方等部の経・涅槃経等なり。但し華厳・般若・法華には此の法門無し。/次に通教〈大乗の始めなり〉。又戒定恵の三学あり。此の教のおきて大旨は六道を出でず。少分利根なる菩薩、六道より外を推し出だすことあり。声聞・縁覚・菩薩共に一つ法門を習ひ、見思を三人共に断じ、而も声聞・縁覚は灰身滅智の意(おもひ)に入る者もあり、入らざる者もあり。此の教に十地あり。/┌─一、乾恵地─────三賢──┐/├─二、性地──────四善根─┴─賢人/├─三、八人地───┬─〈見道の位〉聖人/│├─見惑を断ず/├─四、見地────┴─初果聖人/十地─┼─五、薄地─┐/├─六、離欲地├────思惑を断ず/├─七、已弁地┴阿羅漢─見思を断じ尽くす/├─八、辟支仏地────見思を尽くす/├─九、菩薩地└─十、仏地──────見思を断じ尽くす/此の通教の法門は別して一経に限らず。方等経・般若経・心経・観経・阿弥陀経・双観経・金剛般若経等の経に散在せり。此の通教の修行の時節は、動踰塵劫を経て仏に成ると習ふなり。又一類の疾く成ると云ふ辺もあり。已上、上の蔵通二教には六道の凡夫本より仏性ありとも談ぜず。始めて修すれば声聞・縁覚・菩薩・仏とおもひおもひに成ると談ずる教なり。/次に別教。又戒定恵の三学を談ず。此の教は但菩薩許りにて声聞縁覚を雑へず。菩薩戒とは三聚浄戒なり。五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒。梵網の五十八の戒・瓔珞の十無尽戒・華厳の十戒・涅槃経の自行の五支戒・護他の十戒・大論の十戒。是等は皆菩薩の三聚浄戒の内摂律儀戒なり。摂善法戒とは八万四千の法門を摂す。饒益有情戒とは四弘誓願なり。定とは観・練・薫・修の四種の禅定なり。恵とは心生十界の法門なり。五十二位を立つ。五十二位とは一には十信、二には十住、三には十行、四には十回向、五には十地、等覚〈一位〉、妙覚〈一位〉。已上五十二位。/┌─十信───┬─退位├─十住──┐└─凡夫菩薩未だ見思を断ぜず/五十二位─┼─十行──┼──不退位/├─十回向─┴──見思・塵沙を断ぜる菩薩/├─十地──┐/├─等覚──┴──無明を断ぜる菩薩/└─妙覚─────無明を断尽せる仏なり/此の教は大乗なり。戒定恵を明かす。戒は前の蔵通二教に似ず尽未来際の戒、金剛法戒なり。此の教の菩薩は三悪道をば恐れとせず。二乗の道を三悪道と云ひて地・餓・畜等の三悪道は仏の種子を断ぜず、二乗の道は仏の種子を断つ。大荘厳論に云く「恒に地獄に処すと雖も大菩提を障へず。若し自利の心を起こさば是れ大菩提の障りなり」。此の教の習ひは真の悪道とは三無為の火なり。真の悪人とは二乗を立つるなり。されば悪をば造るとも、二乗の戒をば持たじと談ず。故に大般若経に云く「若し菩薩設ひ伽沙劫に妙の五欲を受くるとも、菩薩戒に於て猶犯と名づけず。若し一念二乗の心を起こさば即ち名づけて犯と為す」文。此の文に妙なる五欲とは色声香味触の五欲なり。色欲とは青黛(しょうたい)・珂雪・白歯等、声欲とは糸竹管絃、香欲とは沈檀芳薫、味欲とは猪鹿等の味、触欲とは軟膚等なり。此の五欲には伽沙劫に著すとも菩薩戒は破れず。一念の二乗の心を起こすに菩薩戒は破ると云へる文なり。太賢の古迹に云く「貪に汚さると雖も大心尽きず。無余の犯無きが故に無犯と名づく」文。二乗戒に趣くを菩薩の破戒とは申すなり。華厳・般若・方等、総じて爾前の経にはあながちに二乗をきらうなり。定恵は此れを略す。梵網経に云く「戒をば謂ひて平地と為し、定をば謂ひて室宅と為す、智恵は為れ灯明なり」文。此の菩薩戒は人・畜・黄門・二形の四種を嫌はず、但一種の菩薩戒を授く。此の教の意は五十二位を一々の位に多倶低劫を経て衆生界を尽くして仏に成るべし。一人として一生に仏に成る物無し。又一行を以て仏に成る事無し。一切行を積みて仏と成る。微塵を積みて須弥山と成るが如し。華厳・方等・般若・梵網・瓔珞等の経に此の旨分明なり。但し二乗界の此の戒を受くる事を嫌ふ。妙楽の釈に云く「遍く法華已前の諸教を尋ぬるに、実に二乗作仏の文無し」文。/次に円教。此の円教に二有り。一には爾前の円、二には法華涅槃の円なり。爾前の円に五十二位又戒定恵あり。爾前の円とは華厳経の法界唯心の法門。文に云く「初発心の時便ち正覚を成ず」。又云く「円満修多羅」文。浄名経に云く「無我無造にして受くる者は無けれども、善悪の業敗亡せず」文。般若経に云く「初発心より即ち道場に坐す」文。観経に云く「韋提希時に応じて即ち無生法忍を得」文。梵網経に云く「衆生仏戒を受くれば位大覚位に同じ。即ち諸仏の位に入り、真に是れ諸仏の子(みこ)なり」文。此れは皆爾前の円の証文なり。此の教の意は又五十二位を明かす。名は別教の五十二位の如し、但し義はかはれり。其の故は五十二位が互ひに具して浅深も無し勝劣も無し。凡夫も位を経ずとも仏にも成る、又往生するなり。煩悩も断ぜざれども仏に成るに障り無く一善一戒を以ても仏に成る。少々開会の法門を説く処もあり。所謂浄名経には凡夫を会す。煩悩悪法も皆会す。但し二乗を会せず。般若経の中には二乗の所学の法門をば開会して二乗の人と悪人をば開会せず。観経等の経に凡夫一毫の煩悩をも断ぜずして往生すと説くは、皆爾前の円教の意なり。法華経の円教は後に至りて書くべし〈已上四教〉。/次に五時。五時とは、一には華厳経〈結経は梵網経〉、別円二教を説く。二には阿含〈結経は遺教経〉、但三蔵教の小乗の法門を説く。三には方等経・宝積経・観経等の説時を知らざる大乗経なり〈結経は瓔珞経〉、蔵通別円の四教を皆説く。四には般若経〈結経は仁王経〉、通教・別教・円教の後三教を説く。三蔵教を説かず。華厳経は三七日の間の説、阿含経は十二年の説、方等・般若は三十年の説。已上華厳より般若に至る四十二年なり。山門の義には方等は説時定まらず説処定まらず、般若経三十年と申す。寺門の義には方等十六年般若十四年と申す。秘蔵の大事の義には方等・般若は説時三十年。但し方等は前、般若は後と申すなり。仏は十九出家三十成道と定むる事は大論に見えたり。一代聖教五十年と申す事は涅槃経に見えたり。法華経已前四十二年と申す事は無量義経に見えたり。法華経八箇年と申す事は涅槃経の五十年の文と、無量義経の四十二年の文の間を勘ふれば八箇年なり。已上十九出家、三十成道、五十年の転法輪、八十入滅と定むべし。/此等の四十二年の説教は皆法華経の汲引の方便なり。其の故は無量義経に云く「我先に道場菩提樹下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり○方便力を以て四十余年には未だ真実を顕はさず○初めに四諦を説き〈阿含経なり〉○次に方等十二部経、摩訶般若、華厳海空を説く」文。私に云く、説の次第に順ずれば華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃なり。法門の浅深の次第を列ねば阿含・方等・般若・華厳・法華涅槃と列ぬべし。されば法華経・涅槃経には爾の如く見えたり。華厳宗と申す宗は智儼法師・法蔵法師・澄観法師等の人師、華厳経に依りて立てたり。倶舎宗成実宗律宗は宝法師・光法師・道宣等の人師、阿含経に依りて立てたり。法相宗と申す宗は玄奘三蔵・慈恩法師等、方等部の内に上生経・下生経・成仏経・深密経・解深密経・瑜伽論・唯識論等の経論に依りて立てたり。三論宗と申す宗は般若経・百論・中論・十二門論・大論等の経論に依りて吉蔵大師立て給へり。華厳宗と申すは華厳と法華・涅槃は同じく円教と立つ。余は皆劣と云ふなるべし。法相宗には深密・解深密経と華厳・般若・法華・涅槃は同じ程の経と云ふ。三論宗とは般若経と華厳・法華・涅槃は同じ程の経なり。但し法相の依経の諸小乗経は劣なりと立つ。此等は皆法華已前の諸経に依りて立てたる宗なり。爾前の円を極として立てたる宗どもなり。宗々の人々の諍ひは有れども経々に依りて勝劣を判ぜん時は、いかにも法華経は勝れたるべきなり。人師の釈を以て勝劣を論ずる事無し。/五には法華経と申すは開経には無量義経〈一巻〉、法華経八巻、結経には普賢経〈一巻〉。上の四教四時の経論を書き挙ぐる事は此の法華経を知らん為なり。法華経の習ひとしては、前の諸経を習はずしては永く心を得ること莫きなり。爾前の諸経は一経一経を習ふに又余経を沙汰せざれども苦しからず。故に天台の御釈に云く「若し余経を弘むるには、教相を明かさざれども義に於て傷むこと無し。若し法華を弘むには、教相を明かさざれば文義欠くること有り」文。法華経に云く「種々の道を示すと雖も其れ実には仏乗の為なり」文。種々の道と申すは爾前の一切の諸経なり。仏乗の為とは法華経の為に一切の経を説くと申す文なり。/問ふ、諸経の如きは或は菩薩の為、或は人天の為、或は声聞縁覚の為、機に随ひて法門もかわり益もかわる。此の経は何なる人の為ぞや。答ふ、此の経は相伝に有らざれば知り難し。悪人善人・有智無智・有戒無戒・男子女人・四衆八部、総じて十界の衆生の為なり。所謂悪人は提婆達多・妙荘厳王・阿闍世王、善人は韋提希等の人天の人。有智は舎利弗、無智は須利槃特。有戒は声聞・菩薩、無戒は竜・畜なり。女人は竜女なり。総じて十界の衆生、円の一法を覚るなり。此の事を知らざる学者、法華経は我等凡夫の為には有らずと申す、仏意恐れ有り。此の経に云く「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は皆此の経に属せり」文。此の文の菩薩とは、九界の衆生、善人・悪人・女人・男子、三蔵教の声聞・縁覚・菩薩、通教の三乗、別教の菩薩、爾前の円教の菩薩、皆此の経の力に有らざれば仏に成るまじと申す文なり。又此の経に云く「薬王、多く人有りて在家出家の菩薩の道を行ぜんに、若し是の法華経を見聞し読誦し書持し供養すること得ること能はずんば、当に知るべし、是の人は未だ善く菩薩の道を行ぜず。若し是の経典を聞くこと得ること有らば、乃ち能善(よく)菩薩の道を行ずるなり」。此の文は顕然に権教の菩薩の三祇百劫・動踰塵劫・無量阿僧祇劫の間の六度万行・四弘誓願は、此の経に至らざれば菩薩の行には有らず、善根を修したるにも有らずと云ふ文なり。又菩薩の行無ければ仏にも成らざる事も顕然なり。/天台・妙楽の末代の凡夫を勧進する文、文句に云く「好堅は地に処して芽已に百囲せり。頻伽は(かいこ)に在りて声衆鳥に勝れたり」文。此の文は法華経の五十展転の第五十の功徳を釈する文なり。仏苦(ねんごろ)に五十展転にて説き給ふ事、権教の多劫の修行又大聖の功徳よりも、此の経の須臾の結縁、愚人の随喜の功徳、百千万億勝れたる事経に見えつれば、此の意を大師譬へを以て顕はし給へり。好堅樹と申す木は一日に百囲にて高く生ふ。頻伽と申す鳥は幼きだも諸の大小の鳥の声に勝れたり。権教の修行の久しきに諸の草木の遅く生長するを譬へ、法華の行速やかに仏に成る事を一日に百囲なるに譬ふ。権教の大小の聖をば諸鳥に譬へ、法華の凡夫のはかなきをの声の衆鳥に勝るに譬ふ。妙楽大師重ねて釈して云く「恐らくは人謬りて解せる者、初心の功徳の大なることを測らずして、功を上位に推(ゆず)りて此の初心を蔑る。故に今彼の行浅く功深きことを示して以て経力を顕はす」文。末代の愚者は法華経は深理にしていみじけれども、我が下機に叶はずと云ひて法を挙げ機を下して退する者を釈する文なり。/又妙楽大師、末代に此の法の捨てられん事を歎きて云く「此の円頓を聞いて崇重せざる者は、良に近代大乗を習ふ者の雑濫に由るが故なり。況や像末に情澆く信心寡薄に、円頓の教法、蔵に溢れ函に盈つれども暫くも思惟せず。便ち目を瞑ぐに至りて、徒らに生じ徒らに死す、一に何ぞ痛ましきや。有る人云く、聞いて行ぜざらんは、汝に於て何ぞ預からん。此れは未だ深く久遠の益を知らず。善住天子経の如きは、文殊舎利弗に告ぐ、法を聞き謗を生じて地獄に堕つるは恒沙の仏を供養する者に勝れたり。地獄に堕つと雖も地獄より出で還りて法を聞くことを得ると。此れは供仏し法を聞かざる者を以て校量と為り。聞いて而も謗を生ずる尚遠種と為る。況や聞いて思惟し勤めて修習せんをや」。又云く「一句も神に染めぬれば咸く彼岸を資く。思惟修習永く舟航に用ゐる。随喜・見聞は恒に主伴と為る。若しは取・若しは捨、耳に経て縁と成り、或は順・或は違、終に斯に因りて脱す」文。私に云く、若しは取若しは捨或は順或は違の文、肝に銘ずるなり。/法華翻経の後記に云く〈釈僧肇記〉「什〈羅什三蔵なり〉、姚興王に対して曰く、予昔天竺国に在りし時、遍く五竺に遊びて大乗を尋討し、大師須利耶蘇摩に従ひて理味を餐受するに頂を摩でて此の経を属累して言く、仏日、西に隠れ遺光東北を照らす。茲の典、東北諸国に有縁なり。汝慎みて伝弘せよ」文。私に云く、天竺よりは此の日本は東北の州なり。恵心の一乗要決に云く「日本一州円機純熟にして、朝野遠近同じく一乗に帰し、緇素貴賤悉く成仏を期す。唯一師等ありて若し信受せざれば権とや為さん、実とや為さん。権と為さば貴むべし。浄名に云く、衆の魔事を覚知して而も其の行に随はざるは善力方便を以て意に随ひて而も度すと。実と為さば憐れむべし。此の経に云く、当来世の悪人は仏説の一乗を聞いて迷惑して信受せず、法を破して悪道に堕つ」文。妙法蓮華経。妙とは天台の玄義に云く「言ふ所の妙とは、妙は不可思議に名づくるなり」。又云く「秘密の奥蔵を発く、之れを称して妙と為す」。又云く「妙とは最勝修多羅甘露の門なり、故に妙と言ふなり」。法とは玄義に云く「言ふ所の法とは、十界十如権実の法なり」。又云く「権実の正軌を示す、故に号して法と為す」。蓮華とは玄義に云く「蓮華とは権実の法に譬ふるなり」。又云く「久遠の本果を指す、之れを喩ふるに蓮を以てし、不二の円道に会す、之れを譬ふるに華を以てす」文。経とは玄義に云く「声仏事を為す、之れを称して経と為す」文。私に云く、法華以前の諸経に、小乗は心生ずれば六界、心滅すれば四界なり。通教以て是の如し。爾前の別円の二教は心生の十界なり。小乗の意は六道四生の苦楽は衆生の心より生ずと習ふなり。されば心滅すれば六道の因果は無きなり。大乗の心は心より十界を生ず。華厳経に云く「心は工みなる画師の如く種々の五陰を造る、一切世間の中に法として造らざること無し」文。種々の五陰を造るとは十界の五陰なり。仏界をも心法をも造ると習ふ。心が過去・現在・未来の十方の仏と顕はると習ふなり。華厳経に云く「若し人三世一切の仏を了知せんと欲せば当に是の如く観すべし、心は諸の如来を造る」。法華已前の経のおきては上品の十悪は地獄の引業、中品の十悪は餓鬼の引業、下品の十悪は畜生の引業、五常は修羅の引業、三帰五戒は人の引業、三帰十善は六欲天の引業なり。有漏の坐禅は色界無色界の引業、五戒・八戒十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒の上に苦・空・無常・無我の観は声聞・縁覚の引業、五戒・八戒・乃至三聚浄戒の上に六度・四弘の菩提心を発すは菩薩なり。仏界の引業なり。蔵通二教には仏性の沙汰無し。但し菩薩の発心を仏性と云ふ。別円二教には衆生に仏性を論ず、但し別教の意は二乗には仏性を論ぜず。爾前の円教は別教に附して二乗の仏性の沙汰無し。此等は皆麁法なり。/今の妙法とは此等の十界を互ひに具すと説く時、妙法と申す。十界互具と申す事は十界の内に一界に余の九界を具し、十界互ひに具すれば百法界なり。玄義二に云く「又一法界に九法界を具すれば即ち百法界有り」文。法華経とは別の事無し。十界の因果は爾前の経に明かす、今は十界の因果互具をおきてたる計りなり。爾前の経の意は菩薩をば仏に成るべし、声聞は仏に成るまじなんど説けば、菩薩は悦び声聞はなげき人天等はおもひもかけずなんどある経も有り。或は二乗は見思を断じて六道を出でんと念ひ、菩薩はわざと煩悩を断ぜずして六道に生まれて衆生を利益せんと念ふ。或は菩薩の頓悟成仏を見、或は菩薩の多倶低劫の修行を見、或は凡夫往生の旨を説けば菩薩・声聞の為には有らずと見て、人の不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏、凡夫の往生は我が往生、聖人の見思断は我等凡夫の見思断とも知らずして四十二年は過ぎしなり。爾るに今の経にして十界互具を談ずる時、声聞の自調自度の身に菩薩界を具すれば、六度万行も修せず、多倶低劫も経ぬ声聞が、諸の菩薩のからくして修したりし無量無辺の難行道が声聞に具する間、をもはざる外に声聞が菩薩と云はる。人をせむる獄卒、慳貪なる凡夫も亦菩薩と云はる。仏も又因位に居して菩薩界に摂せられ、妙覚ながら等覚なり。薬草喩品に声聞を説いて云く「汝等が所行は是れ菩薩の道なり」。又我等六度をも行ぜざるが六度満足の菩薩なる文、経に云く「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前す」。我等一戒をも受けざるが持戒の者と云はる文、経に云く「是れ則ち勇猛なり是れ則ち精進なり、是れを戒を持ち頭陀を行ずる者と名づく」文。/問うて云く、諸経にも悪人が仏に成る。華厳経の調達の授記、普超経の闍王の授記、大集経の婆籔天子の授記。又女人が仏に成る、胎経の釈女の成仏。畜生が仏に成る、阿含経の鴿雀の授記。二乗が仏に成る、方等だらに経・首楞厳経等なり。菩薩の成仏は華厳経等。具縛の凡夫の往生は観経の下品下生等。女人の女身を転ずるは、双観経の四十八願の中の三十五の願。此等は法華経の二乗・竜女・提婆・菩薩の授記に何なるかわりめかある。又設ひかわりめはありとも諸経にても成仏はうたがひなし如何。答ふ、予の習ひ伝ふる処の法門此の答へに顕はるべし。此の答へに法華経の諸経に超過し、又諸経の成仏を許し許さぬは聞こふべし。秘蔵の故に顕露に書(しる)さず。/問うて曰く、妙法を一念三千と云ふ事如何。答ふ、天台大師此の法門を覚り給ひて後、玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多くの法門を説き給ひしかども、此の一念三千をば談義し給はず。但十界百界千如の法門ばかりにておはしまししなり。御年五十七の夏四月の比、荊州の玉泉寺と申す処にて御弟子章安大師と申す人に説ききかせ給ひし止観十巻あり。上の四帖に猶をしみ給ひて但六即・四種三昧等計りの法門にてありしに、五の巻より十境十乗を立てて一念三千の法門を書し給へり。此れを妙楽大師末代の人に勧進して言く「並びに三千を以て指南と為す○請ふらくは尋ね読まん者心に異縁無かれ」文。六十巻三千丁の多くの法門も由無し、但此の初めの二・三行を意得べきなり。止観の五に云く「夫れ一心に十法界を具す、一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば百法界には即ち三千種の世間を具す。此の三千一念の心に在り」文。妙楽承け釈して云く「当に知るべし、身土は一念の三千なり。故に成道の時、此の本理に称ひて一身一念法界に遍し」文。/日本の伝教大師比叡山を建立の時、根本中堂の地を引き給ひし時、地中より舌八つある鑰を引き出だしたりき。此の鑰を以て入唐の時に、天台大師より第七代妙楽大師の御弟子道邃和尚に値ひ奉りて天台の法門を伝へし時、天機秀発の人たりし間、道邃和尚悦びて天台の造り給へる十五の経蔵を開き見せしめ給ひしに、十四を開きて一の蔵を開かず。其の時伝教大師云く、師、此の一蔵を開き給へと請ひ給ひしに、邃和尚の云く、此の一蔵は開くべき鑰無し。天台大師自ら出世して開き給ふべし云云。其の時伝教大師日本より随身の鑰を以て開き給ひしに、此の経蔵開きたりしかば経蔵の内より光室に満ちたりき。其の光の本を尋ぬれば此の一念三千の文より光を放ちたりしなり。ありがたかりし事なり。其の時邃和尚は返りて伝教大師を礼拝し給ひき、天台大師の後身と云云。依って天台の経蔵の所釈は遺り無く日本に亘りしなり。天台大師の御自筆の観音経、章安大師の自筆の止観、今比叡山の根本中堂に収めたり。/┌─一自性──自力──迦毘羅外道/四性計─┼─二他性──他力──楼僧伽外道/├─三共性──共力──勒娑婆外道/└─四無因性─無因力─自然外道/外道に三人あり。一には仏法外の外道〈九十五種の外道〉、二には学仏法成の外道〈小乗〉、三には附仏法の外道〈妙法を知らざる大乗の外道なり〉。今の法華経は自力も定めて自力にあらず、十界の一切衆生を具する自なる故に。我が身に本より自の仏界、一切衆生の他の仏界我が身に具せり。されば今仏に成るに新仏にあらず。又他力も定めて他力に非ず、他仏も我等凡夫の自ら具せる故に、又他仏が我等が如き自に現同するなり。共と無因とは略す。法華経已前の諸経は十界互具を明かさざれば、仏に成らんと願ふには必ず九界を厭ふ、九界を仏界に具せざる故なり。されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず、凡夫の身を仏に具すと云はざるが故に。されば人天、悪人の身をば失ひて仏に成ると申す。此れをば妙楽大師は厭離断九の仏と名づく。されば爾前の経の人々は仏の九界の形を現ずるをば、但仏の不思議の神変と思ひ、仏の身に九界が本よりありて現ずるとは云はず。されば実を以てさぐり給ふに法華経已前には但権者の仏のみ有りて、実の凡夫が仏に成りたりける事は無きなり。煩悩を断じ九界を厭ひて仏に成らんと願ふは、実には九界を離れたる仏無き故に。往生したる実の凡夫も無し、人界を離れたる菩薩界も無き故に。但法華経の仏の、爾前にして十界の形を現じて所化とも能化とも、悪人とも善人とも外道とも云はれしなり。実の悪人・善人・外道・凡夫は方便の権を行じて真実の教とうち思ひなしてすぎし程に、法華経に来たりて方便にてありけり、実には見思無明も断ぜざりけり、往生もせざりけりなんど覚知するなり。一念三千は別に委しく書くべし。/此の経には二妙あり。釈に云く「此の経は唯二妙を論ず」。一には相待妙、二には絶待妙なり。相待妙の意は、前四時の一代聖教に法華経を対して爾前と之れを嫌ひ、爾前をば当分と云ひ法華を跨節と申す。絶待妙の意は、一代聖教は即ち法華経なりと開会す。又法華経に二の事あり。一には所開、二には能開なり。開示悟入の文、或は皆已成仏道等の文。一部八巻二十八品六万九千三百八十四字、一々の字の下に皆妙の文字あるべし。此れ能開の妙なり。此の法華経は知らずして習ひ談ずる物は但爾前の経の利益なり。阿含経開会の文は、経に云く「我が此の九部の法は衆生に随順して説く、大乗に入るに為れ本なり」云云。華厳経開会の文は「一切世間の天人及び阿修羅は、皆謂へり今の釈迦牟尼仏」等文。般若経開会の文は安楽行品の十八空の文なり。観経等の往生安楽開会の文は「此に於て命終して即ち安楽世界に往く」等文。散善開会の文は「一たび南無仏と称せし皆已に仏道を成じき」文。一切衆生開会の文は「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」。外典開会の文は「若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも皆正法に順ぜん」文。兜率開会の文、人天所開会の文しげきゆへにいださず。/此の経を意得ざる人は経の文に此の経を読みて人天に生ずと説く文を見、或は兜率・利なんどにいたる文を見、或は安養に生ずる文を見て、穢土に於て法華経を行ぜば、経はいみじけれども行者不退の地に至らざれば穢土にして流転し、久しく五十六億七千万歳の晨を期し、或は人畜等に生じて隔生する間、自らの苦しみ限り無しなんど云云。或は自力の修行なり難行道なり等云云。此れは恐らくは爾前法華の二途を知らずして自身痴闇に迷ふのみに非ず、一切衆生の仏眼を閉づる人なり。兜率を勧めたる事は小乗経に多し。少しは大乗経にも勧めたり。西方を勧めたる事は大乗経に多し。此等は皆所開の文なり。法華経の意は、兜率に即して十方仏土中、西方に即して十方仏土中、人天に即して十方仏土中云云。法華経は悪人に対しては十界の悪を説けば、悪人五眼を具しなんどすれば悪人のきわまりを救ひ、女人に即して十界を談ずれば十界皆女人なる事を談ず。何にも法華円実の菩提心を発さん人は迷ひの九界へ業力に引かるる事無きなり。此の意を存じ給ひけるやらん。法然上人も一向念仏の行者ながら選択と申す文には、雑行・難行道には法華経大日経等をば除かれたる処も有り、委しく見よ。又恵心の往生要集にも法華経を除きたり。たとい法然上人・恵心、法華経を雑行難行道として末代の機に叶はずと書き給ふとも、日蓮は全くもちゆべからず。一代聖教のおきてに違ひ、三世十方の仏陀の誠言に違する故に。いわうやそのぎ無し。而るに後の人々の消息に、法華経を難行道、経はいみじけれども末代の機に叶はず、謗ぜばこそ罪にても有らめ、浄土に至りて法華経をば覚るべしと云云。日蓮の心はいかにも此の事はひが事と覚ゆるなり。かう申すもひが事にや有るらん。能く能く智人に習ふべし。

正嘉二年二月十四日日蓮