蓮盛抄

〔C6・建長七年・蓮盛〕/禅宗云く、涅槃の時、世尊座に登り拈華して衆に示す。迦葉破顔微笑せり。仏の言く、吾に正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相・微妙の法門有り。文字を立てず、教外に別伝し、摩訶迦葉に付属するのみ。問うて云く、何なる経文ぞや。禅宗答へて云く、大梵天王問仏決疑経の文なり。問うて云く、件の経は何れの三蔵の訳ぞや。貞元・開元の録の中に曾て此の経無し如何。禅宗答へて云く、此の経は秘経なり。故に文計り天竺より之れを渡す云云。問うて云く、何れの聖人、何れの人師の代に渡りしぞや、跡形無きなり。此の文は上古の録に載せず、中頃より之れを載す。此の事禅宗の根源なり、尤も古録に載すべし、知んぬ偽文なり。/禅宗の云く、涅槃経二に云く「我今所有の無上の正法、悉く以て摩訶迦葉に付属す」云云。此の文如何。答へて云く、無上の言は大乗に似たりと雖も、是れ小乗を指すなり。外道の邪法に対すれば小乗をも正法といはん。例せば大法東漸と云へるを、妙楽大師解釈の中に「通指仏教」と云ひて、大小権実をふさね(総)て大法と云ふなり云云。外道に対すれば小乗も大乗と云はれ、下臈なれども分には殿と云はれ、上臈と云はるるがごとし。涅槃経三に云く「若し法宝を以て阿難及び諸の比丘に付属せば、久住することを得ず。何を以ての故に、一切の声聞及び大迦葉は悉く当に無常なるべし。彼の老人の他の寄物を受くるが如し。是の故に応に無上の仏法を以て諸の菩薩に付属すべし。諸の菩薩は善能問答するを以て、是の如きの法宝は則ち久住することを得、無量千世・増益熾盛にして、衆生を利安せん。彼の壮人の他の寄物を受くるが如し。是の義を以ての故に諸大菩薩乃(すなわ)ち能く問はんのみ」云云。大小の付属其れ別なること分明なり。同経の十に云く「汝等文殊当に四衆の為に広く大法を説くべし。今此の経法を以て汝に付属す。乃至迦葉・阿難等も来たらば、復当に是の如き正法を付属すべし」云云。故に知んぬ、文殊・迦葉に大法を付属すべしと云云。仏より付属する処の法は小乗なり。悟性論に云く「人心をさとる事あれば、菩提の道を得る故に仏と名づく」。菩提に五あり、何れの菩提ぞや。得道又種々なり。何れの道ぞや。余経に明かす所は大菩提にあらず、又無上道にあらず。経に云く「四十余年未顕真実」云云。/問うて云く、法華は貴賤男女何れの菩提の道を得べきや。答へて云く「乃至一偈に於ても皆成仏疑ひ無し」云云。又云く「正直に方便を捨てて但無上道を説く」云云。是に知んぬ、無上菩提なり。「須臾聞之即得究竟阿耨菩提」なり。此の菩提を得ん事、須臾も此の法門を聞く功徳なり。問うて云く、須臾とは三十須臾を一日一夜と云ふ。「須臾聞之」の須臾は之れを指すか如何。答ふ、件の如し。天台止観の二に云く「須臾も廃すること無かれ」云云。弘決に云く「暫くも廃することを許さず、故に須臾と云ふ。故に須臾は刹那なり」。問うて云く、本分の田地にもとづくを禅の規模とす。答ふ、本分の田地とは何者ぞや。又何れの経に出でたるぞや。法華経こそ人天の福田なれば、むね(宗)と人天を教化し給ふ。故に仏を天人師と号す。此の経を信ずる者は己身の仏を見るのみならず、過現未の三世の仏を見る事、浄頗梨に向かふに色像を見るが如し。経に云く「又浄明の鏡に悉く諸の色像を見るが如し」云云。/禅宗云く、是心即仏・即身是仏と。答へて云く、経に云く「心は是れ第一の怨なり。此の怨最も悪と為す。此の怨能く人を縛り、送りて閻羅の処に到る。汝独り地獄に焼かれて、悪業の為に養ふ所の妻子兄弟等親属も救ふこと能はじ」云云。涅槃経に云く「願ひて心の師と作るとも、心を師とせざれ」云云。愚痴無懺の心を以て即心即仏と立つ。豈に未得謂得・未証謂証の人に非ずや。問ふ、法華宗の意如何。答ふ、経文に「具三十二相、乃是真実滅」云云。或は「速成就仏身」云云。禅宗は理性の仏を尊みて己れ仏に均しと思ひ増上慢に堕つ、定めて是れ阿鼻の罪人なり。故に法華経に云く「増上慢の比丘将に大坑に墜つべし」。禅宗云く、毘盧の頂上を踏むと。云く、毘盧とは何者ぞや。若し周遍法界の法身ならば山川大地も皆是れ毘盧の身土なり、是れ理性の毘盧なり。此の身土に於ては狗野干の類も之れを踏む。禅宗の規模に非ず。若し実に仏の頂を踏まんか、梵天も其の頂を見ずと云へり。薄地争でか之れを踏むべきや。夫れ仏は一切衆生に於て主師親の徳有り。若し恩徳広き慈父を踏まんは、不孝逆罪の大愚人・悪人なり。孔子の典籍、尚以て此の輩を捨つ、況や如来の正法をや。豈に此の邪類邪法を讃めて無量の重罪を獲んや云云。在世の迦葉は頭頂礼敬と云ふも、滅後の闇禅は頂上を踏むと云ふ、恐るべし。/禅宗云く、教外別伝不立文字と。答へて云く、凡そ世に流布の教に三種を立つ。一には儒教、此れに二十七種あり。二には道教、此れに二十五家あり。三には十二分教、天台宗には四教八教を立つるなり。此等を教外と立つるか。医師の法には本道の外を外経師と云ふ。人間の言には姓のつづかざるをば外戚と云ふ。仏教には経論にはなれたるをば外道と云ふ。涅槃経に云く「若し仏の所説に順はざる者有らば、当に知るべし、是の人は是れ魔の眷属なり」云云。弘決の九に云く「法華已前は猶是れ外道の弟子なり」云云。禅宗云く、仏祖不伝云云。答へて云く、然れば何ぞ西天の二十八祖・東土の六祖を立つるや。付属摩訶迦葉の立義已に破るるか。自語相違は如何。禅宗云く、向上の一路は先聖も伝へず云云。答ふ、爾らば今の禅宗も向上に於ては解了すべからず。若し解せずんば禅に非ざるか。凡そ向上を歌ひて以て■慢に住し、未だ妄心を治せずして見性に奢り、機と法と相乖くこと此の責め尤も親し。旁(かたがた)化儀を妨ぐ、其の失転(うたた)多し。謂く教外と号し剰へ教外を学び、文筆を嗜みながら文字を立てず。言と心と相応せず。豈に天魔の部類・外道の弟子に非ずや。/仏は文字に依りて衆生を度し給ふなり。問ふ、其の証拠如何。答へて云く、涅槃経十五に云く「願はくは諸の衆生悉く是れ出世の文字を受持せよ」。像法決疑経に云く「文字に依るが故に衆生を度し菩提を得」云云。若し文字を離れば何を以てか仏事とせん。禅宗は言語を以て人に示さざらんや。若し示さずといはば、南天竺の達磨は四巻の楞伽経に依りて五巻の疏を作り、恵可に伝ふる時、我漢地を見るに但此の経のみあて人を度すべし。汝此れに依りて世を度すべし云云。若し爾れば猥りに教外別伝と号せんや。次に不伝の言に至りては「冷煖二途唯自ら覚了す」と云ひて文字に依るか。其の相伝の後の冷煖自知するなり。是れを以て法華に云く「悪知識を捨てて善友に親近せよ」。止観に云く「師に値はざれば、邪恵日に増し生死月に甚だしく、稠林に曲木を曳くが如く、出づる期有ること無し」云云。凡そ世間の沙汰、尚以て他人に談合す。況や出世の深理、寧ろ輙く自己を本分とせんや。故に経に云く「近きを見るべからざること人の睫の如く、遠きを見るべからざること空中の鳥の跡の如し」云云。上根上機の坐禅は且く之れを置く。当世の禅宗は瓮を蒙りて壁に向かふが如し。経に云く「盲冥にして見る所無し、大勢の仏及与(および)断苦の法を求めず。深く諸の邪見に入りて苦を以て苦を捨てんと欲す」云云。弘決に云く「世間の顕語尚識らず、況や中道の遠理をや。常の密教寧ろ当に識るべけんや」云云。当世の禅者皆是れ大邪見の輩なり。就中三惑未断の凡夫の語録を用ゐて、四智円明の如来の言教を軽んずる、返す返す過ぎたる者かな。疾の前に薬なし、機の前に教なし。等覚の菩薩尚教を用ゐき。底下の愚人何ぞ経を信ぜざる云云。是れを以て漢土に禅宗興ぜしかば、其の国忽ちに亡びき。本朝の滅すべき瑞相に闇証の禅師充満す。止観に云く「此れ則ち法滅の妖怪、亦是れ時代の妖怪なり」云云。/禅宗云く、法華宗は不立文字の義を破す。何故ぞ仏は一字不説と説き給ふや。答ふ、汝楞伽経の文を引くか。本法自法の二義を知らざるか。学ばずんば習ふべし。其の上彼の経に於ては未顕真実と破られ畢んぬ。何ぞ指南と為ん。問うて云く、像法決疑経に云く「如来の一句の法を説きたまふを見ず」云云如何。答ふ、是れは常施菩薩の言なり。法華経には「菩薩是の法を聞いて疑網皆已に除く、千二百の羅漢悉く亦当に作仏すべし」と云ふ。八万の菩薩も千二百の羅漢も悉く皆列座し聴聞随喜す。常施一人は見ず。何れの説に依るべき。法華の座に挙ぐる菩薩の上首の中に常施の名之れ無し、見ずと申すも道理なり。何に況や次下に「然るに諸の衆生出没有るを見て、法を説いて人を度す」云云。何ぞ不説の一句を留めて可説の妙理を失ふべき。汝が立義一々大僻見なり。執情を改めて法華に帰伏すべし。然らずんば豈に無道心に非ずや。